海防戦艦(かいぼうせんかん、Coastal defence ship)は、軍艦の艦種の一つで、装甲艦に含まれる。自国近海の防衛を主任務とする海防艦であり[注釈 1]、小国の海軍で多用された[注釈 2]。
海防戦艦とは、自国の海岸線を守ることを主目的とした''海防艦(Coast=海、Defence=防、Ship=艦、コースト・ディフェンス・シップ、国外の分類をそのまま邦訳した呼称)''に分類される軍艦の内[注釈 3]、戦艦に準ずる戦闘力を備えた艦艇である[注釈 4][注釈 5]。
海防甲鉄艦[注釈 6]、装甲海防艦[18][注釈 7]、海防戦闘艦[注釈 8]、装甲艦[注釈 9]、装甲砲艦、沿岸防禦艦[注釈 10]、沿岸警備艦[注釈 11]、海防艦[注釈 12][注釈 13]とも呼ばれる。
海防艦(海防戦艦)に分類や表記されているが、実質的には砲艦や[38]、モニター艦という艦艇もある[注釈 14][注釈 15]。
大日本帝国海軍は、ロシア海軍が「沿岸防御装甲艦」と定義していた海防戦艦(装甲海防艦)を鹵獲して自軍に編入した際に「海防艦」と類別した[注釈 16]。
排水量2,000~9,000トンの巡洋艦並みの大きさながら、8インチから11インチ程度の準戦艦と呼べる大きさの主砲少数と、比較的有力な装甲防御を備える[注釈 17]。
来攻してくる敵艦隊から自国を防衛するという、局地防衛を主任務とする[注釈 18]。
そのため自国沿岸での活動を想定し、喫水が浅めであった[注釈 19]。
海外への派遣など長期間におよぶ航海を想定しておらず[注釈 20]、一般的に速力も低く航続距離も短い[注釈 21]。
1900年代前後、本格的な戦艦[注釈 22]を自国で建造したり、他国から輸入できない小国が海軍力の中核としたほか、大国でも主力艦を使うまでもない平時において建造した例があった[注釈 23]。
大日本帝国海軍では、明治時代に「小型の船体に、当時の戦艦並の大口径主砲を搭載した海防艦」として松島級海防艦を新規に導入(松島と厳島はフランスから輸入、橋立のみ横須賀で建造)したものの[注釈 17]、その後は老朽艦の受け入れ先となった[注釈 24]。就役当時は戦艦だったが、より大型で強力な主力艦の普及により、装甲海防艦(海防艦)として扱われた事例もある[注釈 25]。
第一次世界大戦後の海軍休日時代、世界の海軍強国がワシントン海軍軍縮条約で主力艦の建造を制限される中で[注釈 26]、中小国がこの種の艦艇を開発したり建造した[注釈 27]。
ただし性能を追求した場合、ロンドン海軍軍縮条約や[注釈 28]、第二次ロンドン軍縮条約に抵触する可能性もあった[注釈 2]。
たとえば1936年(昭和11年)3月25日に樹立された第2次ロンドン軍縮条約では、主力艦について「甲級主力艦(基準排水量1万トン以上にして備砲口径8インチ以上のもの)」と「乙級主力艦(基準排水量8,000トン以下にして備砲口径8インチ以上のもの)」と再定義した[注釈 29]。
第二次世界大戦で戦艦が主力艦としての地位を退いたのと同じく、現在では保有する国は無い。主力艦や旧式艦の代名詞だった「海防艦」の呼称も、護衛駆逐艦やフリゲート艦的な性格をもつシーレーン護衛艦艇の分類として使用されるようになった[注釈 30][注釈 31]。
注釈
六 後衞海軍 ― 海防艦・特務艦艇 海防艦 海防艦は港灣防禦を主任務とし、近接敵國の海岸攻撃を第二任務とする、一種の海岸要塞である。帝國の海防艦は、一等(七千噸以上)五隻、二等(七千噸以下)二隻で、全部舊式巡洋艦である。/光榮ある戰歴を有する「八雲」級は練習艦として、三十年の老齢をもつて、今もなほ未來の提督達の揺籃となつて居る。 九、瑞典(中略)沿岸防禦艦隊は海防艦(小型戰艦)三隻、飛行機搭載艦一隻、驅逐艦八隻、ヴェデット・ボートと掃海艇とで合計八隻、潜水艦十隻及び若干の雑艦艇から成立つてゐる。(中略)彼のスヴェリジ級(Sverige)の諸海防戰艦に對しては、或る程度の近代的改造が行はれてある。而して其の所要經費は五三,〇〇〇,クローネとなるであらう。(中略)小型戰艦の新造が問題に上つてゐるが、之に關聯して若干の懸念が生じて居る。それは将來一九三六年の新海軍條約に参加すると假定するとき、現在の禁止條項に低觸する恐れが存するからである。即ち詳しく云へば主力艦の排水量は八,〇〇〇噸乃至一七,五〇〇噸のものは造つてはいけない、又主砲は十吋以下のものは之を禁ずるといつたやうなことに引懸ると考へられるからである。此の如き制限は、條約の條文だけから見れば其目的は、主力艦として定義つけられた中から或る特種の型の出現を防止するに存するやうであつて、要するに事實上は、奇抜なる巡洋艦の出現を恐れた爲めである。(以下略) 海防艦 海防艦ハ海岸防禦ニ必要ナル軍艦ニシテ戰艦ト等シク攻撃防禦ノ兩力ヲ完全ニ備フルヲ要ス然レドモ遠ク外國ニ派遣セラレザル爲メ石炭積載量及ビ速力ハ多キヲ要セズ而シテ喫水ヲ成ルベク淺ク製造スルハ之レヲ淺水中ニ利用シテ敵艦ニ當ラシムニアリ實ニ此艦ハ水雷艇、布設水雷及ビ海岸砲臺等ノ如キ防港機關ノ補助ヲ得テ自國ノ海岸ヲ防禦スルノ任務ヲ盡スベキモノトス(第十六圖)甲装海防艦 米艦モンテレー 英國艦隊の陣容(中略)海防戰艦 この外に大艦としては、世界大戦中、敵國の沿岸攻撃用として建造した海防戰艦といふのが三隻ある。 エレバス(級三隻)八,〇〇〇/六,七〇〇 ― 三六糎砲二 一二/七 ― 一九一五/一九一六 ― ロシア帝国海軍のアドミラル・ウシャコフ級沿岸防御艦(装甲海防艦)が、戦艦として扱われる事例があった。日本海海戦で同級2隻が日本海軍に降伏し、戦利艦となったあと[11]、海防艦に類別された[12]。一般的に「海防戦艦」とされているものが「戦艦」と呼称される事例は、複数例存在する。 ●ジャワの暴動 ▲戰闘艦三隻の乗組員暴動を發す[25](中略)備考、プロヴヰンジーン號は千九百九年に進水したるものにして六千五百二十五噸速力十六里、馬力七千五百、十一吋砲二門、五吋九砲四門、三吋砲十門等備へる海防戰闘艦なり(記事おわり) 二、暹羅 海軍を増勢することに就ては大いに努力が拂はれて居る。而して建艦計畫の大部分の材料は日本が引受けて助力しつゝある。日本は目下暹羅の爲に、二,二〇〇噸の沿岸警備艦(二聯装で八吋砲四門)二隻、三七〇噸の潜水艦四隻、一三〇噸の巡邏艇五隻、二,〇〇〇噸の油槽船一隻、練習用スループ二隻を建造中である。伊太利も亦た四六〇噸の水雷艇九隻を暹羅の爲めに建造中である。(以下略) アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦を、「海防艦」と翻訳したり、表記した事例もある。
一、海防艦 海防艦は自國沿岸に在つて敵の來襲に備へ敵艦を反撃するに在り而して時に敵國沿岸に至り第二の戰闘たる海岸砲臺の攻撃に任することあり此の種の艦の具備すへき最も主要なる性能は攻撃力の大なるに在り防禦力之に次き速力及航續性の如きは毫も重きを置くに足らすとす此の艦の敵とすへきものは戰艦巡洋艦其他如何なる軍艦にも對し得へきものなれとも用ふるところ概ね沿岸に存するか故に其の吃水は淺く運轉の輕便なることを要す此種の艦に属すへき浮砲臺は米の南北戰爭間最も多く用ゐられ効を奏したりしか今日獨逸の外殊に此の種の軍艦を製造するもの稀れなり英國の如きは老朽戰艦を以て此の目的に充つるものゝ如し我國にては適當なる此の種の軍艦を有せす 二十 海防艦と砲艦 海防艦と言ひますのは其名の如く戰時に於きまして、其の國の海岸を防禦するのが其の任務であります。例令ば日露戰爭の際に浦鹽艦隊に属する装甲巡洋艦のグロムボイ、ロシヤ、リユーリツク及びボガチール等が津輕海峡を通過して太平洋上に舷はれ、我國の港灣を脅かすとか、或いは商船を砲撃した事がありました、斯ういふやうな場合、横濱横須賀は申すに及びません、日本全國の港々を始めあらゆる商港軍港等を護つて敵を近寄せぬやうにするのであります。早く申せば、海防艦は陸軍の留守師團のやうなもので、外に出て戰爭をしない代りに内地の海岸を安全に防護するのが其の任務なのであります。
海防艦を理想的に建造しますれば、吃水が淺く陸岸に近づき易くするのであります。即ち艦が水中にある部分の長さを成る可く少くして遠淺でも心配なく陸に近づけるやるにするのであります。けれども世界各國殊に海軍國として誇つてゐる英國でもこの理想通りの海防艦は一隻も有つて居りません。多くは戰艦若しくは装甲巡洋艦の古くなつて、モウ廢艦の時が近づいたものを以つて、これに充てゝ居ります。進んで戰ふのでなく、退いて護るのでありますから、それでも差支なく間に合ふのであります。(中略) 又二等海防艦は日清當時奮戰した日本三景艦として有名な装甲巡洋艦の嚴島 橋立 乃高千穂、秋津洲、千代田の諸艦を初め露國から捕獲した装甲海防艦アブラキシンの沖島、センヤーヴインの見島、エカチノスラブの韓崎、マンヂユリアの満洲、スンガリーの松江もあり、この外武藏 大和の二艦を合せて十二隻あります。(以下略) 緒言(中略)遠航ヲ目的トセス洋中ニ戰フヲ目的トセス海岸ニ在ツテ自由ニ運轉シ海岸防禦ノ用ニ供スルモノアリ(海防艦)(以下略)
海防艦 海防艦とはその戰艦たると巡洋戰艦たると巡洋艦たるとを問はず艦齢第三期(竣工年より起算し十七年以上二十四年未滿)に在るもの又は艦齢滿了するも、未だ廢艦とならずして在籍する老朽艦に附ける名稱で、素より戰線に立つべきものでなく、その名の如き目的を以て戰時その用の爲すに過ぎないのである。/ 因に艦齢第一期とは竣工年より起算し八年未滿、同二期とは九年以上十六年未滿の謂である。/ 海防艦は我海軍にては便宜上之を區別して、排水噸數七千噸以上のものを一等海防艦、以下のものを二等海防艦と呼んでゐる。/ 現今我一等海防艦は元は一等巡洋艦(装甲巡洋艦)として、日本海海戰には主力艦として取扱はれた淺間級等が之に属し、二等海防艦は二等巡洋艦たりし千歳、對島、明石杯が之に属してゐる。 ワシントン会議の結果、列強各国は「今後建造可能な主力艦とは、排水量1万トン以上で3万5000トン以下、備砲口径8インチ以上で16インチ以下のもので、航空母艦にあらざる軍艦(華府条約の第二章)」と定義した。 日本脱退後の倫敦會議 帝國の脱退後も、倫敦軍縮會議は米英佛伊四國の間に續行され(但しエチオピア戰爭に關聯して中途伊國は脱退した)、三月二十五日にいたつて、新倫敦條約なるものが成立した。五篇三十二箇條から成るこの新條約は、その後における世界海軍の趨勢を眺める上に、重要な参考となるものなるが故、その概要を左に掲げておく。
第一篇 一、基準排水量は華府條約による。/二、主力艦を甲乙の二種に分類し、甲級艦は排水量一萬噸以上、備砲口經八吋以上、乙級艦は排水量八千噸以下にして備砲口經八吋以上のものとす。/三、航空母艦は排水量の大小を問はず航空機の發着装置を有するものとす。/四、航空母艦、戰闘用小艦船、補助艦船以外の水上軍艦にして、排水量百噸乃至一萬噸、備砲口經八吋以下のものは輕水上軍艦と稱呼し、これを甲種(備砲口經六.一吋以上のもの) 乙種(備砲口經六.一吋以下、排水量三千噸以上のもの) 丙種(排水量三千噸以下備砲口經六.一吋以下のもの)に分類す。/五、補助艦船以外の水上軍艦にして、基準排水量百噸乃至二千噸、口經六.一吋以上の砲を装備せず、また魚雷を發射し得ず、而して速力二十節を出し得ざるものを戰闘用小艦船といふ。/(補助艦船、海軍水上艦船略)/
第二篇(制限規定)一、主力艦の最大基準排水量を三萬五千噸とす。/二、備砲の最大口經を十四吋に引下ぐ(但し華府條約署名國のいづれの一國かが、一九三七年四月一日以前にこの規定に應ぜざる場合は、これを十六吋に引戻すこと。)。/三、甲級主力艦にして排水量一萬七千五百噸以下、また備砲口經十吋以下の砲より成る主力艦は、一九四三年一月一日までは起工せざること。(以下略) 海防艦護衛に参加す[70]【ワシントン三日INS】海軍省三日發表によれば英国及びカナダの海防艦、驅逐艦は米國海軍と協力して船團護衛ならびに潜水商会の任に當つてゐる(記事おわり) 〔時事解説〕海防艦の重要役割 決戰下の活躍に期待[71] 海防艦が續々と進水する、かつて老朽艦の代名詞のやうに考へられた海防艦の文字が昭和十七年七月一日の改正で甚だ重要性を大にして以來、われわれは果して在來の舊式艦を中心とする微々たる勢力でその大任務を完全に遂行し得るだらうかを心配したが、わが悠々たる建艦能力はその杞憂を一掃してくれた つい數年前までのわが海防艦陣は淺間、八雲、吾妻、出雲、磐手、春日などといふ古色蒼然たる改造艦ばかりで計六隻であつた。これに昭和十五年六月八千六百トンの占守が先づ加はつたのであるが、わが戰果によつてその警備すべき沿岸がグツと延びた今日、これではとても足りなかつたのである 新令による海防艦は海岸要塞と協力して領土の沿岸警備に當るを主任務とするばかりでなく船團の直接護衞にも任じ、更に進んで敵國沿岸の陸上施設攻撃破壊をもなし驅逐隊、潜水隊などと同じく二隻以上をもつて海防隊を編制するもので潜水艦や航空機に對抗し、これを撃攘し得るものでなければならない 以上の各要求を滿たすものは小數でも大威力の巨砲と多數の高角砲を積む吃水の淺い獨特のものとならざるを得ない譯で、自然余り要求されない速力や航續力は犠牲にされるものと考へてよく、大洋で行ふ機動海戰には適せない艦である 海防艦といふ名前はわが國では明治十六年から使はれ、當時はこれが主力艦のことであつた。有名は松島、嚴島、橋立なども海防艦と呼ばれてゐた。この赫々たる武勲の名稱が地味な「警備」の艦に用ひられるやうになつてからでも上海事變での「黄浦江の奇蹟」出雲の動かざる活動は記憶に新しい。新海防艦報國號にわれわれは大なる信頼を感ずる(記事おわり) 〔 ◎戰利軍艦石見 壹岐 沖島 見島命名ノ件 明治三十八年六月六日(達七三)[12] 戰利軍艦「アリヨール」外三隻左ノ通命名セラル 戰艦「アリヨール」 石見 戰艦「インペラートルニコライ」第一世 壹岐 海防艦「ゲネラルアドミラル、アプラキシン」 沖島 海防艦「アドミラル、セニヤーウヰン」 見島 〕 歐洲の戰況~各國海軍の損害[99](中略)ノルウェー側損害 ▲沿岸防禦艦ノルゲ號(四,一六六トン)ナルヴイクに於てドイツ海軍水雷で沈没/▲沿岸防禦艦エイドスヴオルド號(四,一六六)同様ナルヴイクに於て沈没、右二隻の人命の損害は合計五百四十名(以下略) 砲艦「トンブリ―」進水式(昭和十三年一月)[113] 暹羅國海軍砲艦「トンブリ―」 要目 長75.000米 幅13.410米 吃水4.215米 排水量2,265瓲 速力15.5節 株式會社川崎造船所
出典
#廃艦払下(1) p.40〔 日本海々戰々利軍艦へ記念として「沖津」と命名せられん事を海軍大臣へ申請したるに對し副官よりの通牒寫 戰利装甲海防艦ゲネラルアドミラルアプラクツン「沖ノ島」と命名せられ候に就右御承知相成度本書及返戻候也 六月九日 海軍省 副官 〕 “日本海海戦(其十五)”. Hoji Shinbun Digital Collection. Singapōru Nippō, 1934.06.12. pp. 01. 2023年9月17日閲覧。 “◎露國敗失艦舩除籍”. Hoji Shinbun Digital Collection. Yamato Shinbun, 1905.12.12. pp. 02. 2023年9月17日閲覧。
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- 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8。
- 台1部 第一次大戦から第二次大戦まで/7.タイ海防艦「トンブリ」
- 第3部 第二次大戦 ― 外国編/8.フィンランド海防戦艦「イルマリネン」
- リチャード・ハンブル『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9。
- ロバート・フォーチェック〔著〕、ハワード・ジェラード、イアン・パルマ―、トニー・ブライアン〔カラー・イラスト〕『連合艦隊vsバルチック艦隊 日本海海戦1905 RUSSIAN BATTLESHIP VS JAPANESE BATTLESHIP Yellow Sea 1905』平田光夫〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ“対決”シリーズ5 Osprey DUEL Engage the Enemy〉、2010年1月。ISBN 978-4-499-23011-7。
- 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。
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