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平安時代初期から前期の公卿。嵯峨第六源氏。正三位・大納言、贈従二位。 ウィキペディアから
源 定(みなもと の さだむ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。嵯峨天皇の子(嵯峨第六源氏)。淳和天皇の猶子。官位は正三位・大納言、贈従二位。四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)、楊梅大納言と称される[2]。
幼少より父・嵯峨天皇から寵愛を受け、退位後に叔父・淳和天皇の猶子となる。淳和天皇からも実の皇子以上に寵愛を受け、天皇の寵姫・永原原姫をもって母として養育させたことから、世上「定には二父二母あり」と称された。天長4年(827年)淳和天皇は定を親王にすることを、奉書により嵯峨上皇に請うが、受け入れられなかった[3]。
天長5年(828年)源朝臣姓を賜与され、天長8年(831年)元服する。淳和朝末の天長9年(832年)には従三位に直叙されるとの特別な待遇がなされ、18歳で公卿に列した。翌天長10年(833年)仁明天皇の即位後に参議に任ぜられ、仁明朝では中務卿を長く務めた。承和7年(840年)養父の淳和上皇が崩御すると服喪のため参議を辞し、承和9年(842年)にも実父の嵯峨上皇崩御の服喪のため一時的に官職を辞している。承和14年(847年)再び参議に復任する。仁明朝末の嘉祥2年(849年)中納言に昇進した。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の践祚後まもなく正三位に昇叙される。仁寿2年(852年)15年近く務めた中務卿から右兵衛督に遷ると、翌仁寿3年(853年)左兵衛督と、文徳朝では武官を兼帯した。
天安2年(858年)清和天皇の即位後まもなく右近衛大将に任ぜられ、翌貞観元年(859年)には大納言に至る。貞観5年(863年)正月3日薨去。享年49。最終官位は正三位大納言兼右大将。即日従二位を追贈された。
「深宮の内に養長して未だ嘗て世俗の艱難を知らず」と評され、性格は温雅であった。音楽を愛好し、座右に鼓鐘を置いて、退庁の後は自ら弾じて楽しんだという。容姿は背が高く堂々としていた[3]。
注記のないものは『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
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