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日本の神奈川県横浜市にある自動車メーカー ウィキペディアから
いすゞ自動車株式会社(いすずじどうしゃ、英: ISUZU MOTORS LIMITED[2])は、神奈川県横浜市西区に本社を置く、主にトラック・バスなどの商用車を製造する日本の自動車メーカーである。1916年創業[3]。日経平均株価の構成銘柄の一つ[4]。
本社が入居する横濱ゲートタワー | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
機関設計 | 監査等委員会設置会社[1] |
市場情報 | |
略称 | いすゞ、ISUZU |
本社所在地 |
日本 〒220-8720 神奈川県横浜市西区高島一丁目2番5号 横濱ゲートタワー |
設立 |
1916年(大正5年)(東京石川島造船所自動車部門として) 1937年(昭和12年)4月9日(東京自動車工業として) |
業種 | 輸送用機器 |
法人番号 | 5010701000904 |
事業内容 |
自動車および部品・産業用エンジンの製造、販売 (製品一覧を参照) |
代表者 |
片山正則(代表取締役会長CEO) 南真介(代表取締役社長COO) |
資本金 |
406億4400万円 (2022年3月31日現在) |
発行済株式総数 | 7億7744万2069株 |
売上高 |
連結:3兆1955億3700万円 (2023年3月期) |
営業利益 |
連結:2535億4600万円 (2023年3月期) |
経常利益 |
連結:2698億7200万円 (2023年3月期) |
純利益 |
連結:1517億4300万円 (2023年3月期) |
純資産 |
連結:1兆5102億3200万円 単独:8710億4200万円 (2023年3月期) |
総資産 |
連結:3兆467億7700万円 単独:1兆5289億5300万円 (2023年3月期) |
従業員数 |
連結:44,495人 単独:8,056人 (2023年3月31日現在) |
決算期 | 毎年3月31日 |
会計監査人 | EY新日本有限責任監査法人 |
主要株主 |
日本マスタートラスト信託銀行株式会社(信託口) 14.82 % 三菱商事株式会社 8.19 % 伊藤忠自動車投資合同会社 6.81 % 株式会社日本カストディ銀行(信託口) 5.99 % トヨタ自動車株式会社 5.02 % 株式会社みずほ銀行 2.05 % THE BANK OF NEW YORK MELLON 140044 1.49 % SSBTC CLIENT OMNIBUS ACCOUNT 1.36 % 全国共済農業協同組合連合会 1.29 % JPモルガン証券株式会社 1.22 % (2022年3月31日現在) |
主要子会社 |
いすゞ自動車販売株式会社 UDトラックス株式会社 ジェイ・バス株式会社 いすゞロジスティクス株式会社 いすゞ自動車エンジン販売株式会社 モネ・テクノロジーズ株式会社 |
関係する人物 |
荒牧寅雄(元社長) 飛山一男(元社長) |
外部リンク | https://www.isuzu.co.jp/ |
「いすず」ではなく、「いすゞ」が正式な表記である[5][6][注釈 1]。中国語圏では「五十鈴」(繁体字: 五十鈴、簡体字: 五十铃)という漢字で表記する。
トヨタ自動車・日産自動車とともに、日本国内で日本企業による自動車の本格的な量産が始まった1930年代から四輪自動車を生産している自動車メーカーで、ディーゼル自動車および船舶・産業用ディーゼルエンジンを得意とする。
国内における小型トラックの販売台数では20年連続で第1位となり(2001年~2020年)[7]、中・大型トラックの販売台数は第1位(2022年~2023年)である[8]。世界市場ではバンを除いたGVW3.5トンから15トンまでの中小型トラック分野での販売台数は世界第2位となり[9]、大型トラック部門では世界第14位である(2018年)[10]。
「いすゞ」の名は、伊勢神宮(三重県伊勢市)の境内に沿って流れ、神宮における潔斎の場ともなる五十鈴川に由来する[3][6][11][注釈 2]。元は商工省標準形式自動車として、前身となったメーカー各社と当時の鉄道省によって1933年(昭和8年)に共同開発された大型自動車(のちのいすゞ・TX・BX系各車の原型)に翌1934年(昭和9年)に付けられた車名である[3][6][11]。以後、合併や社名変更などの変遷を経ながら、太平洋戦争直前から戦時中にかけ、大型車両とこれに搭載する高速ディーゼルエンジンの分野で、国策企業として開発をリードした。
太平洋戦争後はトラック・バスなど、大型ディーゼル自動車の生産で日本を代表するメーカーとなった。1953年(昭和28年)以降はイギリス車のヒルマンのノックダウンで乗用車生産にも進出し、総合自動車メーカーを目指した。
かつてはトヨタ自動車、日産自動車とともに日本自動車業界の御三家とも言われていたが[12]、乗用車部門は長らく不振であり、1990年代から経営危機に陥りリストラを繰り返すようになった。
1993年(平成5年)にはワンボックスカー[注釈 3]とSUVを除く乗用車の自社開発・生産から撤退し、日本国内では本田技研工業(ホンダ)などからOEM供給を受けて販売を続けた。これは乗用車用ディーゼルエンジンやSUV[注釈 4]、ミニバン[注釈 5]についてはホンダと相互協力関係にあったためで、2002年(平成14年)に自社生産していたビッグホーンやウィザードなどのSUVを含む乗用車の販売から撤退するまで、ホンダからのOEM供給を受けていた(ただし、撤退後も販売していた初代コモワゴンは8人/10人乗りの乗用車として販売された)。
また、関連企業との合併による拠点の集約などを行う一方、1万人規模となる極めて大規模な人員削減などを行った。株価が一時、自動車メーカーとしては最低の31円まで落ち込むなど事態は極めて深刻であったが、みずほ銀行やゼネラルモーターズ(GM)の大掛かりな支援があり[13]、加えてディーゼル自動車の排気ガス規制強化(いわゆるNOx規制など)を発端とする商用車(トラックやバスなど)の買い換え特需もあり、再建に成功することができた。
米国ではGMからSUVとピックアップトラックのOEM供給を受けて販売を続けていたが、2009年(平成21年)1月31日をもって販売を終了した。その結果、販売ディーラーは既存ユーザーのためのアフターケア・サポート事業のみ存続していくことになった。現在[いつ?]、主に個人向けとして販売が行われている車種には、東南アジアや南アフリカなど向けのピックアップトラックとSUVに加え、東南アジアとインド専売のMPVがある。
1971年(昭和46年)から2006年(平成18年)まで米国・ゼネラルモーターズ(GM)が一部のいすゞ株を保有しており、GMの関連会社であったが、同年4月にGMとの資本関係を解消した。
GMとの資本提携解消後は、同年11月7日にトヨタ自動車と資本・業務提携を行うことを発表した。すでにトヨタグループ入りしていた日野自動車とはバス事業を統合してジェイ・バス株式会社の発足を行っており、今後については乗用車用ディーゼルエンジンの開発や環境技術での連携(景気後退により一時凍結[14])、トラック部門での連携強化の可能性が考えられていたが、2018年(平成30年)8月にトヨタとの資本・業務提携を解消した[注釈 6]。しかし今後のトラックの電動化を視野に入れて、2021年(令和3年)3月24日に、トヨタ自動車と再度資本・業務提携することが発表された[15]。
2019年(令和元年)12月、ボルボ・グループ(以下、ボルボ)と商用車分野での戦略的提携に向けて覚書を締結し、ボルボ子会社のUDトラックスの全株と、UDブランドで展開する海外事業を取得すると発表した[16]。2020年(令和2年)10月30日には戦略的提携に関する基本契約を正式に締結し、UDトラックスを2,430億円で買収することを発表[17]。2021年(令和3年)4月1日までに取得手続きを完了し[18]、UDトラックスはいすゞグループ企業となった。
2022年(令和4年)5月9日には、東京都品川区南大井の大森ベルポートA館から、神奈川県横浜市西区高島にある横濱ゲートタワーに本社や関連会社などを移転した[19][20][21][22][23][24]。なお、近隣にはUDトラックスの元親会社だった日産自動車(日産グローバル本社)、および有力取引先の京浜急行電鉄・京浜急行バス(京急グループ本社)が本社を構えている。
みずほ銀行をメインバンクとする大企業のうち、旧第一勧業銀行の融資系列に属する企業で構成する三金会に参加する[25]。なお、UDトラックスの元親会社だった日産は、旧富士銀行の融資系列である芙蓉会に参加している。
代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
東京自動車工業 | ||||
1 | 松方五郎 | 1937年4月 | 1940年5月 | [50] |
2 | 鈴木重康 | 1940年5月 | 1941年4月 | [50] |
ヂーゼル自動車工業 | ||||
2 | 鈴木重康 | 1941年4月 | 1942年1月 | [50] |
3 | 林桂 | 1942年1月 | 1945年7月 | [50] |
4 | 弓削靖 | 1945年7月 | 1946年12月 | [50] |
5 | 三宮吾郎 | 1946年12月 | 1949年7月 | [50] |
いすゞ自動車 | ||||
5 | 三宮吾郎 | 1949年7月 | 1961年12月 | [50] |
6 | 楠木直道 | 1962年1月 | 1965年6月 | [50] |
7 | 大橋英吉 | 1965年6月 | 1970年6月 | [50] |
8 | 荒牧寅雄 | 1970年6月 | 1976年1月 | [50] |
9 | 岡本利雄 | 1976年1月 | 1984年1月 | [50] |
10 | 飛山一男 | 1984年1月 | 1992年1月 | [50] |
11 | 関和平 | 1992年1月 | 1998年6月 | [50] |
12 | 稲生武 | 1998年6月 | 2000年12月 | [50] |
13 | 井田義則 | 2000年12月[50] | 2007年6月 | |
14 | 細井行 | 2007年6月 | 2015年6月 | |
15 | 片山正則 | 2015年6月 | 2023年3月 | |
16 | 南真介 | 2023年4月 | 現職 |
現在でも提供している番組は太字。
1964年の第2回日本グランプリのツーリングカークラスに、ベレット10台とベレル4台が参戦した。1968年の鈴鹿12時間レースではプロトタイプのベレットGT-Xで総合優勝を飾り、これを元に市販化された「ベレットGTR(GT Type R)」で、日産・スカイラインやトヨタ・1600GTと各地で競った[62]。
1969年日本グランプリには、社内有志によりクローズドトップの「ベレットR6」とオープントップの「R7 」の、2種類のプロトタイプスポーツカーが製作され、投入された。前者は117クーペの1.6リッター直列4気筒、後者はシボレー製5リッターV型8気筒エンジンを搭載していた[63]。
富士グランチャンピオンレースには、R6をオープントップに改造し直したベレットR6スパイダーが参戦した。
オイル・ショックが明けた1980年代には「TEAM ISUZU」として、ラリーにジェミニやアスカを投入。全日本ラリー選手権では5回Bクラスのチャンピオンとして名を刻んだ。またWRC(世界ラリー選手権)の1イベントである英国のRACラリー(現ラリーGB)にも複数回参戦し、グループAクラス1位も経験した。後にスバルでPCWRC(プロダクションカー世界ラリー選手権)チャンピオンとなる新井敏弘や、同じくスバルで活躍する鎌田卓麻の父の鎌田豊、後にパーツメーカーのテインを設立する市野諮も、元々はいすゞのワークスドライバーであった。
グループA規定で行われたJTC(全日本ツーリングカー選手権)のディヴィジョン3や、N1耐久(現スーパー耐久)にも少数だがジェミニを用いるチームがあった。
ラリーレイドでは00年代に元フェラーリF1ドライバーのクレイ・レガツォーニが、フランス・スイス・イタリアのいすゞ代理店であるMIDIヨーロッパを母体とし、いすゞ本社もサポートするチームを率いて、「チーム・いすゞ・クレイ・レガツォーニ」として市販車ベースのD-MAXで参戦した[64]。4度の二輪ダカール王者エディ・オリオリや、WRCの「無冠の帝王」マルク・アレンがドライブし、2005年のファラオ・ラリーではディーゼル車の1位を獲得した[65]。また日本のプライベーターからはビッグホーンやミューが用いられ、チーム・アオヤギ(浅井明/青柳暁子組)は1991〜1996年にいすゞ車を続けて運用し、1994年にビッグホーンで市販車無改造・マラソン(主要部品無交換)クラスで優勝を果たしている[66]。現在ダカールで日野チームスガワラを率いる菅原照仁も、下積み時代にビッグホーンをドライブしていたことがある。
1991年、当時同じGM傘下であり、乗用車の特殊仕様車などで協力関係にあったイギリスのロータス・カーズ(FFのエラン(2代目)用として、いすゞからエンジンとトランスミッションの供給を受ける契約をしていた)の関連会社で、F1参戦チームであったチーム・ロータスと共同で、V12エンジンのテストをロータス 102Cに搭載してシルバーストンで行い、高い評価を得た。この計画は、あくまでいすゞ自身のガソリンエンジン開発技術がどこまで通用するかを試すために行われたデモンストレーションであり、レースに出場することは考えられていなかった[67]。当初はベンチテストで終了する予定だったが、ロータス・カーズの協力を得てテスト走行までこぎつけた。
現在もダカールやオセアニアや東南アジア、アフリカなどでしばしばピックアップトラックのD-MAXが用いられている。特にアジアクロスカントリーラリー(AXCR)では、タイ王国のナタポン・アングリットハノンが連覇し最強の地位を築いていることで知られる。また豪州のピックアップトラックによるサーキットレース「スーパーユート」にもD-MAXが参戦している[68]。
いすゞ自動車高等工業学校は、いすゞ自動車が職業能力開発促進法に基づいて神奈川県知事から認定職業訓練の実施施設としての認定を受けた神奈川県藤沢市にある認定職業訓練校[69]である。訓練学科としては、塑性加工科、機械加工科、精密加工科、自動車製造科がある。
本校の源流は、1935年(昭和10年)に青年学校令に基づいて設置された自動車工業株式会社・鶴見工場内に設立された私立自動車工業青年学校に遡る。
1942年(昭和17年)4月に、私立ヂーゼル自動車青年学校が開校(川崎本校、鶴見分校)。1951年(昭和26年)4月に、中学校卒業者を対象となる三年制の学校としていすゞ自動車株式会社「いすゞ自動車工業専門学校」が学校教育法第八十三条による各種学校(一条校以外の校種)の認可を受ける。1956年(昭和31年)に、職業訓練法に基づく事業内職業訓練所(川崎本校、鶴見・末吉・大森分校)の認定を受ける。その後、1962年(昭和37年)に藤沢分校も追加認定。また、学校教育法に基づく各種学校の認可を取り下げると共に大森分校を廃止。同時にいすゞ自動車工業専修学校に改称。1967年(昭和42年)鶴見分校を廃止。1971年(昭和46年)に末吉分校を廃止。1981年(昭和56年)初の女子訓練生の入学。1982年(昭和57年)「いすゞ自動車川崎高等工業学校」と「いすゞ自動車藤沢高等工業学校」に改称。1997年(平成9年)いすゞ自動車川崎工業高等学校をいすゞ自動車藤沢高等工業学校へ統合し、いすゞ自動車高等工業学校に改称。2015年(平成27年)1月、ものづくりサービストレーニングセンターが開設し校舎移転。
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