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日本の俳優、男性声優 (1930-2023) ウィキペディアから
中 庸助(なか ようすけ、1930年〈昭和5年〉3月30日[5] - 2023年〈令和5年〉10月20日)は、日本の俳優・声優。旧芸名:中 庸介(読み同じ)[5]。
千葉県立千葉第一高等学校卒業[1][5]。1953年に千葉市民劇場に参加[5]。当初は物書きになりたかったが、元来が怠け者なため、「演劇の世界で戯曲を書いてみよう」ということにもならずに、そのままなんとなく役者の世界に踏み込んだ、という感じだったという。新劇ブームの中上京し、演劇雑誌『悲劇喜劇』(早川書房刊)の西沢揚太郎編集長からいくつか新劇系の劇団を紹介された。どの劇団にするか決めかねていたところ、「劇団炎座」が役者を探していると聞き、「そのままホイホイと」軽い気持ちでこれに参加したという。1956年に炎座に入団後[5]、1958年に劇団未来劇場に参加し[5]、1961年に劇団造形に参加[5]を経て、劇団東芸に入団し[7]、舞台で過ごす。当時は劇団俳優に対する親や世間の風当たりは厳しく、アパートを借りるのも一苦労で、生活は厳しかったという[8]。
このなか、『ダイヤル110番』(日本テレビ)や『事件記者』(NHK)、『七人の刑事』(TBS)といったテレビドラマの端役をこなすが、収入は増えず、アルバイトをしながらの舞台活動を続ける毎日だった。やがて海外ドラマのアテレコの仕事が舞い込むようになった。当時のギャランティは通常レートの70%だったが、作品数が多く、ようやく生活が安定するようになったという[8]。
海外ドラマの声の吹き替えを続けていたなか、あるマネージャーと知り合い、「本格的にやらないか」と誘われて東映のテレビドラマに出演するようになる。犯人役ばかり演じていた『特別機動捜査隊』(NET)では、設定が三班体制になった際に「おい、中よ、もうそろそろ犯人じゃなく刑事役をやらんか」と声をかけられたが、「悪役のほうがいろんなタイプが演じられて面白いですよ」とこれを断った。これには「お前変わってるなぁ」と言われ、中自身も後に「今にして思うと失敗だったかもしれない」と回想している[8]。
やがてテレビドラマの主流が2時間物に移行して仕事が減ってきたため、付き合いがあった現在の事務所の社長に頼んで、海外ドラマの『ヒル・ストリート・ブルース』のアフレコに参加。長台詞が多く、苦痛だったというが、これ以降、声優業が本職となった[9]。
G&B企画[7]、村上事務所[7]、熊沢プロダクションを経て、マウスプロモーション所属[6]。
テレビ番組では、『仮面ライダー (スカイライダー)』(毎日放送)の魔神提督役をはじめ、特撮作品における悪の幹部役としての出演も数多い。一般作品でも時代劇の悪役や刑事ドラマの暴力団幹部などの悪役を多数演じた。
声優としての代表作の一つである『ドラえもん』(テレビ朝日版)ののび太のパパ(野比のび助)役は、当時のび助役を演じていた加藤正之が1992年(平成4年)10月に体調不良で途中降板[12](翌年3月に急逝)したため、急遽キャスティングされたものである。中自身も加藤の友人であったため「友の後を継ぐ」つもりでオファーを受けたという。その後、2005年(平成17年)4月からの声優陣一新に伴い、同年3月18日放送分をもって降板。のび助役は松本保典に引き継がれた。
中の没後、持ち役を受け継いだ声優は以下の通り。
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