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京都市北区の地区名 ウィキペディアから
衣笠(きぬがさ)は、京都府京都市北区にある、衣笠山の東部および南麓一帯の地名。地域としては、公称町名に衣笠を冠する23の町のほか、等持院や小松原、平野、北野、大北山を冠する地域の全域あるいは一部なども含んだ、かつての葛野郡衣笠村の地域の一部、現在の衣笠学区と金閣学区のあたりを指す。
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北区と右京区の境界を成す衣笠山(きぬがさやま)[2]は、宇多天皇(法皇)が夏のさなかに雪が見たいと所望して白絹をかけたという故事から「きぬかけ山」とも呼ばれ、それが衣笠山の東部および南麓一帯であるこの地の地名の由来となっている。
鹿苑寺(金閣寺)、等持院、真如寺など臨済宗の名刹、桜の名所として有名な平野神社、8月16日の夜の伝統行事である京都五山送り火のひとつである大文字山(通称:左大文字山)や、農耕と安産の神様として親しまれている敷地神社(通称:わら天神)[3]など、多くの名勝・旧跡に恵まれ、京都府立堂本印象美術館や立命館大学衣笠キャンパスなどの文化施設や文教施設も立地している。石庭で有名な龍安寺も衣笠地区の西隣に隣接しており[4]、四季を通じて多くの観光客で賑わう。
左京区北白川が学者・学生の町として第二次世界大戦前から特異な存在を誇ったのと同じように、日本画の画材となる自然があふれ名刹にも近く、京福電気鉄道(嵐電)や路線バスでの嵯峨野、嵐山へのアクセスにも便利な衣笠地区周辺には、大正末から昭和50年代頃まで、堂本印象、福田平八郎、徳岡神泉、小野竹喬、山口華楊、木島桜谷、菊池芳文、土田麦僊、菊池契月、金島桂華、といった日本画の大家とその門弟が集まった。また洋画では黒田重太郎があり、日本映画発祥の地としての等持院など、芸術文化の町として、戦前から日本全国に知られる[5]。そのために衣笠地区周辺は、別名「(衣笠)絵描き村」とも呼ばれた[6]。
かつては、東亜キネマ等持院撮影所[7](後の東亜キネマ京都撮影所[8][9][10])や、プロ野球松竹ロビンスのフランチャイズ球場であった衣笠球場や、京都府立図書館上京分館が存在した。
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旧葛野郡衣笠村は、明治22年(1895年)に、大北山・小北山・北野・大将軍・松原・等持院の6村が合併して成立し、旧村名を継承した6大字を編成した。村名は衣笠山に由来する[11]。 旧6村の明治に入ってからの動きについて、小北山村は明治元年(1868年)に平野村を合併、等持院村(等持院門前)は明治5年(1872年)に真如寺門前を合併、大将軍村は東部の町場化していた6町(大上之町、大東町、下竪町、下横町、西町、東竪町)が明治元年(1868年)7月に上京(後の上京区仁和学区)に編入されている[13]。
衣笠村は1918年(大正7年)4月に京都市に編入され、当時の上京区の一部となり、1955年(昭和30年)に上京区から北区を分区して以来、北区に編入され、現在の境域となった。
学区(元学区)については、小学校を単位に衣笠学区、大将軍学区、金閣学区がある。1918年(大正7年)4月、京都市上京区に編入された旧衣笠村の区域が上京第35学区となり[14]、昭和4年(1929年)学校名により衣笠学区となった[15]。大将軍小学校は、1931年(昭和6年)に第二衣笠校として創立され、1941年(昭和16年)に校名を大将軍に改称した[16]。また、金閣学区については、1965年(昭和40年)に第二衣笠校(現在の金閣小学校)開校に伴い第二衣笠学区として設立された[17]。
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