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近鉄特急史(きんてつとっきゅうし)では、近畿日本鉄道(近鉄)における優等列車の発達史、およびこれと競合関係にある国有鉄道(国鉄)・JRの、各線・各列車における沿革を取り扱う。
現在の近鉄における特急列車の概要については「近鉄特急」を、近鉄特急のダイヤ変更の詳細については「1987年までの近畿日本鉄道ダイヤ変更」および「1988年からの近畿日本鉄道ダイヤ変更」をそれぞれ参照されたい。
参急の開通と同じ1930年(昭和5年)12月には、のち近鉄名古屋線の一部となる伊勢電気鉄道(伊勢電)も、桑名駅 - 大神宮前駅(伊勢神宮外宮付近に造ったターミナル駅)間約83kmを全通させた。
近鉄の各路線には、並行して東海道新幹線・東海道本線(名古屋 - 大阪間)、関西本線(名古屋 - 四日市 - 奈良 - 難波間)、奈良線(京都 - 奈良間)、紀勢本線・参宮線(津 - 鳥羽間)、片町線(大阪 - 田辺 - 祝園 - 奈良間)などといった国鉄 - JRの路線が存在している区間が多い。
国有鉄道は、現在の関西本線・参宮線・奈良線・草津線・片町線といった路線を建設・運営していた「関西鉄道」を1907年(明治40年)に「鉄道国有法」によって国有化した後は、三重県・奈良県といった地域で独占的な地位・利益を占めていたが、大軌・参急が大阪 - 伊勢間に高速電車を走らせ始めるとそれを大きな脅威と感じるようになった。そこで当時の国有鉄道を運営していた鉄道省 - 日本国有鉄道は戦前 - 戦後を通じて、大軌・参急 - 近鉄に対抗すべくそれらの路線で高速列車を走らせた。
JRとなった今では、JR東海の東海道新幹線や在来線である関西本線・紀勢本線・参宮線と伊勢鉄道伊勢線を通って名古屋駅 - 鳥羽駅間を結ぶ快速列車「みえ」、さらにJR西日本が「アーバンネットワーク」の一環として運行する「大和路快速」・「みやこ路快速」位のものとなっているが、かつてはもっと多くの路線でそれを行っていた。その概略を系統ごとに示すと下記のようになる。
参急が全線開業を間近に控えた1930年(昭和5年)10月、鉄道省(省線)は姫路駅 - 鳥羽駅間に一往復の「準急列車」(現在のJRの快速列車に相当し、当時も地方によっては「快速列車」と呼んでいた)を走らせ始めた。姫路から山陽本線・東海道本線・草津線・関西本線・参宮線(旧称、現在の紀勢本線・参宮線に相当)を経由するもので、大阪駅 - 山田駅(現在の伊勢市駅)間は開業した参急線より40km以上遠回りのルートであった。しかし、大阪ミナミからはともかく神戸・京都や大阪キタといった地域からは非常に便利な列車であった。それまで同経路で運行していた普通列車は京都 - 山田間に5時間を要していたが、準急列車は同区間を2時間25分で走破した。なお大阪 - 山田間の所要時間は3時間04分であり、参急線の2時間47分には及ばなかったが、参急の電車列車に対して、省線は加速や勾配登坂などの性能で劣る蒸気機関車牽引の客車列車であり、前述した遠回りの経路で運転していたことを考えれば驚異的なスピードであった。また、その準急列車は東海道本線内では当時の超特急「燕」と同等の速度で走行していた。
1931年(昭和6年)10月、準急列車に「簡易食堂車」を増結し、また2往復に増発された。同時に不定期の列車も3往復(1往復夜行)設定され、これらの列車は「参宮快速」と呼ばれるようになった。その後も増発され、1934年(昭和9年)12月のダイヤ改正時には、姫路駅 - 鳥羽駅間の準急が2往復(うち1往復は食堂車連結、鳥羽行きの大阪 - 山田間所要時間は2時間52分と3時間)、大阪駅 - 鳥羽駅間の普通列車が2往復、大阪・京都 - 山田・鳥羽間の不定期列車が2往復設定されている。また、宇野線の宇野駅 - 鳥羽駅間を結ぶ宇野 - 関西間が夜行、関西 - 伊勢間が昼行の二等寝台車を連結した列車も設定されていた。これは宇高連絡船をはさんで四国から来た伊勢神宮参拝の客にも使われていたが、関西 - 四国間輸送と関西 - 伊勢間輸送の、二つの役割を果たす列車を一本にまとめたという傾向が強かった。
1935年(昭和10年)12月の改正では列車がさらに増発され最盛期を迎えるが、1937年(昭和12年)7月に勃発した日中戦争の影響で、1940年(昭和15年)10月ごろには食堂車が消滅している。そして太平洋戦争の戦局が悪化してきた、1943年(昭和18年)2月の「戦時陸運非常体制」に基くダイヤ改正により、戦前の速達列車は消滅した。
1953年(昭和28年)3月、姫路駅 - 鳥羽駅間に1往復の「快速列車」が新設され、このルートの速達列車が復活した。しかしながら大阪 - 山田間の所要時間は3時間26分と、戦前の最速列車より34分遅くなっている。
1961年(昭和36年)、京都駅 - 鳥羽駅間にキハ55系気動車を使用した有料の準急「鳥羽」が新設されるが、同年10月の時刻表によると京都 - 伊勢市(1953年7月に山田から伊勢市に改称)間を2時間37分と、戦前の準急より遅くなっている。「快速列車」の方もスピードダウンし大阪 - 伊勢市間に3時間35分、京都 - 伊勢市間に2時間55分を要するようになった。1963年(昭和38年)10月に準急「鳥羽」は「志摩」と改称、そして1965年(昭和40年)10月の改正で姫路 - 鳥羽間の快速は準急「志摩」に統合され、運行区間も京都 - 鳥羽間に短縮された。1966年(昭和41年)3月、国鉄の増収政策の一環で「志摩」は準急から急行列車に格上げとなる。
この頃までは京都、大津から松阪、伊勢志摩へ行くには一番便利な列車であったため利用客も多かったが、1966年(昭和41年)12月に近鉄の京都 - 伊勢間を直通運転する「京伊特急」が運行を開始すると、客はそちらへ流れてゆくようになり、1972年(昭和47年)3月の改正で「志摩」は1往復が廃止された。
その後も国鉄は対策というものを満足に打ち出さず、昭和50年代に行われた運賃の大幅な値上げと労使紛争の影響で客はますます減少した。京都市内だけでなく、大津や草津からでさえ京都駅から近鉄特急に乗った方が安くて速かったこともあり、利用者は大幅に減った。しかし、三重県中南勢から滋賀県・京都府への直通列車だったため、1985年(昭和60年)3月の急行「平安」廃止後に1往復増発のテコ入れがされ、13年ぶりに「志摩」は2往復となったが、国鉄分割民営化直前の1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正により急行「志摩」は廃止され[25]、この系統の直通列車は消滅した。現在は、三重県から滋賀県へのこのルートでの往来は亀山・柘植両駅での乗り換えを要し、普通列車のみのため実用性は薄い。
また、この区間の公共交通は、長く鉄道の独擅場だったが、2008年の新名神高速道路延伸により、高速道路による走破が可能となったため、新たなライバルとなった。2008年3月20日近鉄バス・三重交通により京都駅八条口 - 津駅前間に1日4往復の高速バス路線が新設され、10月25日には、前記2社に加え京阪バスを併せ、京都駅八条口 - 伊勢市駅前/内宮前間[注釈 7]に、同じく1日4往復が新設された。2010年4月1日からは、伊勢方面から京阪バス・近鉄バスは撤退し、三重交通による2往復に減便された[注釈 8]。2013年時点では、京都駅八条口 - 津駅前間を1時間53分、京都駅八条口 - 伊勢市駅前間を最速2時間33分で結んでいたが、翌2014年に伊勢市駅前発着の高速バスは廃止された。これらのバス路線の詳細は京都 - 四日市・津・伊勢線を参照。
古来より伊勢・南紀方面へは熊野詣・伊勢詣として定着があった。明治期以降の近代化によって、それまでは徒歩による往来から鉄道事業にとってかわることとなっていくが、その先鞭は大阪網島からの浪速鉄道の開通に始まる。往時は参宮急行が存在せず、大阪から伊勢へは関西鉄道~参宮鉄道がメインルートであった。 参急線が開通する前から、この系統の湊町駅(現JR難波駅) - 山田駅・鳥羽駅間には準急(快速)・普通列車が設定されていたが、湊町 - 山田間は準急が約5時間、普通が約6時間を要していた。参急線が開業する前の1930年(昭和5年)10月のダイヤ改正ではスピードアップ・増発が行われ、準急列車は2往復で山田方面の前記区間の所要時間は3時間32分 - 41分、昼行の普通列車は2往復で所要時間が5時間8分 - 11分となった。また、この改正時には湊町駅 - 鳥羽駅間に鳥羽行きに限り夜行列車も設定されていて、時刻は湊町発23時45分・山田着5時35分・鳥羽着6時で、湊町 - 山田間の所要時間は5時間50分であった。
この列車系統は、参急線と比較した場合の長所は奈良市周辺辺りから直通で利用できる程度で、前述した京都・草津線周りの系統ほどのメリットは無かった。そのためこのような夜行列車といった、参急では運行されていなかった列車を設定して対抗したと考えられる。またこの路線の準急列車にも一時食堂車が連結されていたことがあったが、所要時間が短く利用率が悪かったためか1934年ごろには消滅している。
1934年(昭和9年)12月の改正時には、湊町 - 山田間の準急の所要時間は3時間6分 - 12分となり最高水準となるが、やはり日中戦争・太平洋戦争の影響で、1942年(昭和17年)11月改正時には同区間は3時間35分・43分を要するようになり、翌年2月の改正で準急は消滅した。
戦後はこの系統では勝負することを諦めたのか、速達列車は設定されず普通列車が同区間に数往復設定された程度にとどまり、1964年(昭和39年)10月改正時には湊町 - 伊勢間直通の列車は消滅している(臨時列車としては後年、奈良駅より急行紀州が運転されたが、これも今はない。また、奈良 - 伊勢市間の普通列車は国鉄末期まで少数ながら運転されていた)。名残として関西本線の古い駅名標には、「東京・名古屋・鳥羽方面」と表記してあった。
東海道本線は1889年(明治22年)7月に官営鉄道(官鉄)によって、関西本線は1899年(明治32年)5月に私鉄の「関西鉄道」によってそれぞれ全線が開通したが、両線は名古屋 - 大阪間で並行しており激しい競争が始まることとなった(詳しくは関西鉄道の項目を参照)。この競争は日露戦争が開始されたことでようやく終結し、1907年(明治40年)10月に関西鉄道は「鉄道国有法」によって国有化された。
その後、大阪 - 名古屋間の輸送は東海道本線経由がメインルートとして整備されていくようになり、関西本線は伊勢方面などの地域輸送を行う路線として扱われ、ほとんど投資がなされず建設された時の設備が維持された。2006年現在でも、それ(特に亀山駅 - 加茂駅間)はほとんど変わっていない(近年、名古屋駅 - 亀山駅・加茂駅 - JR難波駅間については、電化(全区間)・複線化(一部区間)された)。
1930年(昭和5年)10月、そういった理由で東海道本線に比べ「冷遇」されていた関西本線にも、準急列車(快速列車)が1往復登場し、名古屋駅 - 湊町駅(現、JR難波駅)間を4時間45分で走破した。なお当時の東海道本線の急行列車は、名古屋駅 - 大阪駅(名阪)間を3時間20分 - 4時間10分程度、普通列車は同区間を4時間 - 5時間30分程度で運行していたので、関西本線の準急はそれほど速いものではなかった。
しかしながら1935年(昭和10年)12月、当時の国有鉄道を運営していた鉄道省(省線)は準急列車を2往復に増発した上、全線の所要時間を3時間余に短縮した。なお当時、東海道本線の名阪間は最速列車であった特急「燕」が2時間38・39分、特急「富士」・「櫻」が2時間55分 - 3時間2分、急行列車では3時間20分 - 4時間を要していた。東海道本線が全線複線であったのに対し、関西本線経由の方は東海道本線経由より15km程距離が短いとはいえ、前述のような理由で多くの区間が単線であったので、この速達列車の所要時間は当時は限界一杯の速さであった。
1938年(昭和13年)、関西急行電鉄(関急電)が桑名駅 - 関急名古屋駅(現、近鉄名古屋駅)間を開通させ、親会社の参宮急行電鉄(参急)・大阪電気軌道(大軌)とあわせて名古屋 - 大阪(上本町駅)間に3番目のルートが登場した。しかしながら江戸橋駅・参急中川駅(現、伊勢中川駅)での2回の乗り換えが必要であり、また当初は名阪間に3時間15分 - 30分を要した。そのため名阪間では、まだこの省線の「準急」の方が便利であった。
1940年(昭和15年)には、関急電を合併した参急と大軌を使用しての名阪間の所要時間は最速3時間1分となり、ようやく省線のそれと肩を並べ、乗りかえ回数も参急中川駅での一回のみとなった。同年10月の省線ダイヤ改正当時は、省線の準急列車が湊町 - 名古屋間所要3時間9分・日3往復で運行していたのに対し、参急・大軌による名阪連絡列車は名古屋 - 中川 - 上本町間を乗り継ぎ時間合わせて所要3時間19分・30分間隔で運行し、省線は「乗り継ぎ無し」で、大軌・参急は「列車本数」で勝負した。そしてこのころが、戦前の名阪輸送競争の最盛期であった。
1942年(昭和17年)11月の省線ダイヤ改正時には、太平洋戦争の戦局が厳しくなってきていたためか、省線の準急は名阪間を約3時間30分、大軌・参急の両者が合併してできた関西急行鉄道(関急)の方は約3時間40分と、どちらもスピードダウンしている。そして翌1943年(昭和18年)2月の改正で省線の「準急列車」は消滅、東海道本線のほうも列車の削減が行われていった。戦況が悪化して「遊楽旅行禁止」・「決戦輸送協力」の時代となり、もはや競争どころではなくなっていたのである。そして1944年(昭和19年)に本格的な本土空襲がはじまり、省線や関急を改めた近鉄ともに列車の削減が続く。そして1945年(昭和20年)8月の敗戦を迎えた。
1947年(昭和22年)10月に近鉄特急が4時間で名古屋 - 大阪間を結び始めた当時は、戦争によってどこの鉄道も荒廃していたため、関西本線には優等列車は存在せず名古屋駅 - 湊町駅間を普通列車が所要時間5時間 - 5時間30分で走るのみ、東海道本線のほうも3往復のみ存在した急行列車が名古屋駅 - 大阪駅間を所要時間3時間50分 - 4時間20分程度、普通列車が4時間30分 - 5時間30分程度で結んでいた状態であったので、近鉄特急は戦前の最高水準よりも1時間遅く、さらに中川駅での乗り換えが必要にもかかわらず大いに利用された。
1949年(昭和24年)9月、東京駅 - 大阪駅間に戦後初の国鉄特急列車「へいわ」号が登場して以降、東海道本線での優等列車は増発されていったが、当時の国鉄の「特急列車」・「急行列車」の料金体系は現在と違い「長距離利用客」を対象としたものであったので、本格的な東海道本線を走る名阪間を結ぶ優等列車の復活といえるのは1952年(昭和27年)9月に臨時列車として登場し、1953年(昭和28年)11月に定期列車に昇格された「準急列車」(戦後の準急は有料列車で、当初は急行列車より設備・速度で劣る分、割安な料金を設定した列車として登場した)であった。名阪間を3時間35分で結んだ。
1956年(昭和31年)11月、米原駅 - 京都駅間を最後に東海道本線の全線電化が完成すると、準急は全区間電気機関車牽引となり名阪間所要時間は3時間16分となったが、翌1957年(昭和32年)10月に客車から俗に「湘南電車」と呼ばれた80系電車に置き換えられて3往復に増発、その翌月にそれらの列車は「比叡」と命名され、名阪間所要時間は2時間45分となり近鉄名阪特急の2時間35分に接近、しかも近鉄の方は伊勢中川駅での乗り換えを前述のように要したので、名阪間輸送で「比叡」は一気に優位に立った。そして1958年(昭和33年)11月の改正では「比叡」は5往復となり、さらに性能を向上させた91系電車(後の153系)に置き換えられた。またこの時、歴史に残る国鉄初の電車特急である「こだま」号が登場している。使用されたのは20系電車(後の151系)で、「こだま」は名阪間を2時間20分で走破し、近鉄特急の水準を引き離した。「こだま」は後に所要時間を2時間14分にまで短縮している。
1961年(昭和36年)10月ダイヤ改正(サンロクトオ)の頃が東海道本線優等列車の最盛期で、名阪間における電車特急列車は「こだま」の他にも「つばめ」・「はと」・「富士」・「ひびき」などが存在して定期のものだけで計7往復・臨時が2往復、電車急行は「六甲」・「せっつ」・「やましろ」・「いこま」・「なにわ」・「よど」などで定期8往復(名古屋を深夜に通る夜行を除く)、客車急行で名阪輸送の一環をなすものは「霧島」・「雲仙」・「西海」(併結列車)・「高千穂」・「阿蘇」・「ちくま」など定期で5往復前後運行された。電車準急は名阪間を純粋に運行した「比叡」の他にも、停車駅を絞って速達性を重視した「伊吹」1959年(昭和34年)9月改正でが新しく登場しており、「比叡」が8往復、「伊吹」が2往復の、計10往復であった。名阪間を電車特急は2時間14 - 16分、電車急行は2時間30分強、客車急行は2時間40分 - 3時間強、電車準急は2時間20分 - 40分程度で走破していた。なお、当時の近鉄名阪甲特急は伊勢中川駅での乗り継が無くなり、全区間を2時間27分で走破するようになっていた。運賃・料金面では、国鉄の名古屋駅 - 大阪駅間は二等車(現在の普通車に相当)で電車特急だと830円(名阪間では特定特急料金が採用された)、急行(電車・客車問わず)は730円、準急は630円、近鉄特急の名古屋駅 - 上本町駅間は700円であった。なお、当時の駅弁の価格は100円前後、東京のシティホテル1泊の料金が800 - 4000円前後だった。「伊吹」・「比叡」は電車急行並みの速度で走る「準急列車」であった。なお、「比叡」と「伊吹」は前者が全車自由席の列車、後者が全車座席指定席の列車ということで愛称が使い分けられていた。さらに1961年(昭和36年)10月以降、「伊吹」は近鉄への対抗策としてビュッフェを組み込んだ急行用の編成で運行されるようになり、設備面でも差別化が行われるようになった。
しかしながら、1964年(昭和39年)10月に東海道新幹線が開業すると東海道本線の優等列車は大きく削減され、電車特急は新幹線「ひかり」に置き換えられる形で全廃、急行・準急列車も「伊吹」が消滅するなど大きく削減された。それでもこの時は優等列車がまだ結構残っていた。だが、その後の改正で残りも順次廃止されていくのである。「伊吹」の停車駅増及び全車自由席化に伴う吸収もあって、「比叡」はこの時こそ8往復の運転を維持したが、名古屋 - 京阪神間でそれまで準急列車を利用していた層までもが想定以上に新幹線利用に転移したため、翌1965年(昭和40年)10月の改正で4往復に削減された。
1966年(昭和41年)3月に「比叡」は急行列車に昇格した。そして1968年(昭和43年)10月の改正では、「比叡」以外の名阪間を走る電車急行は消滅した。その後も「比叡」は名阪間を結ぶ大衆列車として活躍を続けていたが、新幹線への乗客の転移が進み、1972年(昭和47年)3月に2往復、1980年(昭和55年)10月に1往復と、順次削減されていって1984年(昭和59年)2月に全廃、これで名阪間輸送を主目的とした東海道本線の優等列車は消滅した。また、東海道本線を昼間走行する客車急行列車も1975年3月の「桜島・高千穂」廃止で消滅した。2016年3月のダイヤ改正後も存続しているのは、大阪駅から高山本線へ直通するエル特急「ひだ」1往復(大阪 - 岐阜間のみ走行)だけである。
その他、1960年代前半の一時期には、中日本航空が小牧 - 伊丹間に短距離の航空路線を運航していたこともあった。だが運賃が高く便数も少なかったこともあって利用状況は芳しくなく、近鉄特急や東海道本線の優等列車には運賃・料金や利便性などの面で全く太刀打ちできなかった。名阪間の航空路線は1964年に東海道新幹線が開業するとすぐに廃止され、翌年には中日本航空の定期航空部門自体が全日本空輸に事業譲渡された。
関西本線の優等列車は1949年(昭和24年)9月、名古屋駅 - 湊町駅間に3往復の準急が設定されたことにより復活した。翌1950年(昭和25年)10月改正当時は、同区間を3時間27 - 37分で結んだ。
1955年(昭和30年)7月に、3往復のうち1往復が日本初の気動車準急となり、翌年には3往復すべてが気動車となった。使われた車両は当初はキハ10系、後には「日光型気動車」と呼ばれた2台エンジン搭載の強力型キハ55系となり、1956年(昭和31年)11月改正時には東海道本線の準急が名古屋 - 大阪間を前述の通り3時間16分、急行が3時間5分 - 50分で結んでいた中で、この関西本線の準急は名古屋 - 湊町間を2時間50分 - 56分で走破し、当時の名阪間最速達列車となった。
この頃までは、東海道本線でなく関西本線のほうに名阪間輸送の重点がおかれていたが、1957年(昭和32年)10月に80系電車を使用した「比叡」が登場すると、その主流は東海道本線の方へ移っていった。80系電車以降の国鉄における中長距離向け電車は、客車列車と比較しても遜色ない設備を備えており、走行性能に置いては客車・気動車のそれをはるかに上回っていた。単線・非電化の関西本線を走る気動車準急が、複線電化の東海道本線を行く電車列車に取って代わられるのは当然の流れであった。
1958年(昭和33年)10月、前述した3往復の気動車列車は「かすが」と命名された。東海道本線の所で述べた1961年(昭和36年)10月改正時、「かすが」は気動車化時と変わらぬ2時間56分で走破し、その料金・運賃は590円であった。なお1962年(昭和37年)5月には、前述した「比叡」にもはや増発の余地がなかったことから、三重県北勢地域と京都・大津を結ぶ潜在需要の掘り起こしも兼ねて、名古屋 - 京都間を関西本線・草津線経由で結ぶ準急「平安」が2往復(1往復は、桑名 - 京都間の運転)設定されている。
だが、1959年(昭和34年)12月の近鉄特急の名阪直通運転開始や、1964年(昭和39年)10月の東海道新幹線開業によって「かすが」の名阪間輸送の需要は激減し、特に奈良 - 湊町間の利用状況は悪化した。1965年(昭和40年)3月には名古屋 - 東和歌山(現・和歌山)間に関西本線初の特急列車として「あすか」が登場し堺市にも停車したが、運行ルートが利用者のニーズに合わなかったこと、「かすが」と似通った時間帯に設定されたこと、「かすが」と違って二等車も冷房付き回転クロスシートではあったものの、同じ設備を持つ近鉄特急に対して運賃料金・頻度・速度の面で太刀打ちできなかったこと、などもあって利用は全く伸びず、僅か2年半後の1967年(昭和42年)10月に廃止された。1966年(昭和41年)3月に「かすが」は急行列車となるが、1973年(昭和48年)10月の関西本線湊町 - 奈良間電化の際、加速の鈍い気動車が電車の定間隔ダイヤを乱すことを避けるため「かすが」の同区間運転を打ち切り、この時点で関西本線経由の名阪直通列車は消滅した[注釈 9]。「かすが」は奈良 - 名古屋間運行となった後1982年(昭和57年)に2往復、1985年(昭和60年)に1往復と削減され、2006年(平成18年)3月を以って廃止となった。また「平安」の方は、1968年(昭和43年)10月に名古屋 - 京都間1往復のみに削減され、急行「比叡」廃止後も生き残ったが、1985年(昭和60年)3月に系統を廃止。「志摩」増発分に立て替えられたが、翌年11月に廃止されている。
1964年(昭和39年)10月に、「夢の超特急」・「弾丸列車の再来」などと建設時は呼ばれた東海道新幹線が開業し、名阪間を「ひかり」が1時間21分、「こだま」1時間45分で結び始めると、それまで近鉄と激しく争っていた名阪間輸送は時間面で完全に圧倒することとなった。翌1965年(昭和40年)11月には、「ひかり」が1時間8分、「こだま」が1時間19分と、さらに短縮している。そしてこの所要時間は、その後1985年(昭和60年)頃まで変わらなかった。
その後1972年(昭和47年)3月、「ひかり」に自由席が設定されて「こだま」との料金格差も廃止されるようになると、名阪間の利用客はさらに新幹線へ逸走することとなった。さらに1974年(昭和49年)7月20日には近鉄の運賃改正が実施され、これまで一部区間を除き区間制運賃であったのを、近鉄全線で対キロ制運賃を採用して運賃制度を変更したため、近鉄の名阪間の運賃は国鉄のそれを上回り、国鉄新幹線の自由席利用の運賃と料金の合計と近鉄の名阪特急利用時の運賃と料金の合計とを比較しても、後者の方が安かったものの、わずか90円差となり、近鉄の名阪特急を全線通しで利用する旅客はさらに減少する事態となった。
1975年(昭和50年)頃までは新幹線の乗客数は伸び続けたが、1976年(昭和51年)11月に行われた国鉄の運賃・料金を突然それまでの1.5倍にする大幅な値上げや、その後もほぼ毎年繰り返される値上げ、その頃から過激を極めるようになった労使紛争によるストライキ、そして設備の老朽化に伴う補修点検のための半日運休などが原因で、その後1982年(昭和57年)頃まで自動車や航空機、そして名阪間では再び近鉄特急のほうに乗客が移っていくなどして、新幹線の乗客数は減少を続けることとなった。
1987年(昭和62年)4月、国鉄が分割民営化(JR化)され、東海道新幹線は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となった。前述した「比叡」廃止の代償として、名古屋市内 - 大阪市内で1枚あたりの単価が近鉄特急より若干高いだけの特別企画乗車券である「新幹線エコノミー回数券」が発売されていて、スピード重視の乗客は金券ショップで「新幹線エコノミー回数券」を購入するようになり、またバブル期であったこともあり、若干新幹線の客も持ち直した。
1992年(平成4年)3月には新たに「のぞみ」といった列車を登場させるなど、国鉄時代とは打って変わってJR東海は積極的な政策を見せるようになった。
2003年(平成15年)10月の東海道新幹線に品川駅が開業したダイヤ改正時には、「ひかり」の多くを「のぞみ」に格上げし、残った「ひかり」・「こだま」の名阪間では新たに、乗車する1週間前までに購入することで割引となる自由席用の特別企画乗車券、「ひかり・こだま自由席用早特きっぷ」を販売するようになった(これと引き換えに「新幹線エコノミー回数券」は廃止)。しかし、「のぞみ」と「ひかり」はさほど名阪間では所要時間に差がなく(最速「ひかり」は「のぞみ」と所要時間が同じ)、同区間における「ひかり」から「のぞみ」への格上げは単なる「値上げ」であり、さらに、「新幹線エコノミー回数券」が廃止になって、乗車当日に新幹線自由席に安く乗車することが不可能になったことも相まって、近鉄名阪特急の利用客が増加した。
関西本線・参宮線の名古屋駅 - 亀山駅 - 伊勢市駅 - 鳥羽駅(亀山駅 - 多気駅間は現在紀勢本線)間のうち、名古屋駅 - 亀山駅間は前述した関西鉄道によって1895年(明治28年)までに、亀山駅 - 山田駅(現、伊勢市駅)間は参宮鉄道によって1893年(明治26年) - 1897年(明治30年)に、山田駅 - 鳥羽駅は関西鉄道・参宮鉄道の国有化後、国の手によって1911年(明治44年)に開業した。
しかし、この路線における速達列車は昭和期に入るまで、1926年(大正15年)8月に設定された東京駅 - 鳥羽駅間の直通夜行普通列車(名古屋駅 - 鳥羽駅間では快速運転した)が存在したくらいであった。
だが、伊勢電気鉄道(伊勢電)が桑名駅 - 大神宮前駅(伊勢神宮の外宮前にかつてあった、伊勢電のターミナル)間を1930年(昭和5年)12月に開業させる直前の10月、それへの対抗として「準急列車」(料金不要)が2往復設定された。名古屋駅 - 山田駅間を2時間20分で走破し、それまでの普通列車の4時間と比べて所要時間は大幅に短縮された。1935年(昭和10年)12月には、それを2時間2分にまで短縮している。伊勢電はまだ名古屋に乗り入れていなかったため、国有鉄道(当時は鉄道省が運営)の路線(省線)はそれにくらべ四日市駅 - 津駅間では亀山経由で8kmほど遠回りで、さらに折り返し(スイッチバック)の必要があったにもかかわらず、名古屋から直通で伊勢までいけるとあって好評を博した。
1938年(昭和13年)6月に、伊勢電を合併した参宮急行電鉄(参急)とその子会社の関西急行電鉄(関急電)の手によって桑名駅 - 関急名古屋駅(現、近鉄名古屋駅)間が開業し、名古屋駅 - 大神宮前駅間を1時間50分程度で直通する特急電車が運行を開始すると、省線の列車は一旦不利となったが、その4年後の1942年(昭和17年)8月に参急・関急電などが合併して名前を改め関西急行鉄道(関急)となった伊勢線(元伊勢電・桑名駅 - 江戸橋駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅間の路線のうち、江戸橋駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅間の当時の呼称)の新松阪駅 - 大神宮前駅間が、元参急の名古屋線・山田線(江戸橋駅 - 伊勢中川駅 - 宇治山田駅間)と競合し、太平洋戦争中で鉄などを多く軍用で必要とした時代では、不要不急線ということになったため廃止されてしまい、名古屋線と山田線の線路幅が異なるため、関急回りで名古屋から伊勢へ行くには伊勢中川駅で乗り換える必要が発生し、再び省線の方が有利となった。
しかし、戦況が悪化したこともあって1943年(昭和18年)2月に「準急列車」は廃止となる。それでも東京 - 伊勢間の直通列車は、敗戦後の1946年(昭和21年)ごろまで途切れることなく運行を続け、国家神道による伊勢神宮の参拝客を輸送し続けた。
1950年(昭和25年)10月、東京駅 - 鳥羽間の直通列車(戦後は急行列車で、湊町駅(後のJR難波駅)行きの列車と当初は併結。後に分離されて「伊勢」と命名された)と、名古屋駅 - 鳥羽駅間の快速列車が登場。快速列車は、名古屋駅 - 山田駅間を2時間14 - 18分と戦前並みのスピードで登場し、前述した伊勢中川駅での乗り換えを必要とした近鉄線と比べて名古屋から直通するこの列車は、戦前同様好評であった。
しかし、1959年(昭和34年)に名古屋線が山田線と同様に改軌されて、同年12月に名古屋 - 宇治山田間の直通列車が暫定的に運行を開始すると、亀山駅経由であったこの列車系統で有利な点は、近鉄では直通できない二見浦と、当時は近鉄線がまだ達していなかった鳥羽へ直通しているか、そこで三重交通線に乗り換えて行く志摩方面への利用客の程度となり、全体的に不利となった。
1966年(昭和41年)3月、名古屋駅 - 鳥羽駅間の快速列車は、蒸気機関車牽引の客車列車から気動車列車になるとともに急行列車に格上げされる。その急行は「いすず」と命名され、2往復が岐阜駅・名古屋駅 - 鳥羽駅間を結ぶようになった。しかし、所要時間や車内設備は快速時代と大して変わらないのに急行料金が必要となったことや、近鉄のほうは30分 - 1時間間隔で特急・急行を運行していたことから勝負にならず、1968年(昭和43年)10月に「いすず」は早々と廃止となってしまった。急行格上げ当初は客車快速時代と同じように5両編成だったのが、廃止直前には二等自由席車のみの2両編成に短縮されていた。またこの時、「伊勢」が「紀伊」と改称されている(東京駅 - 紀伊勝浦駅・天王寺駅間運行の編成と併結運転した)。
1972年(昭和47年)3月に「紀伊」の鳥羽行き編成が廃止されて、名古屋方面から参宮線へ直通する優等・速達列車は一旦消滅。名古屋駅 - 松阪駅間の優等列車は紀勢本線に直通する特急「南紀」などの運行が継続されるものの、運賃料金・頻度・車両いずれをとっても近鉄特急と勝負する状態には程遠かった。そのため当時は名古屋 - 伊勢方面のみならず、名古屋 - 紀勢本線方面(尾鷲・熊野市など)の移動でさえ、名古屋駅 - 松阪駅間では近鉄を利用する者も多かった。
国鉄が分割民営化によりJRとなって間もない1990年(平成2年)3月、JR東海は伊勢鉄道伊勢線を経由して、名古屋駅 - 鳥羽駅間を結ぶ快速「みえ」の運行を開始し、同系統の速達列車が復活した。「いすず」の失敗の経験を生かして快速列車とし、また、名古屋 - 伊勢間輸送においては圧倒的に近鉄特急の方が本数などの面で優勢であるため、近鉄名伊特急と競合しないよう鳥羽方面の列車は名古屋駅を近鉄特急の発車時刻とずらすといった施策がとられている。しかし名古屋 - 桑名間では特定運賃継続採用も相まって乗車実績が高く、近鉄の急行電車との間では健闘しており、「みえ」の定着後に近鉄の方が対抗策として名古屋 - 松阪間の急行増発(実際には伊勢中川駅で発着する一部の急行を延長および上本町発着列車からの接続改善)や、5200系およびL/Cカーなどのクロスシート車両の集中投入を行うといった施策を行っている。
その後、2009年3月にJR東海側のダイヤ改正で日中の名古屋 - 亀山間の普通を快速に格上げして、名古屋 - 四日市間に普通を毎時1本増発し、従来の四日市発着普通や「みえ」と合わせて名古屋 - 四日市間の快速・普通列車を毎時2本ずつに増加させ、2011年3月ダイヤ改正で「みえ」の全定期列車が4両運転とされた。
対抗する近鉄側は、2012年の白紙ダイヤ変更で、名阪甲特急を津駅に全列車停車させて、名古屋 - 津間の所要時間短縮を図り、昼間時に伊勢中川駅発着で残っていた急行を松阪駅まで延長して同駅までの実効本数を増加させると共に、名古屋 - 四日市間の急行と準急(始発駅を急行の続行で発車して終着駅まで後発の急行よりも先着)を日中に1時間1本ずつ増発(実際は毎時2本設定されていた富吉駅発着の準急から置き換え)して名古屋 - 桑名・四日市間の速達列車を増加させた。
国鉄分割・民営化後、JRでは参宮線内に定期での急行・特急列車は設定されず、臨時列車も1993年 - 1994年に特急「鳥羽・勝浦」(南紀 (列車)参照)が運転されたが、鳥羽 - 紀伊勝浦間の運行で、名古屋方面からの設定はされなかった。2013年 - 2014年にかけて、第62回神宮式年遷宮にあわせて、「みえ」の増発や一部列車で6両に増結して運転する他に、臨時ではあったが、民営化後初の優等列車として名古屋 - 伊勢市間の急行「いせ」が運行された。これは名古屋を朝、伊勢市を午後発の日帰り設定だったが、所要時間は快速「みえ」より遅くなっている[26]。
これに対して近鉄では、2010年 - 2013年に30000系や23000系のリニューアル改造を行うと共に、2013年3月に観光特急「しまかぜ」の運転を開始し、2014年9月変更では日中の賢島駅発着特急における30000系や23000系使用列車の増加と宇治山田駅発着急行を概ね五十鈴川駅発着に変更してサービス面の強化を行った。
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