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日本の作家 (1909-1948) ウィキペディアから
太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。
太宰 治 (だざい おさむ) | |
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誕生 |
津島 修治 1909年6月19日 日本、青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市金木町[2]) |
死没 |
1948年6月13日(38歳没) 日本・東京都北多摩郡三鷹町(現:三鷹市) |
墓地 | 東京都三鷹市禅林寺 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京帝国大学仏文科中退 |
活動期間 | 1933年 - 1948年 |
主題 |
人間の心理 古典や説話のオマージュ 人間の宿痾 |
文学活動 | 無頼派[3](新戯作派) |
代表作 |
『ダス・ゲマイネ』(1935年) 『富嶽百景』(1939年) 『女生徒』(1939年) 『走れメロス』(1940年) 『津軽』(1944年) 『お伽草紙』(1945年) 『ヴィヨンの妻』(1947年) 『斜陽』(1947年) 『人間失格』(1948年) |
デビュー作 | 「列車」(1933年) |
配偶者 | 津島美知子(1938年 - 1948年) |
子供 |
津島園子(津島雄二妻) 津島佑子 太田治子 |
親族 |
石原初太郎(義父) 津島文治(兄) 津島雄二(娘婿) 津島淳(孫) 石原燃(孫) |
ウィキポータル 文学 |
左翼活動での挫折後は、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。
青森県北津軽郡金木村(後の同郡金木町、現在の五所川原市金木町)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。両親にいる11人の子女のうちの10番目。
父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。
1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学。津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという[5]。小学校卒業後、明治高等小学校に1年間通った。これは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だったとされている[6]。
1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。
芥川龍之介、志賀直哉、室生犀星、菊池寛などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した[7]。在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行[8]。小説家を志望するようになる。しかしこの時期から怠け癖が見え始め、太宰の長兄である津島文治が、太宰の中学時代の教科書を見たところ、教師や兄弟の似顔絵がぎっしり描かれていたという[9]。
1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り津島家の親戚筋にあたる藤田家(現・太宰治まなびの家)で下宿生活をしていた[10]。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという[11][12]。
1928年(昭和3年)、5月に同人誌『細胞文芸』[13]を発行すると辻島衆二名義[注釈 1]で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無間奈落』を発表するが、連載は1回で終了。津島家の反対を受けたと推測されている[16][17]。この時期、学校からは、「正直ヲ缺ク(外面甚ダ正直)」という評価を受けている[18]。またこの頃、芸者の小山初代(1912-1944年)と知り合う。
1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選[19]。12月10日深夜にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養[注釈 2]した。太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった」と自分の身分と思想の違いとして書いている。
1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった[22]。太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった[22]。目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた[22]。しかし友人の大高勝次郎などには、仏文科への志望を「肩書のカッコ良さ」や「高名な研究者の辰野隆がいるから」など、もっともらしい理由をつけて虚勢を張っていたという[23]。
講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している[24]。小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。津島家は芸者との結婚に強く反対。11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張。文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する[25]。
除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。この事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている[26]。自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる[27][注釈 3]。
南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげる[29]が、入籍はしなかった[30]。年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。2月、初代が上京し、新婚生活が始まる[31]。
1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思ひ出』『魚服記』を執筆。文治の助力で左翼活動から離脱(「#左翼活動」参照)。仕送りは120円から90円に減額された[32]。
1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。檀一雄と知り合う。同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった[33]。
1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る[34]。4月、腹膜炎の手術を受ける。入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる[35]。学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった[注釈 4]。
同人雑誌『日本浪曼派』(1935年5月号) に発表した『道化の華』が佐藤春夫の目に留まり、「及第点をつけ申し候」とのハガキをもらう[36][37]。 第1回芥川賞が開催され、『逆行』が候補となるが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。芥川賞選考委員であった佐藤は選評で「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」と厳しく、同じく選考委員である川端康成からは「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評される。太宰は川端に「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した[38]。太宰は精神的に落ち込み、知人の作家である今官一へ向けて、不安を掻き立てる内容の手紙を送り、慌てて返信した今の反応を楽しむような内容の手紙を送り返すという奇行に走っている[39]。
1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、太宰は師事する佐藤宛てに「佐藤さん一人がたのみでございます」と受賞を乞う手紙を出すが[40]、井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、太宰を呼び出し入院治療を厳命。済生会芝病院に10日間入院した[41]。第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。この頃の太宰は、後述の鎮痛剤の中毒に悩まされ、友人知人問わずに死を仄めかすなど、精神的に不安定だったが、度重なる言動に激怒した雑誌記者から「死ねないくせに、脅迫、強請りだ」と罵られることもあったという[42]。
第3回に向け、太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。7月11日、上野精養軒で佐藤や井伏を招いて出版記念会を行う[43]。さらに第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが[44]、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。
パビナール依存がひどくなり、多い時には1日50本を注射。初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる[45][46]。11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。6月には初代と離別した。
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている[47]。翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した[48]。
1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太田静子に会い、日記を書くことを勧める。太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉(現・信玄の湯 湯村温泉)に度々逗留し、同温泉の「旅館明治」を定宿としていたほか[49]、銭湯の「喜久乃湯温泉」にも通っていた[50]。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。
1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。これは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである[53][54]。1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる[55]。3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。
没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。
10月頃、新潮社の野原一夫は太宰が愛人の山崎富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、富栄は慣れた様子で手当てをしていたという[56]。1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師を辞め、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした[57]。部屋に青酸カリを隠していると脅し[58]、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。心配した筑摩書房社長の古田晁が井伏鱒二に相談し、御坂峠の天下茶屋で静養させる計画を立てる。6月12日、太宰は古田が週末の下宿先にしていた埼玉県大宮市の宇治病院を訪ねるが、古田は静養の準備のため信州(長野県)に出張中だった[59]。
1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水した。満38歳没。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた[60]。
この事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く"イヤイヤ"をしたのではないでしょうか」「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している[61]。
中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた[61]。すると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した[61]。
『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13 (忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある[注釈 5]。自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。
しかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った[63]。
既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は死後に掲載された。東京・杉並区梅里の堀ノ内斎場にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。
1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る[66]。太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている[67]。津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が諭旨退学、2人が無期停学となっている[68]。
大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い[69]、共産党に毎月10円の資金カンパをする。初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった[70]。結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた[71]。1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した[72][73]。
けれども私の身長は五尺六寸五分〈約171cm〉(五尺七寸〈約172cm〉以上と測定される事もあるが、私はそれを信用しない。)であるから、街を普通に歩いていても、少し目立つらしいのである。(中略)けれども私は、その身長に於いても、また顔に於いても、あるいは鼻に於いても、確実に、人より大きいので、何かと目ざわりになるらしく(中略)どうしていいか判らなくなってしまうのである。(以下略)[75]
作品名 | 初出 | 単行本 |
---|---|---|
ロマネスク | 『青い花』1934年12月号 | 『晩年』(砂子屋書房、1936年6月) |
道化の華 | 『日本浪曼派 第一巻第三号』 1935年5月号 | 『晩年』(砂子屋書房、1936年6月) |
ダス・ゲマイネ | 『文藝春秋』1935年10月号 | |
燈籠 | 『若草』1937年10月号 | 『女性』(博文館、1942年6月) |
富嶽百景 | 『文体』1939年2月号、3月号 | 『女生徒』(砂子屋書房、1939年7月) |
黄金風景 | 『國民新聞』1939年3月2日、3月3日 | 『女生徒』(砂子屋書房) |
女生徒 | 『文學界』1939年4月号 | 『女生徒』(砂子屋書房) |
新樹の言葉 | 書き下ろし | 『愛と美について』(竹村書房、1939年5月) |
葉桜と魔笛[92] | 『新潮』1939年6月号 | 『皮膚と心』(竹村書房、1940年4月) |
八十八夜 | 『新潮』1939年8月号 | 『皮膚と心』(竹村書房) |
畜犬談 | 『文学者』1939年10月号 | 『皮膚と心』(竹村書房) |
皮膚と心 | 『文學界』1939年11月号 | 『皮膚と心』(竹村書房) |
俗天使 | 『新潮』1940年1月号 | 『皮膚と心』(竹村書房) |
鷗 | 『知性』1940年1月号 | 『皮膚と心』(竹村書房) |
春の盗賊 | 『文芸日本』1940年1月号 | 『女の決闘』(河出書房、1940年6月) |
女の決闘 | 『月刊文章』1940年1月号〜6月号 | 『女の決闘』(河出書房) |
駈込み訴へ | 『中央公論』1940年2月号 | 『女の決闘』(河出書房) |
走れメロス | 『新潮』1940年5月号 | 『女の決闘』(河出書房) |
古典風 | 『知性』1940年6月号 | 『女の決闘』(河出書房) |
乞食学生 | 『若草』1940年7月号〜12月号 | 『東京八景』(実業之日本社、1941年5月) |
きりぎりす | 『新潮』1940年11月号 | 『東京八景』(実業之日本社) |
東京八景 | 『文學界』1941年1月号 | 『東京八景』(実業之日本社) |
清貧譚 | 『新潮』1941年1月号 | 『千代女』(筑摩書房、1941年8月) |
みみずく通信 | 『知性』1941年1月号 | 『千代女』(筑摩書房) |
佐渡 | 『公論』1941年1月号 | 『千代女』(筑摩書房) |
千代女 | 『改造』1941年6月号 | 『千代女』(筑摩書房) |
新ハムレット | 書き下ろし | 『新ハムレット』(文藝春秋、1941年7月) |
風の便り | 『文學界』1941年11月号 『文藝』1941年11月号 『新潮』1941年12月号 | 『風の便り』(利根書房、1942年4月) |
誰 | 『知性』1941年12月号 | 『風の便り』(利根書房) |
恥 | 『婦人画報』1942年1月号 | 『女性』(博文館) |
十二月八日 | 『婦人公論』1942年2月号 | 『女性』(博文館) |
律子と貞子 | 『若草』1942年2月号 | 『風の便り』(利根書房) |
水仙 | 『改造』1942年5月号 | 『日本小説代表作全集 9』(小山書店、1943年1月) |
正義と微笑 | 書き下ろし | 『正義と微笑』(錦城出版社、1942年6月) |
黄村先生言行録 | 『文學界』1943年1月号 | 『佳日』(肇書房、1944年8月) |
右大臣実朝 | 書き下ろし | 『右大臣実朝』(錦城出版社、1943年9月) |
不審庵 | 『文藝世紀』1943年10月号 | 『佳日』(肇書房) |
花吹雪 | 書き下ろし | 『佳日』(肇書房) |
佳日 | 『改造』1944年1月号 | 『佳日』(肇書房) |
散華 | 『新若人』1944年3月号 | 『佳日』(肇書房) |
津軽 | 書き下ろし | 『津軽』(小山書店、1944年11月) |
新釈諸国噺 | 『新潮』1944年1月号、10月号 『文藝』1944年5月号 『文藝世紀』1944年9月号 『月刊東北』1944年11月号 ほかは書き下ろし | 『新釈諸国噺』(生活社、1945年1月) |
竹青 | 『文藝』1945年4月号 | 『薄明』(新紀元社、1946年11月) |
惜別 | 書き下ろし | 『惜別』(朝日新聞社、1945年9月) |
お伽草紙 | 書き下ろし | 『お伽草紙』(筑摩書房、1945年10月) |
パンドラの匣 | 『河北新報』 1945年10月22日〜1946年1月7日 | 『パンドラの匣』(河北新報社、1946年6月) |
十五年間 | 『文化展望』1946年4月号(創刊号) | |
冬の花火 | 『展望』1946年6月号 | 『冬の花火』(中央公論社、1947年7月) |
春の枯葉 | 『人間』1946年9月号 | 『冬の花火』(中央公論社) |
雀 | 『思潮』1946年9月号 | 『冬の花火』(中央公論社) |
親友交歓 | 『新潮』1946年12月号 | 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房、1947年8月) |
男女同権 | 『改造』1946年12月号 | 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房) |
トカトントン | 『群像』1947年1月号 | 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房) |
メリイクリスマス | 『中央公論』1947年1月号 | 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房) |
ヴィヨンの妻 | 『展望』1947年3月号 | 『ヴィヨンの妻』(筑摩書房) |
女神 | 『日本小説』1947年5月号 | 『女神』(白文社、1947年10月) |
フォスフォレッスセンス | 『日本小説』1947年7月号 | 『太宰治随想集』(若草書房、1948年3月) |
眉山 | 『小説新潮』1948年3月号 | 『桜桃』(実業之日本社、1948年7月) |
斜陽 | 『新潮』1947年7月号〜10月号 | 『斜陽』(新潮社、1947年12月) |
如是我聞 | 『新潮』1948年3月号、5月号〜7月号 | 『如是我聞』(新潮社、1948年11月) |
人間失格 | 『展望』1948年6月号〜8月号 | 『人間失格』(筑摩書房、1948年7月) |
グッド・バイ | 『朝日新聞』1948年6月21日 『朝日評論』1948年7月1日 | 『人間失格』(筑摩書房) |
書名 | 出版社 | 出版年月日 | 備考 |
---|---|---|---|
晩年 | 砂子屋書房 | 1936年6月25日 | 作品集 |
虚構の彷徨 | 新潮社 | 1937年6月1日 | 作品集 |
二十世紀旗手 | 版画荘 | 1937年7月20日 | 作品集 |
愛と美について | 竹村書房 | 1939年5月20日 | 書き下ろし作品集 |
女生徒 | 砂子屋書房 | 1939年7月20日 | 作品集 |
皮膚と心 | 竹村書房 | 1940年4月20日 | 作品集 |
思ひ出 | 人文書院 | 1940年6月1日 | 作品集 |
女の決闘 | 河出書房 | 1940年6月15日 | 作品集 |
東京八景 | 実業之日本社 | 1941年5月3日 | 作品集 |
新ハムレット | 文藝春秋 | 1941年7月2日 | 書き下ろし長編小説 |
千代女 | 筑摩書房 | 1941年8月25日 | 作品集 |
風の便り | 利根書房 | 1942年4月16日 | 作品集 |
老ハイデルベルヒ | 竹村書房 | 1942年5月20日 | 作品集 |
正義と微笑 | 錦城出版社 | 1942年6月10日 | 書き下ろし長編小説 |
女性 | 博文館 | 1942年6月30日 | 作品集 |
信天翁 | 昭南書房 | 1942年11月15日 | 作品集 |
富嶽百景 | 新潮社 | 1943年1月10日 | 作品集 |
右大臣実朝 | 錦城出版社 | 1943年9月25日 | 書き下ろし長編小説 |
佳日 | 肇書房 | 1944年8月20日 | 作品集 |
津軽 | 小山書店 | 1944年11月15日 | 書き下ろし長編小説 |
新釈諸国噺 | 生活社 | 1945年1月27日 | 作品集 |
惜別 | 朝日新聞社 | 1945年9月5日 | 書き下ろし長編小説 |
お伽草紙 | 筑摩書房 | 1945年10月25日 | 書き下ろし作品集 |
パンドラの匣 | 河北新報社 | 1946年6月5日 | 長編小説 |
玩具 | あづみ書房 | 1946年8月10日 | 作品集 |
薄明 | 新紀元社 | 1946年11月20日 | 作品集 |
猿面冠者 | 鎌倉文庫 | 1947年1月20日 | 作品集 |
道化の華 | 実業之日本社 | 1947年2月20日 | 作品集 |
黄村先生言行録 | 日本出版 | 1947年3月15日 | 作品集 |
姥捨 | ポリゴン書房 | 1947年6月10日 | 作品集 |
冬の花火 | 中央公論社 | 1947年7月5日 | 作品集 |
ろまん燈籠 | 用力社 | 1947年7月10日 | 作品集 |
ヴィヨンの妻 | 筑摩書房 | 1947年8月5日 | 作品集 |
狂言の神 | 三島書房 | 1947年8月30日 | 作品集 |
女神 | 白文社 | 1947年10月5日 | 作品集 |
斜陽 | 新潮社 | 1947年12月15日 | 長編小説 |
太宰治随想集 | 若草書房 | 1948年3月21日 | 作品集 |
桜桃 | 実業之日本社 | 1948年7月25日 | 作品集 |
人間失格 | 筑摩書房 | 1948年7月25日 | 長編小説 (「グッド・バイ」も収録) |
如是我聞 | 新潮社 | 1948年11月10日 | 随筆集 |
地図 | 新潮文庫 | 2009年4月25日 | 初期作品集 |
太宰は、絵画も描いた。東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進んだ兄・圭治の影響もあって子供時代から美術に関心が持ち、長じては文壇内だけでなく画家とも交流を持ち、杉並時代は久富邦夫、三鷹時代は桜井浜江と近所に住んでいた画家と往来があった[93]。三鷹市美術ギャラリーが2018年から太宰が描いた絵画9点を所蔵し、太宰の担当編集者であった石井立(たつ)の遺族がこれを見て石井立が所蔵していた太宰作と思われる肖像画を新たに寄贈し、鑑定により太宰作と判断された[94]。
※がついている人物は太宰に先立って死去している。
石原初太郎 | 津島源右衛門 | たね | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石原明 | 美知子 | 太宰治(津島修治) | 太田静子 | 津島英治 | 津島文治 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
津島雄二 | 園子 | 正樹 | 里子(津島佑子) | 太田治子 | 津島一雄 | 津島康一 | 陽 | 田沢吉郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
津島淳 | 石原燃 | 津島恭一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太宰治、またはそれに相当する人物を演じた俳優・声優の一覧。
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