平正範
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経歴
清和朝前半に左近衛将監を務め、在職中の貞観9年(867年)に従五位下に叙爵すると、翌貞観10年(868年)近江権介に任ぜられる。
のち、従五位上・右近衛少将兼播磨権介に叙任され、陽成朝の元慶3年(879年)正五位下に叙せられる。元慶7年(883年)渤海客使を郊労するために山城国宇治郡山階野に派遣されている[1]。
元慶8年(884年)光孝天皇が即位すると、従四位下・蔵人頭に叙任される。しかし、翌元慶9年(885年)阿波権守に任ぜられて右近衛少将を解かれるが、翌仁和2年(886年)には右近衛中将を兼ねた。
宇多朝にて従四位上・左近衛中将に至ったともされる。
官歴
注記のないものは『日本三代実録』による。
- 時期不詳:正六位上。左近衛将監
- 貞観9年(867年) 正月7日:従五位下
- 貞観10年(868年) 正月16日:近江権介
- 時期不詳:従五位上。播磨権介
- 貞観16年(874年) 2月29日:右近衛少将[2]
- 元慶3年(879年) 11月25日:正五位下
- 元慶8年(884年) 2月23日:従四位下。6月:蔵人頭[3]
- 元慶9年(885年) 正月16日:阿波権守、止右近衛少将[2]
- 仁和2年(886年) 正月16日:讃岐権守。2月21日:木工頭、讃岐権守如故。6月19日:右近衛中将
- 仁和3年(887年) 8月26日:辞蔵人頭(光孝天皇崩御)[2]
- 寛平2年(890年) 正月28日:罷右近衛中将?[2]
- 時期不詳:従四位上。左近衛中将[4]
脚注
参考文献
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