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近国に属する令制国の一つ ウィキペディアから
尾張国(おわりのくに、をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。愛知県西部にあたる。
7世紀後半の木簡では尾張国と尾治国の二つの表記が見られる[1]。平安時代に作られた『先代旧事本紀』天孫本紀の尾張氏の系譜にも「尾治」とある。大宝4年(704年)に国印が鋳造されたときに尾張と定められたと推定される[2]。
『倭訓栞』には「尾張の國は、南智多郡のかた、尾の張出たるが如し、一説に小墾の義也」、 『古事記傳』には「尾張國、名義未思得ず」などと諸説があり、はっきりしない。
なお、古代の東海道は伊勢国から海路(伊勢湾)経由で三河国に伸びていたとする説もあり、初期の尾張国は東山道に属しており、後に交通の変化で東海道に属するようになったとする説もある[3]。
明治維新直前の領域は、現在の下記の区域に相当する。
易林本の『節用集』によると尾張国は肥沃(地厚土肥)な大上国と記されており、古代から須恵器や土師器などの焼き物生産が盛んであった。 その富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にして朝廷を支える律令国として成長した。
このうち神護景雲3年記事によると、当時の国府・国分寺・国分尼寺の位置は鵜沼川(現・木曽川)下流とされる[4][5]。 『日本紀略』元慶8年(884年)8月26日条では、尾張国分寺が焼失し、その機能を愛智郡定額寺の願興寺(現・名古屋市中区の尾張元興寺跡か)に移したと見える[4][注 6]。発掘調査においても、この焼失後の存続は認められていない[5]。
古代より引き続き水利工事が進められ(木曽川・長良川流域。隣国美濃国とともに耕地開発された)、国の面積は小さいながらも米の生産高は他国に比べ早くから向上した。
また、季範の養女(孫娘)は足利義康(足利氏初代)に嫁いでおり、足利氏にも血脈を伝えている(足利氏8代目が室町幕府を開く足利尊氏である)。
斯波氏の守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家(清洲織田氏)」と西軍についた「伊勢守家(岩倉織田氏)」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。 斯波氏は両者を巧みに操縦していたが、やがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。 「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし、織田信秀の代で躍進する。信秀は那古野城を今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げた。
信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、織田信長が家督を継ぐ。 信長は斯波氏を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。伊勢長島を占拠していた一向宗を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。
ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、三河国の徳川家康と同盟を結ぶ。
しかし様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功し、大義名分を喪った家康も撤兵する。豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。
そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年(慶長12年)に28歳で死去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。
尾張国は源頼朝・織田信長・豊臣秀吉という三人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、池田輝政、山内一豊、加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝、佐久間信盛、佐久間盛政、佐々成政、堀尾吉晴、浅野長政などが有名である。
徳川義直の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。
築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という将軍家に次ぐ格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は江戸時代の中期頃には三都に次ぐ大都市となった。
当時は、徳川吉宗による享保の改革の真っ只中で規制が厳しかったため、全国から文化人が名古屋に集まり、今日の芸どころ名古屋の基礎が築かれていった[8]。
こうした木工・時計技術は後に鉄道車両・飛行機・自動車などに利用され、名古屋のものづくり産業の原点となっている[8]。 その他、尾張藩は陶磁器を独占産業として位置付けたため、戦国時代末期には衰退していた瀬戸は陶磁器の街として復興している。
文化面では、この時に蓄えられた財力で建造されたとされるからくり人形が搭載された豪華な山車をひく祭りが、現在でも知多半島各地で行われている[10]。
ところが、相次ぐ飢饉や災害などの天災により赤字体質となっていく。
明治維新で中央集権国家が形成されると、名古屋市は明治政府による地方支配の拠点都市となり、現在に至っている。
なお名古屋城は、慶勝の提案で破却および金鯱の献上が申請された。
その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。その一方、城内に1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、太平洋戦争敗戦に到るまで主に兵器庫として活用された。このため米軍の名古屋大空襲で焼夷弾の直撃を受け焼失した。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなり、現在に至っている。
国府は中島郡に所在した。地名を手がかりに、次の2箇所が候補にあがっている。
天保15年の松下村絵図は「中嶋郡国衙庄松原郷松下村絵図」と称し、中央部に「赤染衛門城跡なり、今は国衙屋敷之宮ト唱」と記される[11]。
現段階では、発掘調査が不十分であるため所在地は明らかでない[12]。考古学・古代史学的には松下説が有力視されるが、中世頃の洪水により松下から下津(室町期には守護所も所在)に移転したと推測する説もある[12]。
なお『節用集』易林本では海部郡に「府」と記載されている。
そのほかの尾張の古代寺院としては長福寺廃寺(一宮市千秋町)、尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)、東畑廃寺(稲沢市東畑)、大山廃寺跡(小牧市野口)が知られる。
鎌倉時代の守護所の位置は不詳だが、将軍の宿泊地に必ず萱津が当てられ、守護はその接待をした事からその近辺だという説がある。
いつ頃からは定かでないが、室町時代には下津(稲沢市)にあった。
鎌倉時代は、『海道記』によると「(夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ。)市腋をたちて津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。(中略)萱津の宿に泊りぬ。」とあり、この当時、弥富市や津島市は、尾張国と見なされておらず、あま市甚目寺(萱津)辺りから尾張国であったと考えられている。
北隣の美濃国とは現在の木曽川の一部と境川あたり、長良川の一部を国境とした。氾濫により川の流路がしばしば変わり、紛争が起きることもあった。鎌倉時代には六波羅探題の管轄下で西国の扱いを受けていた。鎌倉時代におきた承久の乱によると尾張国の範囲は尾張九瀬で認識され、前渡、印食、墨俣などの渡しを境としていた。尾張国は愛知県よりは北と西に広かった。ただし、領国支配としては美濃国の土岐氏が管理していたことが多いために美濃国との記載が多い。戦国時代には多くが斉藤氏の支配下であったようだが、織田氏にとっては尾張川(現在の境川)と墨俣川(現在の長良川で羽島市小熊町より南)が尾張と認識されており天正14年までは尾張国として扱っている。木曽川は、豊臣政権時代の天正14年(1586年)に氾濫してほぼ現在と同じ流路を流れるようになった。天正14年(1586年)に木曽川が氾濫して流路をほぼ現在のものに変えたことをうけて、変更された木曽川の北岸と中洲を尾張国から美濃国に移した。現在の地図にあてはめると、北岸は岐阜県のうち境川と木曽川にはさまれた一帯、中洲は各務原市川島にあたる。該当するのは、岐阜市(旧柳津町の一部等)、各務原市(旧稲羽町の一部、旧川島町)と、羽島郡のほぼ全域(岐南町、笠松町)、羽島市のほぼ全域、海津市(旧海津町、平田町の大部分)である。「天正の大洪水」によって葉栗郡と中島郡、海西郡が新しい木曽川によって分断され、新流路西岸は美濃国に編入された。古事類苑によると豊臣秀吉の意向であったことが記載されている。そのため、愛知県側と岐阜県側に同じ地名が今もいくつか残る(例:愛知県一宮市東加賀野井と岐阜県羽島市下中町加賀野井。愛知県一宮市浅井町河田と岐阜県各務原市川島町河田。字は異なるが、愛知県一宮市木曽川町三ツ法寺と岐阜県羽島市正木町光法寺。) 現在の愛知県西部にありながら上記の国境変更後の尾張国に属さなかった地区に、現在の稲沢市祖父江町の一部、一宮市東加賀野井、一宮市西中野などがある。これは令制国の廃止後に、市町村の境界変遷で所属する県が移ったものである。
江戸時代では尾張国と美濃国の多くの地域は、尾張藩が中心となり細かく分割されて管理された。
『古事類苑』では、尾張国内には69郷が存在することが記されている。
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江戸時代には尾張守を称した例は無い。理由としては、尾張守を称した陶晴賢(大内氏家臣)や松田憲秀(後北条氏家臣)が主家を滅ぼしたため忌避されたという説、御三家筆頭である尾張徳川家に遠慮をしたという説、読みが「終わり」と同じで縁起が悪いとの説、などがある。
瀬戸市、尾張旭市、日進市、豊明市、大府市、東海市、知多市、常滑市、小牧市、犬山市、江南市、岩倉市、稲沢市(祖父江町の一部除く)、津島市、愛西市(木曽川西岸の一部除く)、弥富市(鍋田川流域の一部除く)、あま市、北名古屋市、清須市、長久手市、愛知郡東郷町、知多郡東浦町、阿久比町、武豊町、美浜町、南知多町、丹羽郡大口町、扶桑町、西春日井郡豊山町、海部郡飛島村、大治町、蟹江町
現代でも、「尾張」を地域名として用いることがあり、その場合以下のような異なる範囲が参照される。
現在では、名古屋から東海地方、近畿地方(大阪市など)、関東地方(東京都など)や北陸地方(富山市など)への道路や鉄道の路線が分岐しており、交通の要衝となっている。
平成の大合併において、尾張東部に属する自治体では市町村合併が行われなかった。対して、尾張西部に属する自治体では市町村合併が相次ぎ、清須市、弥富市、愛西市、北名古屋市、あま市が新たに成立した。
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