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寛平9年(897年)醍醐天皇の大嘗会に際して中宮・藤原穏子の御給により従五位下に叙爵し、昌泰3年(900年)尾張権守に任官する。中務少輔・勘解由長官を務めた後、延喜16年(916年)左衛門佐、延喜17年(917年)左近衛権少将、延喜19年(919年)左近衛少将と、醍醐朝中期に弁官を歴任した兄・時望と対照的に、伊望は武官を歴任する。
延喜21年(921年)正月に兄の時望と同時に従四位下に叙せられると、3月には蔵人頭に任ぜられる。延長3年(925年)少将を辞して中宮権大夫に遷ると、没するまで15年近くの長きに亘って中宮・藤原穏子に仕えた。延長5年(927年)参議に任ぜられ、兄の時望に先んじて公卿に列す。
議政官として、中宮(権)大夫のほか民部卿などを兼帯し、承平2年(932年)正四位下に昇進した。承平4年(934年)には、3月に皇太后・藤原穏子の御賀により先任の参議であった源清蔭・橘公頼を越えて正四位上に叙せられると、12月には従三位・中納言に昇進している。承平6年(936年)新国史編纂のために撰国史所が設置されると、藤原恒佐とともに別当に任ぜられる。
天慶元年(938年)右大臣・藤原恒佐と大納言・藤原扶幹が相次いで没し、時望は大臣に並ぶ藤原北家嫡流の藤原忠平・仲平兄弟に次いで太政官の第三位の席次を占め大納言に昇る。天慶2年(939年)11月16日薨去。享年59。最終官位は大納言従三位民部卿中宮大夫。
『公卿補任』による。
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