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日本の劇作家 ウィキペディアから
矢代 静一(やしろ せいいち、1927年〈昭和2年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉1月11日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。日本文芸家協会、日本演劇協会の各会員[1]。
東京市京橋区銀座にて、銀座ヨシノヤの創業者一族の3代目として生まれる。日比谷幼稚園・泰明小学校・東京府立第五中学校から第二早稲田高等学院を経て、1950年に[1]早稲田大学文学部仏文科を卒業。
早稲田高等学院在学中の1944年(昭和19年)に[1]診断書を偽造して大学を休学し、俳優座研究生[1]となる。のち、戦時下の移動劇団に加わる[1]。移動演劇隊の『父帰る』(菊池寛原作)などで主役を張ったが、東野英治郎の薦めで演出部に転向する[2]。
大学時代は俳優座文芸部に属し[1]、1950年文学座に移り、同世代の三島由紀夫と親交を深める。1950年から演出も始め、劇作家、演出家として活躍[1]。後年に友人の劇作家田中千禾夫らと、師で文学座を主宰した岸田國士の『全集』(岩波書店)を編集した。
この間、1950年12月から1952年4月まで結核で入院し、肋骨を7本切除する。1963年(昭和38年)、文学座が三島作による戯曲『喜びの琴』の上演中止を決定したことで、三島と共に文学座を退座する(喜びの琴事件)。グループNLT結成に参加するが、その後は三島らと離れ、フリーで新劇団などに『写楽考』『北斎漫画』などの戯曲を書き下ろす。
20代よりカトリックに関心を持ち、早くからカトリック信仰に裏打ちされた作品を数多く発表したが、受洗は遅く1969年(昭和44年)だった。聖イグナチオ教会での受洗時には、親交の深かった遠藤周作が代父を務めた[3][4]。
NHK放送用語委員も務めた[1]。
晩年も精力的に活動していたが、1998年(平成10年)正月に自宅書斎で心不全を起こし亡くなっているのが発見された。
主な受賞・受章歴は、1978年(昭和53年)に芸術選奨文部大臣賞、1990年(平成2年)に紫綬褒章、1997年(同9年)に勲四等旭日小綬章。
妻は元女優の山本和子、長女は女優の矢代朝子、次女は元宝塚歌劇団雪組娘役の毬谷友子、姪は元宝塚歌劇団雪組トップスターのえまおゆうと、宝塚・演劇関係者が身内に多数いる。
文壇・演劇関係者としては、阪田寛夫・野坂昭如らとならぶ、大変な男性宝塚ファンであったことは有名である。また、小田島雄志、大河内豪と「宝塚ファン・新御三家」を名乗った[2]。
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