Loading AI tools
京都市の祭り ウィキペディアから
祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。
ウィキペディアはインターネット百科事典であり、祇園祭の画像投稿サイトではありません(画像利用の方針・百科事典向け写真撮影のガイドを参照)。 |
祇園祭 Gion Matsuri | |
---|---|
前祭山鉾 御池通巡行 (2017年7月17日撮影) | |
イベントの種類 | 祭り |
通称・略称 | おいで、おかえり |
開催時期 | 7月 |
初回開催 | 869年 |
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。
一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[注釈 1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
応仁の乱で一度祇園祭が中止されたが、町人によって復活した。
祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。なお、祇園の語源については、祇園精舎の項目を参照。
その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の
864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。
御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道や修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。
876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し[4]、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は延暦寺の末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。
祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される[5]。
現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記』元亨元年7月24日(1321年8月18日)条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである[6]。南北朝時代には、富裕な町人層が競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や大舎人座(現:西陣)が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった[7]。
室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる[注釈 2]。
応仁の乱による33年の中断を経て、1500年(明応9年)、祇園会が再興された。明応年間に打ち続いた災異、ことに1498年(明応7年)の東海大地震・大津波による列島規模の大災害の発生が祭礼の復興を後押ししたものと見られる。復興にあたって室町幕府奉行衆の松田豊前守頼亮が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)[8]の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか[9]、初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い[10]、町人主体の祭りとなるよう祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した[注釈 3]。頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している[11][12]。
1533年(天文2年)、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる[13]。そして、天文法華一揆のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に反して、(神事は中止されたものの)山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。
江戸時代に発生した京都の三大火事によって、祇園祭も大きな被害を受けた。1708年(宝永5年)の宝永の大火では、まだ山鉾も素朴な形式であったために復興が早かった。しかし1788年(天明8年)の天明の大火の被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。その後の山鉾復興は、化政文化の波に乗り、山鉾の大型化、部品・懸装品の華美化が進み、曳山の多くも仮屋根から、鉾と変わりない千鳥破風をかけるようになった。しかし、鷹山は1826年(文政9年)の巡行で大雨に遭って懸装品を破損したとして巡行に加列しなくなった。
幕末の禁門の変によって発生した1864年(元治元年)のどんどん焼けは、山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山だけであった。引き続いて明治維新の混乱期に入ったため、菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は以後長い間断絶した。
明治維新以後、山鉾巡行を支えていた寄町制度が廃止され、行事の存続が危ぶまれる時期を乗り越えて復興した。巡行コースの度重なる変更や、第二次世界大戦の影響による中断(1943年(昭和18年) - 1946年(昭和21年))はあったものの、戦後は菊水鉾を皮切りにして、中絶していた「休み山」(焼山)が1980年代に次々に復興した。高度経済成長期の交通事情の悪化により前祭・後祭を統合して合同巡行にした時期(1966年(昭和41年) - 2013年(平成25年))を経て、2014年(平成26年)からは後祭も再開され、古式を保つ努力が続けられており、祇園御霊会としては1150年を超える歴史を誇る。
明治時代の祇園祭はコレラの歴史でもあり、1886年(明治19年)、1887年(明治20年)、1895年(明治28年)にコレラの影響による祇園祭の延期が確認されている[14]。また、コレラを克服して日本を衛生管理の行き届いた文明国家としてアピールするのは日本の急務であり、屎尿の運搬制限や飲食物の注意呼びかけなどコレラのために様々な対策が取られた[15]。
室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。
第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も、新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年(昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を勧める所が多くなっている[16]。以前多かった呉服商などの減少とそのあとに多く建てられたマンションにより、多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。現在では、四条烏丸交差点に近い長刀鉾、函谷鉾の町内は居住人口がゼロで、孟宗山、鶏鉾の町内も人口が極めて少ないが、最も人口が多い蟷螂山町は相次ぐマンションの建築により、人口が約750人に達している。
祭礼などの行事が国の重要無形民俗文化財に指定され、それとともに屋台・山鉾などの用具が重要有形民俗文化財に指定されているものは日本全国で5例のみで、その中の一つが祇園祭である。
1965年(昭和40年)まで7月24日に巡行を行っていた後祭を、大船鉾の再建に合わせて復活させる気運が高まり[24]、2012年(平成24年)になって、2014年(平成26年)の巡行から大船鉾を巡行に参加させ、同時に後祭を復活させる方針を決めた。ただし、実際の復活には警察や地元町会等との調整が必要で正式の復活発表が遅れていたが、2013年(平成25年)8月に2014年(平成26年)の巡行から前祭の23基と後祭の10基に分かれて宵山や巡行を別日程で行うことになった[25]。
巡行コースは現在の巡行コースの逆ルートとなった。これは、かつての後祭のコースが三条烏丸をスタートして、三条寺町から寺町通を南下し、四条寺町から四条通を西行し、四条烏丸で解散するという時計回りのルートであったことに倣ったものである(そのために、後祭の南北に走る通りに建てられる山は北を正面にして山を建てる。前祭と合同巡行の2013年(平成25年)までは、曳山は四条通まで一旦バックしていた)。現在の三条通や寺町通は曳山の巡行が不可能な構造である(低い位置に電線が通っていたり、アーケードがあったりする)ため、既に巡行に対応済みの現在のルートを使用することになったが、将来的には三条通の巡行を検討する。
山鉾の飾り付けは先祭と同様に宵々々山から開始するが、前祭同様その前日夕刻から飾り付けを開始する山鉾もある。有料観覧席は前祭は寺町御池から新町御池に至るまで設置されるが、後祭では京都市役所前に相当する河原町御池から寺町御池の間だけに設置される。ただ、この区間は山鉾巡行に引き続き花傘巡行が観覧できる場所である。寺町御池から河原町御池から四条河原町の間は山鉾巡行のコースと花傘巡行のコースが重複しており、両方の巡行が一度に観覧できる。
後祭の復活は、祭を本来の姿に戻すという意味のほか、多くの問題の解決策という面もある。山鉾の復興が進んで33基にまで増加した山鉾の巡行は、最後の鉾が解散地点である御池新町交差点に到着するのが13時30分前後までかかり、交通規制が長時間になったことや、先頭から最後までの山鉾を全部見ると2時間を越え、後祭巡行列が来る頃には有料観覧席に空席が目立つようになるなどの弊害が目立っていた。宵山期間の人出の多さも問題となっており、後祭の日程追加により人出の分散が期待された。ただ、2014年(平成26年)の前祭巡行は前年度の山鉾巡行よりも9基も山鉾の数が減ったのに、巡行の終了は逆に20分増加した。また、宵山期間の人出も14日(宵々々山)の露店出店・歩行者天国を中止したところ、7月14日の人出は半分以下の8万6000人になり、7月15日・16日に人出が集中した。特に7月16日(宵山)は前年の27万人の人出から34万人へと大幅に増加するなど、課題を多く残した。
後祭の2014年(平成26年)の人出は21日から23日までの宵山期間の人出はそれぞれ4万人・2万人・5万人で、前祭に比べればかなり少なかったが、落ち着いた雰囲気を評価する声も多かった。巡行は前祭の11万人に対し後祭は6万人を集め、前祭の半分以下の規模であることを考慮するとまずまずの集客であった。しかし、2015年(平成27年)の後祭宵山期間は台風の通過や曜日配列に恵まれず、21日は7000人、22日は5000人、23日は1万7000人と大幅に減少し、集客面での課題を残した。反面、好天に恵まれた後祭の山鉾巡行は前年と同じ6万人を集め、悪天候だった前祭の山鉾巡行とほぼ変わらない集客となった。3年目となる2016年(平成28年)は、宵山期間は8000人、1万人、2万人と、2年目より少し増加した程度であったが、巡行は日曜日と重なったこともあり、10万人を集めた。
諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」という。この語源は異説もあるが、前祭では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、後祭では山鉾の数が少なく小規模であることから、前祭を見逃して残るは後祭しかないような状況を指すようになったという説もある。
旧暦(太陰太陽暦)では6月に行われていたが、新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)では7月に行われている。新暦移行後も幾度も日程の変遷があるが、以下に示すものは2014年(平成26年)からの後祭復活後のものである。なお、開始時刻は前後することがある。
時期・日付 | 祭事 |
---|---|
6月中旬〜下旬 |
|
ここからが祇園祭 | |
7月1日 |
|
7月1日から |
|
7月2日 |
|
7月3日 |
|
7月4日から9日までの不定日[注釈 4] | |
7月5日頃の不定日 |
|
7月5日 |
|
7月7日 |
|
7月10日 |
|
7月10日〜12日 |
|
7月11日〜13日 |
|
7月11日 |
|
7月12日 |
|
7月13日 | |
7月14日 |
|
7月15日 |
|
7月16日 |
|
7月17日 | |
7月17日〜24日 |
|
7月18日〜20日 |
|
7月19日〜20日 |
|
7月19日 |
|
7月20日 |
|
7月21日 |
|
7月22日 |
|
7月23日 |
|
7月24日 |
|
7月25日 |
|
7月下旬の日曜日 |
|
7月28日 |
|
7月29日 |
|
7月31日 |
|
7月1日にその年の長刀鉾町稚児が初めて公式に八坂神社に参拝し、稚児に選ばれたことを奉告し、祭の無事を祈る。本殿の斜め向かいにある「斎館」で身支度を整えた稚児と禿の3人は、9時45分頃には関係者らと本殿に入り、10時頃に神事が始まる。稚児は13日の稚児社参の前で、正式に神の使いとなる前であるので、白塗りの化粧をしているものの、冠などは被っておらず頭髪が見えており、衣服も13日以降とは異なる。また、自分の足で歩く。
そのあと10時20分頃から一行は本殿前で2礼2拍手1礼の参拝を行ったあと、時計回りに3回本殿を回る「お千度」を行う。途中本殿裏と本殿前に至った時にそれぞれ2礼2拍手1礼の参拝を行う。
3回本殿を回っただけで「お千度」と呼ぶのは、かつては稚児は300人以上の人を従えて参拝したので、延べ千度回ったと解釈し「お千度」というのである。ただし、現在は30人程度しか従えていないが、旧例に従って3周だけで「お千度」と称しており、「綾傘鉾稚児お千度」や「みやび会お千度」でも同様となっている(10時・八坂神社)。
山鉾のその年の巡行順をくじ引きによって決める儀式。応仁の乱後33年間中断していた祇園祭を復興する際に、激化した順番争いを収めるために室町時代の1500年(明応9年)、当時の侍所の役人(開闔)であった松田豊前守頼亮私宅でくじ取りを行ったと伝えられており[10]、現在もこの神事は、当代の京都市長が裃姿の松田頼亮役として参加するものとして続いている[26]。その後、長らく六角堂で開催されてきたが、1953年から京都市役所の市会議場で開かれるようになり現在に至る。現在は7月2日に行われている。まず前祭のくじ取りを行い、引き続いて後祭のくじ取りを行う。一般の傍聴席での見学は往復はがきで申し込み当選した人に限られている。山鉾町の人々はこのあとすぐに八坂神社に社参し、巡行順が決定したことを奉告する。
鴨川の水で神輿を清める神事。飾りを解いた状態の中御座を夕刻四条大橋へ運び出して行う。神幸祭に先立つ7月10日(先の神輿洗い)と還幸祭の後の7月28日(後の神輿洗い)の2度ある。
これに関連する慣わしとして、「お迎え提灯」がある。これは町衆が神輿の到来を祝して自主的に始めた行列で、先の神輿洗いの日(7月10日)の夕方より行われ、後の神輿洗い(7月28日)には行われない。なお、雨天時には「お迎え提灯」は大きく省略されたり中止になったりする。また、大雨時や暴風警報が発令されたときなどは、神輿洗い自体が大きく省略され、八坂神社境内だけで全ての行事が行われ、四条通には出て来なくなる。
この神輿洗いで担がれる神輿は四基全ての神輿ではなく、素戔嗚尊を載せる中御座(三若)一基である。担ぎ手は神幸祭で東御座(四若)を担ぐ四若神輿会が担当する。
18時から神輿蔵出の儀が始まり、中御座は飾り付けをされない状態のまま南楼門の外に置かれ、他の神輿は舞殿に上げられて飾り付けが行われる。19時頃にまず大松明が八坂神社を出発し四条大橋まで往復して、神社と四条大橋の間を清めたあと、19時半頃に中御座は4本の松明に守られて四条大橋に向かう。西楼門下では子供達が提灯を持って迎えている前では神輿を大きく揺らして鈴を鳴らす。四条大橋でも神輿を大きく揺らして鈴を鳴らす。20時頃に四条大橋の上で朝の神用水清祓式で汲んだ水を、八坂神社の神職が榊に含ませて大きく振りかざし、神輿に振り掛けることにより「清める」。神輿洗いの名であるが、一般的にいうところの「洗う」わけではない。この際榊に含まれた神用水は見物人を含めた周囲の人にも掛かる。神職もあえて周囲の人にも掛かるように榊を振る。飛沫を浴びると厄除けになるという。神輿洗いを終えた中御座は八坂神社に元のコースを辿って戻る。西楼門下では再び子供達が提灯を持って迎えている。20時半から21時頃に境内に戻った中御座は舞殿の周りを2周したあと、舞殿に上げられて飾り付けが開始される。並行して境内では鷺舞などの子供による芸能が行われる。
なお、八坂神社からの出入りは四条通に面した西楼門ではなく、本殿の正面にある南楼門を使う。
後の神輿洗いでは、「お迎え提灯」が無いことの他、境内に戻った中御座は、そのまま神輿庫に収められる点が違う。
7月13日には11時に長刀鉾の、14時には久世駒形稚児の社参が行われる。
長刀鉾稚児社参は、まず稚児一行は10時頃に長刀鉾の町会所を出発する。稚児は狩衣と烏帽子姿で馬に乗り、禿2人は徒歩で神社に向かう。一行の服装は、稚児や禿に赤い傘をさす人・馬を引く人や荷物を運ぶ人は白い水干姿で、先導役は長刀鉾の浴衣姿で、町の役員や稚児・禿の父親は裃姿である。一行の最後には和装の稚児・禿の母親が続く。四条通は通行止めにこそならないものの、稚児一行を自動車は追い越すことができず、四条通の東行は路線バスを含めて稚児のあとを徒歩のスピードで続くことしかできない。バスは1時間近く遅れることもある。八坂神社への参入は神輿と同様に南楼門からとなる。10時45分頃に南楼門前に到着した稚児一行は、稚児が下馬し服装などを整え直したあと、徒歩で本殿に正面入口から参入する。本殿内の儀式は一般公開されていないが、神事が行われて稚児は五位少将・十万石大名の位と格式を授かるため、長刀鉾稚児社参は「お位貰い」とも呼ばれる。この神事以降は正式に「神の使い」となるため、公式行事の場では決して地面を歩かなくなり、剛力の肩に乗って本殿から退出する。以前は再び馬で帰っていた時期もあったが、現在は南楼門前の「中村楼」で食事をした後に、14時頃にハイヤーに乗って宿舎に帰っていく。これ以降、稚児・禿は17日の巡行と「お位返し」までを稚児の宿舎となっているホテルで過ごすことになる。
14時には久世駒形稚児の社参が行われる。現在の久世駒形稚児の社参は馬で神社に向かうことはせず、ハイヤー等で八坂神社境内にある「常盤新殿」という建物に入り、ここで身支度を整えて13時45分頃に常盤殿を出発し、徒歩で南側の道路に出て南楼門から境内に入り本殿に参内する。南楼門前を通過する際には中村楼内にまだ長刀鉾稚児の一行がいることが多い。稚児は神幸祭と還幸祭でそれぞれ別の稚児が選ばれているので、2人並んて歩いて参内する。久世駒形稚児は長刀鉾稚児よりも数学年ほど年少の小学生が選ばれることが多い。
7日の綾傘鉾稚児の社参も久世駒形稚児の社参と同様に「常盤新殿」からスタートする。綾傘鉾稚児は正副合計6人選ばれるが、小学校低学年から幼稚園児ぐらいの幼い子が選ばれるので、止まっていてもじっとしていないことが多い。14時過ぎに「常盤新殿」を出発し、久世駒形稚児と同様に徒歩で南側の道路に出て南楼門から境内に入り本殿前で手と口を清めてから本殿内に参内する。14時20分から30分頃からの本殿での神事の後、本殿を時計回りに3周する「お千度」が行われる。お千度のあと本殿前で各自の記念撮影を行い、その後は一時的に閉じられた南楼門前で全員の集合写真を撮影したあと、再び列を作って「常盤新殿」に戻っていく。長刀鉾稚児以外は、ホテルに缶詰になることはなく、祭の時以外は普通の生活を送る。
なお、長刀鉾稚児は1日に既にお千度を済ましている。
山鉾は普段は、各山鉾町が所有あるいは賃借している蔵や、円山公園にある収蔵庫である「祇園祭山鉾館」に解体して収められている。高さの高い鉾や曳山と、小規模な舁山では建て方が異なるが、いずれにせよ釘を一切使わず、縄だけで組み立てていくのは共通している。大規模な鉾の組み立ては普通3日間かかる。初日は基礎部分の組み立てが行われる。
2日目は基礎部分を横倒しにし、20メートル以上の高さがある真木や、曳山の場合は高い松の木(真松)が取り付けられ、梃子の原理を利用して引き起こされる。昼前後に行われる鉾の引き起こしは鉾建て最大の見どころである。引き起こしには山鉾によりウィンチを使ったり、昔ながらにロープを人力で引いたりするが、関係者だけで作業を行う山鉾が多い中、北観音山は周囲の観客にロープを引いてもらって山を引き起こす。鉾の場合、真木を取り付けたあとに御神体である天王人形の取り付けが行われる。ほとんどの鉾では群衆に御神体が間近で見えないように布で隠して取り付ける。布には紐がついており、鉾を引き起こして天王人形がある程度地上が離れてから紐を引いて布を取り外す。その他、菊水鉾は引き起こし直前に榊に付ける大量の白幣を付近にいる人たちに取り付けてもらうなどの、鉾による手順の差異がある。
3日目は、屋根の取り付け、車輪の取り付け、飾り付けなどが行われる。曳山建ては岩戸山は3日間掛けるが、後祭の曳山(北観音山・南観音山)は2日で完成させる。この場合曳山の引き起こしは初日の15時〜16時頃に行われる。後祭の鷹山は、前祭時期から既に基部を組み立てている。北観音山・南観音山・鷹山は真松に木彫りの鳥を取り付けているが、北観音山・鷹山は真松を取り付ける時に鳥を結びつけるが、南観音山は山を起こしたあとに翌日の午前に、木登りをして鳥を取り付ける。
3日目の15時前後には「曳き初め」が行われる。これは、数百メートルの往復を行って巡行のテストを行うのであるが、曳き手に女人禁制のある鉾であっても、この時ばかりは付近にいる人なら、男女・老若・国籍に関係なく誰でも鉾や曳山を曳くことができる。ただし、悪天候時は幼児の参加を断る場合がある。一部の鉾・曳山では最後まで曳き初めに参加した人にお礼を渡す。鉾・曳山により、無料登鉾券であったり、厄除けのお札であったりする。子供限定で菓子や飲み物が渡されることもある。ただし、近年は参加者が増加しすぎて無料登鉾券の配布は中止するところも増えている。
山鉾町にある企業や短期大学の女性が浴衣姿で参加したり、幼稚園児や小学校の生徒が団体で参加したり、外国人観光客が飛び入りしたりと、山鉾巡行とは違った姿が見られるが、囃子方や音頭方等が乗り込み、長刀鉾には稚児も乗り込むことは本番と変わらない。観客が本格的に祭に参加できるほぼ唯一の行事である。ただし参加希望者が多いため、人気の鉾であったり週末の場合はかなり早めに行っておく必要がある。一部の鉾は、混乱を避けるために関係者だけで曳くところもあるので、確認は必要となる。曳き初めをバスツアーに販売して、運営資金の一部とするところもある。2024年では長刀鉾や岩戸山は招待された小学生や幼稚園児と保護者だけで曳いた。後祭の曳き初めは比較的参加しやすい。ただし、後祭では鷹山の曳き初めや南観音山は関係者と招待者に限られている。これが終わると鉾・曳山の前後に駒形提灯が取り付けられて灯が入れられ、祇園囃子の演奏が始まる。
前祭の四条通・室町通に位置する鉾の鉾建ては7月10日から、新町通に位置する鉾・曳山の鉾建て・山建ては7月11日から行われる。後祭の鉾・曳山は7月18日から大船鉾建てが、7月19日から曳き山建てが開始される。
舁山の組み立ては鉾の基礎部分だけの組み立てに似ており、普通は半日で組み立てが完了する。一部を除き宵々々山の前日の午前に山建が行われる。孟宗山や橋弁慶山のように宵々々山の日の早朝に山建てを開始し、昼ごろまでに完成させる所もある。
前祭の蟷螂山と後祭の橋弁慶山・八幡山は「舁き初め」が行われる。長らく橋弁慶山だけが舁山の舁き初めを行ってきたが、町内住民の増加により、2012年に蟷螂山も約140年ぶりの舁き初めを再開した。他の舁山でも非公式に組み立て終わった山を動かしてみる所もあるが、両山のように山を本番同様に飾り付けて舁き初めする所はない。橋弁慶山の舁き初めは関係者だけで行うが、蟷螂山の舁き初めは鉾のように引き綱を臨時に取り付けるので、鉾の曳き初めと同様に観客であっても参加できる。八幡山の舁き初めは2013年から始められた。町会所の敷地内で建てられた山を新町通りに出すことを兼ねた行事であるので、蟷螂山・橋弁慶山と異なり、飾り付けを行わない状態での舁き初めである。公式には関係者だけで行うことになっているが、実際には一般人も申し出れば参加できる。
傘鉾は基本的には傘を開くだけなので、鉾本体の設置は簡単である。四条傘鉾は前祭の宵々々山である7月14日の朝に設置される。傘鉾の設置そのものよりも、駒形提灯の設置のほうが面倒となる。
「古式一里塚松飾式」ともいう。7月14日の14時頃に松原中之町町会所の奥庭にある小祠である「松原中之町八坂神社」を参拝する形で行われる。八坂神社側の公式行事ではない。
1955年(昭和30年)まで前祭巡行は松原通を通っていたが、その際に長刀鉾の稚児は長刀鉾町の「寄町(協力関係にある町)」であった巡行路途中の松原中之町の町会所で休憩し、その際に町会所奥の祠(松原中之町八坂神社)に詣でていた。巡行路が変わり松原通を鉾が巡行しなくなったため、しばらく断絶した後、7月17日の巡行の日に松原中之町の人々が京都市役所前に出向いて、長刀鉾だけでなく全ての山鉾の関係者に冷たい茶や菓子を振る舞う行事となった時期もあった。
現在では7月14日に稚児や八坂神社・長刀鉾町関係者が松原中之町町会所に出向いて神事を行う。稚児一行は山鉾町に隣接した所にある稚児の宿舎となっているホテルを13時40分頃に出発し、徒歩でまず保昌山の会所を詣でてから「祇園床」という床屋だった建物の奥にある松原中之町町会所に至る。雨天時などはコースを変えたり車を使うこともあるようである。神事の後、冷水で出した薄茶を稚児ら関係者に振る舞う。14時30分頃神事が終了し、旧:祇園床の建物の前で稚児を中心にして記念撮影をしたあと、再び徒歩で保昌山経由で宿舎のホテルに戻る。稚児が出発した後、町内関係者の参拝が終了次第、付近にいる一般人にも町会所奥の祠の参拝が許される。以前は一般人にも薄茶を振る舞っていたが、現在は薄茶は関係者だけしか飲めない。八坂神社側の行事ではなく松原中之町側の行事で、八坂神社や稚児等は招待客という扱い。この日の稚児や禿は和装に下駄履きで、長刀鉾町の人に、赤い傘を差してもらっているが、白塗りの化粧をしておらず、唇あたりに薄く紅をしている程度で、冠も帽子もかぶっていない。また、13日の稚児社参後ではあるが非公式行事であるため、稚児は普通に地上を歩く。
この日から3日間、稚児・禿は夕刻に非公式に八坂神社を参拝するが、中之町御供と同様のいでたち・薄化粧で、地上を歩く。
遷霊祭ともいう。神霊を本殿から神輿に遷す行事。7月15日に行われる。19時45分頃には、本殿と神輿が置かれた舞殿の間に注連縄が巡らされ、神の道の結界を作る。本殿と舞殿の間には神霊を遷す神官が通るためにゴザが敷かれる。19時50分頃から本殿内で神事が始まる。雅楽の演奏とともに宮司による祝詞や関係者による礼拝が一通り行われたあと、20時20分頃から「遷御の儀」が行われる。境内の照明が全て落とされて、本殿前は「浄闇(じょうあん)」すなわち神事をとり行う際の穢れのない暗闇に包まれる。もちろん街中の神社であるので漆黒の闇にはならず、すぐに目が慣れる。やがて本殿からかすかに琴の音色が聞こえてくると、幣を振る神官に先導され、白い幕で隠された神霊が舞殿に向かう。神霊を運ぶ神官の足元だけが小さな明かりで照らされる。先導の神官は幣を振りながら警蹕(けいひつ)の声を上げる。いまから神が通るという合図の「ぅおおおお」という低い声である。神霊遷しは本殿と舞殿を3往復するわけではなく、1度で3つの神輿の神霊を遷す。舞殿上で別の神輿に移動するときや、最後に神官一同が本殿に戻る際も警蹕の声をあげる。神官一同が本殿に戻ってしばらくすると照明が再び点灯され、宵宮祭のクライマックスは終了する。最後に関係者・神官一同が神輿の正面側から拝礼して行事は終了する。行事の終了とともに一般参拝者も神輿の正面からの参拝が許される。
行事の前に繰り返し「照明が消されてからの写真撮影、ビデオ撮影、特にフラッシュの使用」は禁止である旨の案内がある。
なお、7月24日の還幸祭で3つの神輿が八坂神社に戻った際も神霊を本殿に遷す際にも、10分ほど照明を消す。
山鉾からは祇園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。現在のような囃子ができたのは江戸時代から。また、ゴブラン織をはじめとする豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つである。
山鉾の飾り付けは巡行の3日前から始まり、この日を宵々々山と俗にいうが正式には14〜16日まで夕刻より始まる祭は全て宵山。宵山という言葉に前夜祭の意味はなく、単に夜祭(夜々々祭では意味を成さない)を表す。ただし、近年は宵々々山(正式には14日の宵山)の前日の夕刻から飾り付けを開始する所が多くなっている。2日前が宵々山(正式には15日の宵山)と俗に呼ばれる。山鉾の前後には駒形提灯という提灯群が取り付けられ、夜に提灯に明かりが灯る様子は、巡行と並ぶ祇園祭の象徴的な光景である。
宵山期間は、昼間から各山鉾町の町会所に展示されている宝物を見学できる。全ての舁山の町会所や曳山の岩戸山・鷹山・鉾の放下鉾は無料で見学可能・船鉾は1階の御神体のみ無料で見学可能・大船鉾は一部の神体のみ無料で見学可能である。ここでは各山鉾の御神体人形に因んだ利益があるとされるお守りや御札、粽を販売している。また、各町会所にはスタンプや朱印が設置されており、朱印集めをする人も多い。町会所は表通りに面した所もあれば、細い路地の奥にある所もある。町会所の中には100年以上前から伝えられた建物もある。祭の期間、一般の家や会社は白い提灯を掲げているが、町会所の入口だけには赤い提灯が設置されており、町会所の目印となっている。町会所には町の人々や関係者が詰めている。孟宗山のように町内居住住民がほとんどいないため、町内のオフィスビルの会社や銀行から従業員が浴衣姿で応援に出る所もあれば、蟷螂山のように近年町内に新しいマンションが次々に建ち、新住民の増加で町会所や粽売場が賑やかな所もある。
重要文化財のベルギー・ブリュッセル製タペストリーを伝える鯉山の町会所飾りなどは人気が高く、時間帯により入場に長い時間が掛かる所もある。また多くの山鉾では小学生以下の少女が童歌を歌うのが名物となっている[注釈 5]。
一部の山鉾町では、「南観音山あばれ観音」や「役行者山護摩焚き」などの伝統行事が宵山期間に行われる。巡行中に行われる両傘鉾の棒振り踊りは宵山でも披露される。また、前祭期間の宵々山と宵山の両日のみ露天商の夜店が出る。この両日の18時以降23時までは四条通と烏丸通の一部が歩行者天国となる。後祭期間は全日とも露天商の出店も歩行者天国もないが、その代わり宵々々山からの3日間、17時から22時の間「エコ屋台村」が5箇所に設けられ、地元のレストランのテイクアウト食品やスイーツ・地ビールの店などが出店する。後祭は前祭よりも人出が少ないことが予想されるため、2014年はスタンプラリーを行い、大人は手ぬぐい・子供はクリアファイルを貰える企画を行った。
すべての山鉾には朱印があり、朱印めぐりをコンプリートするためにすべての山鉾を回る者も多い。朱印は無料で押印できるところもあるが、お賽銭が必要なところや、100円から300円の押印料が定められているところもある。また、押印は係員が行うところと、押印希望者が自ら行うところがある。現在唯一の「休み山」である布袋山の押印が可能な年もある。また、15・16日には東洞院仏光寺郵便局の向かいに、17日の神幸祭で神輿を先導する「豊園泉正寺榊」が展示されるが、ここでも2022年から朱印を開始している。
宵山期間、一部の旧家や商店では伝来の屏風等の家宝を通りから見えるように展示する。この行事のことを「屏風祭」と呼び、宵山そのものを屏風祭と呼ぶこともある。
宵山期間は北観音山を除く鉾・曳山の上に一般客が搭乗(拝観)することができる。ただし、長刀鉾と放下鉾では女人禁制を今日に伝えているため、女性の搭乗はできず、町会所の2階までの拝観となるほか、喪中の人の搭乗の自粛を呼びかけるところもある。拝観期間は宵々々山から宵山の間が多いが、一部、曳き初めの日の夜から搭乗可能な鉾もある。搭乗料金は「拝観料」として金額が予め決まっている所(船鉾・大船鉾・南観音山・函谷鉾・月鉾)・粽やガイドブックなど何かをその鉾・曳山の販売所で買えば、サービスとして搭乗できる所(長刀鉾)・前述の曳き初めに参加した人は無料搭乗できる所・拝観料も決められているが、指定されたものを買っても搭乗できる所(岩戸山・菊水鉾・鶏鉾)がある。北観音山は関係者以外の搭乗はできない。放下鉾は男性のみ賽銭だけで搭乗できたが、2024年から男女とも町会所2階までの拝観となり、観光客の搭乗はできなくなった。岩戸山ではその他に「Tシャツパスポート」と称して、販売しているTシャツを拝観受付で提示するか、そのTシャツを着用していると、その年も翌年以降も何回でも搭乗できるというサービスを行っている。一般的に四条通や室町通の鉾は混雑し、新町通の曳山は比較的空いている。
祇園祭のハイライト。7月17日の神幸祭で街中の御旅所に神輿でお出ましに、7月24日の還幸祭で神社にお帰りになる神体の通行の前に、町衆が予め町・通りを清めるために始められた。そのために7月17日の前祭と7月24日の後祭の2つの巡行が生まれた。元々は付け祭りだったが、町単位で山鉾が出されたため、各町が贅を競い合うようになり、京の町衆の財力を背景にこちらの方が遥かに大規模で豪華になった。
山鉾巡行は、交通規制の都合により1966年より後祭巡行も17日に統合されたものの、2014年に旧に復した。山鉾の数は現在は33基(前祭の鉾9基・前祭の山14基・後祭の鉾1基・後祭の山9基)で、これも時代によって変化している。
山鉾巡行のコースは時代によって大きく変化している。1955年までは、前祭は四条烏丸を出発し、寺町通から松原通を経て烏丸までの巡行で、後祭は烏丸三条から寺町通を経て四条烏丸まで巡行した。これは江戸時代から続く伝統的な巡行コースであった。
1956年(昭和31年)から1960年(昭和35年)までの間、前祭は四条烏丸から寺町通りを北上し、河原町御池から左折して新町御池に至るコースに大きく変更された。この背景には京都市役所沿道に有料観覧席を設ける観光目的があった。
1961年(昭和36年)からは、前祭は四条烏丸から河原町通を北上し、河原町御池から左折して新町御池に至るコースに変更された。これは寺町通の狭隘化(アーケード化)と、観光客の増加による混雑の危険度が高まったため、幅員の広い河原町通を巡行することにしたのである。1966年には後祭も前祭に合同し、この巡行コースが祇園祭の定番コースとなった。
2014年(平成26年)に前・後祭が分離し、前祭は四条烏丸からほぼ既定のコースを踏襲することにしたが、後祭は逆向きに、烏丸御池から出発し、河原町通を経て四条河原町から四条烏丸を終着点とするコースを巡行することになった。
合同巡行のため、後祭の代替として始められた花傘巡行は、前後祭分離に伴って、後祭と同時に開催されることになり、八坂神社から四条寺町を右折し、寺町通を通って御池通を右折し、河原町御池から後祭の最後尾に連なって巡行し、四条河原町から八坂神社へ戻るコースとなった。
巡行の日は早朝から各山鉾街では、町会所などに展示してあった装飾品や神体人形を山鉾に取り付ける作業が行われる。また、出発前に町会所等では神事が行われたり記念撮影が行われる。出発地点を公式に出発する時間の30分から1時間前に町内を出発する山鉾が多い。ほとんどの山鉾は出発時に一旦バックして町内全ての家に「挨拶」してから出発地点に向かう。出発地点の手前でくじ順に並び直しをする。
前祭の山鉾は長刀鉾を先頭に9時に四条烏丸を出発し、午前中から昼過ぎにかけてコースを回る。四条烏丸交差点で稚児の長刀鉾への乗り込みがある。鉾のそばまでハイヤーでやって来た稚児は、既に神の使いとなっており地上を歩かないことになっているため、男性強力の肩に乗せられて長刀鉾に掛けられた梯子で鉾に乗り込む。
四条堺町交差点ではくじ改めが行われる。奉行に扮した京都市長に対し、山鉾町の代表者(町行司)が7月2日のくじ取り式で受けたくじ札を見せ、くじ順に巡行していることを確認する。町行司役は子供のこともある。いかに格好良く文箱の紐を解き、いかに粋な格好で奉行にくじ札を見せるかを各山鉾町が競い合う。確認が終了すると町行司は扇子を使って山鉾に通行して良い旨の合図を送るが、これも山鉾により異なる型がある。舁山は奉行に山の全面の懸装品を見てもらうために、山の回転を行う。くじ取らずの山鉾は奉行に挨拶だけを行う。
四条麩屋町交差点では稚児による斎竹(いみたけ)の注連縄切りがある。神の使いである稚児が太刀を使って注連縄を切断して結界を開放し、神域への山鉾の進入を神に代わって許可する。太刀の使用には危険も伴うので、実際は稚児の後方の大人が二人羽織のように太刀を扱う。なお、現在の形での稚児によるの注連縄切りは1956年(昭和31年)から始まったものであるが、古い文献に見える注連縄切りを復活させたものとされる。
その他にも傘鉾の棒振り踊りなど見所は多岐に渡るが、最も目を引く見所は辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が無理なため、路面に青竹(舗装以前は樫の丸太だった)を敷き、それに水を掛け、その上に車輪を乗せて引き綱を横から曳くことにより車輪を滑らせて向きを変える。一度で転換すると車輪や鉾本体を傷めるため、3回から4回ほどかけて90度の方向転換を行う。この時音頭方は通常の2人に加えて、前輪を股で挟んで固定する役の2人も加えて計4人となる。
長刀鉾の稚児は新町御池で鉾から降り、ここで公式の山鉾巡行は終了して各山鉾は解散という形で、くじ順に関係なく各山鉾町内に向かう。舁山は一部は室町通を南下するが、背の高い鉾や曳山は新町通を必ず進む。新町通は鉾の巡行に備えて、一切の通りを横断する電線がないが、他の通りには電線があるためである。昔ながらの幅の新町通を次々と鉾が通過していくため、道路の端にいてもすぐ近くを車輪が通過していき迫力があり、新町通で巡行を見るファンも多い。囃子のある鉾や曳山では、町内に到着すると祇園囃子が到着・終了の曲となり、曲のテンポが早まるところが多い。囃子の最後は多くの鉾で横笛の和音で終了し、付近の観客からは拍手が起こる。また、その後に「一本締め」や「祝い締め」を行うところもある。
その後に後祭の南北観音山では柳の木の枝を厄除けの縁起物として付近の人に配る。縄を配るところもあるが、山に建つ松は災厄を吸収しているとして配ることはない。
後祭の山鉾は7月24日の9時30分に烏丸御池を出発し、前祭の逆コースを行く。生稚児の乗る鉾がないため、注連縄切りはない。くじ改めは京都市役所前で行われる。
かつては、巡行時に鉾の上から囃し方が粽(ちまき)を観衆に投げていた。観客が粽を取り合って怪我をする事故が複数回発生したため、中断と復活を繰り返したが、1983年(昭和58年)以降は禁止されている[29]。この粽は厄除け用として作られており、笹の葉の中に餅は入っていない。近年になって一部の鉾町が食用の粽も販売しているが極一部に留まっている。
なお、祇園祭に由来する祭である大津祭では、現在でも粽投げが行われるが、以前と異なり、道路の観衆に対しては投げられない。沿道の家の二階に対してのみ投げられるが、おこぼれを観衆が拾うことは禁止されていない。
囃子方になるためには(一部例外はあるものの)鉾町の住民の男子であるか、または鉾町以外でも現役の囃子方の推薦を受けた子供に限られている。2011年現在では学区の統廃合で一部の学校は無くなってしまったが、昭和の時代には明倫小学校や本能小学校等の地元の男子児童で鉾の囃子方であることも普通に見られる光景であった。
山鉾巡行時の山鉾の曳き手は町内の住人であったり、学生アルバイト、留学生、ボランティアなど多岐に渡る。元々舁山(かきやま・担ぐ山の意味)には車輪がついておらず神輿のように肩に担いでいたが、都市化により担ぎ役となっていた力自慢の近隣農家が減少し担ぎ手の確保が困難となったため、1963年(昭和38年)に保昌山が初めて車輪を取り付け、郭巨山を最後に現在は全て車輪付きとなっている。それでも巡行の要所では今でも山を担いで回転させるパフォーマンスが見られる。
巡行終了後、各山鉾町に戻った山鉾は、即座に解体・収納される。巡行中に疫神を引き受けた山鉾を即座に封印するためという説がある。山は数時間で解体・収納が完了するが、鉾・曳山は2日間かけて解体・収納するところが多い。ただし大船鉾は、鉾が建つ新町通りをその日の夜に還幸祭の神輿渡御が通過するため1日で解体するほか、2022年(令和4年)に復活予定の鷹山も大船鉾と同じ理由で1日での解体となる予定である。
山鉾巡行が行われる通りでは、道路の設備も山鉾の通過に対応して設計されているのが特徴である。一例として信号機は、山鉾が通過の際に接触しないよう、容易に折り曲げが出来る構造になっている。山鉾巡行の当日の朝、自動車の通行規制が始まると高所作業車が何台も出て、一つ一つの信号機を折り畳んでいき、巡行で最後の山鉾が通過し終わると、山鉾を追うように再び高所作業車が登場し、これまた一つずつ信号を元の位置に引き出して復帰させていく。また、背の高い鉾が通過するため、道路を横断する電線が全くない。
山鉾巡行に直接携わる人々は、囃子方の一部の例を除き、現在でも全て男性のみで構成されている。
こちらが本来の神社の中心行事。八坂神社から
神幸祭は朝の雅やかな山鉾巡行とは打って変わって、夕刻より行われる神輿渡御は勇壮豪快で荒々しいのが特徴である。3基の大神輿を総勢1000人以上もの勇猛な男達により担ぎ揉まれて神輿が暴れ狂う様は圧巻である。いわゆる暴れ神輿というものである。神社からの宮出しを完了した3基の大神輿と1基の子供神輿は祇園石段下交差点の楼門前に18時半頃集結しての揃い踏みにて神輿全基連合で勇壮に担ぎ上げられ練り暴れて、楼門前は歓声に涌きかえる。その後は神輿はそれぞれ別ルートにて御旅所へ向かう。朝に山鉾が動く美術館の名をほしいままに巡行した都大路を今度は神輿が勇壮に練り暴れながらの渡御を行い、四条寺町の御旅所宮入りにて神幸祭での最後の豪快な練りを披露する。
神輿の御旅所
還幸祭は神輿と神々が御旅所から各氏子町を通り、祇園祭発祥の地である御供社(又旅社)に立ち寄って八坂神社へ還る神事。今度は山鉾町をも含めた八坂神社の広大な氏子地域を練り暴れながら八坂神社に宮入を行う。八坂神社での宮入では、舞殿の周囲を3周する拝殿回しを行い、神輿3基がここぞとばかりに力を振り絞りながらの勇壮豪快な最後の練りを披露する。
舞殿前にて神輿の最後の暴れながらの揉みが終わり、神輿が舞殿に上げられ安置されると境内は消灯され漆黒の闇となり御霊遷しが行われ、神輿に乗せられた祭神が本殿に戻され、神輿渡御は静かに終了するのである。7月28日の神輿洗では神社に戻ったあと神輿は神輿庫に収められる。
なお、祇園祭の神輿を担ぐ時の掛け声は「わっしょい」ではなく「ほいっと、ほいっと」である。慎重に担ぐ場面では「よーさー」に変わる。神輿を振らずに練り歩く際は「よいやーさっさ(中御座)」「よいやっさーじゃ(東御座、西御座)」などの掛け声も使われる。神輿を担ぐ前後には「よーいとせーの チャチャチャ×3」(中御座)、「よーさの チャチャチャ(拍手3回)×3、ヨー!」(東御座、西御座)の掛け声で手締めを行う。又、神輿を担ぐ時は通常時は肩に乗せるが、腕を伸ばして神輿を持ち上げた状態を「差し上げ」、差し上げた状態で右回りに神輿を回転させることを「差し回し」という。
1966年(昭和41年)に後祭の山鉾巡行が7月17日に統合されたあと、代替として始められた行事。約1000人からなる行列である。子供神輿を先導とし、山鉾の古い形態を現代に再現したものとされる花傘(傘鉾)のほか、獅子舞・鷺舞・田楽・万灯踊等の古典芸能や、子供太鼓・
鷺舞や舞・芸妓は八坂神社に到着後、芸能の奉納を行う。八坂神社の氏子地域には4つの花街があるが2つの花街が交代で参加する。西暦奇数年は先斗町が歌舞伎踊り・祇園東が小町踊りを、偶数年は宮川町がコンチキ音頭・祇園甲部が雀踊りを奉納する。
京都織物卸商業組合が中心となって、八坂神社の氏子地域にある4つの花街のお茶屋組合、各種行事の保存会や八坂神社の諸組織、山鉾保存会などが共同で「花笠連合会」を作って行っている行事である。
当初の巡行コースは八坂神社〜四条河原町〜河原町御池〜寺町御池〜四条寺町〜八坂神社であった。
2014年(平成26年)から後祭の山鉾巡行が復活したあとも継続され、一部で後祭山鉾巡行のあとに連続して巡行できるように巡行ルートをそれまでの逆コースに変更し、八坂神社〜四条寺町〜寺町御池〜河原町御池〜四条河原町〜八坂神社となった。寺町御池から四条河原町の間は後祭山鉾巡行のあとに連続して巡行するようになる。
2018年(平成30年)の花傘巡行は記録的猛暑により、花傘巡行に多くの子供が参加しているため、熱中症の危険性を配慮して中止となる。猛暑を理由とした行事の中止は初めてである[30]。2020年から2022年までは新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行の影響で中止となった。2023年に復活したときは巡行ルートが下京中学校成徳学舎をスタートして高辻通 - 烏丸通 - 四条通の片道ルートになった。その際に鷺踊と小町踊に参加する少年少女は四条木屋町からの参加となり、その地点までは「鷺踊」などと書かれた幟だけが巡行に参加する。
本社神輿の3基については元禄年間ごろより三条台村の有志が三条台若中を組織し神輿渡御を行ったものに由来するが、後に中御座神輿(三若神輿)を除く2基の神輿渡御は他の地域により行うようになった[31]。
2000年(平成12年)に中御座神輿(三若神輿)の金箔が貼り直されたほか、翌年には東御座神輿(四若神輿)、さらにその翌年に西御座神輿(錦神輿)もそれぞれ金箔が新調された。
山鉾はその形から5つに分類される。数の多い順に、「
2008年(平成20年)の山鉾巡行の際、河原町御池の辻回し手前地点で計測された山鉾の重量(懸装品・乗員を含む)は月鉾で12トン弱。その他の鉾・曳山は10トン前後。曳山としては小型の岩戸山で8トン余り。舁山は最重量が蟷螂山で1.2トン、最軽量が占出山で510kgほどであった。傘鉾は台車を含めて400kgほどの重量であった[33]。胴体は巡行の時だけ最も高級な懸装品で飾られ、宵山期間は略式の懸装品に代えるか、全く何も飾らず骨組みのままの場合がある。山の御神体人形や懸装品は宵山期間は町会所内に飾られる。悪天候の場合は懸装品をつけず、定紋入りの雨除けの覆いを回し、人形や神体を取り外して略式の巡行とすることもある。
御神体人形(祠に御神体を祀る所もある)を乗せ、それによって中国や日本の故事・謡曲などの一場面を見せる趣向を主とし(町内に祀られている神仏を乗せる所もある)、人が舁いて(担いで)巡行する(現在は人手不足を理由に補助輪を付けて押している)。御神体人形には橋弁慶山の御神体を除き朱傘が掛けられるが、郭巨山のみ油紙の屋根が掛けられる。山の上には布で覆った籠を伏せて置き、「山」に見立て、そこから松(真松という・太子山のみ杉)を立てて疫神の依代とする。山には前面に穴をあけて洞に見立て、中に御神体人形等を入れることもある。真松には山ごとに異なる数の鈴を吊るすことが多いが、月・日に見立てた金属板を吊るす山もある。孟宗山は積雪を表現した綿を松に乗せており、保昌山は宵山期間に町会所で販売され願い事を書いて奉納された恋愛成就の絵馬が多数吊るされる。山の胴体には、染織品・刺繍・タペストリー等の懸装品で飾られる。
なお、上に山を作らず、真松も立てない橋弁慶山・浄妙山・蟷螂山は、厳密には「屋台」という形式になる。
乗員搭乗部は50人ほどが詰めあって乗り込め、囃子方などが乗り込む。最前部には長刀鉾のみ生稚児が、それ以外の鉾は稚児人形が乗る。胴体は懸装品で飾られる。胴体の下方には「石持」という巨大な角材がある。石持により鉾の重心を下げている。車輪にはクッションに相当するものがなく、縄で結ぶだけの柔構造により衝撃を少しは吸収している。乗員搭乗部の床には蓋があり、開けると基礎部の内部に出ることができ、巡行中に鉾の乗り降りをする急用ができた際に使われる。屋根にも穴が開けられており、屋根方の乗り降りに使われる。
いずれも前祭の長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・月鉾・菊水鉾・放下鉾がこれに該当する。
鉾同様に車輪を付け綱で引いて動かし、鉾のように囃子方も乗せている。鉾との最大の違いは屋根の上に舁山同様に真松を立てていることである。後祭の曳山の松には木彫の鳥が取り付けられる。
初期の曳山には屋根がなく、大きめの舁山に車輪が付いているような形で、山の上は舁山と同じように御神体人形に因む一場面を見せる趣向であった。
囃子方を雨や夏の日差しから守るため、簡略な日除けを設けていたが、寛政年間(1789年 - 1801年)に、岩戸山が鉾と同形の屋根付きに改造されたのをきっかけに、他の曳山も次々と屋根付きに改造された。現在の曳山は鉾同様の姿であるが、巡行中に鉾のように稚児人形を乗せず、御神体人形を乗員搭乗部に乗せている。岩戸山は屋根の上にも御神体人形を安置する。
前祭の岩戸山、後祭の北観音山・南観音山・鷹山がこれに該当する。
鉾というが真木を立てない点で他の鉾と一線を画し、形が船という独特の構造をしている。独特な形の複雑な屋根を持つ。巡行中は鉾上に御神体人形を安置するところは鉾よりも曳山に近いが、真松を持たないので「山」ではない。分類では、「屋台」として分けられている。船体軸部の縦横方向にX状に交差した二重の桔木(はねぎ)を設けて衝撃を吸収し、巡行中の変形・転倒を防ぐ合理的な構造になっている。江戸時代前半までは長い帆柱を立てたといわれ、今はその代わりとなる竿に吹き流しをつけ、船尾に神紋を染め抜いた旗を掲げる。
前祭の船鉾、後祭の大船鉾がこれに該当する。
踊りの列や囃子方を有し、それらが大きな傘である鉾と一体で歩く行列である。鉾に乗ることはできないが鉾の古い形態といわれる。ただし、綾傘鉾は北観音山の旧台車を譲り受け、1834年(天保5年)から1864年(元治元年)まで「曳鉾」型で巡行に加わっていた時期がある(踊り手は歩行)。また、綾傘鉾には稚児6名も参加するが、長刀鉾の稚児と異なり地上を歩く。
前祭の綾傘鉾・四条傘鉾がこれに該当する。
※印は、くじ取らず。
船鉾
度重なる大火や各山鉾町の事情によって現在は巡行していないが、宵山期間に残された御神体や宝物等を展示する「居祭」を行う山鉾。大火で木造部や宝物を焼失したり、町の借金返済のために宝物を売却したりして、巡行ができなくなり休み山が発生する。なお、かつて存在したことが記録に残されているだけで、居祭を行っていない山(御射山など)は休み山とはいわない。かつては焼山(やけやま)と言った。第二次世界大戦後、菊水鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾・大船鉾・鷹山が相次ぎ復興したことにより現在は1つの山だけが残されている。
かつて応仁の乱前後に存在し現在消失した山鉾がある。
太字は「くじ取らず」。
2013年(平成25年)までの先祭と後祭の合同巡行時は、先祭の行列の終了後に引き続いて後祭の巡行を行っていた。そのため、後祭の山鉾が全体の23番目より前に巡行することはなく、逆に先祭の山鉾の巡行順が全体の24番目以降になることもなかった。
山鉾の頭文字を表示。[]はくじ取らず。
基準 | [長] | 山1 | 山2 | 山3 | [函] | 山4 | 傘1 | 山5 | 鉾1 | 山6 | 山7 | 山8 | 鉾2 | 山9 | 傘2 | 山10 | 鉾3 | 山11 | 山12 | 山13 | [放] | [岩] | [船] |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2019年 | [長] | 蟷 | 芦 | 木 | [函] | 郭 | 綾 | 伯 | 菊 | 油 | 太 | 保 | 鶏 | 白 | 四 | 孟 | 月 | 山 | 占 | 霰 | [放] | [岩] | [船] |
2018年 | [長] | 蟷 | 霰 | 油 | [函] | 孟 | 綾 | 白 | 鶏 | 太 | 伯 | 芦 | 月 | 山 | 四 | 占 | 菊 | 保 | 郭 | 木 | [放] | [岩] | [船] |
2017年 | [長] | 占 | 孟 | 霰 | [函] | 伯 | 四 | 芦 | 月 | 山 | 油 | 太 | 鶏 | 木 | 綾 | 蟷 | 菊 | 白 | 郭 | 保 | [放] | [岩] | [船] |
2016年 | [長] | 山 | 白 | 孟 | [函] | 太 | 四 | 占 | 月 | 芦 | 蟷 | 保 | 鶏 | 伯 | 綾 | 霰 | 菊 | 木 | 郭 | 油 | [放] | [岩] | [船] |
2015年 | [長] | 孟 | 芦 | 伯 | [函] | 油 | 四 | 占 | 月 | 蟷 | 木 | 山 | 菊 | 郭 | 綾 | 太 | 鶏 | 白 | 保 | 霰 | [放] | [岩] | [船] |
2014年 | [長] | 占 | 芦 | 孟 | [函] | 山 | 綾 | 伯 | 菊 | 太 | 霰 | 油 | 鶏 | 木 | 四 | 蟷 | 月 | 白 | 保 | 郭 | [放] | [岩] | [船] |
基準 | [橋] | [北] | 山1 | 山2 | 山3 | [南] | 山4 | 山5 | 山6 | [大] |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2011年以前 | [北] | [橋] | 山1 | 山2 | 山3 | 山4 | 山5 | 山6 | [南] | [大] |
2019年 | [橋] | [北] | 鯉 | 八 | 黒 | [南] | 役 | 浄 | 鈴 | [鷹] |
2018年 | [橋] | [北] | 黒 | 鯉 | 鈴 | [南] | 役 | 浄 | 八 | [大] |
2017年 | [橋] | [北] | 鯉 | 役 | 八 | [南] | 鈴 | 浄 | 黒 | [大] |
2016年 | [橋] | [北] | 浄 | 役 | 黒 | [南] | 鈴 | 八 | 鯉 | [大] |
2015年 | [橋] | [北] | 役 | 八 | 鈴 | [南] | 鯉 | 黒 | 浄 | [大] |
2014年 | [橋] | [北] | 八 | 浄 | 鈴 | [南] | 鯉 | 役 | 黒 | [大] |
くじは全ての山鉾が引くわけでなく、くじを引かないでも予め順番が決まっているものもある。これを「くじ取らず」という。時代と共にその数と順序に変遷があるが、現在「前祭」・「後祭」共に5基のくじ取らずがある。
前祭においては、先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目の船鉾(前祭巡行の最後)、後祭においては、先頭の橋弁慶山、2番目の北観音山、6番目の南観音山、10番目の鷹山、11番目の大船鉾(後祭巡行の最後)が「くじ取らず」である。
後祭は従来、先頭の橋弁慶山、最後尾の大船鉾、その一つ手前の鷹山だけがくじ取らずであったが、隔年で出る申し合わせだった2基の観音山の内、南観音山が大火の被害甚だしく不出となった折、北観音山が連続して巡行に出で、その後南観音山が復帰した後も両観音山は同時に参加することとなった1872年(明治5年)以降、先頭に北観音山(必然的に橋弁慶山は2番に後退)、最後尾に南観音山を配置し、これらをくじ取らずに加えた。
しかし、142年ぶりに大船鉾が唐櫃で巡行に復帰した2012年(平成24年)に、くじ取らずの順序の見直しがなされ、後祭の先頭は140年ぶりに橋弁慶山に戻り、2番目が北観音山、最後だった南観音山は6番目に移り、かつて後祭の最後に巡行していた大船鉾が、復活後も最終に巡行することになった。2019年(令和元年)に鷹山が唐櫃で巡行に復帰したが、かつてと同様に大船鉾の直前を行くくじ取らずとなった。また、2023年から北観音山と南観音山がくじ取らずのまま「先番」と「後番」を隔年で交代することとなり、2023年は2番目を南観音山が、6番目を北観音山が巡行した。
また、くじ取らずではないものの、注目の鉾がくじによって連続しないよう一種の「シード制」を取り、限られた巡行順の中でのみくじによって位置を入れ替えるものもある。すなわち、月鉾・菊水鉾・鶏鉾の3基の鉾は巡行順が9番目・13番目・17番目と決められており、仮に「鉾1番」のくじだと全体の9番目を行く事になる。同様に綾傘鉾・四条傘鉾の2つの「傘鉾」は、巡行順が全体の7番目と15番目と決められており、「傘鉾1番」のくじだと全体の7番目ということになる。傘鉾の場合は古来舁山と同じ扱いでくじを引き、その度不規則に位置を変える慣わしであったが、1996年に「傘鉾」のくじが新設され、以来現在の形となった。
以上よりくじ順の実際を整理すると、例えば「山7番」を引いた場合でいえば、先頭を行く長刀鉾の次に「山1番」の舁山が全体でいう2番めに巡行し、その後にくじ取らずの函谷鉾と「鉾1番」の鉾・「傘鉾1番」の傘鉾が入るため、全体では11番目の巡行ということになる。
山鉾の運営基地となる建物。山鉾町の事務所として山鉾の収納、御神体の安置、祇園囃子の稽古場、懸装品の展観、授与物の頒布など、さまざまな用途に使われる。普通の町家と並んで存在するものは「表棟型町会所」と分類され、長刀鉾・月鉾・船鉾・放下鉾・北観音山・南観音山・山伏山・橋弁慶山・保昌山・郭巨山に古式なものが残る。大型の鉾・曳山の場合は、奥に立派な土蔵を備えている場合が多い。また表通りから狭い露地を通った奥に会所があるものは「奥棟型町会所」と分類され、舁山の町に多い。古式なものは役行者山・八幡山・鯉山・霰天神山・孟宗山・鈴鹿山・占出山の町内にある[38]。祭礼期間以外は適宜な店子に賃貸され、商家として利用された。江戸時代には髪結床となっていた場合も多い。明治維新以後、町会所が所有者不明として収公され、山鉾の運営に窮することになったり、会所の所有権をめぐる争いが長引いて山鉾が出せなくなった事例もある。長期にわたる中絶の後に復興した菊水鉾では、町内の金剛能楽堂を会所の代わりにしていたが、能楽堂の移転によって、跡地に建設されたマンションの2階を町が購入し、会所として利用している。鉾本体は1967年に京都市南区東九条南河辺町に新築された収蔵庫に保管されている[39]。また2014年に復興した大船鉾では、2016年に旧町会所に近い古い町家を購入・改造して町会所としている[40]。なお、戦後の変革で町会所を失った山鉾のために、京都市は1968年、八坂神社に隣接する円山公園の一角に「祇園祭山鉾館」を設け、山鉾の収蔵庫として利用されている。ここには岩戸山・孟宗山・黒主山・浄妙山・太子山・油天神山・郭巨山・伯牙山・芦刈山・木賊山が収納されている(収蔵庫であり、展示・見学機能はない)。
山鉾の運営を支えるために、豊臣政権下(1583年(天正11年)〜)で制定された制度。山鉾町周辺の特定の町や土地を指定し、課税に準じて各山鉾の運営資金「地ノ口米」を徴収した。町々への賦課は、最高は三石余り、最低は一斗以下とばらつきが大きいが、早くから金納になっていたものと思われる。寄町は山鉾の運営には直接かかわらないが、山鉾町より粽などが贈られた。1872年、寄町制度が廃止されたため、祇園祭を維持する目的で、八坂神社の氏子を母体とする「清々講社」が結成され、神輿渡御・山鉾巡行を経済的に後援することになった。寄町制度廃止後も、山鉾町との関係を保っている旧寄町もある。
寄町一覧(【】内は山鉾町)[41]
祇園祭には稚児が参加する。
現在では唯一、生身の稚児(生稚児)が乗る。かつては船鉾・大船鉾を除く全ての鉾に10歳前後の少年が稚児として乗っていたが、現在は長刀鉾以外は人形になっている。
諸行事の一行の食事代やハイヤー代、各所への心付けやお供えなどの諸費用は、禿の分も含めて全て稚児を出した家の負担とされているため、2000万円ともいわれる費用がかかり、かつ稚児の自宅に神事を行うための床の間があることが条件となる。そのため、京都市内の資産家等の家庭から禿(かむろ)と呼ばれる家来役の少年2名と共に選ばれ、祭りの年の6月頃に発表される。非常に費用が掛かり誰でも稚児になることが困難であるため、祭や伝統行事の維持に協力的な資産家に役割が集中し、稚児の親も何十年も前に稚児であったり、兄弟が数年をおいて稚児になったりする例がある。このような例は葵祭の斎王代役にも見られる。禿は稚児を出した家が決めることもできるため、多くが稚児の友人か兄弟である。かつては長刀鉾町の町内から稚児は選ばれたが、現在は大抵町外の資産家の子息[43]であるため、6月下旬に形式的に町内の代表と養子縁組をする。また、7月1日の祭の開始に向けて、各所への挨拶回り、作法や儀式の学習、稚児舞や乗馬の練習などが開始される。衣装類は正式な発表時には揃えられているといわれる。
7月1日の「お千度」(おせんど)を皮切りに数多くの行事に舞台化粧と同様の白塗り化粧で登場、7月13日午前中の「稚児社参」では狩衣に金の烏帽子で登場、「正五位少将」・十万石大名の位を授かる。これは高い鉾の上から貴人を見下ろしても不遜にならないようにするためといわれる。これ以降は神の使いとされ、食事の用意などに女子の手を一切借りず、食事も他の人とは別の火で作ったものを摂る。また、公式には地面を一切歩かないことになっており、公式行事の際には人前では絶対に地上を歩かない。巡行当日に長刀鉾に乗降する際は男性の肩に乗せられて長刀鉾に取り付けられた梯子で乗降する。そのため、あまり肥満していないことも稚児の条件となる。ただし、14日の古式一里塚松飾式(中之町御供)は八坂神社側の公式行事でないため、稚児・禿は和装ではあるが無冠かつ薄化粧で現れ、かつ稚児社参後であるが地上を歩き、この日から16日まで非公式に八坂神社を参拝するが、この時も薄化粧で地上を歩く。
7月17日の山鉾巡行では金襴の振袖に紋織りの袴、鳳凰の天冠で登場、禿を両脇に従え、鉾の中央で稚児舞を披露する。巡行後はすぐにハイヤーで八坂神社に向かい、正五位少将・十万石大名の位を返上し、神の使いから普通の少年に戻る。お位返しの儀と呼ばれる儀式である。この際も古式一里塚松飾式と同様の薄化粧・衣装で地上を歩いて本殿に参入する。儀式後に南楼門を出てハイヤーに乗る前に、稚児たちはマスコミからの取材を受けることが通例となっている。
正副6人出る。一般から公募されることが長刀鉾稚児との大きな違いである。長刀鉾の稚児と異なり多額の費用はかからないとされ、数年先まで希望者が決まっているとされる。また、社参と巡行が主な仕事。巡行では各自朱傘を差しかけられ、一列になって囃子方の前を歩く。近世以前の画像資料によっては強力の肩に担われているものも見られるが、現在は終始徒歩で参列する。7月7日の稚児社参の時に「宣状」を受けて神の使いの認証を受ける。
かつては綾傘鉾と同様に稚児が出たが、現在は途絶えている。道中で踊る児童らは傘鉾特有の棒振り囃子をする踊り方であって、稚児ではない。
綾戸国中神社(南区久世上久世町)の氏子から毎年2人が選ばれる。8歳前後の少年から選ばれる。こちらも、舞台化粧と同様の白塗り化粧で登場、額に黒と白の点を付ける。
7月13日午後の「稚児社参」では2名揃って白の狩衣に紫紋入りの括り袴、金の烏帽子で登場する。
神幸祭・還幸祭では1名ずつ登場、衣装は同じだが稚児天冠を被り、胸に国中神社の御神体である木彫りの馬の首(駒形)を胸に掛け、馬に乗って素戔嗚尊(すさのおのみこと)の和御魂(にぎみたま)が鎮まる中御座神輿(なかござみこし)の先導を務める。
神幸祭に先立ち八坂神社で行われる神事により駒形稚児は素戔嗚尊の荒御魂(あらみたま)の鎮まる御神体と一体となり、稚児自身が神の化身として役目を終えるまで一切地に足を着けずに務める(長刀鉾の稚児や綾傘鉾の稚児は神の使いであり、化身ではない)。通常は神社の境内では長刀鉾の稚児はもとより皇族であっても下馬しなければならない(皇族下馬)が、久世駒形稚児は八坂神社境内に入っても下馬せず騎馬のまま本殿に乗りつける。
お迎え提灯と花傘巡行には白塗り化粧をしてカラフルな水干を着た少年3名が馬長稚児(うまおさちご)として馬に乗って登場する。
祇園祭の中では様々な古典芸能も上演される。
鷺舞(さぎまい)は白絹の羽を纏い、雌雄の鷺に扮した成人男性の舞い手2人が囃子に合わせて優雅に舞い踊る郷土芸能。約600年前に存在した「笠鷺鉾」の周りで舞われていたが、江戸時代中期に途絶えた[44][45]。1956年(昭和31年)に鷺舞保存会が、祇園祭の鷺舞を伝えていた島根県津和野町から舞を逆輸入して復活させ[45]、経費を氏子組織(清々講社)が負担して八坂神社境内で奉納されていた。鷺舞は山口市、潟上市にもある。浅草寺(台東区)の「白鷺の舞」も、これを参考にした。
通常は、宵山の7月16日と山鉾巡行・神幸祭の7月17日、花傘巡行・還幸祭の7月24日の3日間八坂神社境内で奉納されるが、2006年(平成18年)以降は鷺舞保存会と神社、氏子組織の対立が深まったために行われず、代りに、次項の子鷺踊りが奉納された。なお、2019年(令和元年)に祇園祭1150周年を祝して津和野町から鷺舞が八坂神社境内で奉納された[44]ほか、2024年(令和6年)には祇園会鷺舞講(前記の「鷺舞保存会」とは別団体)によって白楽天山の会所前で披露されている[45]。
上記の鷺舞をアレンジした新しい郷土芸能。上記と同様の白絹の羽を纏い、白塗り化粧をした小学生位の少年少女6名が優雅に可憐に舞い踊る。通常は、7月10日のお迎え提灯、7月16日の宵宮神賑奉納神事と7月24日の花傘巡行に登場、2006年(平成18年)以降は上記の事情により大人の鷺舞の代役を務めるようになった。子鷺踊りは津和野町、潟上市にもある。
元禄時代に起源を持つ少女の踊り。近代に入って中絶したが、1962年に白峯神宮で復活した。祇園祭では、7月10日のお迎え提灯では小学生位の少女が、7月24日の花傘巡行では祇園東の芸舞妓が、いずれも元禄風の衣装・髪型・白塗り化粧で、典雅に可憐に舞い踊る。
1957年(昭和32年)に祇園祭復活10周年を記念して創作。7月10日のお迎え提灯、7月16日の宵宮神賑奉納神事に、一般的なお揃いの浴衣を着て白塗り化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。
石見神楽は、石見地方に伝わるエンターテインメント性の高い神楽。1973年(昭和48年)以降毎年、通常7月16日の宵山に八坂神社境内で奉納され、御祭神・スサノオのヤマタノオロチ退治をはじめ八坂神社や京都にも所縁ある神話劇が演じられる。
当時の八坂神社の名誉宮司作詞の歌詞を元に1968年に創作。7月24日の花傘巡行に、一般的なお揃いの浴衣を着て白塗り化粧をした小学生位の少女多数が可憐に舞い踊る。
市内には花街(はなまち)が6ヶ所あるが、その内の神社に近い4ヶ所のうち、2ヶ所ずつが交互で花傘巡行で踊りを披露する。2015年(平成27年)は花傘巡行50周年を記念して、全ての花街が参加した。
「祇園田楽」は、平安時代の平清盛の田楽奉納の故事に基づいて復元された。那智田楽などを参考に、8人の女性からなる八乙女(やおとめ)の踊として、鷺舞保存会の神澤和明(演劇学)が振付した。1978年(昭和53年)から帝塚山短期大学の学生サークル「田楽同好会」の女子学生により演じられてきた。1998年、同短大の規模縮小によって「田楽同好会」の活動が困難になることを見越した同好会長が、帝塚山大学の教授の森永道夫(大学院人文科学研究科長・演劇学)を訪問し、大学で活動を継承する運びとなった。それにより、1999年(平成11年)、森永を顧問として、帝塚山大学において学生同好会(のちに学生サークルに昇格)として「田楽座」が設立され、同短大の「田楽同好会」の活動を引き継いだ。「田楽座」の立ち上げの実務には大学院生があたり、森永の講義を受けた大学院生・学生らをメンバーに募った。踊り手は女性に限られたが、男性も提灯持ちなどの役で行事に参加した。宵山の7月16日と山鉾巡行・神幸祭の7月17日は八坂神社境内で奉納し、7月24日は花傘巡行の行列に参加した後、八坂神社境内でも奉納していたが、鷺舞と同様に、2006年(平成18年)の祭礼を最後に断絶した。
7月24日の花傘巡行に久世六斎保存会が参加している。
1974年(昭和49年)まで、神輿渡御にあたって六原弓矢町が弦召(つるめそ)という武者行列を出していた。甲冑を纏い、頬当をつけて顔を隠し、腰に綿入りの太い紐を結んだ姿で、中世まで祇園社の役人として洛中に威をふるった犬神人の伝統を継承したものであった。戦後は、地元の旧家の中学生ぐらいの世代の男子が参加していた。現在は神輿渡御期間に、地元の旧家で甲冑の陳列が行われている。
江戸時代初期まで女性が参加していたことを示す資料が残っているが、江戸時代中期以降は女人禁制とされてきた。これは女人禁制を解いて女性が鉾に登った際に鉾が倒れて怪我人が出たり巡行不可能になったことが何度かあったためとされる。現在も、ほとんどの山鉾は巡行時の搭乗者や曳き手の女人禁制を守っている。宵山期間の鉾の拝観搭乗は女人禁制の解除が進み、現在は長刀鉾と放下鉾を除き女性も搭乗できる。また、女性の参加を希望する山鉾町(保存会)がいくつかあり、2001年(平成13年)に各山鉾町の判断で祇園祭山鉾連合会に届け出るという形で女性の参加を容認する方針が決まり、南観音山で2名・函谷鉾で3名の女性囃子方の巡行参加が認められた。
なお、女性のみによる祇園祭参加を目指して、1996年(平成8年)に「平成女鉾清音会(へいせいおんなぼこさやねかい)」が結成され、囃子方ばかりでなく自前の鉾を建造するなど、活発な活動を続けている。しかし「平成女鉾」の山鉾巡行への参加は、前例のない新規の鉾であることや、地元となる町内会・寄町がないことなど、大きな問題がまだあることから、実現は困難である。
公益財団法人京都市文化観光資源保護財団と京都市文化財保護課による「京都の歴史と文化 映像ライブラリー」において記録映像が公開されている。
祇園祭のうち、とりわけ(広義の)山車、囃子といった山鉾巡行に関する要素は、これが都において町衆・町人階層が執り行う最も華やかな祭礼行事であるところから、その強い影響が全国各地の祭礼、とりわけ城下町などの町人が行う祭礼に広く伝播している。また、祇園祭という名称自体も、同祭神である牛頭天王やスサノオを祀る各地の社寺祭礼の名称として、また、単に夏祭りの名称としても全国各地で広く用いられている。
同一祭神を祭る祭礼や、祇園祭の影響が見られる祭礼を網羅的にここに列挙することは、その数があまりにも多すぎて現実的ではないので、ここでは、祇園祭という名称をもつ各地の祭礼の一部、および明らかに祇園祭の極めて強い影響を受けている各地の祭礼の一部を例示することとする。牛頭天王、スサノオを祀る祭礼については天王祭も参照のこと。また、祇園祭の具体的影響については、各地の祭礼の記事を参照のこと。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.