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平安時代前期の公卿。桓武平氏。平高棟の三男。従三位・中納言、右近衛大将 ウィキペディアから
平 惟範(たいら の これのり)は、平安時代前期の公卿。桓武平氏、大納言・平高棟(高棟王)の三男[1]。官位は従三位・中納言。
貞観16年(874年)三世王の蔭位により従五位下に直叙され、蔵人に任ぜられて清和天皇の退位までの3年間天皇の身近に仕える。翌貞観17年(875年)皇太后宮権亮にも任ぜられ、以降清和・陽成・光孝・宇多四朝の30年近くの長きに亘って、清和天皇の母である皇太后・藤原明子にも仕えた。この間、元慶元年(877年)従五位上、元慶4年(880年)正五位下、仁和2年(886年)従四位下、寛平6年(894年)従四位上と順調に昇進する。また、仁和4年(888年)には前年即位したばかりながら、天皇親政に意欲を見せる宇多天皇の要請を受けて、封事七ヶ条を奏上している[2]。
醍醐朝の延喜2年(902年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として大蔵卿・左兵衛督を兼帯し、この間の延喜4年(904年)正四位下に昇叙されている。延喜8年(908年)従三位・中納言に叙任され、翌延喜9年(909年)右近衛大将を兼ねるが、同年9月18日薨去。享年55。最終官位は中納言従三位右近衛大将。
学識に優れ、醍醐天皇の命により貞観から延喜年間までの詔勅類をまとめた『延喜格』の編纂に参画した。
漢詩にも通じ、宇多朝の仁和4年(888年)に画師・巨勢金岡が御所の障子に当代の優れた漢詩人を描いた際、惟範もそのひとりに選ばれている[3]。また、翌寛平元年(889年)に行われた残菊宴で詠んだ漢詩作品が伝わっている[4]。
注記のないものは『日本三代実録』による。
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