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安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名 ウィキペディアから
速水 守久(はやみ もりひさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。
速水実政の子である時久の子として誕生。当初は浅井氏に仕えた。天正元年(1573年)、羽柴秀吉に仕え、近習組頭となる[1]。小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、文禄・慶長の役では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めた。平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。秀吉死後も秀頼に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行として活躍。旗本部隊の中核を担った七手組の一人となる[1]。
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘問題が起こり、和平交渉に奔走した片桐且元が逆に内通を疑われるようになると、その調停に尽力する。結局且元は大坂城を退去させられ、その後も続いた豊臣家中の調停に努めた。大坂冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に大阪夏の陣では天王寺の戦いで真田信繁らと並んで藤堂高虎を敗走させるなど活躍したものの、大阪城に退却した。千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届け、徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め、殉死した。
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