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京都市中京区に本部を置く私立大学 ウィキペディアから
立命館大学(りつめいかんだいがく、英語: Ritsumeikan University)は、京都府京都市中京区西ノ京朱雀町1に本部を置く日本の私立大学。1900年創立、1922年大学設置。略称は立命、立命大、Rits(リッツ)。近畿地方では立大も使用される[注 1]。
立命館大学 | |
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衣笠キャンパス | |
大学設置 | 1922年 |
創立 | 1900年 |
創立者 | 中川小十郎 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人立命館 |
本部所在地 | 京都府京都市中京区西ノ京朱雀町1 |
キャンパス |
朱雀(京都府京都市中京区) 衣笠(京都府京都市北区) びわこ・くさつ(滋賀県草津市) 大阪いばらき(大阪府茨木市) 東京(東京都千代田区) 大阪梅田(大阪府大阪市北区) |
学部 |
法学部 文学部 映像学部 産業社会学部 国際関係学部 経営学部 政策科学部 総合心理学部 グローバル教養学部 経済学部 理工学部 情報理工学部 生命科学部 薬学部 スポーツ健康科学部 食マネジメント学部 |
研究科 |
法学研究科 文学研究科 映像研究科 社会学研究科 国際関係研究科 言語教育情報研究科 先端総合学術研究科 経営学研究科 政策科学研究科 人間科学研究科 テクノロジー・マネジメント研究科 経営管理研究科 経済学研究科 理工学研究科 情報理工学研究科 生命科学研究科 薬学研究科 スポーツ健康科学研究科 食マネジメント研究科 法務研究科 教職研究科 |
ウェブサイト | 立命館大学 |
「立命館」の由来は、『孟子』盡心章句(じんしんしょうく)にある「殀寿貳(ようじゅたが)わず、身を修めて以て之を俟(ま)つは、命を立つる所以(ゆえん)なり」(人間の寿命は天命によって決められており、修養に努めてその天命を待つのが人間の本分である)から採られた。
学問研究の自由に基づき、価値の創造と人類的諸課題の解明に力を入れる。建学の精神と教学理念に基づき、「未来を信じ、未来に生きる」の精神をもち、学力精進を保ったうえで、正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める。この憲章の本旨を踏まえ、教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する[2]。
従来、立命館大学は戦前から戦中にかけて、世相を反映して国家主義的傾向が強まっていったとする評価が支配的であった[注 2]。しかし最近の研究で、学園創立者の中川小十郎は、学校運営や学生の受け入れに対して国家主義的な思想に与せず、従来考えられていたよりも自由な空気を大事にしていたことが明らかにされつつある[3]。
滝川事件(立命館大学では「京大事件」と呼称)の際には、同事件に連座して京都帝国大学を退官した教員を受け入れているが、これは中川小十郎が重視した自由な空気に理由があったのではないかとする最近の研究もある[4][注 3]。終戦直後には、同事件に連座した、京都大学法学部教授の末川博を総長へ招聘した。その末川を中心に大学の改革へ乗り出す。憲法と教育基本法を尊重して「平和と民主主義」を守ろうという末川の思想が中心となって、立命館大学は「民主的な学園運営」「自主的学習の尊重」の2本柱によって構成され、以下に記載する取り組みが現在の立命館大学に至るまで実施され続けている。末川が立命館大学に与えた影響は極めて大きく[5]、これらの功績を讃えて、同大学では末川を名誉総長として顕彰している。また、末川が構成した思想を「立命館民主主義[6][7]」と呼んでいる。
立命館大学には最高の協議機関である「立命館大学全学協議会」を設置している。 1948年9月25日に名誉総長の末川博によって創設された[8]。
参加者は常任理事会、学友会、院生協議会連合会、教職員組合および生活協同組合(オブザーバー)の各代表となっている。
特に学生や大学院生の代表を大学自治の重要な担い手として位置づけ、正式な構成員としている点が特徴的であり、立命館大学の掲げる「全構成員自治」の要となる民主的制度である。
この全学協議会では、学園の重要な課題である長期計画や教学課題、学生生活課題、学費課題など正課や課外を問わず、大学運営や学園創造に関するすべての重要な事項について協議をし、学園の構想に反映させ教育やキャンパス環境の高度化を図っている。
通年は一般には非公開で「全学協議会代表者会議」が行われているが、原則4年に1度「公開全学協議会」の形で開催される。公開全学協議会には、立命館に在籍する学生および教職員が傍聴することできる。
1869年、 西園寺公望が私塾立命館を創設。しかし、京都府庁(太政官留守官)の差留命令により1年弱で閉鎖された。西園寺の秘書官であった中川小十郎が西園寺の意志を継ぎ、1900年に向学心を持つ勤労青年のために勉学の機会を与えるとともに、京都帝国大学教員の経済支援を兼ねた夜間学校として京都法政学校を設立。京都市上京区東三本木丸太町にあった料亭「清輝楼」(「吉田屋」の近隣にあった)を仮の校舎とした。
他方、1889年に、京都法学校(きょうとほうがっこう)が、京都市下京区寺町通四条下ル大雲院内に設立されている。これは、法律学および経済学を教授することを目的に設立された私立学校で、校主には司法省法学校卒業後、京都始審裁判所に勤務した山崎恵純が就任。この他、名誉員に京都府知事、大審院評定官、京都始審裁判所所長、同検事、京都府警部長らが就いた。しかし、その後、入学希望者の増加に対応しきれなくなり、京都法政学校に事実上引き継がれた。山崎恵純は引き続き京都法政学校の教授を務めた。
現在の立命館大学では、京都法政学校が設立された1900年を創立と、私塾立命館が開設された1869年を立命館の創始としている。
私塾立命館の閉鎖をたいそう残念がった西園寺公望は、同私塾の復興を誓った。その意志を継いだのは彼の秘書官、中川小十郎だった。中川に対して西園寺は協力を惜しまず、自らの政治的人脈を利用して様々な形で支援を行った。西園寺の庶弟末弘威麿が学園幹事に就任し、同じく実弟の住友財閥当主徳大寺隆麿(住友友純)は大口の寄付を行った。さらに西園寺家の家紋である「左三つ巴」の旗を立命館学園が使用することを許可し、実際に使用されていた。そして大学昇格に必要な書籍を寄付するなど、物理的な面でも支援を惜しまなかった。また、愛新覚羅溥儀からの立命館への巨額の寄付(衣笠キャンパスは溥儀の寄付により作られた)も、西園寺の人脈が生み出した結果である。
中川が「立命館」の名称を用いることを西園寺に申し出た際、西園寺は『立命館』の名称と精神の継承(立命館の再興)を大いに喜び、『立命館と由緒』の大扁額を与えた。後に西園寺は「余が建設せる立命館の名称と精神を継承せる貴学」と現在の立命館大学のことを述べ、自分が作った立命館が再興し、受け継がれている事を喜んだ(原文:「明治ノ初メニ於イテ余ガ建設セル立命館ノ名称ト精神ヲ継承セル貴学ガ益々発展シテ国家ノ進運ニ貢献スルコト大ナルベキヲ祈ル」(1935年(昭和10年))[10]。
西園寺は専門学校令により創立された京都法政大学が大学令による大学への昇格条件を満たすため、多数の書籍を寄付した。これらの書籍は現在も「西園寺文庫」として保存されている。初めての寄贈は1925年5月に行われ、英仏書187冊[11]であった。その後、1930年10月16日に和漢書約300冊[11]、1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊[11]が寄贈された。これらの和綴書には、宮中儀式や有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重な文書が含まれている[11]。そして、1940年5月の最後の寄贈は和漢書6,671冊で、西園寺が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれている[11]。
1932年、83歳の西園寺は人生最後の京都訪問を行った。その際、京都市上京区の立命館大学広小路学舎を訪問した。9月22日の朝、広小路学舎を訪れた西園寺は、校舎ホールに飾られていた自筆の『立命館』の扁額に気が付くとしばらくの間、目を留めたと伝えられている[12]。
西園寺の私塾との間に学校組織としての連続性はないものの、彼が没した1940年に財団法人立命館は西園寺を「学祖」と定めた。そのため、西園寺家との関係は学校法人立命館のみならず、立命館大学とも続いており、大学の行事に西園寺家の人々が出席している。
以上学校法人立命館に先行する前史
2007年にコミュニケーションマーク「R」が制定されたのと同時に、同学のスローガン・タグラインとして、「+R 未来を生み出す人になる。」が制定された。これに合わせて毎年、川口清史元総長と同学の卒業生が京都の名所旧跡で語り合う、という内容のイメージ広告が、首都圏・近畿圏の鉄道ターミナル駅や新聞に掲載された。
2013年1月からは、「Beyond Borders ~ 超えていけ。RITSUMEIKAN」として、同学の活動全般(教育活動、産学連携、社会貢献、体育会・文化会各部、サークル等)を紹介する内容のイメージ広告が展開されている[39]。
2024年版の、QS世界大学ランキングでは、立命館大学は 631 - 640 位にランクインした。QS世界大学ランキングにランクインした、日本国内の私立大学で4位となる[40]。また、2023年版のQSアジア大学ランキングでは、立命館大学は126位にランクインした。日本国内の私立大学で3位となる[41]。2022年版のQSエンプロイアビリティランキングでは、立命館大学は 201-250 位にランクインしている[42]。前述の3つのランキングで西日本(近畿、中国、四国、九州)の私立大学で、1位となっている。
2023年版のTHE世界大学ランキング日本版で、立命館大学は31位にランクインした。特に「産学連携収入」「国際性」といった項目で評価され、西日本(近畿、中国、四国、九州)の大学では11位、近畿の私立大学で1位となる。同年版のTHE世界大学ランキングでは、1201-1500位、THEアジア大学ランキングでは401-500位、THEインパクトランキングでは、201-300位にランクインしている[43]。
現在は夜間のみで卒業する学生を対象とした学習環境は提供されていない。過去には法学部、文学部、経済学部、経営学部、理工学部、産業社会学部の各学部に、1995年までII部(二部・夜間部)が存在した。
立命館大学II部は他大学と異なり、入学試験の受験資格が本来の目的である勤労学生もしくは社会人に限定され、さらに、入学後のII部からI部へ移る制度も設けていなかった[44]。その後1996年よりI部・II部の区分を廃止し、昼間主コース・夜間主コースからなる「昼夜開講制」に移行した。さらには1999年にBKCで先行開始された新昼夜開講制の導入により、実質的な昼夜コース枠組みの撤廃が行われた。
そして2007年1月には産業社会学部の夜間主コースで最終講義が行われ[45]、立命館大学の源流である夜学が107年の歴史を閉じた。
立命館大学は以前、「国際インスティテュート」(2000年度に設置)と「文理総合インスティテュート」(1998年度に設置)を設けて学部横断的な教育を展開していた。専門性の習得や入試募集の単位の細分化など、改善すべき課題が生じてきたとして、現在は全て募集を停止している。ここでは学生の学籍は所属する学部学科にあるが、実際には卒業の基準や必修も全てインスティテュートの枠組みの中で行われることになる。こうした制度のため、卒業した学生の肩書きは「○○学部○○学科○○インスティテュート卒業」となる。インスティテュート所属生の選抜は入学試験で行われた。また、文学部も1996年度に文学部の学生向けに「人文総合科学インスティテュート」を設置していたものの、2002年度に従来の人文総合科学インスティテュートを学際プログラムと改称した上で、総合プログラムと国際プログラムを新設。この3プログラムを新たな人文総合科学インスティテュートとして再編した。2009年度には、総合プログラムを京都学プログラムと言語コミュニケーションプログラムの2プログラムへと再編したが、2012年度の「学域・専攻制度」の導入に伴い廃止となった。
立命館大学蔵書数(附属研究機関含む/2018年度時点)は、3,285,840冊(和漢書2,300,312冊、洋書985,528冊)[46]。APUライブラリー(立命館アジア太平洋大学)蔵書数は含まない。衣笠図書館は旧第一体育館跡に2016年春に新築移転した。建築費用の大部分が、大学OBで元ニチコン会長の平井嘉一郎の遺産の寄付に賄われたことに因み平井嘉一郎記念図書館と命名された。
西園寺文庫は、図書館内にある文庫。西園寺家伝来の貴重な資料のほか、西園寺公望自身が収集した資料を含む。総冊数13,072[47]。
西園寺文庫の資料は、西園寺が生前4回にわたって立命館大学に寄贈した資料を中心に構成されており、その前身は1938年同校に設置された「西園寺公文庫」である。一回目の寄贈は1925年5月に行われたが、これは立命館大学(旧制)が大学昇格条件を満たすために整備した立命館文庫に対して記念寄贈されたもので、英仏書187冊であった。その後、1930年10月16日に和漢書約300冊、1938年6月には西園寺家伝来の和綴本739部881冊の寄贈がなされた。この和綴書には、宮中儀式、有職故実関係、改元記録、和歌関係などの貴重文書が含まれている。そして最後、すなわち四回目の寄贈は1940年(昭和15年)5月に行われている。この最後の寄贈資料は和漢書6,671冊にもおよび、西園寺公が特に愛読していたと思われるものが大量に含まれているのが特徴とされる。
21世紀COEプログラムとして、4件のプロジェクトが採択されている。
グローバルCOEプログラムとして、3件のプロジェクトが採択されている。
立命館土曜講座は、大学の社会的開放および生涯教育への対応として実施している無料公開講座。当時の学長であった末川が提唱して開講されたもので、第一回目の講座は1946年3月31日に実施された。また、これに関連して、1962年から1965年にかけて、読売テレビと共同して『テレビ大学講座』を制作していた。現在は、衣笠キャンパスで実施している土曜講座のほかに、びわこ・くさつキャンパスで『立命館びわこ講座』、学校法人立命館の学校や事務所なども使用して公開講座が開催されている。
海外留学に関する教育プログラムが用意されている。詳細については他大学との協定に関する説明を多数含むため、留学協定を参照。
情報理工学部では国家資格の情報処理技術者試験の合格に力を入れている。また、基本情報技術者試験(FE)の午前の部の免除制度の認定校にもなっている[48][49]。
立命館大学には、新歓運動や学園祭などの全学行事の他、新入生支援等の互助活動や大学との交渉を前提とした要求実現運動といった自治活動などを統括する組織「立命館大学学友会」がある。
全員加盟制をとっており[50][51]、学生は学友会に加盟することで立命館大学の掲げる「全構成員自治」の一員となり、その代表は「全学協議会」などで教学やキャンパス高度化、学生生活、学費、学園の事業など大学の運営に関する議論に参加している[6][52][53]。
同組織は中央委員会を基幹の会議体と位置づける。同会を形成する組織には様々ある。まず同会の基幹パートとして、中央常任委員会、学園振興委員会、全学自治会、中央事業団体の機関が置かれている。中央事業団体は応援団(チアリーダー部・吹奏楽部を内包する)、新聞社、体育会、放送局(RBC)の四部から成る。 体育会は、管轄下に置かれる学友会所属団体(公認団体、部・同好会)を統括する。
また中央常任委員会の事務を担う組織として、中央事務局(財務部、特別事業部、調査企画部を内包する)が置かれている。 財務部は学友会全体の財務処理を担い、特別事業部は新歓期および学祭期の業務を担う。 調査企画部は同会の官報の発信、学友会所属団体の管理・支援を行う。学友会所属団体には団体区分があり、各上から順番に中央事業団体、中央パート、公認団体、部・同好会、任意団体、登録団体とあり、それぞれ学内で行使できる権利に差異がある。このうち調査企画部は、登録団体を統括する。
次に中央パート団体として、全学自治会の管轄下に各学部自治会、学術部及び学芸総部が置かれる。各学部自治会は、各学部単位における要求実現運動を主眼とし、学術部及び学芸総部は、管轄下に置かれる学友会所属団体(公認団体、部・同好会、任意団体)を統括する。
このような課外活動の主な拠点は、学生会館(衣笠)およびセントラルアーク (BKC)、リンクスクエア (BKC)、スチューデントラウンジ (OIC) となる。また、体育会所属団体は各部の練習グラウンドにあるクラブハウスが活動の中心となる。
学友会が中心となって運営する立命館大学学園祭実行委員会の主催による「立命館大学学園祭」が例年11月に行われている。従来はびわこ・くさつキャンパス (BKC) で2日間、衣笠キャンパスで2日間の計4日間開催されていた。3キャンパスとなった2015年は各キャンパスで1日ずつの計3日間となり、1週間ごとの日曜日に開催された。しかし、3キャンパスを移動しながら展示会場などを設置することには無理があったこともあり、2016年度は開催日程の発表が極めて遅れた上、びわこ・くさつキャンパスの1キャンパスのみで1日だけの開催となった。2017年度以降は、新型コロナウイルス感染症の影響で中止された2020年度を除き、11〜12月にかけて2週間ごとの日曜日に、各キャンパスで1日ずつの計3日間開催で落ち着いている。
4日開催の時の来場者数は、延べ約10万人[54][55]と公表されている。
学生文化の集大成を発表する場として、各課外活動団体やサークルによる一般企画や学園祭実行委員会による実行委員会企画(模擬店、フリーマーケット、野外ステージ企画、タレントによるコンサートなど)などが催される。
学園祭の運営は立命館大学学園祭実行委員会によって行われる。 学園祭実行委員会は、中央常任委員会の責任の下、中央委員会から予算の決定を含めた全ての権限を移譲される。ある程度の企画および立案は、中央事務局特別事業部をはじめとした関係各所が企画・立案し実行委員会でその企画意図や立案趣旨、予算などの審議が行われる。学園祭の理念に相応しい企画であるか、学友会費を支弁するに相応しいかなどの視点から幾度も審議が重ねられ、最終的に実施の可否について参加委員の多数決にて結論を出す。
実行委員会は、学園祭実行委員長、学園祭実行委員長補佐、学園祭副実行委員長(衣笠祭典委員長)、学園祭副実行委員長(BKC祭典委員長)、学園祭副実行委員長(OIC祭典委員長)、学園祭副実行委員長補佐、中央事務局特別事業部長により構成されている。実行委員長は年度により異なる。各キャンパス内のみで終結する企画については、キャンパス別会議が開かれ、審議が行われる。また形式上、実行委員会の委員には大学教職員からの委員は入っておらず、大学職員と緊密に連携を取りつつも、ほぼ学生による自治・創造性に任された運営が行われている。
実行委員会の実務を担う組織として、中央事務局特別事業部に衣笠支局(さいぢ)、OIC支局(ふぇすぢ)およびBKC支局(いべぢ)が設けられている。
学友会が中心となって運営する立命館大学新歓実行委員会の主催による「新歓祭典」が、例年4月下旬にびわこ・くさつキャンパス (BKC) で1日間開催される。運営体制については、学園祭に準ずるかたちとなる。新入生を歓迎する祭典として、各課外活動団体やサークルによる企画や新歓実行委員会企画、新歓事務局による模擬店、野外ステージ企画など、様々な催しが行われる。
衣笠・BKC・OIC各キャンパスの全新入生の参加が推奨されており、歓迎の対象となる新入生が自ら小規模演習の各クラスから模擬店を出店することが恒例となっている[56]。
大学創立当初より、文武両道の精神からスポーツには力を入れていた。衣笠キャンパスの産業社会学部に「スポーツ学科(スポーツ社会)」が設けられた後、2010年には、びわこ・くさつキャンパスに「スポーツ健康科学部」が設けられたことにより、運動に長けた選手が入学し、アメリカンフットボールや女子駅伝等、大学挙げての強化が成功し各部で実績を上げている。
立命館大学では文化系のクラブ活動も盛んである。以下に特筆される文化系の部活動の活動実績を記す。
1224年(元仁元年)、西園寺公経が西園寺と北山第(山荘)を建てた。14世紀末、室町幕府第三代将軍・足利義満が、西園寺家から北山第を譲り受けたが、義満の北山第は、西は衣笠山、東は天神川、南は衣笠総門町辺りまで含む広大な敷地であった。北山第が足利義満に譲られた後、西園寺家は再び近くに邸宅を構え、それは15世紀半ばまで衣笠山南麓に存在したとされる。1939年(昭和14年)、立命館大学が現在の衣笠キャンパスの開発に着手したところ、地下約90センチメートル(三尺)の位置から約300年前のものと思われる多数の屋根瓦片が発掘され、屋根瓦には西園寺家の紋章が確認された[61]。さらなる調査の結果、太政大臣・西園寺公経邸のものと推定されるに至ったことから、現在の衣笠キャンパス一帯には、西園寺家の邸宅が建っていたと考えられている[62][63][注 7][注 8]。
幕末の頃、現在の「衣笠キャンパス」およびその周辺には薩摩藩の藩兵調練場(小松原調練場)、弾薬庫、陣屋、勤番屋敷などを置く広大な緑地が広がっていた[注 9][注 10]。明治維新の「鳥羽・伏見の戦い」では、この調練場の弾薬庫から大量の弾薬等が運び出されたと記録されている[68]。
1939年(昭和14年)、満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀[注 11]が立命館に寄付した約50万円のうち20万円で衣笠山の麓に6万坪の土地を購入し、理工系学科の学舎を建設したのが現在の「衣笠キャンパス」の始まりである。この寄付金の残額で学生向けの奨学金の基金も創設された[18][注 12][注 13]。
等持院に隣接していることから、かつては「等持院学舎」と呼ばれていた。昭和20年代にはプロ野球「松竹ロビンス」が本拠としていた衣笠球場が現在の中央広場付近にあり、1954年まで「洋松ロビンス」の準本拠地球場として使用されていた[70]。
設立当初より文系学部を「広小路学舎(中京区)」に、理工系学部を「等持院学舎(現・衣笠)」に置くという棲み分けがなされていた。戦後、急速に増え続ける入学志願者に対応すべく、京都市右京区西院方面に約6万坪の土地を購入し教養部を移転させるという「緑の学園」構想が持ち上がった[71]。この構想は1957年(昭和32年)12月10日の学校法人立命館理事会で「現状では広小路、等持院を中心に充実をはかるべきである」という結論に達したため実現こそしなかったが、文系理系全学部を「衣笠キャンパス」に集約させるというその後の「衣笠一拠点政策」の契機となった。衣笠一拠点化は、1981年(昭和56年)に実現している。しかし、更なる学園拡大の流れにより、衣笠キャンパスでは手狭となったことから衣笠一拠点化は10年程度で終息し、複数キャンパス体制になっている。
現在の「衣笠キャンパス」周辺は、金閣寺、龍安寺、仁和寺、等持院などが点在する京都屈指の観光名所として知られる。キャンパス北側にはこれら名刹を結ぶ観光道路「きぬかけの路」が通る。中でも隣接する等持院の墓地には、室町幕府将軍の足利尊氏、足利義量および足利義勝、映画監督の牧野省三や衣笠貞之助、画家の山元春挙、木島桜谷、役者の尾上松之助、学園創立者である中川小十郎が眠っている[72]。
衣笠キャンパスから北へ徒歩10分程度、金閣寺西部には西園寺記念館がある。飛び地の形で立地しているため「氷室キャンパス」と俗称で呼ばれることがあるが、これは公式なものではなく、衣笠キャンパスの一部である。付近一帯は1224年(元仁元年)に藤原公経が「西園寺」を建立した場所で、寺は西園寺家の家名の由来とされていることから立命館学園とはとりわけ縁の深い場所である。
1955年から1988年までに衣笠キャンパスに建設された学舎のほとんど(合計64棟)は、昭和を代表する建築家で、京都を拠点に日本のモダニズム建築界を牽引した富家宏泰によって設計された[73] [74]。富家は、自身が設計した学舎の外壁建材の多くに「泰山タイル」を採用した。「泰山タイル」は一枚一枚色調が異なる手作りの布目タイルであり、大量生産品では決して出せない風合いがあり、また、釉薬が醸し出す美しい色彩が特徴的で、衣笠キャンパス全体に統一感を作り出すのに役立っている。なお、「泰山タイル」とは、1917年(大正6年)に東九条大石橋高瀬川にて池田泰山が設立した泰山製陶所が製造した装飾タイルである。泰山製陶所は1973年(昭和48年)に閉鎖したものの、1980年代初めまでに建設された学舎の多くに泰山タイルが使われた可能性が高いとされる。ただし、泰山製陶所による生産だけでは追いつかなかったため、外注されたタイルが混じっている場合があることも確認されている。加えて、経年劣化により一部タイルは後に張り替えられており、富家宏泰が設計した衣笠キャンパス学舎の全てに泰山タイルが使用されているわけではない。富家宏泰は1988年(昭和63年)まで同キャンパスの学舎設計に携わったが、その後に設計された建築物(例えば、創思館(2001年竣工)、充光館(2007年竣工)、育友館(2008年竣工)、学内ATMの建物、守衛所など)でも、泰山タイルとの調和を考慮して、ほとんど同じ見た目の布目タイルが外壁に利用されている。
BKC(びわこ・くさつキャンパス)と並べる必要がある際は、KIC(読み:キック)と略されることがある。
2020年8月25日、映像学部と映像学研究科が、2024年4月より大阪いばらきキャンパスへ移転することが発表された[75]。
明治二年(一八六九)秋九月、私邸に『立命館』を創始した西園寺公望は、長期にわたる海外生活の経験から国際感覚に優れ、先見性に富み、近代日本の政局に深くかかわってきた。ことに思想の自由と社会の平等を尊び、常に「世界の中の日本」を主張してやまなかった。
かかる学祖の思想は、本学の建学思想として教学理念の根底をなし、今日に至るまで脈々と受け継がれている。
昭和六三年(一九八八)春三月、西園寺家の発祥地である北山殿の址、すなわち現鹿苑寺(金閣寺)の傍に、国際社会に活躍しうる人材を養成するため、新に学舎を建設し、『西園寺記念館』と名付けることにした。ここに掲げる『禮記』から引用された墨蹟は、学祖が大正四年(一九一五)須磨逗留の折に作られており、学を志す人々に学問の深さを諭したものである。
新しい学舎において真理を探究し、幅広い教養をもち、調和のとれた国際人を目指して自己研磨に励む諸君に、このことばを送りたい。立命館総長 大学長 谷岡武雄
2006年9月開設。京都法政学校創設者である中川小十郎の姓を冠した中川会館の一棟で構成され、大学本部(学校法人立命館の本部機能も担う)も衣笠キャンパスの旧中川会館から移転した。平安京の朱雀大路に当たる千本通に面し、付近に朱雀院跡があること、朱雀第一学区に立地することが、キャンパス名の由来である。
学校法人立命館が、学園全体の総合的な連携を機能的かつ高度に遂行できる施設を目的に計画して建設した建物で、学園学校法人本部、校友会本部、大学院(法務研究科、教職研究科)、が入居している。
中川会館の名称は、立命館大学の前身「京都法政学校」を創立した中川小十郎に由来する。現在の中川会館は3代目で、初代中川会館は、1936年(昭和11年)に学園創立35周年と中川小十郎の長寿を記念して当時の広小路学舎に建設されたものである。1979年(昭和54年)には、広小路学舎から衣笠キャンパスへの大学全面移転事業に伴い、2代目の中川会館が衣笠キャンパスに竣工された。2代目会館は、2006年(平成18年)9月まで主に学園本部機能を担う管理棟として利用されていたが、今回の3代目中川会館の竣工でその役割を終えた。現在、2代目中川会館は「至徳館」と名称を変更し、キャンパスインフォメーションセンター、会議室、生協購買部などが入る複合施設として機能している。
近代京都建築を手本に設計され、外壁には輸入英国製煉瓦、屋根部分は緑青銅板、白壁部分はテラコッタ、建物土台部分には御影石が使用されている。また建物正面(東側)と裏側(西側)の壁部分には、白いデザイン陶板が貼られている。陶板のデザインは、建物正面側が立命館の校章が、建物裏側には「Rits(立命館シンボルマーク:商標登録番号:4393342および4393343)」が彫刻されている。
会館正面(千本通側)の建物左上部には、学園コミュニケーションマーク「R」のロゴが2008年4月より掲示されている。それ以前はシンボルマーク「Rits」が掲示されていたが改修された。
会館南東部の屋上には、会館のシンボルとして「塔屋」が設けられている。塔の四面には、工芸ガラスを利用してデザインされた四神の図柄がはめ込まれており、北面に玄武、南面に朱雀、東面に青龍、西面に白虎が描かれ、夜にはこれらがライトアップされる。
1階正面玄関を入ると、創立者・中川小十郎の胸像に迎えられる。胸像の背後には、創立以来立命館学園を援助するとともに、学園の精神と名称を与えたことなどから学園の「学祖」として敬仰される西園寺公望公が揮毫した「立命館」の扁額のレプリカが掲げられている。現在、オリジナルの扁額は総長室に飾られているが、これは1905年(明治38年)、京都法政学校が「立命館」の名称を継承することを許した西園寺公望から寄贈されたもので、「立命館」の三文字が力強く書かれている。
1階正面奥には「メモリアルホール」と呼ばれる空間があり、立命館学園の発展の歴史を伝えるパネルや映像を見ることができる。ホールには、学祖・西園寺公望の石膏像(直径約41センチ)も飾られている。これは、彫刻家・武石弘三郎が大正時代に手がけた西園寺公望の銅像をもとに複製されたものである。この銅像のオリジナルはもともと神田駿河台(東京都千代田区)の西園寺邸にあったが、関東大震災で破損してしまったものである。その後西園寺側近が破片から復元したものが静岡県清水市の清見寺で保管されていたことが判明。立命館がこれをもとに再度複製したものである。西園寺は自身の銅像・彫刻を残すことを嫌ったため[85]、完全な立体像としては清見寺のものを除き、これ以外に残っていないとされる。なお、衣笠キャンパス西園寺記念館の1階ホールにも、杉村尚が作製した西園寺のレリーフ塑像が飾られてあるが、これはほぼ平面に近い。
初代中川会館は、1935年に立命館学園創立35周年と学園創設者・中川小十郎の長寿を祝って広小路校地に建設された。もともと立命館大学校友会評議員会は、盛大な記念祝賀会や中川小十郎の銅像建設などを予定していた。これを知った中川から、銅像建設や祝賀会に資金を回すより、学園の施設を充実してほしいと要望があり、1935年1月12日の校友大会で「中川会館」の建設が決定された。中川会館の建設費用は寄付金によって賄われ、教職員、学生・生徒、学園縁故者の協力で総額73,970円81銭[86]が集まった。会館は1936年5月に着工され、同年12月13日に竣工。鉄筋三階建で陸屋根造り、モルタル吹き付けの白亜の外壁に、腰は人造石洗出で仕上げられた。建坪は85坪・280m2(延300坪・990m2)[86]で、地階は学生控室・食堂にあてられ、存心館に通じる地下通路があった。1階部分は出版部、職員室、学生研究室、2階は学長室、法学部研究室、文学科研究室、予科研究室、高等商業科研究室、3階は総長公室、校友集会室、特別講義室、応接室にあてられた。記念室には久邇宮邦彦王から中川総長に贈られた自作の詩の御書と銅製花瓶、西園寺公望から寄贈された書、白川義則大将寄贈による「天壌無窮」の銘がある花瓶、総長が明治天皇像に奉献した靖広作の神剣や師の御霊が陳列された。このほか尾竹竹坡の風俗画、大理石でできた西園寺の肖像などが飾られていた。竣工式前日に西園寺公望から送られた南天と山梔子各30株が会館玄関脇などに植樹された。
二代目の中川会館は、1979年に衣笠キャンパスに竣工。同年、広小路校地から学園本部が移転した。地上4階、地下1階建で延面積は6,079.13m2[87]。総長室や学園本部などが入る学園管理棟として機能した。地階には生協購買部が入居していた。2006年、朱雀キャンパスに新・中川会館が完成すると同時に学園本部機能が移転し、旧中川会館は映像学部の講義などに利用されていた。その後、名称を「至徳館」と変更し、現在に至っている。
滋賀県が整備を進める「びわこ文化公園都市」の一角に、1994年に開設されたキャンパス。愛称は"BKC"。延面積611,078.32m2[87]の敷地は、滋賀県から無償で提供された。キャンパス内に設置されたクインススタジアムという陸上競技場の地下には木瓜原遺跡が完全保存されている。なお、クインス (quince) とは瓜のことで、木瓜原という遺跡の名称から採られた。びわこ・くさつキャンパスの西隣には、広さ延面積は45,590m2[87]の運動施設「BKCグリーンフィールド」がある。3階建てのクラブハウス、全面人工芝のラグビー競技場、アメリカンフットボール専用グラウンドなどがある。
近江鉄道バスが乗り入れており、大津営業所運営路線のうち立命館大学バス停を停車バス停に持つ全路線ではIC乗車券が使用出来る。また草津田上インターチェンジに隣接する利便性から、びわこ・くさつキャンパスと京阪本線中書島駅を結ぶ直通短距離路線バス「立命館大学 (BKC) 線」が京阪バスにより(立命館では「高速バス」としている。かつては京阪京都交通も運行)運行されている。また、かつては同キャンパスと飛島グリーンヒルを経由して近鉄京都線・京都市営地下鉄烏丸線竹田駅および京都駅を結ぶ高速バス「MKハートシャトル」がエムケイ観光バス(MKグループ)により運行されていた。
2004年にはBKCの開学10周年と産業社会学部創立40周年、および倉木麻衣の歌手活動5周年を記念して産業社会学部の4回生、倉木麻衣による「Rits倉木麻衣メモリアルライブ2004」が行われ、約2万5000人を集めた。
2016年9月、BKCスポーツ健康コモンズが完成。
2020年8月25日、情報理工学部と情報理工学研究科が、2024年4月より大阪いばらきキャンパスへ移転することが発表された[75]。
セントラルアーク(英語表記:CENTRAL ARC)は、学生交流施設。2005年2月竣工。竣工式は2005年3月23日。
学生の学びと成長を促進する施設として「交流」「伸長」「発信」をテーマに設定しており、ドリームクロスラウンジ、ステージ、サテライトブース、表現のジャングルジム、アカデミックワークショップ、作業ラボ、作業テラス、コンセプトルーム、プレゼンテーションスペース、ミーティングルーム、練習ブース、セントラルアクトオフィス(BKC自治会)、学生オフィス、スポーツ強化センターなどがある。また、セントラルアークの2階には、国際交流や言語学習を中心としたグローバルコモンズとしてBeyond Borders Plaza(BBP)が設置されている。
2000年12月6日に開催された「第2回BKC自治会代表委員会総会」にて、コンセプトを高度化した「学生交流施設」の建設を短中期的課題として要望する決議をしたのが建設議論の始まり[91]。
「学生交流施設」とは、既存の学生会館とは違う、正課・課外を問わない学生の交流の場を目指した新しいコンセプトの施設をイメージして名づけられた。
2001年には要望が具体化され、2003年度には学生署名約1万2000筆が集まった。これを受けて、2003年10月8日の立命館大学全学協議会にて建設が正式に決定した。
名称は公募され、919件の応募の中から猪狩大輔の作品が選ばれた[92]。
大学の中心(セントラル)に建つ、弧(アーク)型の建物であることに由来する[93]。
エポック立命21(えぽっくりつめいつーわん、英語表記:EPOCH RITSUMEI 21)は、多機能型セミナーハウス。着工は2000年8月1日で、竣工は2001年4月30日。
鉄筋コンクリート造地上4階建(一部鉄骨・鉄骨鉄筋コンクリート造)。建築面積2,388.51m2、延床面積6,851.70m2[94]。延面積6,019.92m2[87]。
会議室、宿泊室、父母教育後援会記念エポックホール、交流室、スポーツハウス、茶室(蓬窓庵)、屋上庭園、ミーティングルーム、食堂などがある。また2014年3月22日まで、琵琶湖ホテルが運営するフレンチレストラン「EPOCHラウンジ」が、学生・教職員の他、一般客にも開放されていた[95]。
セミナーハウス機能を持つ施設の建設は、びわこ・くさつキャンパス開設当初の1994年より学生がその必要性を挙げていた。1999年には学生による大規模な運動が行われたこともあり、建設を求める声が高まりを見せ、1999年秋に行われた建設を求める学生署名には実質7日間で9663筆が集まった。これを受け、1999年10月6日に開催された全学協議会では、全学的な議論を経て建設が正式に決定された。
建設にあたっては、設計当初より大学側と学生の代表であるBKC自治会との議論を重ねられ、当初の宿泊機能に加えてホール、茶室、スポーツハウスなど、当初計画に含まれていなかった機能が備えられることとなり、学生の声が取り入れられる形での建設となった。
名称は、立命館大学そしてBKCの新しい時代 ― EPOCH ― を創造する一歩として、5つのコンセプト、Exchange(交流)・Personality(個性)・Oasis(いこい)・Co-learning(学びあい)・Humanity(人間らしさ)を追求できる新時代のセミナーハウスを目指して、当時経営学部3回生の庄山由多加が名づけた[96]。
2010年8月27日、大阪府茨木市岩倉町1番地のサッポロビール大阪工場跡地に新キャンパスをつくる構想があると報道された[97]。その後、構想があることを認め[98]、2010年11月12日に学校法人立命館が同用地の取得と新キャンパス開設することを理事会で決定したと公式に発表した[99]。
新キャンパスの面積は12万1,891平方メートルで、2015年4月に開設された。キャンパスの名称は「大阪いばらきキャンパス」となり、略称は「OIC」である。
2018年6月18日、大阪府北部地震で被災し、復旧までの約1週間立ち入り禁止となり、同キャンパスでの授業は休講となった[100]。
2024年4月、びわこ・くさつキャンパスから情報理工学部と情報理工学研究科が、衣笠キャンパスから映像学部と映像学研究科が移転。
広小路学舎は京都法政学校設立当初の1901年(明治34年)に設置された京都市上京区広小路通河原町西入にあったキャンパス。当初の敷地面積は2,200m2[101]で、衣笠キャンパスに全面移転する1981年(昭和56年)頃の総面積は40,000m2[101]であった。校舎の一部(尽心館、存心館、養性館)は『孟子』尽心篇・首章の次の一文に拠って命名された。選者は立命館長・中川小十郎の委託を受けた講師の鷹取田一郎であった[86]。
「其の心を尽す(尽其心)者は其の性を知るなり。其の性を知らば則ち天を知らん。其の心を存し(存其心)其の性を養う(養其性)は、天に事(つか)う所以なり。妖寿たがわず身を修めて以て之をまつは、命を立つる所以なり。」
全盛期には学園本部のほか、法学部、経済学部、文学部、経営学部、産業社会学部と各二部と各研究科が、狭隘な土地に所狭しと立ち並んでいた。学園の拡大政策のもと衣笠キャンパスへの全学統合が計画された。
1965年(昭和40年)の経済・経営両学部移転を皮切りに順次各学部や研究科が移転し、1981年(昭和56年)には最後に残った法学部が移転し全学が衣笠に移転完了し、「広小路学舎閉校祭典」が開催された。広小路学舎は、1981年(昭和56年)3月末日をもって「京都府土地開発公社」に売却された。現在跡地には「立命館学園発祥の地」記念碑が建っているが、大部分は隣接する京都府立医科大学図書館として活用されている。「広小路学舎閉校祭典」で当時の総長・天野和夫は次のように挨拶している。
「広小路学舎は草創期からの学び舎で、多くの卒業生が学び、役員、教職員、学生が守ってきた。この地を離れるにあたって寂寥の感が深い。この学舎はたんに教育、研究の場であっただけでなく、御所の東という立地条件に恵まれ、市民にもなじまれた。これから衣笠で八〇年代の学園の発展に向け飛び立とうするが、広小路学舎の歴史に学び、諸先輩の足跡を教訓としたい(『京都新聞』一九八一年二月六日付)。」[102]
広小路学舎にあった施設は以下の通りである[103]。
短期留学生用の学生寮が「衣笠キャンパス」近くに2棟ある[109]。主に中長期留学生用の学生寮が「びわこくさつキャンパス」隣接地に1棟ある[110]。短期留学生用の寮は、すべて一人部屋(ベッド・デスク備え付け)で、トイレ・バス完備。インターネット対応。共用のキッチン、ラウンジルーム、洗濯機・乾燥機、コンピュータールームなどを備える。約20の国、地域から集まる留学生が、BUDDY(バディ)と呼ばれる日本人学生ヘルパー、学校教員らとともに居住している。
立命館大学は、合計11の学寮を持っていた。その後、入寮希望者の減少に歯止めがかからず、1987年(昭和62年)に学寮の全廃を決定。1991年(平成3年)3月をもって全廃された[10], [112]。
2007年に立命館大学は、同学および立命館アジア太平洋大学の入試情報提供等のサービスを行う拠点として、「立命館プラザ」を設置した。地元京都や近畿地方だけでなく、全国規模で入試情報等を提供することが目的。同じ関西でも京都からやや遠い神戸市のほか九州(福岡市)、東海地方(名古屋市)、北海道札幌市の4都市に設けられている。
2009年3月26日には、衣笠キャンパスの至徳館2階に「立命館プラザ京都」が、また2011年6月1日には、びわこ・くさつキャンパスの「キャンパスインフォメーション・キャノピー」に「立命館プラザBKC」も設置された。
立命館一貫教育部により小・中・高は附属校に位置づけられている。また、立命館高等学校は「1905年9月京都法政大学の附属校として清和普通学校を設立」と明記している。
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