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フランスの詩人、小説家 (1802–1885) ウィキペディアから
ヴィクトル=マリー・ユーゴー(仏: Victor-Marie Hugo[3] [viktɔʁ maʁi yɡo] ( 音声ファイル)、1802年2月26日 - 1885年5月22日)は、フランス・ロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。『レ・ミゼラブル』の著者として著名。
ヴィクトル・ユーゴー フランス子爵 (1845–48) | |||||||||||||||||
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Étienne Carjatによるウッドベリータイプ、1876年 | |||||||||||||||||
セーヌ県選出の元老院議員 | |||||||||||||||||
任期 1876年1月30日 – 1885年5月22日 | |||||||||||||||||
選挙区 | パリ | ||||||||||||||||
セーヌ県選出の国民議会議員[1] | |||||||||||||||||
任期 1871年2月16日[1] – 1871年3月8日[2] | |||||||||||||||||
選挙区 | パリ | ||||||||||||||||
セーヌ県選出の代議院議員 | |||||||||||||||||
任期 1848年4月24日 – 1851年12月3日 | |||||||||||||||||
選挙区 | パリ | ||||||||||||||||
アカデミー・フランセーズ席次14 | |||||||||||||||||
任期 1841年1月7日 – 1885年5月22日 | |||||||||||||||||
前任者 | ネポミュセーヌ・ルメルシエ | ||||||||||||||||
後任者 | シャルル・ルコント・ド・リール | ||||||||||||||||
個人情報 | |||||||||||||||||
生誕 | ヴィクトル=マリー・ユーゴー 1802年2月26日 フランス共和国、ドゥー県、ブザンソン | ||||||||||||||||
死没 | 1885年5月22日(83歳没) フランス共和国 パリ | ||||||||||||||||
墓地 | パリ、パンテオン | ||||||||||||||||
国籍 | フランス | ||||||||||||||||
政党 | 秩序党 (Parti de l'Ordre)(1848–51) 無所属リベラル派 (Libéraux Indépendants) (1871) 共和連合 (Union républicaine)(1876–85) | ||||||||||||||||
配偶者 | アデール・フシェ (結婚 1822年、死別 1868年) | ||||||||||||||||
子供 |
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教育 | リセ・ルイ=ル=グラン | ||||||||||||||||
職業 | 小説家 詩人 政治家 | ||||||||||||||||
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少年時代から文学者を志し、『東方詩集』などでロマン詩人の中心的存在となった。政治にも関心を持ち、ナポレオン3世のクーデターに反対して亡命生活を送った。この間に『静観詩集』などと大作『レ・ミゼラブル』を完成。その死は国葬をもって遇された。
1959年から1965年まで発行されていた5フラン紙幣に肖像画が採用されていた。
日本での「Hugo」の表記は、「ユーゴー」と「ユゴー」が併用されているが、ここでは「ユーゴー」を採用する。
共和派でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポール・シジスベール・ユーゴー[注 1] とソフィー=フランソワーズ・トレビュシェ[注 2] の三男として、父の任地だったフランス東部のブザンソンで生まれた。ユーゴー家はロレーヌの農民の出だが、父親はフランス革命以来の軍人。母親はナントの資産家の娘である[4]。アベル・ジョゼフ[注 3] とウジェーヌ[注 4] という2人の兄がいる。
生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、マザーコンプレックスが非常に強かった。
1812年、母と次兄ウジェーヌと一緒に再びパリに帰る[注 5]。1814年、次兄ウジェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会[注 6] の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョゼフ・レオポールはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍の一大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はリセ・ルイ=ル=グラン[注 7] にも通った。父親は彼を軍人にするつもりだったが、本人は詩作に夢中で[4]、1816年7月10日には詩帳にこんな言葉を残している。
――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。
17歳でアカデミー・フランセーズの詩のコンクールで一位を取り、自ら詩の雑誌も発行した[4]。母ソフィーはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フシェ[注 8] との結婚には猛反対していた。彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィーが他界する。ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承した。同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会[注 9] で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り[注 10] に居を構えるに至る。1822年には、『オードと雑詠集』によって国王から年金をもらえることになり、ロマン派の旗手として目覚ましい活躍を始める[4]。
1823年7月16日、長男レオポール[注 11] が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポールが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ[注 12] と命名する。
1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ、勲爵士)を受ける。同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆく中で、少年時代は疎遠であった父ジョゼフ・レオポールとの仲も親密になっていった。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。
翌1826年11月2日には次男シャルル[注 13] が生まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポールが他界する。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあり、同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ=ヴィクトル[注 14] が誕生する。
1830年4月、ジャン・グジョン通り[注 15] へ転居する。そこで七月革命の混乱が押し寄せる。たとえルイ18世から年金を貰っていた身分であっても、七月革命に参加していたのは『エルナニ』でともに文学革命に参加した仲間であったため、己に危害が加えられる心配はなかった。
1819年2月、トゥルーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー[注 17] のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞[注 18] に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール』[注 19] 誌を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ベリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール』誌に掲載する(1826年に刊行)。
1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集』[注 20] が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。この年金のおかげで、彼はアデールとの結婚を許可される。1823年2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』[注 21] を匿名で発表し、新雑誌も創刊した。
1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方、コメディ・フランセーズ[注 22] で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。
それから約2週間後の1829年8月29日から9月24日に戯曲『エルナニ』(Hernani)を執筆した。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。しかし、この『エルナニ』はロマン派を世界文学の主流に据えるきっかけをつくり、公演は大成功を収める。
『エルナニ』で大成功をおさめ、ロマン派の詩人・作家として名声と富に恵まれたユーゴーは、1832年10月8日、ジョン・クージョン通りの家を引き払い、ロワイヤル広場(現在のヴォージュ広場)にある赤いレンガ造りの豪華な邸宅に引っ越す。この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、彼は寂しさに胸を詰まらせていた。8月の終わりにはサント・ブーヴとの交際を絶った。翌年にはサント・ブーヴが彼の作品『たそがれの歌』を酷評したことで決裂が決定的となってしまう。
31歳になる直前のマルディグラ、つまり1833年2月19日の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』(ルクレツィア・ボルジア)に出演していた女優ジュリエット・ドルエ[注 23] の愛人になる。この日付は『レ・ミゼラブル』の中で、マリユスとコゼットが結婚する日付でもある(『レ・ミゼラブル』ではマルディグラが2月16日だったとなっているが実際のマルディグラは2月19日)。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆく。
執筆に情熱を燃やし、ジュリエットとの恋愛に溺れる一方で、私生活では悲しい出来事が続いていた。1836年2月18日と12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ウジェーヌが入院先のシャラントン精神病院[注 24] で自殺してしまう。
同年7月3日にレジオンドヌール勲章(オフィシエ[注 25]、将校)を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンス、と各地を転々と旅する。
1837年、ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップの結婚式に呼ばれる。オルレアン公妃エレーヌが大のユーゴー・ファンであることがきっかけとなり、以後ルイ・フィリップ父子とも親交が深くなる。
もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選となる。しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。
1843年2月15日、41歳の誕生日を間近に控えたユーゴーは、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリー[注 26] の結婚を見届ける。しかし同年9月4日、レオポルディーヌは夫とともにヴィルキエ[注 27] を渡るセーヌ川にて19歳で溺死した。その頃、愛人ジュリエットと旅をしていた彼は、事故から5日後の9月9日に悲報を知り、9月12日にパリへ戻った。
レオポルディーヌの死はユーゴーの心に大きな穴を開けた。父に似て絶倫であった彼は、かねてよりアデールやジュリエット以外の複数の女性と恋愛関係にあったが、1845年7月5日、サン・ロック通りのアパルトマンで、画家のオーギュスト・ビヤールの妻レオニー・ビヤール[注 28] と姦通している現場を警察に押さえられてしまう。彼は貴族院議員の不可侵権を利用して釈放されたが、レオニーは当時の法律によりサン・ビヤール監獄に収容された。このスキャンダルにより、彼は他の議員の絶好の攻撃の的となったが、彼を可愛がっていたルイ・フィリップはビヤールにヴェルサイユ宮殿の壁画を描く仕事を与え、ヴィクトルに有罪の判決が下らないよう説得した。結局、レオニーは修道院で数ヶ月の謹慎処分ののち、再び世間に出た。同年8月14日にビヤール夫妻の別居を認める判決が出たとき、彼はレオニーを経済的に支援しなければならなかった。以後、2人の恋愛関係は長く続くことになり、ジュリエットを苦しめることになる。
公では喜ばしい出来事が続いていたユーゴーは、恋の情熱や死別の悲しみを詩に託している。ジュリエットとの交際が始まって1年が過ぎた1834年、彼女との恋をうたった『ロマン主義詩編の最高傑作』との評判名高い『オランピオの悲しみ』を生み出す。また、愛する長女レオポルディーヌが没してからちょうど1年後、長い間娘の喪に服した彼は、娘が逝った街ヴェルキエで傑作詩編『ヴェルキエにて』の第1篇を書き終える。
しかし、1843年から1852年までの約10年間、作品を1冊も出版していない。これにはレオポルディーヌの死はもちろん、戯曲『城主』の失敗とそれにともなうロマン派文学の凋落、議員活動の忙しさもあったと思われるが、もうひとつ大きな理由があった。それが、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル(邦題:あゝ無情)』(当時の題名は『レ・ミゼール』[注 29])の執筆である。執筆は1845年11月17日から始まった。この作品を書くきっかけになった大きな理由には諸説あり、当時新聞に載っていた小説が彼の心を強く惹きつけたとも、少年時代に見てしまったギロチンの光景が彼を人道主義者にし、この作品を書かせたとも言われている。
1845年4月13日、オルレアン公爵夫人エレーヌの後ろ盾があったおかげで、ルイ・フィリップから子爵の位を授けられた。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになった彼は、翌年の1846年3月19日の貴族院にてポーランドに関する政治演説を行う。
だが、1848年2月の二月革命で、ルイ・フィリップはイギリスへ亡命する。ユーゴーはあくまで、幼いパリ伯(オルレアン公フェルディナン・フィリップの遺児でルイ・フィリップの嫡孫)を即位させ、母エレーヌを摂政にすべきだと考えていたが、それを望まぬ者もいた。結局、フランスは第二共和政へ移行することとなる。ユーゴーは同年5月の立憲議会の補欠選挙に立候補して、保守派の支持を受けて当選した[5]。政治家としてのユーゴーは1830年代より続けていた死刑廃止運動や、教育改革、社会福祉などを主張した。1848年には共和派となり、1848年12月10日の大統領選挙ではルイ・ナポレオンを支持し、強力な論陣を張って彼を支援した。しかしナポレオンは次第に独裁化し、連続再選禁止条項の改正を国民議会に提出するなどして、このころにはユーゴーはナポレオンの強力な反対者となっていた。ナポレオンは1851年12月2日にクーデターを起こして独裁体制を樹立し、反対派への弾圧を開始した。ユーゴーも弾圧対象となり、12月11日にベルギーへと亡命を余儀なくされる[6]。以後19年に及ぶ亡命生活の始まりであった。
ベルギーの首都ブリュッセルに落ち着いたユーゴーは、さっそくナポレオンへの批判を開始した。1852年8月にはブリュッセルでナポレオン3世を弾劾した「小ナポレオン」を出版した。これは1843年の戯曲『城主』の失敗以来10年ぶりの新作であり、以降ユーゴーは再び精力的に執筆を再開する。「小ナポレオン」は熱狂を引き起こしたが、フランスからベルギーへの圧力を恐れたユーゴーは出版の前日に英仏海峡に浮かぶイギリス領チャネル諸島のジャージー島へと移住し[7]、1855年までここに住むこととなった。ここでは1853年に、やはりナポレオン弾劾の書である「懲罰詩集」を発表している。1855年には隣の島であるガーンジー島に移住し、1870年にフランスに帰還するまでの間15年間ここで過ごした。ガーンジー在住中には、1856年に「静観詩集」、1859年には「諸世紀の伝説」の第1部、そして1862年には中断していた『レ・ミゼラブル』が完成してベルギーより出版され、大反響を巻き起こした。「レ・ミゼラブル」の成功は、彼に莫大な収入をもたらした[8]。
『レ・ミゼラブル』が出版された直後、海外旅行に出かけたユーゴーはその売れ行きが心配で、出版社に一文字「?」と書いただけの電報を送ると、その後出版社から「!」とだけ書かれた返信が届いた。「上々の売れ行きです!」というわけである。事実数日で完売・売切れの状態であったという。これは世界で最も短い手紙として『ギネス世界記録』に掲載されている[9][要検証][10]。
1870年に勃発した普仏戦争はフランスの大敗北に終わり、セダンの戦いでプロイセン王国の捕虜となったナポレオン3世は失脚した。これによってユーゴーは帰国を決意し、19年ぶりに祖国の土を踏むこととなった。フランスでは英雄として迎えられ、1871年2月にはセーヌ県より立候補して当選し、議会の置かれたボルドーへと向かったが、ユーゴーの属した左派は少数派に過ぎず、3月8日にはアルジェリアから立候補して当選していたジュゼッペ・ガリバルディの当選無効に抗議して議員を辞職した[2]。1872年1月には再び議会に立候補するものの落選した[11] が、1876年1月には元老院議員に立候補して当選した[12]。その後も1877年には「諸世紀の伝説」の第2部を発表するなど活発な活動を続けた[13]。なお、日本の自由党総理・板垣退助が、1882年から1883年にかけてのフランス、イギリス・オランダ視察の際、ヴィクトル・ユーゴー、ジョルジュ・クレマンソーらと交流したとする記録がある[14]。
主要な作品は小説や、膨大な詩である。
年 | 邦題 | 原題 |
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1822年 | オードと雑詠集 | Odes et Poésies Diverses |
1823年 | アイスランドのハン | Han d'Islande |
1824年 | オード集 | Nouvelles Odes |
1826年 | ビュグ・ジャルガル | Bug-Jargal |
1826年 | オードとバラッド | Odes et Ballades |
1827年 | クロムウェル | Cromwell |
1829年 | 東方詩集 | Les Orientales |
1829年 | 死刑囚最後の日 | Le Dernier jour d'un condamné |
1830年 | エルナニ | Hernani[注 30] |
1831年 | ノートルダム・ド・パリ | Notre-Dame de Paris |
1831年 | マリヨン・ドロルム | Marion Delorme |
1831年 | 秋の木の葉 | Les Feuilles d'automne |
1832年 | 王は愉しむ | Le Roi s'amuse[注 31] |
1833年 | リュクレス・ボルジャ | Lucrèce Borgia[注 32] |
1833年 | マリー・チュードル | Marie Tudor |
1834年 | ミラボー研究 | Étude sur Mirabeau |
1834年 | 文学哲学論集 | Littérature et philosophie mêlées |
1834年 | クロード・ギュー | Claude Gueux |
1835年 | パドヴァの僭主アンジェロ | Angelo, tyran de Padoue[注 33] |
1835年 | 薄明の歌 | Les Chants du crépuscule |
1836年 | ラ・エスメラルダ | La Esmeralda[16] |
1837年 | 内心の声 | Les Voix intérieures |
1838年 | リュイ・ブラース | Ruy Blas |
1840年 | 光と影 | Les Rayons et les ombres |
1842年 | ライン河 | Le Rhin |
1843年 | 城主 | Les Burgraves |
1852年 | 小ナポレオン | Napoléon le Petit |
1853年 | 懲罰詩集 | Les Châtiments |
1855年 | ルイ・ボナパルトへの書簡集 | Lettres à Louis Bonaparte |
1856年 | 静観詩集 | Les Contemplations[17] |
1859年 | 諸世紀の伝説 | La Légende des siècles |
1862年 | レ・ミゼラブル[注 34] | Les Misérables |
1864年 | ウィリアム・シェイクスピア | William Shakespeare |
1865年 | 街と森の歌 | Les Chansons des rues et des bois |
1866年 | 海の労働者 | Les Travailleurs de la Mer |
1867年 | パリ | Paris : Préface de Paris Guide |
1869年 | 笑う男 | L'Homme qui rit |
1872年 | 恐るべき年 | L'Année terrible |
1874年 | 九十三年 | Quatrevingt-Treize |
1874年 | 我が息子たち | Mes Fils |
1875年 | 言行録:亡命以前 | Actes et paroles - Avant l'exil |
1875年 | 言行録:亡命中 | Actes et paroles - Pendant l'exil |
1876年 | 言行録:亡命以後 | Actes et paroles - Depuis l'exil |
1877年 | 諸世紀の伝説 第2巻 | La Légende des Siècles 2e série |
1877年 | よいお祖父さんぶり | L'Art d'être grand-père |
1877年 | ある犯罪の物語 第1部 | Histoire d'un crime - 1re partie |
1878年 | ある犯罪の物語 第2部 | Histoire d'un crime - 2e partie |
1878年 | 法王 | Le Pape |
1880年 | 既成宗教と真の宗教 | Religions et religion |
1880年 | ろば | L'Âne |
1881年 | 精気の四風 | Les Quatres vents de l'esprit |
1882年 | トルケマダ | Torquemada |
1883年 | 諸世紀伝記詩集 第3巻 | La Légende des siècles - Tome III |
1883年 | イギリス海峡の群島 | L'Archipel de la Manche |
年 | 邦題 | 原題 |
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1886年 | 自由劇 | Théâtre en liberté |
1886年 | サタンの終わり | La fin de Satan |
1887年 | 見聞録 第1集 | Choses vues - 1re série |
1888年 | 竪琴の音をつくして 第1集 | Toute la lyre |
1890年 | アルプスとピレネー | Alpes et Pyrénées |
1891年 | 神 | Dieu |
1892年 | フランスとベルギー | France et Belgique |
1893年 | 竪琴の音をつくして 第2集 | Toute la lyre - nouvelle série |
1896年 | 書簡集 第1巻 | Correspondances - Tome I |
1898年 | 書簡集 第2巻 | Correspondances - Tome II |
1898年 | 不幸な年月 | Les années funestes |
1900年 | 見聞録 第2集 | Choses vues - 2e série |
1901年 | わが生活の追伸 | Post-scriptum de ma vie |
1902年 | 最後の詩の束 | Dernière Gerbe |
1934年 | Mille francs de récompense | |
1942年 | 詩集・大洋 | Océan |
1942年 | 雑記・小石の山 | Tas de pierres |
1951年 | Pierres |
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