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嵯峨天皇の皇子・皇女を祖とする氏族 ウィキペディアから
源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、嵯峨源氏はその最初の一つで嵯峨天皇から分かれた氏族である。
嵯峨天皇には23人の皇子がいたとされるが、そのうち17人の皇子が臣籍降下して源氏を称した。また、数人の皇女も臣籍降下して源姓を称した。それらの中でも源融の後裔で地方に土着して武家(軍事貴族)となった系統が著名で、渡辺氏(赤田氏・瓜生氏)などをはじめ、鎮西地方の松浦氏、蒲池氏、奈良原氏なども嵯峨源氏流と称した。
嵯峨源氏の氏人はほとんどが好字を用いない一字名だが、源是茂やその弟の源衆望のような二字名の氏人もいる。是茂・衆望の実父は源融の子の源昇だが、是茂は光孝天皇の養子に、衆望も光孝天皇の子である源是恒の養子となったために一字名を称さなかった。
弘仁5年(814年)嵯峨天皇が自らの多くの皇子女が皇族として封戸を支給されて官庫の負担となっていることから、まだ親王号を与えていない皇子女に朝臣姓を与えて臣籍降下させ、公務に従事させることを詔した[2]。これにより、源信・源弘・源常・源明の4皇子と、源貞姫・源潔姫・源全姫・源善姫の4皇女が源朝臣姓を与えられて左京に貫附されたのを始まりとする[3]。結局、嵯峨天皇の皇子17名・皇女15名が源朝臣姓を与えられて臣籍降下した[4]。
淳和朝の天長8年(831年)正月に第三源氏の常が従三位に、7月に第一源氏の信が参議にそれぞれ叙任されて公卿に列すと、以降、嵯峨源氏の兄弟は一世源氏として順調に昇進する。承和7年(840年)常が20歳代で右大臣に昇ると、仁明朝から宇多朝にかけて常・信・融が相次いで左大臣を務めたのを始め、弘・明・定・生・勤も公卿に昇るなど、平安時代初期から前期にかけて藤原北家と並んで朝廷の一大勢力をなした。
二世源氏も融の子で大納言まで昇った湛と昇のほかに希・悦・直・舒が公卿に昇る。しかし、三世以降で上級貴族であり続けた例はほとんどなく、公家としては後世に子孫が伝わらなかった。なお、昇の子孫が地方に下って武家となり、渡辺氏・蒲池氏などの子孫を伝えている。
嵯峨源氏において子孫を長く伝えたのは源融の流れを汲み、地方に下り武家となった融流嵯峨源氏である。
著名な嵯峨源氏姓の人物に関しては、嵯峨源氏の人物一覧を参照。
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