大日本帝国海軍の防護巡洋艦 ウィキペディアから
和泉(いずみ[7] / いづみ[14])は、日本海軍の防護巡洋艦[2]。 艦名は旧国名「和泉」にちなむ[14]。 艦名は明治初期の軍艦「和泉丸」に続いて2代目になる[14]。 候補艦名として「出雲」の記録が残るという[7]。
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和泉 | |
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基本情報 | |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 防護巡洋艦[2] (類別:三等巡洋艦[3]) |
建造費 | 2,808,510.639円[注釈 1] |
母港 | 横須賀[4][3] |
艦歴 | |
発注 | 1894年11月23日(または25日[2])購入[3][注釈 2] |
就役 | 1895年1月8日軍艦籍に編入[4] |
除籍 | 1912年4月1日[5] |
その後 | 1913年1月15日売却引渡[6]、解体[7] |
要目(計画) | |
排水量 | 2,987ロングトン (3,035 t) |
垂線間長 | 280 ft 11 in (85.623 m) |
最大幅 | 42 ft 0 in (12.802 m) |
吃水 | 18 ft 7+1⁄2 in (5.677 m) |
ボイラー | 円缶 両面4基[8] |
主機 | 横置2段2筒レシプロ 2基[9] |
推進 | 2軸 |
出力 | 6,000 ihp (4,474 kW) |
速力 | 18ノット (33 km/h) |
燃料 |
1901年時:石炭満載600トン 1905年時:558ロングトン (567 t)[3] |
兵装 |
1895年時 32口径10 in (25.4 cm)後装安砲[10] 2門[11] 40口径安式12cm速射砲 6門[11][12] (保式[10])47mm重速射砲 7門[13] 37mm5連保砲 4基[13] 15 in (38.1 cm)魚雷発射管 3門[注釈 3] |
装甲 |
甲板1 in (25 mm) または甲板水平部1⁄2 in (13 mm)[2] 同傾斜部1 in (25 mm)[2] |
その他 | 船材:鋼 |
出典の無い要目値は[3]による。 |
元はチリ海軍の「エスメラルダ」(スペイン語: Esmeralda、「エメラルド」の意味)。世界で最初に完成した防護巡洋艦である[15]。 いわゆるエルジック・クルーザーの第1艦になる[1]。 建造中の1883年に本艦を日本に売却の意向ががあり、日本側も購入を一度決定したが後に中止となった[1]。
日清戦争開戦により日本海軍が1894年に再度購入し[1]、 「和泉」と命名した[4]。 回航が遅れたために[1]、 日清戦争は末期に従軍したのみとなった[14]。 (または就役は日清戦争終結後となった[2]。) 義和団の乱では南清に派遣、 また日露戦争に従軍した[14]。 日本海海戦では「信濃丸」に続きバルチック艦隊への接触を続けて偵察報告を発信し続けており、『日本巡洋艦史』(1991)では「日本海海戦の殊勲艦であろう」としている[1]。
本艦はいわゆるエルジック・クルーザーの原点である。これはエスメラルダがアームストロング社のエルジック造船所で建造されたことに由来する呼称だが、本艦と同形式の設計で造られた防護巡洋艦は、他の造船所で建造されていてもエルジック・クルーザーという俗称で呼ばれる。
日本海軍の所有したエルジック・クルーザーは以下の通り
本艦の設計はチリ沿岸の静水面での運用を想定しており、比較的波の荒い日本近海での運用には復原性能に難があった[2]。 このために日本海軍では兵装を換装するなどので復原性能の改善を図ったとされる[2]。
Infoboxの値は主に『公文備考』(明治39年)に収録の「大日本帝国軍艦一覧表」(明治38年8月調)[3]による。 その他の文献による要目値は以下の数値がある。
ボイラーは円缶 両面4基を装備した[8]。 蒸気圧力は93 psi (6.5 kg/cm2)[8]、 または90 psi (6.3 kg/cm2)[16]。
主機は横置2段2筒レシプロ 2基を装備[9]。 気筒直径は高圧43 in (1,092 mm)、低圧82 in (2,083 mm)、行程36 in (914 mm)[17]。 復水器は真鍮製円筒形の触面復水器で2基を装備した[17]。
推進器は青銅製の3翼改良グリフィス型で直径14 ft 10 in (4,521 mm)、ピッチ17 ft 2+11⁄16 in (5,250 mm)、翼の総展開面積は106.36 sq ft (9.881 m2)[17]。
「和泉」は日清戦争終結後も常備艦隊にあって就役を続けていたが、缶管の腐食による漏洩が度々有り、また主機の摺動部分の摩耗も進み、1896年 (明治29年) 7月から1897年 (明治30年) 5月にかけて横須賀鎮守府造船部で機関部の修理を行った[16]。 蒸気圧力を60 psi (4.2 kg/cm2)に下げ、公試では自然通風全力運転で回転数96rpm、出力3,133 ihp (2,336 kW)、速力15.2ノット (28.2 km/h)を得た。
その後もボイラーの1基が著しく老衰するなどしたため、1898年(明治31年)6月から機関修理を横須賀海軍造船廠で実施[17]、
この時にボイラーを同形式のものと換装した[18]。
ボイラーは鋼製、直径は前部ボイラー2基が12 ft 11 in (3,940 mm)で後部の2基が13 ft 0 in (3,960 mm)、炉筒はパーブス型が各ボイラーに6基ずつあった[18]。
実施日 | 種類 | 排水量 | 回転数 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
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自然通風全力 | 98rpm | 3379馬力 | 15.398ノット | [17] |
『Conway 1860-1905』(1979)によると1901年 (明治34年) にボイラーをニクロース式缶に換装した[2]。
日露戦争時点での出力等は以下の通り[19]。
艦首に衝角を持つ[20]。 砲熕兵装はInfoboxを参照。 水雷兵装は『Conway1860-1905』(1979)によると15 in (38.1 cm)魚雷発射管 3門[注釈 3]
[注釈 3]を装備した。
1897年時点で40ポンド安砲が試験装備されている[21]。
1899年 (明治32年) 4月に37mm5連保砲を降ろして保式47mm重速射砲2門の装備を計画したが、砲の在庫が無く装備は見送られた。 7月の時点での装備砲は以下の通り[22]。
10月に37mm5連保砲の代わりに37mmクルーゾー速射砲の装備を計画したが、クルーゾー砲の威力不足の判明し中止された[24]。
1901年(明治34年)7月に横須賀造船廠で主砲の安式(アームストロング)30口径25.4cm単装砲2基陸揚[25]、 翌年にかけて安式45口径15.2cm単装速射砲2基へ換装した。 同時に副砲の安式40口径15.2cm単装砲6基を安式40口径12cm単装速射砲6基に換装した。また魚雷発射管を15 in (38.1 cm)から18 in (45.7 cm)に換装した15 in (38.1 cm)魚雷発射管 3門[注釈 3]。 ファイティング・トップ(ミリタリーマストの速射砲を据えるスペース)も撤去された。
1906年時点の砲熕兵装は以下の通り[26]。
エスメラルダ | |
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基本情報 | |
建造所 | アームストロング社[2]エルジック造船所 |
運用者 | チリ海軍 |
艦種 | 防護巡洋艦[27] |
艦歴 | |
起工 | 1881年4月5日[2] |
進水 | 1883年6月6日[2][27] |
竣工 | 1884年7月15日[2] |
就役 | 1884年10月16日 |
その後 | 1894年11月15日に日本へ売却[27] |
要目([27]による) | |
排水量 | 2,950ロングトン (2,997 t) |
垂線間長 | 270 ft (82.30 m) |
幅 | 42 ft (12.80 m) |
吃水 | 18 ft 6 in (5.64 m) |
ボイラー | 円缶 4基 |
主機 | 直立多段レシプロ |
推進 | 2軸 |
出力 | 6,803 ihp (5,073 kW) |
速力 | 18.3ノット (33.9 km/h) |
燃料 |
石炭:常備600ロングトン (610 t) 満載800ロングトン (813 t) |
乗員 | 296名 |
兵装 |
30口径10 in (25.4 cm)単装砲 2門 26口径6 in (15.2 cm)単装砲 6門 6ポンド単装砲 2門 14 in (35.6 cm)水上魚雷発射管 3門 |
装甲 |
防護甲板:2 in (51 mm) - 1⁄2 in (13 mm) 防楯:2 in (51 mm) - 1+1⁄2 in (38 mm) 司令塔:2 in (51 mm) |
アームストロング・ミッチェル社ロー・ウォーカー造船所で建造[15]。1881年4月5日起工[15]。1883年6月6日進水[15]。1884年7月15日竣工[15]。
1891年1月に始まった内戦では議会派が海軍を掌握しており、「エスメラルダ」もそちら側に属す[28]。1月6日時点で「エスメラルダ」は「ブランコ・エンカラダ」、「O'Higgins」、「マガジャネス」とともに就役状態でバルパライソ湾にあった[29]。まず「エンカラダ」はタルカワノへ新兵徴募と兵器、資金調達のため派遣され、その後はタラパカ州州沿岸の封鎖支援に向かっている[30]。2月19日のイキケでの戦闘の際は「エスメラルダ」も砲撃を行った[31]。
3月12日の夜明け、「エスメラルダ」は「Imperial」(政府側の水雷砲艦の母艦)と遭遇[32]。追跡したが、船底が汚れていた「エスメラルダ」は距離を詰めることができなかった[33]。夕刻には窯から灰をかき出すため「Imperial」が速度を落とすといったこともあったが、結局日没後に「Imperial」には逃げられた[33]。
議会派の軍は8月20日にバルパライソの北に上陸し、28日にバルパライソを占領した[34]。その前の8月18日、そのような進攻を支持者へ伝える合図として「エスメラルダ」はConcón沖で発砲した[35]。その後Forts Valdiviaから砲撃を受けたが被害はなかった[36]。8月20日、バルパライソから出てきた水雷艇「Sargente Aldea」、「Guale」を「エスメラルダ」と「マガジャネス」、「Biobio」は追い払った[37]。8月21日、議会派の軍のアコンカグア川渡河の際、「エスメラルダ」は「O'Higgins」などと共に支援[38]。8月23日のFort Callao攻撃時には「エスメラルダ」は「アルミランテ・コクレーン」、「O'Higgins」とともに砲撃を行った[39]。
1894年 (明治27年) に日清戦争に伴う戦力増強のため、チリ政府から日本海軍が購入した。この購入案は海軍ではなく内務省県治局長であった江木千之の案で、江木が内務大臣井上馨を説得し、井上が内閣に提出したものである[40]。
この時チリは中立を維持するために、「エスメラルダ」を一旦エクアドル政府に売却してから日本に売り渡した[41]。引き渡しはガラパゴス諸島で行われ、日本に到着するまでエクアドル国旗は降ろされなかった[42]。
1895年(明治28年)1月8日、艦籍に編入され「和泉」と命名、横須賀鎮守府の所管と定められた[4]。 2月5日横須賀に到着[14]、 3月25日大砲公試発射を実施した[43]。
金州警備に従事した。
1896年 (明治29年) 3月3日午前10時過ぎに艦首下甲板で爆発が起きた[44]。 左舷塗具室下層に保管していた揮発油が容器から漏れ、その下の区画へ垂れ落ちて区画内で一部が気化、点検で入った乗員3名のうちの1名の持っていた灯火から引火し爆発が起きたと推定された[45][46]。 乗員1名が即死し8名が重軽傷を負った[47]。 被害は左舷下士室衣嚢棚が破損、近くの砲座2基に緩みが見られ[48]、 当該カ所の外板が緩んだ[20]。
6月15日に明治三陸地震が発災、「和泉」は6月22日に但馬国津居山 (現在の兵庫県豊岡市津居山) を出発し24日午前0時13分に八戸沖に到着[49]、 以後宮古方面の被害状況を調査した[50]。 25日には宮古で陸軍工兵53名などを乗せ、山田町へ移送[51]、 26日宮古に戻り、27日は山田町を経由し釜石に移動、同方面(釜石町、鵜住居町、大槌町)の被害状況を調査[52]、 以後も寄港地方面の被害状況を調査した[53]。 28日に久慈へ移動[54]、 また同日夕刻に八戸へ移動、内務大臣一行をこの地で降ろした[55]。 八戸以北は被害が少ないため同地で調査を一旦中断、同日夜に八戸を出航し函館で補給を行った[55]。 7月2日函館を出航したが荒天のため引き返し、3日に再度出航、4日午前6時28分船越に到着した[56]。 午後に吉里吉里へ[57]、 夕方に大槌湾へ[58]、 その後釜石へ移動した[59]。 7月5日午後に大船渡へ[60]、 7月8日午前に綾里 (現大船渡市三陸町綾里) へ、午後に気仙沼へ移動した[61]。 翌9日午前志津川へ、午後女川湾へ移動、宮城県下の被害は今まで見てきた岩手県各地よりは少ないと報告されている[62]。
1897年 (明治30年) 7月22日常備艦隊へ編入、翌23日に横須賀を出航し清水港に回航した。 同地で装薬試験等を、駿河湾で諸訓練や演習を実施した。 8月5日清水から館山湾へ回航、翌6日に横須賀に帰港した。 8月13日に横須賀から横浜港に回航し艦隊と合流した。 8月24日に「松島」「鎮遠」「厳島」と共に横浜を出航し萩の浜(現在の宮城県萩浜港)、釜石、宮古、青森、大湊、野辺地を経て再度青森に寄港した。 9月6日に「鎮遠」「扶桑」と共に青森を出航し函館、厚岸、松ヶ浜、単冠、床丹、保内、稚内、小樽の諸港を経由、9月21日函館に到着した。 同月25日に函館を出航し船川、夷港、穴水、小浜、舞鶴、浦ノ郷[注釈 4]、釜山を巡航、10月19日佐世保に到着した。 10月23日に「松島」「厳島」「須磨」と共に佐世保を出航、宇品を経て呉ヘ回航、同地での「宮古」の進水式 (10月27日) に臨んだ。 同月29日に「松島」「厳島」「鎮遠」「扶桑」と共に呉を出航し長浜に回航、同地では「扶桑」が接触、坐洲の事故を起こし、「和泉」は呉と現場を往復した。 11月22日「厳島」「須磨」と共に呉から神戸ヘ回航、27日神戸を出航し横須賀に帰港した。 12月1日に横須賀を出航、清水で演習を実施し8日に帰港した。 以後は横須賀で小修理を実行、入渠し艦底塗り替えをするなどした。 1898年 (明治31年) 2月6日に「松島」「秋津洲」と共に横須賀を出航し清水へ回航、同地で演習を行い、3月2日横須賀に帰港した。 「和泉」は3月9日付で常備艦隊から除かれた。 (この項は明治31年3月18日「軍艦和泉在隊中ノ状況報告」[63]による。)
同年3月21日、三等巡洋艦に類別。
同1898年3月から大修理が行われた。
1899年 (明治32年) 9月27日に公試運転が行われたが、自然通風全力公試運転の準備中に左舷のストラトブロックが破損し公試は中止、修理には60日ほどが予定された[64]。 11月22日から公試を再開し[65]、 23日に大砲公試[66]、 30日に自然通風全力6時間続航を行い、12月1日に公試を終了した[67]。
1903年(明治36年)12月28日、第三艦隊(司令長官:片岡七郎中将、旗艦:防護巡洋艦厳島)隷下の第六戦隊(須磨(戦隊旗艦)、和泉、千代田、秋津洲、司令官:東郷正路少将)に配属される。
日露戦争に際しては、旅順攻略作戦、対馬海峡警備、日本海海戦、樺太作戦等に参加した。日本海海戦では、(1905年5月27日の)午前6時過ぎに仮装巡洋艦信濃丸からバルチック艦隊への触接任務を引き継いだ。また装甲巡洋艦「ヴラジーミル・モノマフ」と砲戦を行った。
1912年(明治45年)4月1日除籍[5]、 廃艦[7]。 同年 (大正元年) 11月11日に売却処分の訓令が出された[68]。 旧「和泉」は翌1913年 (大正2年) 1月13日[要出典]に (90,075円で[6]) 売却、 1月15日に引き渡され[6]、 長崎で解体された。
和泉の船首に付いていた菊花紋章は現在、記念艦三笠内に展示されている。
石川県鳳珠郡穴水町大町にある穴水大宮の境内には、和泉の副砲とされる砲が野外保存されている。同町内の美麻奈比古神社の境内にも、和泉のものとされる砲が保存されている。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
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