千歳 (防護巡洋艦)

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千歳 (防護巡洋艦)

千歳(ちとせ)は、日本海軍防護巡洋艦(日本海軍の類別は二等巡洋艦[3][4]笠置型の2番艦である。 艦名は「永遠・永久」の意味[5]。 外交上の問題からアメリカユニオン鉄工所に発注された。 艦名は千歳型水上機母艦(空母)「千歳」に引き継がれた[6]

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艦歴
計画第一期拡張計画[1]
起工1897年5月1日
進水1898年1月22日
就役1899年3月1日
除籍1928年4月1日
その後1931年7月19日 撃沈処分
性能諸元
排水量常備:4,760t
全長115.2m
全幅14.9m
吃水5.3m
機関二軸レシプロ蒸気機関、円罐12
15,500馬力
最大速22.25ノット
兵員434名
兵装45口径20.3cm単装速射砲 2門
40口径12cm単装速射砲 10門
40口径7.6cm単装速射砲 12門
4.7cm単装速射砲 6門
35.6cm水上魚雷発射管 4門
装甲甲板傾斜部:89mm
信号符字GQJV(1898年~)[2]
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艦歴

要約
視点

1897年(明治30年)、日本海軍はイギリスとアメリカで建造される軍艦4隻の艦名を検討、第二号二等巡洋艦は笠置または矢作を予定していた[7]。 3月26日、4隻は正式に命名[3]。第二号二等巡洋艦は千歳と命名された[3][8]。同年5月1日、「千歳」はサンフランシスコで起工[5]1898年(明治31年)1月22日、進水[9][5]。同年3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[10]。該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[11][4]1899年(明治32年)3月1日、「千歳」は竣工[5]。3月21日、日本に向けアメリカを出発[12]4月20日横須賀港へ到着した[5][13]。 12月25日、沼津御用邸滞在中の東宮(嘉仁親王、のち大正天皇)は、戦艦「八島」に乗艦(千歳は供奉艦)[14][15]。12月26日、2隻(八島《御召艦》、千歳《供奉艦》)は横須賀に到着した[16]

北清事変では1900年(明治33年)7月から翌年9月にかけて大沽芝罘方面に出動した。 帰国後の10月、明治天皇皇太子(のちの大正天皇)が北九州地方を巡啓することになり、「千歳」は御召艦に指定される[17][18]。10月18日、皇太子は舞子兵庫県)で「千歳」に乗艦[19][20]瀬戸内海を航行して10月19日に門司港で「千歳」を降りた[19][20]。 皇太子は北九州(福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県)各地の神社・造船所・鎮守府等を巡啓後、10月30日に門司で「千歳」に乗艦[19][21]。10月31日、舞子で下艦して有栖川宮威仁親王邸宅に入り、「千歳」は御召艦任務を終えた[19][21]

1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[22]。12月28日、常備艦隊が解隊され、笠置は第一艦隊隷下の第三戦隊(司令官:出羽重遠海軍少将、防護巡洋艦《千歳笠置吉野高砂》)に配属される[23]。当初は戦隊旗艦とされたが、八雲が戦隊に臨時編入されるとこれを譲り、八雲転出後も笠置に譲った。

日露戦争に際しては、黄海海戦宗谷沖海戦日本海海戦等に参加[5]。戦勝後の1905年(明治38年)10月23日、横浜沖で挙行された凱旋観艦式に参列、第二列に配置された[24]。12月20日、中国大陸在住の邦人保護のために新設された南清艦隊(司令官:武富邦鼎海軍少将、防護巡洋艦《高千穂千歳》、砲艦《宇治隅田》)所属となる[25]1906年(明治39年)6月1日、同艦隊を離れる[26]。12月9日、通船の事故により、兵員65名、見送人15名、計83名が死亡。[27]

1907年(明治40年)2月28日、第二艦隊司令長官伊集院五郎中将指揮下の2隻(巡洋戦艦筑波、千歳)は横浜を出発[28]アメリカ殖民300年祭記念観艦式ハンプトン・ローズ)に参加し、その後ヨーロッパ各国を歴訪した。12月27日、明治天皇は「筑波」に乗艦、同時に「千歳」を親閲した[29][30]1908年(明治41年)6月、伏見宮貞愛親王は舞鶴において本艦に乗艦する[31]

1914年大正3年)8月28日、第二艦隊隷下に第六戦隊(防護巡洋艦《千歳、秋津洲、千代田》)を編成[32]第一次世界大戦では、青島攻略戦に参加[5]。さらにメキシコ湾岸、南中国での作戦に従事した。

1915年(大正4年)12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列[33]

1920年(大正9年)12月1日、砲艦宇治・嵯峨鳥羽伏見・隅田と共に第一遣外艦隊(司令官:吉田増次郎海軍少将)を編成[34]

1921年(大正10年)9月1日、日露戦争で活躍した各艦は海防艦に種別変更される[35]。「千歳」は二等海防艦に類別された[36]

1928年(昭和3年)4月1日、除籍[5]。2隻(千歳、明石)は海防艦より削除[37]。本艦は廃艦第1号と仮称[38]

1931年(昭和6年)7月19日、第一航空戦隊赤城鳳翔)航空隊が演習に参加[39]。廃艦1号(千歳)は土佐沖で撃沈処分された。昭和天皇弟宮高松宮宣仁親王は戦艦霧島乗艦、陸軍大学校教官朝香宮鳩彦王少将は戦艦日向乗艦、他多数高官や議員が各艦に便乗し、戦技を見学した[40][41][42]

艦長

要約
視点

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

回航委員長
艦長
  • 桜井規矩之左右 大佐:1898年10月27日 - 1899年5月1日
  • 細谷資氏 大佐:1899年10月13日 - 1900年5月20日
  • 中尾雄 大佐:1900年5月20日 - 1901年3月13日
  • 寺垣猪三 大佐:1901年3月13日 - 1903年1月12日
  • 佐々木広勝 大佐:1903年1月12日 - 7月7日
  • 高木助一 大佐:1903年7月7日 - 1905年12月12日
  • 小花三吾 大佐:1905年12月12日 - 1906年5月10日
  • 山屋他人 大佐:1907年1月14日 - 12月27日
  • 茶山豊也 大佐:1907年12月27日 - 1908年9月15日
  • 山田猶之助 大佐:1908年9月15日 - 12月10日
  • 高島万太郎 大佐:1908年12月10日 - 1909年12月1日
  • 釜屋六郎 大佐:1909年12月1日 - 1910年10月26日
  • 榊原忠三郎 大佐:1910年10月26日 - 1911年1月16日
  • 水町元 大佐:1911年1月16日 - 6月12日
  • (兼)岩村団次郎 大佐:1911年6月12日 - 8月1日
  • 川浪安勝 大佐:1911年8月16日 - 1911年12月1日
  • 山崎米三郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年4月20日
  • (兼)山口鋭 大佐:1912年4月20日 - 5月22日
  • 荒西鏡次郎 大佐:1912年5月22日 - 1913年12月1日
  • 中川繁丑 大佐:1913年12月1日 - 1914年1月24日
  • 三輪修三 大佐:1914年1月24日 - 5月27日
  • 本田親民 大佐:1914年5月27日 - 11月16日
  • (心得)土師勘四郎 中佐:1914年11月16日 - 12月1日
  • 土師勘四郎 大佐:1914年12月1日 - 1916年5月11日
  • 中村正奇 大佐:1916年5月11日 - 1917年7月16日
  • 白根熊三 大佐:1917年11月9日 - 1918年7月11日
  • 橋本虎六 大佐:1918年7月23日[43] - 1919年11月20日[44]
  • 福村篤男 大佐:1919年11月20日[44] - 1920年2月13日[45]
  • 平岡善之丞 大佐:1920年2月13日[45] - 11月20日
  • 遠藤格 大佐:1920年11月20日 - 1921年12月1日
  • 原道太 大佐:1921年12月1日[46] - 1922年11月10日[47]
  • (心得)木岡英男 中佐:1922年11月10日[47] - 12月1日
  • 木岡英男 大佐:1922年12月1日[48] - 1923年2月15日[49]
  • 岩崎猛 大佐:1923年2月15日[49] - 1923年11月10日[50]
  • (兼)益子六弥 大佐:1923年11月10日- 1924年3月25日
  • (兼・心得)三矢四郎 中佐:1924年3月25日[51] - 5月10日[52]
  • (心得)今川真金 中佐:1924年5月10日[52] - 不詳
  • 今川真金 大佐:不詳 - 1924年12月1日[53]
  • (兼)今川真金 大佐:1924年12月1日[53] - 1925年1月15日[54]

同型艦

脚注

参考資料

関連項目

外部リンク

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