柳澤健
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柳澤 健(やなぎさわ たけし、1889年(明治22年)11月3日 - 1953年(昭和28年)5月29日)は、日本の外交官、詩人。
旧会津藩士で女学校校長柳澤良三の長男として福島県会津若松市に生まれる。会津中学校(のち福島県立会津高等学校)から一高、東京帝国大学仏法科に学び、1915年(大正4年)5月卒業。逓信省に入り同年10月文官高等試験に合格。横浜郵便局長心得在職中の1919年(大正8年)4月辞職。大阪朝日新聞社に入社し論説班に所属した。
その後外務省に勤務し、フランス、イタリア、メキシコなどに駐在。外務省文化事業部第2課長や、新設された第3課(国際文化事業担当)の初代課長を務めた。上司にあたる文化事業部長は、のちに初代駐タイ大使となった坪上貞二[1][2]。ポルトガル公使館一等書記官を最後に退官し日泰文化会館館長を務める。その傍ら大学時代に島崎藤村、三木露風に師事して認められ詩人としても中央詩壇で活躍し「果樹園」、「柳澤健詩集」などを発表した。
外務省文化事業部課長当時、日本ペンクラブの創設にも尽力し(初代会長は自らが敬愛する島崎藤村)、当時軍国主義路線で孤立しつつあった日本文化の伝播に努めた。退官後は評論家として活躍し、故郷会津地方の校歌も多数手がけ、母校をはじめ詩を提供した校歌は24から26に上る。
()内は制定月日、ただし(式:**)とあるのは発表式月日
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