賀茂別雷神社
京都市北区にある神社 ウィキペディアから
京都市北区にある神社 ウィキペディアから
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区上賀茂本山にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り[1]、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。また、社報「上賀茂」が年2回発行されている。
創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま、賀茂山ともいう)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。
『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。天武天皇6年(677年)に社殿が建立されたとする。
国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。
延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。
江戸時代の寛永5年(1628年)には境内の一大整備が行われている。
明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次いで、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに官幣大社の筆頭とされ、1883年(明治16年)には勅祭社に定められた。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風の暴風雨により土屋、食殿が倒壊する被害を受ける[2]。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
境内には明神川が流れ、境内の外の南側にはかつての社家町が残っている。また、境内の外の北側には、御阿礼祭の日に斎王が入ったという神館の跡とその周辺・御生野があったが、太平洋戦争後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって日本で戦後最初の新築ゴルフコースである現在の京都ゴルフ倶楽部・上賀茂コースが作られてしまった。しかし、神館跡と御生野はコース内に取り込まれながらもなんとか残された。
1997年(平成9年)5月30日、日本会議が設立された際、当時明治神宮権宮司を務めていた田中安比呂(現・賀茂別雷神社宮司)は日本会議の理事長に就任した[3]。また、日本会議京都の会長も務めた[4]。
建造物
建造物(34棟)
|
|
(指定年月日)
美術工芸品
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.