戦艦
軍艦の艦種の一つで、軍艦の中では最も強力な艦砲と堅牢な装甲を備える ウィキペディアから
軍艦の艦種の一つで、軍艦の中では最も強力な艦砲と堅牢な装甲を備える ウィキペディアから
戦艦(せんかん、英: battleship)とは、軍艦の艦種の一つで、大規模な砲撃戦で強力な相手に打ち勝つことを目的に設計され、軍艦の中でも最も強力な艦砲と堅牢な装甲を持つ。
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砲撃戦主体の大規模な海戦の勝敗が戦争の帰趨を決めた時代の主力艦を務めるために19世紀末に誕生し、20世紀半ばまで列強国で競って建造された。
第二次世界大戦頃までは、各国の軍事力の象徴的存在であり、世界のパワーバランスを左右する戦略兵器と見なされた。
しかし第二次世界大戦では航空戦力の優位性が実証され、艦隊の主役の座を大型航空母艦に譲った。第二次世界大戦後は、戦艦は運用機会や存在意義自体が失われてしまい、実戦投入された戦争も1991年の湾岸戦争でアメリカ海軍がアイオワ級戦艦を投入した以降なく、2006年までに戦艦と呼称される艦は全て退役、除籍済みで運用する国はない。
軍艦の艦種としての戦艦は、その強力な主砲の火力による攻撃力と堅牢な防御力により、敵艦船の撃滅を主任務とした。多数の大口径砲を搭載し、また基本的には自艦の最大口径砲弾が命中しても耐える装甲を装備した。そのため極めて大型となり、第二次世界大戦までは、巡洋戦艦、大型航空母艦に並ぶ最大の軍艦だった。
戦艦は、高価かつ当時の先端技術が結集した兵器であるため、戦艦や巡洋戦艦といった主力艦の大規模な艦隊を編成して維持する国は、豊かで科学力に優れた列強国に限られた。戦艦が出現した19世紀後半から20世紀半ばにかけては、戦艦の保有隻数などが国力のシンボルとされ、政治・外交の局面でも重視された。より大口径の砲を備えた、強力な戦艦を持つ国が有利とする当時の各国海軍の戦術思想を大艦巨砲主義という。
しかし第二次世界大戦においては、タラント空襲や真珠湾攻撃、マレー沖海戦など航空機が戦艦を撃破した事例が重なり、大艦巨砲主義の終焉と航空機の重要性が実証された。これにともない海軍の主力艦は大型航空母艦へ移行し、戦艦は決戦兵器としての座を失った。第二次大戦後においては、新兵器であるミサイルが艦砲に変わる存在となると更にその価値を損なった。東西冷戦期には大規模な艦隊同士の海戦などもなく、もはや過去の存在となった戦艦は、各国とも順次退役し、除籍されていった。
現在では、本格的な戦艦を現役艦として運用する国はない[注釈 2]。しかしアメリカ、イギリス、日本などでは、かつて活躍した戦艦が記念艦や、記念施設として保存され、かつての栄光を今に伝えている。
戦艦が登場する以前、海戦において主力艦としての地位を占めたのは、17世紀に出現した木造戦列艦(ship of the line)で、舷側に多数の大砲(舷側砲)を搭載し、18世紀半ばには60門を超える砲を3層甲板に備えた(なお上甲板は帆走のための帆装が占めた)。戦列艦の艦隊は単縦陣の戦列を作り敵艦へ砲火を浴びせた。当時の海戦では砲撃によって沈没に至ることは少なく、砲撃や切り込み隊で航行・戦闘能力を奪った後に捕獲するのが一般的だった。
19世紀になって、大砲および炸裂弾の威力が向上すると、広い舷側を持つ戦列艦は多数の敵砲火を浴び、脆弱性が無視できなくなった。1853年から始まったクリミア戦争では、敵からの炸裂弾が舷側に命中すると破壊された木材破片が艦内に広く飛び散り、戦闘員の死傷が相次ぐことが問題となった。
そこで戦列艦より小型で、乾舷の低いフリゲートに舷側の装甲防御を施した装甲艦[注釈 3](甲鉄艦)考案された。
フランスでは戦艦の始祖とされる装甲艦「グロワール」(Gloire)がこれに基づき誕生した(1859年に進水)。この艦は、木造船体の舷側に最厚部119 mmの装甲を装着し、舷側に16cm砲30門を装備した機帆兼用艦である。
イギリスはこれに対抗し、1860年に鉄製船体を持つ「ウォーリア」(Warrior)を進水した。この艦以降、装甲艦は徐々に、汽走専用化、船体大型化、大砲大型化、舷側砲から甲板上の砲塔式への移行、装甲強化が進み、後に戦艦へ発展する。
1886年に竣工したイギリスのコロッサス級装甲艦は後装填式連装30.5cm砲2基(計4門)と鋼鉄製船体を持つ。後装填式施条砲により砲撃威力と命中精度が向上した。
1892年に竣工したイギリスの「ロイヤル・サブリン級戦艦」(Royal Sovereign)型は、中心線上の船体前後部に露砲塔一基ずつを持ち、連装34.3cm砲の計4門の主砲は左右両舷へ支障なく指向できた。また最厚部457 mmの装甲を舷側水線部に装着し、凌波性に優れた高乾舷を持ち、近代戦艦のはじめとされる。
1895年に竣工したイギリスの「マジェスティック」(Majestic)型は、2基の連装砲塔を全面装甲式とし、強靭で軽量のハーヴェイ・ニッケル鋼装甲を採用し、舷側も中甲板の高さまで装甲で覆った。従来よりも優れた貫通力を持つ30.5cm連装砲を主砲に採用した(BL 12 inch Mk VIII naval gun:発射薬改良(コルダイト)により砲が強力化・小型化された)。
以後、これが、近代戦艦の基本形態とされ(ただし後に弩級戦艦の出現以降は前弩級戦艦と呼ばれた)、強国では多数の近代戦艦をそろえた艦隊を作るようになった。また、多くの海軍国で、戦艦の「定義」を、暗黙ながら、
と考えるようになった。しかし後に政治的事情や金銭的・環境的事情からこれに当てはまらない艦もあった。
戦艦の初期戦術は近距離戦であり、近距離戦に適した多数の副砲で敵艦上部構造へ榴弾を浴びせ戦闘力を奪いつつ、発射速度が劣る主砲はその間に水平射撃で舷側水線部の装甲を実体弾・徹甲榴弾で撃ち抜き大浸水・沈没をもたらす戦術であった。しかし戦艦の装甲の進歩は徹甲弾の貫通性の進歩に劣らなかったため、主砲弾が命中しても貫通を許さないことが多かった。
その後、主砲の発射速度と遠距離砲撃能力の向上が進められ、優速の艦隊の単縦陣を組むことにより、遠距離から短時間で多数の主砲弾を敵艦へ命中させることが可能となった。
日露戦争は鋼鉄艦同士による初めての本格的な海戦がほぼ遠距離戦で行われた。最大の海戦だった日本海海戦では優位な位置を占めて並航した日本海軍戦艦は遠距離戦による激しい砲撃戦の開始直後から多数の主砲弾をロシア戦艦へ命中させた。ロシア戦艦は舷側水線部を撃ち抜かれ予測に反し浸水による沈没が相次いだが、日本海軍戦艦は多数の被弾に耐えた。加えて、日本海軍は戦艦の主砲で遠距離から合わせて榴弾も射撃し敵艦の上部構造を破壊し急速に無力化する戦術も採用した。沈没を免れたロシア戦艦も戦闘力を喪失しており最終的に全て降伏した。
列強は日露戦争の戦訓を取り入れ、遠距離戦を想定し、主砲の攻撃力を重視する戦艦の改良を図った。この戦訓を最も早く取り入れた英国は、従来艦の倍以上の主砲を片舷に指向できる戦艦ドレッドノート(Dreadnought)を日本海海戦の翌年に竣工させた。この戦艦は従来の同規模の戦艦と比べて、高速航行可能で2倍以上の火力を備えるため海戦において有利となり、それまでの世界の全ての戦艦は一挙に旧式化した。 そのため、これ以前の戦艦(計画・建造中、竣工・就役直後の戦艦を含む)を前弩級艦、同程度の性能を有する戦艦を弩級艦として区別する。ここでいう「弩」とは、ドレッドノートの頭文字である。
また戦艦ドレッドノート登場の直後に、同じ英国では、戦艦並みの火力と、巡洋艦並みの速度をあわせもつ艦として、巡洋戦艦が登場した。このイギリスの巡洋戦艦は、概念・任務としてはほぼ巡洋艦のままであり、戦艦級の装甲防御力は持たなかった。これに対し、ドイツで対抗して建造された巡洋戦艦は、巨砲の搭載を追求しない代わりに、装甲防御力を重視し、イギリスの巡洋戦艦隊との交戦にも有利となるように設計された。
第一次大戦になると、砲弾の徹甲性能向上およびさらに遠距離砲撃による大落下角射撃[注釈 4]と、短時間に多数の徹甲榴弾の砲撃を行い、敵艦の水平防御を撃ち抜き内部で爆発させる戦術が発達した。対策として砲塔および甲板全体にわたる厚い水平防御も必要となった。
第一次大戦の最大の海戦であるユトランド沖海戦においては、英独両国の高速の巡洋戦艦隊同士の激しい撃ち合いとなったが、主力である弩級戦艦隊は戦場への急行が遅れ気味となり全力を挙げての決戦には至らなかった。加えて、砲塔などバイタルパートの装甲を貫徹されたイギリスの巡洋戦艦が、弾火薬庫の誘爆で轟沈する事例が相次いだ。
このユトランド沖海戦の戦訓は、「戦艦は速度が不足し、巡洋戦艦は防御力が不足している」と認識された。以降建造された戦艦は高速化と航続性能が向上され、巡洋戦艦の防御力は当初より大幅に向上し、やがて両者の区別がつかないまでに発展していく。そのような戦艦の防御力と巡洋戦艦の速度を兼ね備えようとした艦を、「高速戦艦」(ポスト・ジャトランド型)と呼ぶ。
しかし加熱する建艦競争によって起きた前弩級戦艦、弩級戦艦、巡洋戦艦、高速戦艦という目まぐるしい軍艦の発達について来られる国は少なくなっていった。第一次世界大戦より後に新造戦艦を就役させることができたのは、アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアだけだった。
より大型に、より高性能になっていく戦艦は、建造費も高騰していき、もともと砲撃戦に特化しているが故に汎用性に欠け、戦艦同士の戦闘以外に容易に投入出来ず、融通のきかない使い勝手の悪い艦になっていった。機雷、魚雷(を搭載する水雷艇・駆逐艦)、そして潜水艦というより安価な兵器が、次第に戦艦の脅威となっていく。そして航空機の登場が、戦艦にとどめを刺すことになる。第一次世界大戦は航空機が軍事に導入された初めての戦争でもあり、以後の海軍は航空兵力に護衛された艦隊ないし航空兵力による単独攻撃という新しい局面に対応することになる。第二次世界大戦においては、水上艦は航空戦力に対して単独では対抗できないことが明らかになる。航空戦力の優位性を世界に初めて知らしめたのはイギリスによるイタリア・タラント空襲と日本による真珠湾攻撃である。これらは停泊中の艦船に対する攻撃であるが、日本がマレー沖海戦において戦闘航行中の戦艦(イギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と僚艦「レパルス」)を航空戦力のみで撃沈して航空機の有用性を確固たるものにした。その後の海戦における戦艦の行動は、自国の航空部隊の掩護下(アメリカ海軍)または航空機の活躍出来ない夜間(レイテ沖海戦の西村艦隊)などに限定されるようになり、やがて戦艦は消えていくことになる。また、ドイツ軍の誘導滑空爆弾フリッツXによるイタリア海軍のローマ (戦艦)撃沈は、将来格下の巡洋艦以下の艦艇にも搭載可能になるであろう誘導対艦ミサイルで戦艦の主砲射程外から戦艦を撃破可能であることを予感させた。アメリカ海軍のみは、巡航ミサイル搭載等の近代化改修を施した上で、上陸支援目的で長く戦艦を使い続けたものの、もはや戦艦を新造することはなくなった。遅れて巡洋艦も減勢し、戦艦を直接無力化した空母はジェット機搭載のために巨大化して米国以外では減勢し、その後は巨大化した駆逐艦(後述の初期戦艦より大排水量化しつつある)以下の水上戦闘艦や、戦艦の終焉と相前後して現れた水上艦連続任務期間と同等の連続潜水任務期間に達する原子力潜水艦を含む潜水艦と、ターボファン化と空中給油の実用化で搭載量や航続距離が増した軍用機や、誘導能力を得たミサイルが、かつて戦艦が行っていた戦術(制海・哨戒・沿岸攻撃)・戦略(戦略核兵器や砲艦外交)任務の多くを引き継いだ。
日本では、明治初年の海軍創設時から日清戦争あたりまで、フランス製装甲艦「東」を「甲鉄」と呼称していたことから、装甲艦を砲塔甲鉄艦と呼んでいた。
1894年、富士型2隻(1897年竣工の富士、八島)をイギリスに発注するに当たり、排水量1万トン以上の艦を「一等戦艦」、1万トン以下の艦を「二等戦艦」と正式に定めた。日露戦争終戦後まもなく、等級を廃して「戦艦」という艦種が定められた。
日露戦争で活躍した戦艦「富士」(1897年竣工、イギリス製、12,533t、30.5cm砲4門)は、ロイヤル・サブリン級戦艦を原型とし、マジェスティック級戦艦で採用された全面装甲式砲塔にフォーミダブル級戦艦で採用された30.5cm砲を収めた。また、日本海海戦時の連合艦隊旗艦「三笠」(1902年竣工、イギリス製、15,140t、30.5cm砲4門)は、カノーパス級戦艦で採用されたクルップ鋼を用いて装甲強化を行った。
初期の戦艦は、排水量1万-1万5千t、24-34cm(30.5cm=12inが最も多かった)の主砲4門を搭載し14-19ノットの速度だった。この頃、戦艦を建造していたのは、イギリス、フランス、ドイツ帝国、アメリカ、イタリア、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国の7カ国。
日本は日露戦争の前にイギリスから6隻の戦艦を購入した。日本以外にも戦艦を他国から購入した国は、隣国間で紛争の多かったトルコとギリシャ、南米で競争関係にあったアルゼンチン、ブラジル、チリ。海軍復興に邁進するスペイン。ヨーロッパ諸国に対抗するため北洋艦隊等の近代的海軍を創設した中国清朝である。
これらの戦艦は砲戦距離数千mでの目視による直接射撃を想定して建造されていた。
世界で最初に戦艦同士の本格的な戦闘が行われたのは、1904年の日露戦争だった。日露戦争の初期の黄海海戦には、日本の連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦2隻とロシア第一太平洋艦隊(旅順)の6隻の戦艦が対戦し、翌年の日本海海戦では、日本の連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦8隻と、ロシア第2及び第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)の戦艦8隻他が対戦した。いずれも日本の連合艦隊の勝利に終わった。黄海海戦では逃走するロシア艦隊と追いかける日本艦隊の間で、距離1万m以上の遠距離砲戦が起こった。
日露戦争での黄海海戦と日本海海戦(1905年)の戦訓から、戦艦の主砲による遠距離砲撃力が海戦の雌雄を決すると認識された。これを受けて1906年に主砲の門数を倍以上に増やし、主砲だけで戦うという画期的な建艦思想に基づいて設計された戦艦「ドレッドノート」(Dreadnought、18,110t、30.5cm砲10門)」が英国で建造された。ドレッドノートの出現により、それ以前に建造された戦艦だけでなくイギリスを含めた建造中の戦艦までもが一挙に時代遅れとなった。ドレッドノート以前の戦艦は前弩級戦艦(pre-dreadnoughts)と呼ばれる。これ以後各国で建造される戦艦は「ドレッドノート」に準じた「弩級戦艦」(ド級戦艦、dreadnoughts)となり、列強国の保有戦艦は前弩級から弩級への転換を迫られた。このドレッドノートの出現により世界各国の列強の海軍のパワーバランスが崩れたことを「ドレッドノート・ショック」と呼ぶ。中小国の海軍は無理をしながら戦争抑止力として、1-3隻の弩級または超弩級戦艦を購入した。
「ドレッドノート」完成のわずか6年後に、弩級戦艦を大きく上回る攻撃力を有するオライオン級戦艦(1912年、22,200t、34.3cm砲10門)がイギリスで誕生した。弩級戦艦より強力な火力を持つことから「超弩級戦艦」(super dreadnoughts)と呼ばれた(この新たな大口径主砲および中心軸上の砲塔配置を採用)。これにアメリカが35.6cm砲戦艦を、フランスが34cm砲戦艦を整備し、イギリスから巡洋戦艦「金剛」を購入した日本も以後は35.6cm砲戦艦「扶桑型」「伊勢型」を整備し始めて超弩級戦艦時代が到来した。
また、列強以外ではチリ海軍がアルゼンチン・ブラジルに先駆けて「金剛」と同じく35.6cm砲を搭載する戦艦「アルミランテ・ラトーレ級」2隻(1915年、28,600トン、35.6cm砲10門)を発注し差をつけた。また、ブラジルやギリシャやトルコも超弩級戦艦の建造を列強に発注するが資金難や大戦の勃発などの事情により建造依頼は取り消された。
こうした流れの中でも主砲の大口径化は進み、オライオン級の3年後には更に大口径の主砲を持つクイーン・エリザベス級(1915年、29,150t、38.1cm砲8門)がイギリスで完成。これ以降もより大きな艦体に、より大きな主砲を積む戦艦を建造する傾向が第一次大戦後にも続いた。これを「大艦巨砲主義」と呼び、日本の大和型(基準排水量:64,000t、46cm砲9門)がその頂点に達した。また英独日では、弩級戦艦や超弩級戦艦と同等の攻撃力を持つが軽防御高速力の巡洋戦艦も建造された。
第一次世界大戦では、当時世界第1位の戦艦・巡洋戦艦保有国家であるイギリスと、第2位のドイツが敵対した。大戦前からこの2国は激しい建艦競争を行っていた。だが戦艦・巡洋艦戦力で劣るドイツは艦隊保全を図ったため、大規模な海戦の機会はなかなか訪れなかった。ドイツのUボートによる通商破壊戦や、欧州から離れた戦線においてフォークランド沖海戦などの主力同士とは言い難い戦力での海戦が起きたのみであった。
1916年のユトランド沖海戦は、第一次世界大戦で最大、かつ唯一の本格的な主力艦同士の戦いであったものの、高速な巡洋戦艦同士の遊撃戦となり、主力の戦艦部隊が全力で交戦することなく終わった。英国艦隊は数的には優勢だったが、戦闘では英国巡洋戦艦「インヴィンシブル」(1908年竣工、17,373t、30.5cm砲8門)、「インディファティガブル」(1911年竣工、18,500t、30.5cm砲8門)、「クイーン・メリー」(1913年竣工、26,770t、34.3cm砲8門)の3隻が、砲塔などバイタルパートの装甲を貫徹され、弾火薬庫が誘爆・轟沈した。ドイツ側は巡洋戦艦「リュッツオウ」(1916年竣工、26,318t、30.5cm砲8門)が多数の被弾による浸水で航行不能となり放棄された。ドイツ巡洋戦艦は、イギリス巡洋戦艦に比べて防御力重視の設計と、優れた誘爆防止策により、高い抗堪性を発揮した。
イギリスは、ユトランド沖海戦後も変わらず、主力艦戦力では、ドイツを圧倒した。ドイツ艦隊は港に逼塞するようになる。イギリス海軍の海上封鎖により、輸入は途絶え、国民は飢餓状態に陥り、最前線への軍需物資輸送にも支障を来し、戦局は絶望的状況になっていく。戦争末期のドイツは起死回生を図り全艦隊で出撃しようとしたが、勝ち目のない戦いに出ることを厭う水兵たちがこれを拒否し暴動が発生し、ついにドイツは休戦に至ることになった。
第一次世界大戦の勝敗に最も決定的だったものとしてイギリス海軍による海上封鎖が挙げられる[1]。大戦後、各国は戦艦の建艦競争を始めた。
第一次世界大戦の終了直後には、ユトランド沖海戦の戦訓を取り入れた主力艦の熾烈な建艦競争が、残された大海軍国である米・英・日で始まった。日本においても戦艦による艦隊決戦構想により41センチ砲搭載の高速戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる「八八艦隊」の建造が計画されたが、1922年、ワシントン海軍軍縮条約が締結され、新規建造が制限されると、列強各国の建艦競争は一応の終息を迎えた。これを海軍休日(Naval Holiday)と呼ぶ。
ワシントン海軍軍縮条約においては建造中の未完成戦艦の廃艦が求められたが、ここに日本と諸外国との間で「陸奥」を完成艦として保有を認めるか未完成艦として廃艦するかの駆け引きも起こった。
同条約においては航空母艦の所有排水量にも各国ごとの枠が設けられたが、当時航空母艦はまだ生まれたばかりの艦種であり各国ともその枠に大きな余裕があったため、廃艦とした未完成の戦艦や巡洋戦艦を航空母艦に改装して完成させる例が見られ、その結果としてレキシントン級航空母艦や「赤城」、「加賀」、「ベアルン」といったそれまでになかった大型の航空母艦が生まれた。しかし当時はまだ航空母艦艦載機の攻撃力・航続距離など性能全体が低く、実戦で戦果を示す機会もなかったため航空母艦は補助的な艦として見られており、海軍の主力は引き続き戦艦であるとみなされていた。
1934年に同条約が破棄されるまでの間、各国は既存艦の近代化改装などで現有艦の質的向上に力を注いだが、欧州では敗戦後、造船能力を取り戻しつつあるドイツが1933年にポケット戦艦ドイッチュラント級を建艦したことと、ロンドン軍縮条約に参加しなかったことで1933年から新戦艦建造の権利をフランス・イタリアが得たことで、ドイツ・フランス・イタリア三国で建艦競争が勃発した。
フランスが「ダンケルク級」を造れば、イタリアは「コンテ・ディ・カブール級」と「カイオ・デュイリオ級」の近代化改装と「ヴィットリオ・ヴェネト級」の建艦に着手し、ドイツも「シャルンホルスト級」と「ビスマルク級」を造った。その後、ドイツ・イタリアの15インチ砲戦艦に対抗するためにフランスはダンケルク級の二番艦「ストラスブール」の重装甲化と正38cm砲戦艦「リシュリュー級」の建艦に踏み切った。ロンドン軍縮条約によって1937年まで新戦艦建造ができなかった英国は、欧州の中型戦艦対策に唯一速力で対抗可能な既存の巡洋戦艦「フッド」とレナウン級2隻の小改装により当座をしのいだ。
ワシントン条約の破棄後は、再び列強による戦艦建造が始まり、アメリカ合衆国のノースカロライナ級、サウスダコタ級やアイオワ級、イギリスのキング・ジョージ5世級、日本の大和型などの巨艦が建造された。また、再軍備宣言をしたドイツも前述の通りにダンケルク級への対抗としてビスマルク級を建造した。この時期に建造された戦艦は軒並み27ノット以上と速力も速く、のちに航空母艦を中心とした艦隊を編成する場合にも運用が可能だった。
軍縮条約によって保有数を制限された各国にとって、第二次世界大戦前の時点において戦艦は艦隊の華であるのみならず、国力そのものであり、その主力艦としての希少価値は史上例を見ないものであったが、いざ戦争が始まると、戦場の主役は既に航空機に移っていることが明らかとなった。
以上のことから艦隊における主力は航空機とそれを運用する航空母艦となり、戦艦の役割は制空権を確保した状態での陸上目標砲撃や空母機動部隊の防空支援といった副次的任務に移っていった。これは戦艦の主砲は大口径砲にもかかわらず機動力に優れていること、敵の攻撃目標として目立つ巨大な艦体と攻撃に耐えしのぐだけの防御力を持ち合わせていること、対空砲火の威力を増したVT信管の発明などの理由がある。実例としては以下のようなものがある。
太平洋では戦場の主役が空母機動部隊となった一方で、欧州では戦力の不均衡や燃料の枯渇により戦艦が活用された作戦は少ない。ただし、ドイツ戦艦ティルピッツがノルウェーに在泊し、敵水上艦艇と一度も砲火を交えることなく連合軍の援ソ船団に圧力をかけ続けた例など、戦艦が抑止力としてある程度機能した。
イギリスは1946年に「ヴァンガード」を、フランスは1950年に「ジャン・バール」を完成させ(既に戦前から起工されており、ジャン・パールは艤装中にもかかわらずカサブランカ沖海戦では砲台として戦闘に参加している)、戦後も国の威信と象徴を示すものであり続けた。しかし実用艦としては既に時代遅れになっており、就役期間の大半を予備艦として使われ、退役した。
アメリカと冷戦で対立したソ連海軍も戦艦「ノヴォロシースク」(旧イタリア海軍「ジュリオ・チェザーレ」)を運用していたが、1955年10月29日、セヴァストポリで事故(触雷)を起こして爆沈した。ソビエツキー・ソユーズ級戦艦の建造も中止され、純粋なソ連・ロシア製の超弩級戦艦が誕生することはなかった。
前記を例外として、第二次世界大戦以降はそもそも大規模な海戦それ自体が行われなくなったこともあり、戦艦の建造は行われなくなった。戦後、ソビエト連邦の台頭により冷戦が始まった頃には、ミサイルの実用化がなされ、主砲による艦隊戦は有効性を失ってしまった。旧ソ連はミサイルを主武装とする艦を大量に建造して、空母を主力とするアメリカに対抗し、ミサイル巡洋戦艦といえるキーロフ級ミサイル巡洋艦(実際、ジェーン海軍年鑑には巡洋戦艦として掲載)を就役させるに至るが、巨砲を主武装とする戦艦とは性格が異なる艦である。
また、チリ、ブラジル、アルゼンチンの3国は自国の戦艦を退役させた後、代艦としてブルックリン級軽巡洋艦を購入している。国の威信と象徴を表す艦としても戦艦は不経済と考えられ、巡洋艦でも十分であると考えられたのである。
しかし陸軍及び海兵隊が行う、水際上陸作戦支援には戦艦の砲撃力は依然有効であり、また、第二次世界大戦後に著しく発達したミサイルは、徹甲弾に対する防御を前提とした重装甲を持つ戦艦に対しては決定的なダメージを与えられないとされ、戦艦が再評価される場面もあった。アメリカは第二次大戦以降、朝鮮戦争ではアイオワ級の4隻すべてを、ベトナム戦争では「ニュージャージー」を現役復帰させ上陸作戦の支援に使用した。その後アイオワ級は予備役として保管(モスボール)されていた。1980年代のレーガン政権下で、「強いアメリカ」の象徴として三度、4隻とも現役に一時的に復役し、「ミズーリ」と「ウィスコンシン」は湾岸戦争で出動した。これらは最後の現役戦艦であり、トマホーク巡航ミサイルを搭載するなど近代化改装が施されていた。しかしあくまで大戦期の旧式艦の再利用であることが、戦艦の価値・使用法が限定的なことを示している。アイオワ級は劣化もあり、1990年代初頭には全ての戦艦が退役し、2006年までに全ての艦が除籍された。最後の戦艦であった「アイオワ」も現在はロサンゼルスの港にて記念艦として、余生を送っている。
このようにほとんどの戦艦は解体されていったが、一部の艦は艦種変更などを受けつつも各種試験・演習などで戦後もしばらくの間活躍した。砲術訓練艦となり、テリアミサイルの試験で運用されたニューメキシコ級戦艦の「ミシシッピ 」やドイツ海軍のブラウンシュヴァイク級戦艦で、第二次世界大戦後はソ連海軍に引き渡され標的艦となった前弩級戦艦「ヘッセン」(ユトランド沖海戦にも参加)が一例として挙げられる。これらは主砲を降ろすなどの改装を受けた。これらの艦は1960年ごろまで運用されていた。
純粋な戦艦とは異なるが、1990年代後半にアメリカ海軍でアーセナル・シップと呼ばれる艦の開発計画があった。アーセナル・シップは大量のミサイルを搭載し対地攻撃に活躍する艦となる予定だったため、アメリカ海軍はこれを『21世紀の戦艦』と銘打っていた。しかし、予算・世界事情の変化などで計画はほぼ立ち消え状態となっている。
主砲は戦艦を戦艦たらしめる最重要の武装である。敵艦を圧倒するために大きく高威力の砲弾をより遠くへより正確に発射する必要がある。砲の大きさは、メートル法で設計製作された大和型であれば「45口径46センチメートル砲」、ヤード・ポンド法で設計製作されたアイオワ級であれば「50口径16インチ砲」と表現するのが正確である。「○口径」が砲身の長さを表す口径長(後述)、「○センチメートル」または「○インチ」が「砲身内径≒砲弾直径」である。
メートル法で設計製作された砲であっても、砲身内径を、インチで表現して切りの良い数字に近づけるのが通例。例えば、メートル法の提唱国であるフランスの戦艦主砲は当然にメートル法で設計製作されているが、ダンケルク級は33センチメートル(約13インチ)、リシュリュー級は38センチメートル(約15インチ)である。
砲身の長さの表示については、「○口径」(○は砲身長を砲弾の直径で割った数字)と表し、これを口径長と呼ぶ。砲弾や発射薬などの諸条件が同じ場合、より長い砲身を用いて撃ち出す方が砲口初速を向上させるうえで有利となる。
1900年頃に各国海軍が有していた前弩級戦艦は、35口径12インチ(砲身長は420インチ=約11メートル)程度の主砲を連装砲塔に収め、艦の前後に1基ずつ(計4門)装備していた。その後、戦艦主砲は逐次巨大化し、日本の大和型の45口径46センチメートル(46センチメートル=約18.1インチ)砲(砲身長 20.7メートル)、アメリカのアイオワ級の50口径16インチ(16インチ=約40.6センチメートル)砲(砲身長800インチ=約20.3メートル)に達した。
発射する砲弾は、敵大型艦の強力な装甲を貫徹できるよう徹甲弾が主であった。徹甲弾は、弾体の大半が硬い特殊鋼でできており、内部の炸薬の量は少ない。初期には炸薬を持たない実体弾も用いた。徹甲弾の信管は砲弾が敵艦の装甲を貫徹した後、敵艦の内部で炸裂する遅発式である。砲弾重量は12インチ砲で400kg程度、16インチ砲で1トン前後、大和型の46センチメートル砲で1.5トン程度である。この砲弾を、1門辺り毎分2発程度、砲口速度800メートル/秒程度で、2万メートルから3万メートル先の敵艦に向けて撃つ前提であった[注釈 5]。遅発式の弾が水面に着弾すると水中に潜った後に爆発し高い水柱を生じ、着弾点の観測に用いた。
徹甲弾の他に、無装甲の目標(駆逐艦、輸送船、地上目標など)を射撃するための榴弾も搭載した。榴弾は、内部の炸薬が徹甲弾より多く、命中と同時に作動する瞬発信管を装備する。なお、日本海軍は戦艦の主砲を対空戦闘にも使う想定で、零式通常弾や三式通常弾といった特殊な対空砲弾を開発し、太平洋戦争の実戦で使用した。日露戦争時の日本海軍は対戦艦射撃に榴弾も併用することにより一定の効果を上げた。
大砲の威力は、砲弾の材質・構造・炸薬量が同等であれば、撃ち出す砲弾の重量と速度により決まる。砲弾の重量を決定するのは(砲弾の材質以外では)、砲弾の形状が相似であれば口径によって決まる。砲弾の形状がより長ければ、同一口径でも重量が増える。砲弾の速度を決定するのは、装薬の量と口径長である。口径長が大きければ、より長時間砲弾に運動エネルギーを与えるので、装薬の量が同じでも砲弾速度はより速くなる。ただし技術的限界を超えて装薬量を増やすと、砲身のブレによる命中率低下を招く。一般には口径が戦艦の主砲の威力をはかる基準値とされ、口径長は45口径前後で装薬量にも大差なく各国とも横並びであった。しかし例外もあり、第一次世界大戦までのドイツ戦艦は、装薬量を増やして砲弾速度を上げたため、口径ではひとまわり大きな英国戦艦の主砲と同等と言われていた。一方の英国戦艦は口径長の増大により対抗したこともあるが、結果として英国製50口径12インチ主砲は砲身のブレが大きく欠陥品とされる。第一次世界大戦後では、主砲の射程距離の延伸により、砲弾速度は重要な要素ではなくなった。長時間空中を進む砲弾の速度は空気抵抗により減少し、いくら高速で撃ち出しても最終的な砲弾速度には変わりがなくなったからである。むしろ山なりの砲弾が落下に転じた際の速度は砲弾重量によって決まるため、ほぼ砲弾重量のみが主砲の威力を決定することになった。第二次世界大戦時の米国戦艦の16インチ砲の砲弾は、長い形状によって重量を増しており、45口径砲は他国よりも砲弾速度は低速、50口径砲は他国の45口径と速度は同等であった。
前弩級戦艦の時代は、近距離砲戦が主体であり、発射速度に優る多数の副砲が役に立った。
水雷艇が登場すると、これに対処するために副砲よりもさらに小型で、取り回しのよい砲を搭載した。また主砲は4門搭載する時代がしばらく続いたため、各国は戦艦の砲力拡大の際には、副砲を大型化、あるいは副砲より大型で主砲より小型の中間砲を装備する例がみられた(準弩級戦艦)。
その後、弩級戦艦の始祖たる「ドレッドノート」において、主砲の門数を10門に増加させた。そして多数の主砲を艦橋からの一元的な射撃管制により、遠距離砲戦での命中率を高め、搭載砲を主砲と対水雷艇用の7.6cm(3インチ)速射砲とし、それ以外の砲を廃止した。しかしながら続いて弩級戦艦を建造した他国海軍は、副砲を残した。弩級戦艦以降の副砲は、戦艦同士の近距離砲戦を目的としたものではなく、水雷艇、それより発達した駆逐艦などの、小型艦艇への対処を目的としたものとなった。主砲は旋回速度、単位時間あたりの射撃速度が低く、小型高速の艦への対処が困難だったためである。イギリス海軍も駆逐艦への対処のため、対水雷艇用であった速射砲を大型化し、事実上の副砲の復活となった。
前弩級戦艦時代から超弩級戦艦の時代にかけて、戦艦の副砲は、舷側にケースメイト配置され側方を指向する設計が多かった。日本では長門型までがこの形態である。一方で準弩級戦艦においては、中間砲は砲塔形式とし、舷側に配置するのが通例であった。1920年ごろより、副砲についても中間砲と同様に、連装または3連装の砲塔形式とし、2基を高い位置の船体中心線上に、残りを低い甲板上の側面に配置することで前方・後方・側方いずれに向けても一定数の砲門数を指向できる設計となった。ノースカロライナ級・大和型などがこの形態である。他に舷側に砲塔形式で前後方から2段の背負式配置とすることでやはり前方・後方・側方いずれに向けても砲門数を指向できる設計がキング・ジョージ5世級などに採用された。
アメリカが1934年に制式化した38口径5インチ砲(12.7cm砲)は、対艦射撃にも対空射撃にも使える両用砲だった。以後のアメリカの戦艦は副砲と高角砲をこの5インチ両用砲に一本化し、連装砲塔に納めて搭載した。イギリスも1940年に50口径5.25インチ両用砲(13.3cm砲)(en:QF 5.25 inch gun)を制式化し、アメリカと同じく副砲と高角砲を統合して、キング・ジョージ5世級に連装砲塔で搭載したが、副砲としての性能には問題がなかったものの高角砲としては速射性に欠けるなど欠点の多い砲だった。日本は両用砲の開発に遅れを取り事実上開発に成功しなかったので[要出典] 副砲と高角砲の両方を装備し続けたが、大和型の15.5cm三連装副砲に零式通常弾・三式弾を組み合わせての対空射撃は効果的で速射性も良かったと用兵側には好評であった(しかし艦隊全体での絶対的な高角砲の門数が不足しており、また近接信管が開発されず旧来の時限信管しか使用しなかったことも日本海軍艦隊の防空能力の不足につながった)。
一方高角砲については、1920年ごろまでは航空機が未発達で戦艦の脅威になるとは全く考えられていなかったため、高角砲の搭載はされなかった。1920年ごろより高角砲の搭載が始まったが、この頃は7.6cm単装高角砲を4門と少威力・短射程の高角砲を少数積むのみであった。1930年ごろより次第に航空機の脅威が考慮し始められ、長門型では改装時に12.7センチ連装高角砲4基8門を搭載した。ヴィットリオ・ヴェネト級は新造時より9cm単装高角砲12門を搭載、ビスマルク級では10.5cm高角砲連装8基16門と3.7cm高角砲連装8基16門を搭載した。アメリカが高角砲に替わり5インチ両用砲を装備したのは前述のとおりだが、その門数としては1941年就役のノースカロライナ級で連装10基20門であった。
第二次世界大戦が始めるとすぐにタラント空襲・真珠湾攻撃・マレー沖海戦と航空攻撃によって戦艦が撃沈される事態がたてつづけに起こったため防空能力の強化が考えられ、旧型の戦艦では副砲を降ろして高角砲を追加する改装が行われた。しかし改装を行なっても金剛型で12.7cm砲12門に留まるなど、新造の時点で対空装備が重視されていたノースカロライナ級・サウスダコタ級・アイオワ級の5インチ両用砲20門には劣った。
飛来する敵弾をはね返す目的で装備される鉄板。自艦の搭載する主砲弾の攻撃に耐えられるだけの装甲を施すことが求められていた。艦の水線部近辺に垂直(後に傾斜して装備する装甲も生まれた)に装備する水線甲鉄と水平な甲板に装備する甲板甲鉄があり、どちらも特殊鋼でできている。甲鉄に求められる重要な性能は主に次の2点である。
これらは鉄鋼にとって相反する性能であり、従来技術では1種類の材質では達成が困難であった。そこで1890年代までは日本の初代戦艦「富士」などが、硬いがもろい鉄板を外側に、粘り強いが柔らかい鉄板を内側に張り合わせた「複合甲鉄」を用いていた。1890年代にアメリカ人のハーヴェイがニッケル鋼の表面に浸炭処理を施し、表面のみ硬化させて耐弾力を飛躍的に強化した「ハーヴェイ鋼」(ハーヴェイ・ニッケル鋼)を発明した。富士級の水線甲鉄は「複合甲鉄」で457mmあったが、敷島級は「ハーヴェイ鋼」、三笠は、クルップ鋼を使い 229mm に半減でき、耐弾力は富士を上回った。その後、甲鉄は順次改良が施されたが基本的には表面浸炭処理技術を用い続けている。
水線甲鉄の厚さは主砲の強化に従って増加し第一次世界大戦直前で255-305mm、第一次世界大戦期で305-330mm、「大和」では 遂に410mm に達した。一方、甲板甲鉄は第一次世界大戦まであまり問題にされず50-100mmだった。その後、日露戦争〜ユトランド海戦の損害や戦後の実艦を用いたテストで、遠距離砲戦時の艦水平部への着弾が大きな損害につながることが判明し、第二次大戦前に建造された艦は甲板部の甲鉄を強化している。独が120mm、米英で150mm前後、仏伊で200mm未満、大和では200mm強の厚さがあり、砲弾だけでなく航空機による急降下爆撃にも十分な防御力を持っていた。しかし、甲板防御は水線防御に比べて広範囲を覆う必要性があり、装甲を水平に貼ることによる重量増加が懸念された。そのため、水線部の装甲を内側に傾斜させて装甲を貼る傾斜装甲方式が開発され、列強の多くはこぞって新戦艦に採用して重量の軽減化に努めたが、イギリスとドイツは独自の理論に基づき、イギリスはネルソン以降から再び垂直装甲に立ち帰り、一方ドイツは垂直装甲に固執した。
また、第一次世界大戦以降では、重量問題から艦全体に十分な装甲防御を施すのは困難であり中庸で不十分な装甲厚では無駄が多いとして、主要部分のみ十分な装甲厚を配分する「集中防御方式」が戦艦の防御の標準となった。ただしドイツ海軍の戦艦は独自の理論により、全体防御を採用し続けていた。
自艦の主砲弾に耐えられる装甲は戦艦の設計条件とされ、この定義を満たさず防御力を妥協して速力を高めた艦は巡洋戦艦と呼ばれる。ただしこれは結果論による定義であり、元来の巡洋戦艦は巡洋艦から発達したものである。逆に若干であるが防御力を妥協して速力を高めた戦艦も存在し、現実には「自艦の主砲弾に耐えられる装甲」という定義は絶対的なものではない。
機雷や魚雷等による艦の喫水線以下に対する攻撃からの防御を「水中防御」と呼び、水面下の船体側壁を破られることで艦内に大量の水が浸水し、浮力や重量バランスを失い沈没や転覆したり、船体の傾斜により給弾できず継戦不能になるような事態を防ぐことである。このため、フランスの造船士官ルイ=エミール・ベルタンは舷側水面下部分に「細分化された水雷防御区画を設け水密構造」にし、更に「囲堰と呼ばれる水線下防御隔壁装甲を設けることにより浸水をその区画だけに極限する方法」を1880年代に発表し、以降の各国戦艦に取り入れられ用いられている。後にこの水密区画の一部にあらかじめ液体を満たして衝撃を和らげながら浸水による重量不均衡を避ける方法も考え出された。
それまでほぼ無防備であった、水中爆発に対する防御用の装甲(水雷防御隔壁)を備えたのは、これもフランスで建造されたロシア戦艦ツェサレーヴィチが嚆矢であるとされている。当時の戦艦の多くは防護巡洋艦の甲板防御を取り入れており、水線近辺の位置に装甲を施した防御甲板を備え、その端を斜めに折り曲げて舷側装甲の下端に接続させていた。ツェサレーヴィチはこの斜め部分を真下に折り曲げて艦底部まで伸ばし、水中爆発に対する防御隔壁としている。
水中爆発による被害は、衝撃波、水圧、爆発による破片によりもたらされる。水中防御はこれらの被害を防ぐ事を目的としており、外板(爆発地点)から隔壁までの距離を十分に取り、その間に空虚部と燃料庫(石炭庫や重油タンク)を層にするなどして威力を減衰させる事を意図している。 防御方式には列強各国で特色があり、アメリカ合衆国はテネシー級以後、米国戦艦に採用された「多層水雷防御方式」は防御区画を何層にも設け、液体を満たした方式である。フランスはダントン級6番艦「ヴォルテール」以後から水密区画に半固形物を充填して被雷時の衝撃と水圧から隔壁を守る理想的な方式等が開発されて実戦で有効性が証明されていた。他の国でも独自の理論により開発を行っていたが、工作技術の未熟さや理論倒れのために効果的な防御力が得られなかった。また、戦艦は改装時に増大した重量で喫水線が下がるのを防止するため、舷側にバルジを装着される事があるが、バルジには浮力維持と同時に、水雷防御強化の意味合いもあった。
間接的防御として、浸水による転覆を防止するため、艦内各所への注排水装置が装備されて行った。これは浸水を排水するだけでなく、浸水で傾斜した艦の反対舷の空所に意図的に注水してバランスを保つもので、一例として、ユトランド沖海戦時に被雷により艦首が沈降し危機に瀕したドイツ巡洋戦艦ザイドリッツは、艦尾への注水によりどうにかバランスを保ち、沈没寸前ながらも港にたどり着いている。
「ドレッドノート」の登場前や第一次大戦時代の戦艦は、機雷への触雷や魚雷攻撃であっけなく沈没した艦が多いが、設計・造艦当時は元々機雷や魚雷の知見が少なく、これらの新兵器の急速な性能向上がこれらの戦艦の設計時の想定を超えていたといえる。その例として、日露戦争の初期に日本の「八島」と「初瀬」、ロシアの「ペトロパブロフスク」が機雷に触れて沈没している。魚雷などの爆発力は艦の外板から内部の防御装甲板までの距離の3乗に比例して弱くなるため、艦幅の大きい方が水中防御を施す上で有利となる。アメリカのサウスダコタ級が前級のノースカロライナ級より艦幅を大きくした理由はこの点にもあるとされている。
また砲弾に対する防御とは異なり、1920年代なかばまでの建艦常識では水中防御では分厚い鉄板は必ずしも必要ではなく、30-50mm程度の装甲でよいとされていたが、日本海軍はワシントン海軍軍縮条約により廃艦となったが進水は済ませるほどに建造が進んでいた戦艦「土佐」を実艦標的とした1924年の砲撃実験によって、艦の手前で着水した砲弾が水中を直進して艦体に命中し大きな被害を与える水中弾効果を確かめ、これに対する防御として水線下にも装甲を延長している。なお、水中弾効果はアメリカ海軍も1935年頃に実験によって同様の効果を確認し[2]、これにより戦艦サウスダコタ級以降の米戦艦は水線下防御の観点から舷側装甲の一部を水線下から艦底部まで伸ばして水中弾に対応している。しかしノースカロライナ級以前の米戦艦に水中弾防御はなく、英独仏伊の新型戦艦も水中弾に対する防御を持たなかった。
戦艦時代の後期には、装甲も含む水密鋼板の取り付けをリベット工法から溶接工法に切り替える(当然水上部分にもあった)時代の動きがあったが、その適用には各国の基礎工業技術力や方針による部分があり、旧日本海軍は平賀譲のリベット工法主義(と中央隔壁主義)により、多くの戦艦を航空魚雷の被弾による水密喪失・浮力喪失・傾斜転覆で失っている[独自研究?]。
「ドレッドノート」以前の戦艦(前弩級戦艦)は、蒸気機関車と同じ構造の蒸気レシプロ方式であったが、「ドレッドノート」以後は一部の例外を除き蒸気タービン式を採用した。ドイツのポケット戦艦はディーゼル機関だった。第二次世界大戦前に日独で戦艦へのディーゼル機関採用の検討があったが信頼性や開発能力の関係で実現しなかった。
アメリカ合衆国は弩級戦艦以後にも一部の艦にレシプロ機関を採用していたが、この当時のタービン機関は燃費がレシプロに及ばなかったためである。その後の1920年代には蒸気タービンで発電機を回し、電気モーターでスクリューを回すターボ・エレクトリック方式によって、巡航時の蒸気タービンの燃費の悪さを改善しようとした試みがあった。この後、アメリカとフランスは、高温高圧の蒸気を生み出す高圧ボイラと高速回転するタービン軸を歯車でスクリュー・プロペラに適した回転数まで減速するギヤード・タービンの組み合わせで、ディーゼル機関に迫る高燃費のタービン機関の開発に成功した。イギリスとイタリアもギヤード・タービンは実用化していたが、燃費が悪いために航続距離が制限され、米仏に遅れをとった。
日本はイギリスで建造された金剛型巡洋戦艦がイギリス製のギヤード・タービンを採用し、扶桑型と伊勢型でもイギリス製をライセンス生産したギヤード・タービンとしたが、取り扱いに難があったため国内で改良を重ね、長門型以降は国産ギヤード・タービンを搭載、金剛型以降も改装時に換装している。
本来の「戦艦」には分類されないが戦艦と同等の巨砲を搭載した艦艇の例をここにあげる。
戦艦は本来 battleship の直訳語である戦闘艦の略語が大日本帝国海軍他で使用された名詞であるが、今日では戦闘艦の意味が Combatant ship 相当へ、 沿海域戦闘艦 の影響もあって変化し(少なくとも戦艦からコルベットまでを含む)、戦闘艦=戦艦の意味で軍事有識者が使うことは稀となったが、古い文献等では注意を要する。また敢えてか無知かは別に、現代でも現代的意味の戦闘艦(Combatant ship)の略語として戦艦と云う用語を使う、或いは軍艦の意味で戦艦と云う用語を使う、メディア・個人・団体は存在する。
アメリカ海軍公式の戦艦を表す略号は、battleshipの頭文字Bを2文字重ねたBBである。 イギリス海軍も略号として同じくBBを用いた。
イギリス海軍公式略号の巡洋戦艦を表す略号はBattlecruiserからBCである。アメリカ海軍は公式に巡洋戦艦に分類する艦を建造しなかったのでBCは使用したことがない[注釈 7]。
アメリカのアラスカ級は、非公式な用法で巡洋戦艦扱いされる場合もあるが(前述)、アメリカ海軍公式には大型巡洋艦(Large Cruiser)であるので、略号はCBになる。CLは軽巡洋艦のLightに取られてしまっているので、CruiserのCにBigのBである[要出典]。
日本あるいは米英以外の国においても、海軍関係の文脈において略号を用いるときはBB・BC・CBで通用する。
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