千代田(ちよだ)は、日本海軍の三等巡洋艦[25][3]。
艦名は江戸城(宮城)の別称に由来する[26][10]。
「千代田」の艦名は、明治初期の千代田形[27][28]に続いて2代目[10]。
本艦はフランスで建造・竣工した防護巡洋艦畝傍[27]が日本への回航中に行方不明となったため、同艦の保険金を原資に代艦として建造された[10][29]。
日本海軍からの要求仕様を基にルイ=エミール・ベルタンが基本計画をまとめ、イギリスのトムソン社で建造された[12]。
類別等級が制定された時には三等巡洋艦に類別[3][10]。
日清戦争では黄海海戦の勝利の原動力となり[30][12]、
日露戦争に参加した[10]。
旧式化により、1912年(大正元年)8月28日附で二等海防艦に類別変更される[31][10]。
第一次世界大戦にも参加した[12]。
1921年(大正10年)4月14日、水雷母艦に類別変更[32]。
翌年、軍艦籍より除かれ[33]、潜水艦母艇となる[34]。
1924年(大正13年)12月に特務艇籍より除かれ練習船として運用される[9]。
1927年(昭和2年)に廃船とされ[10]、
実艦的として処分された[11]。
本艦は舷側装甲を持つことから日本初の装甲巡洋艦[35](Armored cruiser)として扱われることもあるが、その装甲範囲は水線部に帯状の狭い代物でイギリス海軍の「オーランド級巡洋艦」と同じくBelted cruiser(帯甲巡洋艦、または装甲帯巡洋艦と和訳)である、と中川努は述べている[4]。
また『海軍軍備沿革』では鋼甲帯巡洋艦としている[13]。
砲熕としてアームストロング社の4.7インチ速射砲2門を初めて搭載した[35]。
艦の構造を前部から記述すると、水面下に衝角が付き、水線部に35.6cm水中魚雷発射管1門が付く艦首、艦首甲板上に主砲の12cm速射砲は防盾の付いた単装砲架で1基、頂上部に見張り所を持つ単脚式の前部マストが立つ。その背後に両脇に船橋(ブリッジ)を持つ操舵艦橋が配置され、船体中央部に1本煙突が立つ。その周囲には煙管型の通風塔が立ち並び、空いた場所は艦載艇置き場となっており、艦載艇は2本1組のボート・ダビットが片舷4組で計8組により運用された。煙突の後方に中央マストが一本立ちその左右の舷側に大小さまざまな張り出しが設けられ、そこに12cm速射砲を片舷4基を配置し、挟み込まれるようにその間に4.7cm速射砲を3基配置した。後部甲板上に後部マストと12cm速射砲が後ろ向きに1基が配置された。[要出典]
防水区画と各室が計84あり、間接防御が向上していた[35]。
機関
竣工1年ほどで、ボイラー燃焼筒に垂下する場所が出て、支柱を立てて抑えており、最終的には蒸気圧を下げて運転していた[36]。
計画要目
計画要目は以下の通り[21]。
- 排水量:2,133トン
- 垂線間長:100m
- 幅:11.10m
- 吃水:平均4.11m
- 帆布面積:718.80m2
- 出力:強圧通風5,530馬力、自然通風2,400馬力
- 速力:19ノット
- 燃料:石炭225英トン
- 航続距離:4,900カイリ / 10ノット
- 乗員:300名
- 兵装:38口径12cm砲11門、47mm速射砲6門、37mm旋回砲10門、魚雷発射管3門、魚雷7本、
- 装甲:甲板10mm鋼板+15mmクロム鋼板、同傾斜部10mm鋼板x2+60mmクロム鋼板、艦長待避所30mm
公試成績
さらに見る 実施日, 種類 ...
実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
1921年3月30日 | 修理公試 | 2,599トン | 95.88rpm | 697.11馬力 | 9.60ノット | 広島湾 | | [37] |
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修理
1897年から翌年にかけて、呉造船廠で主罐をベルヴィール式石炭専焼水管缶に換装した。
また1898年に戦闘檣(ファイティング・トップ)が取り外された[35]。
1910年
1910年(明治43年)5月中旬、「千代田」(艦長磯部謙中佐)は宇品(広島県)へ回航、饒津神社300年祭に関連して5月15日から18日まで一般公開された[49]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 新井有貫 大佐:1890年1月10日 - 1891年4月13日
- 艦長
- 新井有貫 大佐:1890年1月10日 - 1891年6月17日
- 千住成貞 大佐:1891年6月17日 - 1892年9月5日
- 有栖川宮威仁親王 大佐:1892年9月5日 - 1893年10月12日
- 尾本知道 大佐:1893年10月12日 - 1894年2月26日
- 内田正敏 大佐:1894年2月26日 - 1895年9月28日
- 伊藤常作 大佐:1895年9月28日 - 1897年5月15日
- 外記康昌 大佐:1898年5月3日 - 1899年5月1日
- 井上敏夫 大佐:1899年5月1日 - 9月29日
- 成川揆 大佐:1899年9月29日 - 1900年6月7日
- 松本有信 大佐:1900年6月7日 - 1901年2月4日
- 坂本一 大佐:1901年2月4日 - 10月1日
- 毛利一兵衛 大佐:1903年4月12日 - 7月7日
- 村上格一 中佐:1903年7月7日 - 1905年1月12日
- 東伏見宮依仁親王 大佐:1905年1月12日 - 12月20日
- 山本正勝 中佐:1905年12月20日 - 1906年10月4日
- 築山清智 大佐:1906年10月4日 - 1907年5月2日
- 森亘 大佐:1907年5月2日 - 1908年2月20日
- 大沢喜七郎 大佐:1908年2月20日 - 9月25日
- 山中柴吉 大佐:1908年9月25日 - 1909年3月10日
- (兼)兼子昱 中佐:1909年3月10日 - 5月22日
- 釜屋六郎 中佐:1909年5月22日 - 12月1日
- 磯部謙 中佐:1909年12月1日 - 1911年10月25日
- 桜野光正 中佐:1911年10月25日 - 1911年11月27日
- 町田駒次郎 大佐:1911年11月27日 - 12月22日
- 永田泰次郎 大佐:1911年12月22日 - 1912年6月18日
- 山岡豊一 大佐:1912年6月18日 - 12月1日
- 久保来復 大佐:1912年12月1日 - 1913年11月5日
- 長鋪次郎 中佐:1913年11月5日 - 1914年5月6日[68]
- 堀田弟四郎 大佐:1914年5月27日 -
- 島内桓太 中佐:1914年8月23日 - 12月1日
- 山下義章 大佐:不詳 - 1915年12月13日
- 小牧自然 中佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 中川寛 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日[69]
- 上田吉次 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
- 藤村昌吉 大佐:1918年12月1日[70] - 1919年12月1日[71]
- 石渡武章 大佐:1919年12月1日[71] - 1920年6月1日[72]
- 加藤弘三 中佐:1920年6月1日[72] - 1920年12月1日[73]
- 水谷耕喜 大佐:1920年12月1日[73] - 1921年12月1日[74]
- 木村豊樹 中佐:1921年12月1日[74] -
出典
#達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇ノ類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵西郷從道 |軍艦|巡洋艦|三等|和泉、千代田、秋津洲、須磨、明石|』
#明治の海軍物語コマ171(原本325頁)『(艦名)千代田|(艦質)鋼|(噸數)二,四三九|(速力)一九.〇|(乗員)三〇六|(進水年月日)二三、六、三|(製造所)英國』
#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ37(原本46頁)『千代田(ちよだ) 艦種巡洋艦 三檣(戰闘檣あり) 艦名考前掲「千代田形」の項(p.11)参照。艦歴亡失艦畝傍代艦として建造せられたる艦にして明治14年4月11日本邦に到着。明治27・8年戰役從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同9月黄海々戰に、同11月大連港及び旅順口占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及同地占領に從事、同3月澎湖島攻略及同島占領に從事、同31年3月三等巡洋艦に列す。同37・8年戰役に從軍(第六戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(艦長大佐村上格一)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐依仁親王殿下)、大正元年8月2等海防艦に編入。同3年乃至9年戰役に從軍:大正3年8月青島戰参加(艦長中佐島内桓太)、同8年12月第三艦隊に属し南支那海方面警備、同10年水雷母艦に編入、同11年4月1日軍艦より除籍、特務艦となり、昭和2年2月28日特務艦籍より除かる。
―要目― 長308呎/幅43呎/吃水17呎/排水量2,450噸/機關 三聯成汽機2基雙螺旋ベルビル罐12/馬力5,400/速力19/乗組人員350/船材 鋼/兵装 12拇安式速射砲 10/47粍砲 14/備砲 3/發射管 3/起工 明治21-12-4/進水 同23-6-4/竣工 同24-1-1/建造所 英國グラスゴートムソン會社』(注:特務艦は特務艇の誤り)
#昭和天皇実録四巻748-749頁『(昭和二年八月)五日 金曜日(戦技御覧の終了/奄美大島へ向け御航海)』
#達明治21年9月p.12『達第九十九號 英國ニ註文セル巡洋艦ヲ千代田ト命名セラレ風帆練習艦第一回漕ヲ館山ト改名セラル此旨心得ヘシ 明治二十一年九月廿七日 海軍大臣伯爵西郷從道』
#幕末以降帝国軍艦写真と史実第17コマ(原本11頁)『千代田形(ちよだがた) 艦種砲艦 二檣「スクーナー」型 艦名考千代は徳川幕府の治所江戸城(現今の宮城)の別稱なり、艦名の下に「形」の字を付したるは其形式(タイプ)を意味するものならん、幕府時代の船舶中、伊豆下田に於て建造せるものに君澤形、長崎に於て建造せるものに長崎形の名のあるを見る、蓋し同指なり。
艦歴本艦は外國人の手を假らず本邦人に依て設計建造せられたる最初の蒸汽船なり、文久2年戌年5月起工、同3亥年7月進水、慶應2寅年5月竣工即ち進水より竣工まで約3ヶ年を費したるは、其間機關計畫者和蘭國へ出張の事あり、歸朝後、機關据付を爲したる等、工程に遅延を生ぜしことありしに由る。明治2年5月函館の役に於て官軍に収容せられ爾來帝國軍艦籍に在りて種々の役務に服せしが、明治21年1月除籍せられ、船體は之を千葉縣に交付せり。(要目略)』
明治17年6月5日官報第179号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1『○海軍省丙第九拾號 海軍一般 今般佛國ヘ新造注文セシ軍艦ヲ畝傍ト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義|○海軍省丙第九拾壱號 海軍一般今般横須賀造船所ニ於テ製造スヘキ一等砲艦ヲ愛宕 巡洋鉄艦ヲ高雄ト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義
○海軍省丙第九拾貳號 海軍一般 東海鎮守府所轄千代田形艦自今豫備艦ト相定ム此旨相達候事 明治十七年六月五日 海軍卿 川村純義』
#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ22『明治二十年 畝傍ノ保險金一,二四五,三〇九圓ノ収入ニヨリ其ノ代艦トシテ千代田ノ製造ニ着手シタル外、八重山及水雷艇小鷹ヲ起工シ葛城及大和ヲ竣工ス』
#愛弟通信コマ141-142(原本272-275頁)『最幸にして最戰功ある千代田艦』
#達大正元年8月p.33『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵齋藤實 艦艇類別等級表|軍艦|海防艦|二等|沖島、見島、高千穂、嚴島、橋立、千代田、秋津洲、鈴谷、満州、豊橋、韓崎、葛城、大和、武藏、松江』
#達大正10年4月(3)p.31『達第七十五號 艦艇類別等級別表中海防艦ノ欄「千代田、」ヲ削リ水雷母艦ノ欄「迅鯨」ノ下ニ「、千代田」ヲ加フ 大正十年四月十四日 海軍大臣男爵加藤友三郎』
#達大正11年4月(1)pp.1-2『達第四十七號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 津輕/軍艦 橋立/軍艦 武藏|呉鎮守府在籍 軍艦 周防/軍艦 千代田/軍艦 大和|佐世保鎮守府在籍 軍艦 沖島/軍艦 見島 右帝國軍艦ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 薄雲/驅逐艦 不知火|呉鎮守府在籍 驅逐艦 朝潮/驅逐艦 白雲/驅逐艦 村雨/驅逐艦 朝霧/驅逐艦 陽炎 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 第六十七號水雷艇/第六十八號水雷艇/第七十号水雷艇/第七十一號水雷艇|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 雁/水雷艇 蒼鷹/水雷艇 鴿/水雷艇 燕 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎』
#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ73『大正十一年四月一日(内令一一〇)特務艇類別等級別表中左ノ通改正ス 掃海艇二等ノ欄内「叢雲」「夕霧」ヲ削リ「薄雲、」「不知火、」「朝潮、」「白雲、」「村雨、」「朝霧」ヲ加ヘ潜水艦母艇ノ欄内「椅子山」ヲ削リ「千代田、」「見島」ヲ加フ』
#帝国軍艦帖コマ99-100『二等海防艦 千代田 一、進水年月日 明治二十三年六月三日/一、排水量 二千四百五十噸/一、馬力 五千六百馬力/一、速力 十六節/一、主砲 四吋七砲一門/一、建造地及建造所 英國グラスゴーダムソン會社/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 黄海海戰に参加し清國北洋艦隊を撃破す、清國水雷艇左隊第一號を撃破す、清國軍艦廣丙を捕獲す/一、日露戰爭に参加したる際重要なる事項 仁川沖海戰に参加し露國軍艦「ワリヤーグ」及「コレーツ」を撃破す、日本海々戰に参加し露國第二第三太平洋艦隊を撃滅す/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 青島攻略戰に参加す/一、其他特に重要なる事項―以上』
#海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49『◎軍艦種別の件 明治二十三年八月二十三日(達三〇四)横須賀鎮守府所管軍艦浪速、扶桑、高雄、武藏、八重山、橋立、筑波、愛宕、天城ヲ第一種ト定メラレ水雷艇小鷹、第一水雷艇、第二水雷艇、第三水雷艇、第四水雷艇ヲ第二種ト定メラレ軍艦龍驤、迅鯨、淺間、干珠ヲ第三種ト定メラレ呉鎮守府所管軍艦金剛、比叡、大和、筑紫、摩耶、赤城、嚴島、千代田、天龍、鳳翔ヲ第一種ト定メラレ軍艦館山、石川ヲ第三種ト定メラレ佐世保鎮守府所管軍艦高千穂、葛城、磐城、松島、千鳥、大島、秋津洲、日進、海門、鳥海ヲ第一種ト定メラレ軍艦春日、満珠ヲ第三種ト定メラル』
#愛弟通信コマ139(原本269頁)『分捕艦の回航(三月六日於廣島)▽二十六日午前十時威海衛を抜錨、橋立は濟遠、平遠を率ひ、千代田は廣丙を率ひ、共に回航の途に上りたり。』
#愛弟通信コマ142-144(原本275-278頁)『敵艦廣丙號捕獲詳報告(三月九日 於廣島)』
#愛弟通信コマ140(原本271頁)『▽三日午後三時竹敷港を發し、四日の朝馬關海峡を過ぎ、其據は屋代島の一小灣に明かし、五日午前十一時半頃、宇品港に着したり。廣丙は宇品に止め、千代田は呉港に入りぬ。余、国木田哲夫は直ちに退艦したり。』
#達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵西郷從道』
#達大正元年8月p.32『達臺十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵齋藤實』
#達大正11年4月(1)pp.2-3『達第四十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年四月一日 海軍大臣 男爵加藤友三郎|軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
#記念品の件p.4『御紋章|個|弍|千代田|艦首御紋章|大正十一年四月二十二日 千代田ヨリ返納』
#千代田夏島廃船画像1、昭和2年2月4日官房第101号の2『呉鎮第三二號ノ九四ノ六練習舩千代田及夏島廃船処分ノ件認許ス(終)』
#実験行幸pp.1-2『聯合艦隊ノ戰闘射撃及爆撃實験ニ行幸ヲ軍仰度件』
#昭和天皇実録四巻747-748頁『(昭和二年八月)三日 水曜日(佐伯湾/航空母艦赤城を御巡覧/海軍関係者御陪食/夜間対空防禦教練)』
「昭和2年8月5日(金)海軍公報第178号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C12070309900 『○艦船所在○八月五日午前十時調【佐伯】(長官)長門、陸奥、伊勢、(司令官)鬼怒、阿武隈、由良、(司令官)龍田、(長官)金剛、比叡、(司令官)加古、古鷹、神通、那珂、(司令官)夕張、(司令官)長鯨、鳳翔、扶桑、赤城、山城
(司令)樅、榧、梨、竹、(司令)栂、柿、楡、(司令)菱、蕨、葦、菫、(司令)蓼、蓮、蓬、(司令)驅二八、驅二九、驅三〇、驅二七、(司令)驅一七、驅一五、驅一三、驅一九、驅二三、驅二五、(司令)梅、楠、櫻、橘、(司令)帆風、羽風、秋風、太刀風
(司令)呂六四、呂六八、呂六三、(司令)呂六二、呂六〇、呂六一、(司令)呂六七、呂六五、(司令)伊五三、伊五二、伊五一
鶴見、能登呂、間宮』
#高松宮日記1巻265頁『八月五日 金曜日 曇后雨 八時半「山城」へ御いとまに行く。/九時半「長門」へ見学のため乗る。十時出港、「山城」の後に随ひて南下し、爆撃見学。五時半奉送して北上し十時四十分入港帰還(以下略)』
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 下』グランプリ出版、2001年5月。ISBN 4-87687-222-8。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 『海軍軍備沿革』海軍大臣官房、1921年10月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第四 自大正十三年至昭和二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4-487-74404-6。
- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 『日本巡洋艦史』 世界の艦船 2012年1月号増刊 第754集(増刊第101集)、海人社、2011年12月。
- 「世界の艦船増刊第46集 イギリス巡洋艦史」(海人社)
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第一巻 大正十年一月一日~昭和七年十二月三十一日』中央公論社、1996年3月。ISBN 4-12-403391-5。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
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