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日本の映画 ウィキペディアから
『太平洋の鷲』(たいへいようのわし、副題『日本連合艦隊はかく戦えり[9]』)は、1953年(昭和28年)10月21日に公開された戦争映画である[3][4]。モノクロ、スタンダード[3][2]。監督は本多猪四郎、脚本は橋本忍、特殊技術は円谷英二。昭和28年度芸術祭参加作品[4]。
山本五十六の半生をもとに[出典 3]、日独伊三国軍事同盟の締結から真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、海軍甲事件を描くことで、太平洋戦争がどのようにして開戦して推移したのかを、構想2年、制作費1億7,000万円[注釈 1]をかけてドキュメンタリー風に描いた作品である。
太平洋戦争をはじめとする第二次世界大戦を題材にした映画作品は数多く制作されているが、戦争に巻き込まれた市井の人々を中心に描いた他の作品とは異なり、制作当時存命中だった人物を含む戦争責任があるとされる人物を登場させ、さらに戦闘場面を再現することで、本格的に戦争を取り上げた戦後初の映画である。また、ミッドウェー海戦を初めて描いた作品でもある[4]。
のちに『ゴジラ』(1954年)を生み出すことになる本多猪四郎と円谷英二の初コンビ作品である[出典 4][注釈 3]。本多は、本作品でも描いている太平洋戦争開戦当時は中支戦線で従軍しており、山本五十六と近衛文麿が開戦について語る場面では身の引き締まる思いで演出を行ったという[15]。当初、本多は神風特別攻撃隊を題材とすることを検討していたが、プロデューサーの森岩雄が時期尚早と判断し、内容を改めた[14]。
森は、ハリウッドの製作方式を参考に絵コンテを細分化した「ピクトリアル・スケッチ」を導入し、本編と特撮の合理化が図られた[出典 6][注釈 4]。ただし、戦闘シーンは主に『ハワイ・マレー沖海戦』や『加藤隼戦闘隊』などの戦争映画からの流用である[4]。そのため、海軍には配備されていない一式戦闘機が多く登場するほか、スーパーマリン スピットファイアなどのイギリス軍戦闘機がミッドウェー島に存在する。
撮影に際し、漁船を改造した航空母艦「赤城」および「飛龍」の13メートル大の巨大ミニチュアや実物大セットなどが組まれた[出典 7]。ミニチュアの設計・制作は、本作品で東宝特撮に初参加した美術助手の入江義夫が手掛けた[21]。このミニチュアの撮影は、勝浦および多摩川で行われた[10]。撮影を担当した有川貞昌は、ミニチュアの船内に乗り込んで小さな穴からレンズを出して水雷による水柱を撮影しており、いつ分解してもおかしくないひ弱な船内にて板子の一枚下は地獄の心持ちであったと述べている[20]。さらに、円谷の発案で沖に出て撮影することになり、美術部の反対を押し切って出た外洋にて有川は無事に帰れるか不安に感じていたが、円谷は船上でも一心不乱にコンテ作りを行っていたという[20]。
クライマックスでの一式陸攻がジャングル上空を飛ぶシーンでは、カメラと一式陸攻のミニチュアを固定し、台車上に作ったセットを動かして撮影している[4]。P-38 ライトニングのミニチュアにはUコンが用いられたが、実機の着陸脚が引き込み式であることから車輪を付けられず、発進時は手で投げている[4]。
山本が戦艦長門の甲板上に佇む場面では、スクリーン・プロセスが用いられた[15]。
本編での飛行場のシーンは、伊勢市の旧日本陸軍明野飛行場跡地でロケが行われたが、最初の1週間は雨天で撮影できず、取り切れなかった部分は東宝撮影所で撮影している[22]。整備兵役の加藤茂雄によれば、雨天で撮休の間は釣りをしたり、ミキモト真珠島を見学したりしていたという[22]。
航空兵役の中島春雄は、本作品で身体に火をつけての日本初のファイヤー・スタントを演じた[出典 8]。中島は、衣裳の中に石綿を入れていたと証言している[出典 8]。これがきっかけで、中島は『ゴジラ』でのゴジラ役に選ばれたとされる[23][25]。
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