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平安時代初期から前期の公卿。嵯峨第二源氏、源弘流の祖。正三位・大納言 ウィキペディアから
源 弘(みなもと の ひろむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の皇子(嵯峨第二源氏)。官位は正三位・大納言。広幡大納言と号す。
弘仁5年(814年)に兄弟の信・常とともに源朝臣姓を賜与され臣籍降下。淳和朝の天長5年(828年)无位から従四位下に直叙され、天長7年(830年)従四位上・宮内卿に叙任される。
仁明朝初頭の承和元年(834年)正四位下に叙せられると、仁明朝では治部卿・刑部卿等を歴任し、承和9年(842年)に同い年の弟・常に遅れること10年にして参議となり公卿に列す。議政官として治部卿・左大弁を兼ねたのち、承和14年(847年)従三位、嘉祥元年(848年)中納言と昇進した。また、同年水害により流失した山崎橋の修復のために安倍安仁・滋野貞主・伴善男らとともに現地へ派遣されている[1]。
その後、官途では弟の定や安倍安仁の後塵を拝すが、仁寿元年(851年)正三位に叙せられ、清和朝初頭の貞観元年(859年)には大納言に至った。貞観5年(863年)正月25日に当時流行していた咳逆病によって、弟の定と相前後して没した。享年52。最終官位は大納言正三位。
性格は温厚で仁愛の心が深かった。政務に通暁しており決断力もあった。
幼い頃から明敏で経書や史書を好んで読んだ。嵯峨天皇の皇子の中では最も好学心があり、天皇から特別に経書を賜与されるなど、他の皇子と比べて家には非常に多くの賜与された書籍があったが、読書に倦むようなことはなかったという。管弦も好み、公事を終えて退庁したあとは、琴や読書を楽しみとしていた。また、隷書にも秀でた[2]。漢詩人として『経国集』に漢詩作品が採録されている。
注記のないものは『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
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