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日本の氏族 ウィキペディアから
畠山氏(はたけやまし/はたけやまうじ)は、武家・士族だった日本の氏族。桓武平氏系と清和源氏系の2家系あり、前者は秩父氏一族で平安時代末から鎌倉時代初期の豪族だが、北条氏に滅ぼされた(こちらについては畠山氏 (平姓)参照)[1]。後者は足利氏一族で室町時代に守護大名、幕府管領家として栄えた[1]。しかし同家の家督争いが応仁の乱の一因となり、その後も内紛が続いて没落した[1]。江戸時代には高家として残り、明治維新後「足利」に復姓して士族[2]。分家に能登の守護を代々世襲した能登畠山氏もあり[1]、こちらも江戸時代の高家を経て維新後士族となった(こちらは畠山姓のまま)[3]。
坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。
その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女[注釈 1]と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった[注釈 2]。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。
義純の家系(源姓畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の中で別家扱いの足利尾張家(武衛家、いわゆる斯波家)に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。
建武3年(1336年)に足利尊氏が室町幕府を創立すると、畠山家はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。足利家の内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清は足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、その一方で畠山家嫡流の畠山高国・国氏父子は、観応2年(1351年)直義派の吉良貞家に敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松に移った(奥州畠山家)。
本来の嫡流である奥州畠山家が衰退する中で、畠山国清の家系(金吾家)が畠山家の惣領格となる。国清は関東管領に任命されて東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立し、康安元年(1361年)に失脚した。国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深がのちに守護に任命され畠山家を再興させる。義深の子・畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱で功績を挙げるなどして足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど守護大名として力をつける。
応永5年(1398年)には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家や細川京兆家とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。基国の子・畠山満家は義満には冷遇されたが、足利義持の代になってから表舞台に復帰して管領に就任する。満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む足利義教の干渉に苦しめられるが、畠山家の内紛を鎮めて細川家や山名家と拮抗(きっこう)する勢力を維持した。
しかし、持国の子畠山義就と甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(総州家)と政長流(尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。
江戸時代においては尾州畠山家と能登畠山家が高家として残った。明治維新後、尾州畠山家の当主畠山基永は足利に復姓して士族に編入された[2]。能登畠山家の方は畠山姓のまま士族となった[3]。
1884年(明治17年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元高家が元交代寄合とともに男爵に含まれており、足利家(尾州畠山家)と能登畠山家も男爵を授けられるべき家にあげられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も対象外となったため結局両家は士族のままだった[7]。
奥州二本松城に拠った、かつての奥州四管領の一雄・畠山家の後裔であり、二本松畠山氏、二本松氏とも呼ばれる。源姓畠山氏の祖である足利義純の嫡流は、本来この二本松の奥州畠山家であったが、観応の擾乱において畠山高国・国氏は足利直義方の吉良貞家に敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松に移ったが、戦国時代には、一国人にまで衰退した。
天正13年(1585年)、当時の当主・二本松義継が伊達氏との抗争の中で討死し、まもなく国人領主としての二本松氏も滅亡する。彼の次男である二本松義孝は蘆名氏や佐竹氏などに仕えた後、徳川氏譜代大名である水野氏に仕えた。水野忠邦の転封運動に反対して諌死(かんし)した家老・二本松義廉はその子孫である。
(10代略)
代々、衛門督や衛門佐に任じられたため金吾家(金吾は衛門府の唐名)とも称された。本来の嫡流である奥州畠山家が冷遇されたのとは対照的に、庶流である畠山国清は知勇に優れていたため重用され、紀伊国および和泉国の守護となり、後に河内国の守護にも任命された。これが河内畠山家の始まりである。
観応の擾乱においては国清は当初は直義派であったが、嫡流で尊氏派であった高国・国氏父子の敗北した後まもなく尊氏派に鞍替えし、没落した奥州畠山家に代わって畠山家の惣領格となる。鎌倉の足利基氏を補佐する関東執事(関東管領)として活躍し、さらに将軍足利義詮の執事細川清氏と共に仁木義長を追放して一時中央の政務を壟断したが、のちに義詮や基氏と対立し失脚し、河内畠山家は畠山国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれる。
義深の子の畠山基国は当初は鎌倉公方に仕えていたが、足利義満の側近として京の室町幕府を中心に活動するようになり、管領家の細川京兆家と斯波武衛家が対立する中で第三勢力として台頭、能登国の守護職を獲得し、のちに畠山家の人物として初めての管領職に任命される。これ以降、河内畠山家は代々管領を輩出する家柄となった。ちなみに現在の京都市上京区畠山町は、この付近一帯に管領畠山氏の邸宅があったことに由来する地名である。
畠山満家・畠山持国は管領として幕政において重きをなしたが、持国の後継を巡り畠山政長と畠山義就の子孫が互いに争い、応仁の乱後も両家が分裂し、内紛を続けた。西軍であった義就流畠山家は官途の上総介から総州家、東軍であった政長流畠山家は官途の尾張守から尾州家をそれぞれ称した。
応仁の乱前後に、畠山氏の家臣団はそれぞれ政長方、義就方に分かれるなど混沌とした。戦国時代になり畠山氏の当主の権力が弱くなるにつれて、在地勢力でもあった「国人衆」・「大和衆」が力を有するようになったが、守護代として権力を掌握した遊佐氏・神保氏は「鎌倉衆」「鎌倉以来」の家柄であった。畠山家の家臣団は大きく分けて、出身により「武蔵衆」、「足利衆」、「鎌倉衆」、「国人衆」、「大和衆」の五系統に分かれる。
応仁の乱の最中に山名宗全と細川勝元が死去したのち、東・西両軍の和睦が進められる中、畠山義就は講和に反対し、文明9年(1477年)9月21日に畠山尾州家の政長討伐のために河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐長直を若江城から追い河内を制圧した(若江城の戦い)。また、義就派の越智家栄と古市澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の11月11日、東西両軍の間で講和が成立し、西軍は解散した。文明14年(1482年)に幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。
義就の跡を継いだ畠山義豊は、明応2年(1493年)に10代将軍足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、細川政元と同盟した義豊は、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れた。しかし、明応6年(1497年)、義豊の家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡、明応8年(1499年)に河内で戦死した。
義豊の子の畠山義英は細川政元の後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めたが、義英は畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した。更に、永正4年(1507年)に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪い返した。その後の両細川の乱において、義英は阿波国の細川澄元の娘を子の畠山義堯の妻に迎えて同盟し、足利義材を擁する細川高国、大内義興、畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けた。
畠山義堯は重臣の木沢長政の補佐を受け、大永7年(1527年)、細川高国が桂川原の戦いに敗れて高国政権が崩壊すると、阿波国の細川晴元が擁していた足利義維が和泉国堺に上陸し堺公方が成立した。義堯は管領に就任し、阿波細川家の重臣の三好元長と共に細川高国派の朝倉宗滴と戦っている(川勝寺口の戦い)。さらに、享禄5年(1532年)三好元長と共に、離反した木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲し、戦局を優位に進めていたが、木沢長政の支援に現れた一向一揆に敗れて、義堯は自刃した(飯盛城の戦い)。
家督は義堯の子の畠山在氏が継いだ。しかし実権は木沢長政が掌握しており、天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて木沢長政が三好長慶と遊佐長教により敗死すると、木沢長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡した。なお、在氏の子、畠山尚誠は足利義昭の上洛を助け、義昭による足利将軍家継承を実現させた。これには、尾州家も協力した。その後の消息は不明である。
文明9年(1477年)に終結した応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長は管領となったが、文明17年(1485年)に山城国一揆が起こり失脚、山城守護の任を解かれた。その後、細川政元と対立する10代将軍足利義材に政長は重用され、明応2年(1493年)には、遂に将軍自らによる畠山総州家討伐が実行された。しかし、その遠征中に細川政元、日野富子によりクーデターが起こされる。政長は子の畠山尚順を逃して討ち死にし、足利義材は将軍の座を失った(明応の政変)。
紀伊に逃れた畠山尚順は、足利義材を擁し周防国から上洛した大内義興や細川高国と結んで船岡山合戦に参戦し、総州家の畠山義英を破った。しかし、管領には細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。尚順は領国運営の為、嫡子の畠山稙長と二元政治を行なった。その後、管領・細川高国と将軍・足利義材が対立すると稙長は細川高国、尚順は足利義材に味方し、永正17年(1520年)に尚順は堺に追放された。しかし、畠山稙長も天文3年(1534年)に遊佐長教により追放され、その後はも畠山長経、畠山晴熙、畠山弥九郎と尾州家の当主が短期間に交代し、太平寺の戦いに乗じて稙長が再度復帰、稙長没後は畠山政国が名代となる。
天文20年(1551年)に遊佐長教が刺客により暗殺されると、政国の子の畠山高政が実権を復した。高政は、三好長慶、三好実休、三好三人衆と争い、足利義昭や織田信長と結んだ。その後、高政は隠居したが、天正元年(1573年)に信長派だった弟の畠山秋高が義昭派の遊佐信教に殺され河内守護家は滅亡する。高政は河内奪還を図るも果たせず、天正4年(1576年)死去した。
その後、高政の弟・政尚の子である畠山貞政は紀伊に拠点を移し勢力を盛り返した。貞政は徳川家康と連携するなど、羽柴秀吉に対抗した。しかし後に豊臣政権により放逐され尾州家は全領地没収という形でついに完全に滅亡した(紀州征伐)。
貞政の子である畠山政信は大和で放浪中豊臣家重臣の片桐且元に出会い、片桐家に仕官することとなった。人柄を認められ且元の娘婿となり片桐家重臣となる。政信は能書家としても極めて有能であり豊臣秀頼の祐筆として且元に推薦されることによって豊臣家の直臣となった。しかしやがて片桐且元が豊臣家から徳川家へと主人を変えると、且元の近親であった政信も豊臣家にいづらくなり豊臣家を退散し徳川家に仕えた。
徳川家康は名族好きで知られた戦国武将であり畠山家が河内紀伊大和を領した名家であることから江戸城内の典礼を司ることなどを命ぜられ将軍家近侍を仰せつかる。
政信の子孫は江戸幕府の高家の内の一家となって、その後も幕末まで家系は続いた。明治維新後の当主畠山基永は足利に復姓して士族となった[2]。
七尾畠山家ともいわれる。歴代の当主が修理大夫に任じられたため、その唐名より畠山匠作家とも称された。修理大夫は畠山国清が称した官位であることから、没落した畠山国清系統の再興を意図したのではないかとの指摘がある[8]。
能登国は、当初は吉見家が守護を務めていたが、康暦の政変において細川頼之派であった吉見氏興が失脚し、代わって守護となった本庄宗成(義満の寵臣の一人で元々日野家の家人)もまた統治に失敗があったため、足利一門にして足利義満の信頼の厚かった畠山基国が守護となり、以降は畠山家の分国となった。
初代当主である畠山満慶は、父である畠山基国の没後、当時足利義満の逆鱗に触れて蟄居していた兄・畠山満家に代わって畠山家本家の家督を継いでいたが、義満の没後に満家が赦免されたため、満慶は家督を兄満家に返還した(当時は「天下の美挙」と言われた)。兄の満家は感謝の意から分国のうち能登一国を満慶に与え、応永15年(1408年)に畠山満慶を初代とする能登畠山家が創設された。
満慶と第2代当主・畠山義忠は、在京守護であり、所領の支配は守護代の遊佐家に委ねられていたが、応仁の乱後、第3代当主・畠山義統が能登に下向したことで在国大名となり、強力な領国支配体制を築き定着していったことで、他国の守護大名分国で起こったような下剋上が能登では起こらなかった。
しかし、第4代当主・畠山義元の時、弟の畠山慶致との間で兄弟争いが起こり、明応9年(1500年)には慶致派の守護代の遊佐統秀によって義元は追放され、第5代当主に弟の慶致が擁立された。だが、一向一揆など戦国の状況が能登でも差し迫ってくると、永正3年(1506年)、両者は和解して義元は復帰して再び当主となった(その代わりの条件として、慶致の子・義総が義元の後継者と設定された)。
第7代当主・畠山義総は名君であり、畠山氏のお膝元である七尾は都から公家も転居してくるなど小京都と呼ばれるほどに栄え、能登畠山家もまた大いに繁栄した。
しかし義総が死去し第8代当主として畠山義続が家督を継ぐと統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる重臣の権力者グループに実権を握られ大名は傀儡化されてしまう。第9代当主・畠山義綱のときに一時、内乱を鎮圧し大名権力を奪回し大名専制支配を行ったが、重臣たちの反発を招き、当主の追放というクーデターに発展した。その後はまた重臣たちに権力を握られ、内部紛争が続き衰退の道をたどった能登畠山家は、天正5年(1577年)に越後の上杉謙信の侵攻を受けて滅亡した。義綱の弟・畠山義春(上杉義春)は上杉景勝に仕え、その姉を正室に迎えて上条上杉家の名跡を継いだ。
上杉義春(入庵)は豊臣秀吉の直臣となり、天正15年(1587年)、河内国高安郡のうち500石を与えられる。天正18年(1590年)摂津国豊嶋郡に300石を加増され、文禄・慶長の役では肥前国の名護屋城に在陣している。翌年、河内国交野郡に700石を加増され、父の遺領を合わせて1500石を知行した。 関ヶ原の戦いで義春は東軍に属し、1601年、自領とは別に次男の上杉長員に下総国印旛郡ほか1,490石を加増。長員は高家旗本の上杉家の祖となる。
義春の長男・畠山景広は上杉景勝に仕え続けて米沢藩の一門衆・重臣となった。三男・畠山義真が父の実家である能登畠山氏の名跡を継承し、江戸幕府高家肝煎畠山家の初代となった。江戸時代中期、当主は江戸猿楽町や木挽町に居住していた。
上杉綱勝が僅か8歳で米沢藩3代藩主となると、義真は江戸城登城の際に必ず同伴するなど、後見的な役割を果たした。万治2年(1659年)に隠居し、家督を次男・義里に譲った。延宝2年(1674年)、90歳を超える長寿で大往生した。
義里の長男・義寧も、米沢藩上杉家の江戸屋敷にしばしば出入りしており、また自身の三男・知義を高家上杉家(上杉義陳)の養子に出している。元禄15年(1702年)12月15日、赤穂浪士たちに対して父の復讐のため追討軍の派遣を企図した上杉綱憲を諌止している。しかし、創作(小説や映画、ドラマなど)では、史実と異なりその役割は、上杉家の名家老だった千坂高房や色部安長に変更されている。
その後も高家・能登畠山氏には、上杉吉憲の三男である義紀が養子入りするなど、米沢藩とは関係が強かった。
維新後は足利に復姓した本家と異なり畠山姓のまま士族となった[3]。
宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の長男として誕生した上杉勝熙は、後に畠山氏を称する[9]。
勝煕の子である斉定や勝義が米沢藩主や支藩の米沢新田藩主を継ぎ、以後この両家は廃藩置県の後に至るまで(上杉宗家は現在まで)勝煕の血筋で続くこととなる。
このため、畠山上杉氏は、三男・勝庸が継承、長男・勝輝、その弟・勝広、勝持(勝広の子)、勝嘉と続く[10]。米沢藩には前項のように上杉景広の子孫が米沢藩の一門重臣・能登畠山氏としてあるが、勝煕の家は藩主家族の扱いで明治に至る。
太線は実子、細線・二重線(縦)は養子、二重線(横)は婚姻関係。
秩父重弘 ┃ 畠山重能 北条時政 足利義兼 新田義兼 ┏━━╋━━┓ ┃ ┃ ┃ 重清 重宗 重忠 ========= 六女 ======== 足利義純 ======== 女子 ┏━━┳━━┳━━┳┻━┓ ┃ ┣━━━━━━━┓ 重政 重慶 重俊 重季 重保 畠山泰国 岩松時兼 田中時朝 ┏━━━━━━━━━━━┫ ┃ ┃ (美濃畠山家) (嫡流) (岩松氏へ) (田中氏へ) 義生 時国 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ┃ (嫡流・奥州家) 義方 貞国 高国 ┃ ┃ ┣━━━━━━┓ 宗義 家国 直泰 国氏 ┃ (河内守護家) (奥州管領) ┏━━┳━━┫ ┏━━┳━━╋━━┳━━━━━┓ ┃ 直顕 宗国 宗生 国清 国頼 義熈 清義 義深 国詮 ┃ ┏━━┫ ┃ ┣━━┳━━━┓ ┣━━━━┳━━━━┳━━━┓ 直宗 宗基 義清 満熈 基国 深秋 石垣満国 本宮満国 鹿子田満詮 満泰 新城氏泰 ┏━━┫ ┣━━━━━┓ ┏━━━━╋━━━┓ 満純 清貞 満家 満慶 満盛 持重 高玉家重 ┃ ┃ ┃ (能登守護家) ┃ ┃ ┃ ┃ ┏━━━┳━━┳━━┫ ┣━━┓ ┃ ┃ 持純?清純? 西方国賢 持富 持永 持国 義忠 教国 高倉政泰 政国 ┃ ┣━━━┓ ┣━━┓ ┃ ┃ ┏━━━━┫ 成純 政栄 松倉満友 政長 政久 義就 義有 村国 新城村尚 ┃ ┃ ┃ ┣━━┓ ┏━━┫ ┃ 家俊 尚順 義豊 義統 政国 家泰 義氏 *義国 ┏━━┳━━┳━━╋━━┓ ┃ ┣━━┳━━┓ | 昭国?晴熙 政国 長経 稙長 義英 義元 慶致 義智 *義国 ┃ ┏━━╋━━┓ ┃ | ┃ ┃ 頼国 昭高 政尚 高政 義堯 義総*義総 義継 ┃ ┃ ┃ ┏━━┫ ┣━━━━┓ 阿多盛淳 貞政 在氏 義繁 義続 義綱 二本松義孝 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━┓ 忠栄 政信 尚誠 義綱 義春 ┣━━┓ ┣━━┓ ┣━━┓ 基玄 義玄 義慶 義隆 義真 長員 | ┃ ┃ ┃ ┃ 基祐 基祐 春王丸 義里(上条上杉家へ) ┃ ┃ 国祐 義寧 ┣━━┳━━┓ ┣━━┓ 政如 義福 国儔 義躬 知義 | | 国儔 義紀(米沢藩主・上杉吉憲三男) ┃ ┝━━┳━━┓ 国祥 義福 資施 義周 ┣━━┓ 義一 義宣 ┃ 義勇
源姓畠山氏の祖である足利義純の子孫のうち、義絶した新田家の娘との間の子らは岩松氏となる。岩松家は新田一門として活動し、後に新田家の末裔を称した(詳細は岩松氏を参照)。
鎌倉時代に源姓畠山氏から分かれた一族としては、日向に畠山家の庶流の一族がある。また、失脚し没落した畠山国清の子孫の系統も存続したとされる(西谷内畠山家)。薩摩に下向した一族もあり(阿多氏)、島津氏の家臣長寿院盛淳(阿多盛淳)はその子孫である。
三河畠山氏(足利氏の一族)は、室町時代に、室町幕府の奉公衆として、畠山宗元が、三河国志貴荘に下向。志貴荘の荘館である安城古城を本拠にした。その後、和田氏と改め、和田親平の代に、安祥城を築城して移る。安祥城は、松平信光の奇襲で落城した時の城主は、徳川実紀によると、畠山加賀守某という。
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