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福島県双葉郡の町 ウィキペディアから
双葉町(ふたばまち)は、福島県の浜通りにある町。双葉郡(1896年以前は標葉郡)に属する。
1951年(昭和26年)4月1日に新山町と長塚村が合併して標葉町となり、5年後の1956年(昭和31年)4月に双葉町に改称した[2]。
2011年の東日本大震災に伴い発生した東京電力福島第一原子力発電所事故で全町避難を強いられ、2022年8月30日に一部地域で避難指示が解除され、住民の帰還が始まった[3]。
浜通りのほぼ中央に位置し、東は太平洋に面する。町の南北に国道6号、常磐自動車道、JR常磐線が縦貫して福島県いわき市や宮城県南部と、東西は国道288号により福島県内陸部(中通り)の郡山市と繋がれている。
古代から町域を勿来関と多賀城を結ぶ東海道(あづま海道)が縦貫しており、海道沿いや沿岸部には古くから集落があった。古代の遺跡や文化遺産として清戸迫横穴をはじめ、山城国の稲荷大明神から勧請された前田稲荷神社には御神木として樹齢約1,200年の前田の大スギ、蝦夷討伐の際に坂上田村麻呂が安置したと伝わる十一面観世音菩薩像などが現在も残っている。
鎌倉時代末期に新山城が築城されると城下町が形成された。江戸時代に新山城が廃城となった後も、長塚宿と新山宿は浜街道の宿場町として、また町域は相馬中村藩の米どころとして栄えた。
その後も第二次世界大戦後まで農業中心の産業形態であったが、1970年代から東京電力福島第一原子力発電所の立地により関連企業への就業が増加し、農業の兼業化が進み、就業構造が大きく変化した。その後も新たな雇用の場として企業などの誘致に工業団地を整備した。
2011年3月11日の東日本大震災およびそれに伴う福島第一原発事故により町域が一部を除いて帰還困難区域に設定されていたが、2022年8月30日に特定復興再生拠点区域での避難指示が解除された[4]。
福島第一原子力発電所の5号機と6号機が立地しており、計画されていた7号機・8号機も立地の予定だったが、東日本大震災で被災し、これに誘発されて発生した福島第一原発事故の影響で、北東部と双葉駅周辺のそれぞれ一部を除いたほぼ全町域が「帰還困難区域」(除染・復旧工事関係者以外の一般住民の自由な行き来が終日制限される)に指定されていた[5][6]が、2022年8月30日以降は「特定復興再生拠点区域」内での避難指示が解除され、終日人が居住することができるようになった。
東京電力の福島復興本社などが入る双葉町産業交流センター(エフ・ビック)、東日本大震災・原子力災害伝承館が整備され[7]、復興の拠点になっている。
しかしながら、震災から10年以上経った2022年1月現在でも、災害救助法に基づき東日本大震災および福島第一原子力発電所事故による仮設住宅(みなし仮設住宅)の供与を大熊町と双葉町の2町のみが受けており[8][9]、うち、建設型の仮設住宅(プレハブ仮設住宅)の当初の供与期間は工事完了から2年3か月間であったところ、いまだ仮設住宅から住民の退去の見通しがたたない唯一の東日本大震災被災市町村である[9][10][11]。また、多くの町民は医療費の一部負担金(療養の給付)や介護給付費、介護保険料、後期高齢者医療保険料、国民年金保険料の免除[12][13][14]、住民税、国民健康保険税の減免[15]、賃貸住宅の家賃のほぼ全額の補助[8][16]、高速道路料金の一部区間の無料化[17]など様々な支援を国や福島県などから受けている状態である。2020年(令和2年)の住民意向調査では、回答者の62.1%が双葉町に戻らないと決めていると回答した。理由の一番の多くは、避難先で自宅を購入・建築し将来も継続的に居住する予定のためである。一方で、戻りたいと考えていると回答したのは10.8%にすぎない[18]。
阿武隈山系の東に開けた浜通り地方の中部に位置し、東は太平洋に開ける[19]。行政上では、北の浪江町と南の大熊町に挟まれた位置にある。面積は51.40 km2[19]。東北地方にありながら温暖な気候で、冬でも降雪日数は年間5日程度のため、福島第一原発事故の発生前はカーネーションやスイートピー、ホウレンソウなどの栽培が盛んであった。また、下水道の普及率も9割近く全国的にも高い水準であった。
「双葉」という町名は、標葉郡(夜ノ森以北、相馬氏領)と楢葉郡(夜ノ森以南、岩城氏領)の合併にちなんだ名称である。位置としては旧標葉郡の区域にある。1950年から1955年までは「双葉郡双葉町」を名乗る町が別に存在したが、合併により廃止された。現在の富岡町北部に相当し、この双葉郡双葉町は旧楢葉郡に属していた。
古墳時代には、沿岸部を中心に塚ノ腰古墳群や沼ノ沢古墳群などが建設され、この辺りを中心に集落が形成されていた。また、付近からは郡山貝塚なども発見されており縄文時代よりこの地には集落があった。
成務天皇の治世から国造が割拠した7世紀前半には、現在の双葉町は、染羽国造(しめはのくにのみやつこ)の領土の南限であった。
7世紀前半頃に清戸迫横穴が作られ、壁画が描かれたと推定される。律令制が浸透した7世紀後半には、現在の双葉町(長塚)と大熊町(苦麻)の境(概ね福島第一原子力発電所の付近)を境にして、長塚以北は陸奥国に編入された。
713年(和銅6年)染羽が標葉と改められる。この時、染羽国造の領土は、陸奥国の標葉郡となった。718年(養老2年)には陸奥国から分離されて石城国に編入されるも、720年代には石城国は陸奥国に編入された。
722年(養老6年)前田稲荷神社に御神木(前田の大スギ)が植えられる。
平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)になると、請戸城を本拠地とする標葉隆義(海道小太郎成衡(清原成衡)の四男と伝わる[注釈 1]。)の統治下に入り、これ以後、現在の双葉町は標葉郡を領土とする標葉氏の統治下に置かれた。
1189年(文治5年)源頼朝の奥州征伐では標葉氏を始めとした岩城氏一族[注釈 2]は奥州藤原氏と関係が深かったが、鎌倉方として参陣して本領を安堵された。鎌倉時代後期には岩城氏から完全に独立した地位を築いている。
1331年(元弘元年)に、標葉隆連(標葉氏八代当主標葉持隆の三男)が父の命令により新山城を築城し、内神とし新山大権現(現在の新山神社)が建立された。双葉町の合併前の新山町は、この城にちなんだ名称である。
鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の親政の際も標葉氏は本領を安堵され、北畠顕家に従い秋田・津軽方面の北条方の残党との戦いなどに従軍し、以後も西上転戦した。
南北朝時代は、霊山にいた義良親王(後の後村上天皇)、北畠顕家に従い南朝方に参加した。霊山が落城した際に、追っ手の目を欺くため旅芸人の装束をして踊りながら逃げ落ちたとの伝承がある。この故事が元となり宝財踊りとして現在まで伝わっている。
だが、後に北朝方に服属し、その後も北朝を擁した室町幕府のもと周囲との同盟を巧みに結び独立を保ち、1410年(応永17年)には、海道の岩城氏、相馬氏、楢葉氏、好嶋氏、白土氏、諸根氏、菊田氏らの岩崎郡、岩城郡、楢葉郡、標葉郡、行方郡の五郡で五郡一揆を結び相互に協力をした。
1442年(嘉吉2年)に二代新山城主の標葉隆重が当主の標葉清隆の家臣を殺害し、それに怒った清隆に攻められ新山城が落城すると隆重は岩城氏領に逃れた。その後も家中の混乱が続くと、岩城氏が白河結城氏と結び1474年(文明6年)に同族の楢葉氏を滅ぼし、標葉氏に対し攻勢を強め相馬氏に対抗した。この頃には北の相馬氏当主相馬高胤からは不倶戴天の敵とみられており、標葉氏は敵対関係になった海道筋の岩城氏と相馬氏と南北ともに領地を接することとなった。
その後、標葉氏は1492年(明応元年)12月に本拠地である権現堂城(浪江町)が攻め落とされ相馬氏により滅ぼされた。双葉町域を治めていた三代新山城主標葉隆豊はこの戦いには相馬方として参陣した。
標葉氏が相馬氏に滅ぼされて以後の室町時代後半[20]から戊辰戦争終結後の版籍奉還まで、現在の双葉町域は相馬氏の統治下に置かれた。江戸時代の相馬中村藩政下では、浜街道の宿場町(長塚宿・新山宿)であった。
旧町役場は福島県双葉郡双葉町大字新山字前沖28番地に所在したが、福島第一原子力発電所事故により2011年3月19日に埼玉県内に移転し、2013年6月17日にいわき市勿来地区に移転した。その後、双葉町いわき事務所がいわき市東田町二丁目19番地の4に置かれ、現庁舎の開庁まで実質的な町役場として機能していた[82]。また、町外の避難者への補助的役割として、県内外に以下の支所及び連絡所が置かれた。
2022年の町役場移転後も町外の避難者が多く、いわき事務所は支所となり、郡山支所や埼玉支所、南相馬連絡所、つくば連絡所はそのまま維持、双葉町内のコミュニティーセンター連絡所のみ閉鎖されることになった[72][1][83]。
2015年は全住民避難に伴い計測不能(0人)のため、記載されていない。
双葉町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
出典[86]
福島第一原発事故による町民の避難で経済活動は一時ほぼ途絶えたが、浅野撚糸(岐阜県)が2023年に新工場を稼働させる予定であるなど、産業復興も始まっている[87]。
出典[88]
原発事故により双葉高等学校はいわき明星大学(現在の医療創生大学)に校舎を設置していたが、2017年(平成29年)4月より休校となった。また、小中学校および幼稚園は全て休校していたが、2014年(平成26年)から、福島県いわき市錦町に仮設校舎を設置している。
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