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千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ 英語: Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。株式会社千葉ロッテマリーンズは、千葉ロッテマリーンズの球団運営会社である。
千葉ロッテマリーンズ | |
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Chiba Lotte Marines | |
会社名 | 株式会社千葉ロッテマリーンズ |
創設 | 1949年9月21日 |
今シーズン | |
2024年の千葉ロッテマリーンズ | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
ZOZOマリンスタジアム(千葉県千葉市美浜区) | |
収容人員 | 29,916人(ZOZOマリンスタジアム) |
永久欠番 | |
26:ファンナンバー | |
獲得タイトル | |
アジアチャンピオン(1回) | |
2005 | |
日韓クラブチャンピオンシップ(1回) | |
2010 | |
日本一(4回) | |
リーグ優勝(5回) | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
成績(タイトル以外) | |
アジアシリーズ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
日本シリーズ出場(6回) (太字は勝利した年) | |
4勝2敗 | |
クライマックスシリーズ出場(9回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝8敗 | |
プレーオフ(2004-2006)出場(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝 | |
プレーオフ(前後期制)出場(4回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
1勝3敗 | |
球団組織 | |
オーナー |
重光昭夫 (代行:玉塚元一) |
運営母体 | ロッテホールディングス |
球団社長 | 高坂俊介 |
監督 | 吉井理人 |
選手会長 | 中村奨吾 |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | ロッテ、マリーンズ |
本社所在地 |
日本 〒261-8587 千葉市美浜区美浜1番地 ZOZOマリンスタジアム |
本店所在地 |
〒160-0023 東京都新宿区西新宿三丁目20-1 |
設立 |
1950年1月 (株式会社毎日球団) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 8011101012891 |
事業内容 | プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など |
代表者 |
重光昭夫(代表取締役会長オーナー) 高坂俊介(代表取締役社長) |
資本金 | 6,000万円(2017年12月31日現在) |
純利益 |
△8億4,702万1,000円 (2024年3月期)[1] |
純資産 |
1億9,289万9,000円 (2024年3月期)[1] |
総資産 |
72億6,734万1,000円 (2024年3月期)[1] |
従業員数 | 55人(2009年12月31日時点) |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 | ロッテホールディングス |
関係する人物 |
永田雅一(大映創業者、現球団法人設立時オーナー) 中村長芳(大映からロッテへ球団移譲時のオーナー) 重光武雄(ロッテグループ創業者・初代代表取締役社長、元球団オーナー) |
外部リンク | https://www.marines.co.jp/ |
特記事項:1957年11月に大映野球株式会社を吸収合併。 |
千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。
1950年のリーグ分裂時に毎日新聞社を親会社とする毎日オリオンズとして発足したのち、大映ユニオンズを合併して毎日大映オリオンズ(大毎)となり、以後は親会社の変更などによりオリオンズの呼称は継続しつつもチーム名が東京→ロッテと変遷し、本拠地も東京都→仙台市→川崎市と変遷したが、1992年より千葉市を本拠地とし球団名も千葉ロッテマリーンズとなり現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと、昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成した。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請する。
リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。
この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝をし、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、「2リーグ制初代・日本一球団」となった。なお、毎日はこの年から1度も年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になっておらず、1958年から球団名を毎日大映(大毎)オリオンズに変更するため、毎日オリオンズとしてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一はこの年が最初で最後となった。打者では別当薫が本塁打王、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。
首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し、故意に試合をノーゲームにする毎日側の策略に観客が激怒し、暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭され、別当薫が監督代行を勤める[2]。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[2]。
首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦がNHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[3]。
3位。オフに別当が選手兼任で監督就任。
山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率を挙げ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。
首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。
シーズン成績は3位。
1957年11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し、毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社毎日大映球団[注釈 1]が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社と大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任する「逆さ合併」だった。
1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し[注釈 2]、チームも1960年以来8年ぶりのAクラス、3位入りしている[4]。
葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[5]。オフにはこの年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。
優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。
西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で1950年以来10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。前身を含め、生え抜き監督での優勝は球団史上初[注釈 3][7]。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは4連敗で敗れ、前身を含め、球団史上初の日本シリーズ敗退となった。なお、大毎は1962年5月から本拠地を東京球場に移転し、1964年から球団名を東京オリオンズ、1969年から球団名をロッテオリオンズに変更するため、後楽園球場での日本シリーズはこの年が最後、毎日大映(大毎)オリオンズとしてのリーグ優勝・日本シリーズはこの年が最初で最後となった。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。
この年で毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[8]。毎日の撤退は戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズの記述が著しく少ないと指摘がある[注釈 4][9]。
1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した東京球場に移転。1962年限りで監督の宇野光雄が解任[10]。
1964年より球団名を東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策ではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け[11]「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった。チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに変更している。この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も1965年1月に引き上げ、後援も1966年度シーズンで打ち切っている。球団は完全に永田が掌握したが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。しかし、この5年間で1度もリーグ優勝はなかった。
3年連続Bクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。
4年連続Bクラス(1964年・4位→1965年・5位→1966年・4位→1967年・5位)。
1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名をロッテオリオンズに改称[12][13]。ただ、正式な球団買収ではないので、球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行い、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば、命名権の制度に近い)を取得する形として留まった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
首位阪急と5.5ゲーム差の3位。
1960年以来10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れ、日本シリーズ敗退となった。なお、ロッテはこの年を最後に1度も年間勝率1位によるリーグ優勝をしておらず、1973年から1977年にかけて5年間、フランチャイズを持たない球団となるため、東京球場でのリーグ優勝・日本シリーズはこの年が最初で最後、東京時代としてのリーグ優勝・日本シリーズはこの年が最後となった。
1967年に巨額の負債が表面化して以来続いていた大映の経営状態はいよいよ逼迫し、1月25日をもって大映は球団経営から撤退。永田もオーナーを辞任する。永田から直々に社長の重光武雄に球団経営の肩代わりを要請されたロッテは岸の秘書で副オーナー・個人株主として球団に参加していた中村長芳と共に正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じロッテオリオンズになった[注釈 5]。以来半世紀以上、ロッテは球団を保有し続けているが、これは昭和時代に創設したパ・リーグ現存5球団では最長である。重光は当時野球にさほど興味を持っていなかったため、オーナー職は中村に委ねた一方、これまでの球団経営の労苦に配慮し、オーナーを退いた永田を取締役として残した。
7月13日、西宮での対阪急戦で江藤慎一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され、二軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したアルトマンなど[注釈 6]、チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった[14]。
前年と一転、Bクラスの5位に転落。オフに中村がオーナーを辞任し、後任に重光が新オーナーに就任。東京球場は永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し、球場の買い取りを要求したが、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、オフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから、交渉は決裂。東京球場は閉鎖されたため、本拠地球場を失った。観客動員は31万人で本拠地東京球場は閑古鳥が鳴いていた[15]。金田が監督に就任したのは同じ在日韓国人の重光に「ワシをロッテオリオンズの監督にして下さい。必ず客を呼んで見せます。一流の球団にしてみせます。カネやんのいうこと信用して下さい。」と頭を下げた事がきっかけにになっている。国民的英雄の在日同胞が頼んできたのに感銘した重光は金田と男の約束を交わし、監督に起用したばかりか破格の権限を与えた[16]。金田の年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった[15]。金田の監督就任は前年オフに大沢と交わしていた5年契約を破棄してのもので、球団は大沢に違約金を支払う事態になった。金田の方針で小山が鬼頭洋・安田泰一との交換で大洋にトレードされるが、小山は中村との「シーズンオフに特別表彰を行い、功労金を出す」の約束を理由に難色を示し、球団が功労金を支払う事で、決着を見た。
1973年から宮城県仙台市宮城野区の宮城球場を中心に、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ、主催試合を行った。本拠地やフランチャイズを持たない状況は1977年までに続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。
この年からパ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で、総合では3位に終わる。観客動員は対前年比3倍増94万6500人(当時の球団記録)[15]。その効果はパ・リーグにも波及し、総観客動員数が前年の253万9800人から406万200人に激増し、理由は全て金田人気によるものだったわけではないにせよ金田の果たした役割が大きかった。オフに日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるも、これを拒否した。このため、日拓ホームフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現在の北海道日本ハムファイターズ)。中村前オーナーが西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズの経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い[注釈 7]、保有していた株式をロッテに譲渡した。日本ハムとのトレードで野村収を放出し、金田の弟金田留広を獲得した。
金田監督の下で有藤通世、山崎裕之、弘田澄男、投手では金田留広、木樽正明、村田兆治、成田文男らが活躍して後期優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破り、1970年以来4年ぶり4回目のリーグ優勝。中日との日本シリーズではジョージ・アルトマンを負傷で欠き、有藤もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが[17]、4勝2敗で1950年以来24年ぶりの日本一になった。この時の日本シリーズの主催3試合は施設上の問題[注釈 8]から宮城球場ではなく、後楽園球場で行われた。この年と1977年のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城球場で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた。日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで、仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。なお、ロッテはこの年を最後に2024年現在に至るまで1度も年間勝率1位になっておらず、1978年から本拠地を川崎球場、1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転し、1978年からフランチャイズを神奈川県、1992年からフランチャイズを千葉県および球団名を千葉ロッテマリーンズに変更するため、本拠地でおよびフランチャイズを持たない球団としてのリーグ優勝・日本シリーズ、本拠地でおよびフランチャイズを持たない球団、ロッテオリオンズとしての日本一はこの年が最初で最後、ロッテオリオンズとしてのリーグ優勝・日本シリーズはこの年が最後となった。
この年から2005年にかけて31年間、リーグ優勝・日本シリーズ・日本一から遠ざかることになる。
前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも、総合4位に終わる。
前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。
前期は5位に終わるも、後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが、3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。
神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後、神奈川県川崎市から誘致を受け、1977年10月4日、翌年からフランチャイズを宮城県から神奈川県、本拠地を宮城球場から川崎球場に移転することが承認された。しかし、この14年間で1度もリーグ優勝・日本一はなかった。
移転1年目は総合4位に終わる。金田の監督生活後半はワンマン気質がたたって選手との間に溝ができ[15]、終盤に金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任し[19]、非常勤の球団取締役となった。前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していた野村克也に選手兼任監督として後任を打診するも、金田の後任は荷が重いと固辞し、そのまま退団。
山内一弘が監督に就任。就任1年目は4位に終わった。監督の山内がルーキーの落合博満を積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。
山内の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成、水谷則博、倉持明が活躍し、前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。
村田が11連勝し、19勝で最多勝利のタイトルを獲得、落合はレギュラーに定着し、首位打者のタイトルも獲得[20]。エース村田の活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、前評判は圧倒的有利だったが[21]、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが、野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、重光武雄オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、鶴岡一人に相談し、次期監督に山本一義を推薦し、山本が監督に就任した[22]。金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。
落合博満が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者三冠王となる。順位は5位に終わる。
投手陣強化を図るためレオンを放出してまでスティーブ・シャーリーを獲得するものの、村田が故障で1年間公式戦に登板できずに打線も弱体して球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任[23]。
張本勲に監督要請するも断られ、重光オーナーに監督候補を出してほしいと言われた張本は土橋正幸と稲尾和久を推薦、土橋はヤクルト投手コーチ就任が決まっており稲尾が監督に就任した[24]。稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。石川賢が最高勝率。
落合、西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割を記録してチーム打率1位になり、投手陣は肘の手術から復帰した村田が開幕11連勝を記録し17勝5敗の成績を挙げ、仁科、新外国人の荘勝雄も2桁勝利を挙げるものの、前年最高勝率の石川、石川と同じく15勝を挙げた深沢恵雄がそろって不振に陥るなど全体的には軒並み不振だった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでもランディ・バース(阪神)が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し、稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝をした西武から15ゲームも離された。
落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で盗塁王。リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目の愛甲猛とバラエティに富んだ打線は前年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣は仁科時成は3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向した荘勝雄は18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり[25]、チーム防御率5位に終わった。球団の福岡移転を熱望していたが、実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。来年はどこと契約しているのかわからない。」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた[26]。落合は牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4の交換トレードで中日に移籍した[27]。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している[28]。
有藤道世が監督就任。女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという[29]。この年は落合が抜け、レロン・リーが不振で、4番は若手の古川慎一や高沢秀昭らが務めたが力不足は顕著で、打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が最優秀救援投手に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。有藤と不仲だったレロン・リーが冷遇され、不調に陥り、解雇された。
この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。打線の強化を図り、MLB通算2008安打、首位打者4度の実績を誇ったビル・マドロックは、.263 19本塁打と期待を裏切りこの年限りで解雇。高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王、牛島は2年連続セーブ王に輝く。小川、村田兆治、荘勝雄、園川一美の4人が二桁勝利を挙げた。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、ロッテは当時の12球団の中で南海、阪神と共に「昭和時代に1度も日本一を本拠地で飾れなかった球団」となった[注釈 9][注釈 10][注釈 11]。
二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)のロッテ浦和球場に移転[注釈 12]。
村田兆治が5月13日の山形県野球場での対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。防御率1位に輝く。西村は外野手転向、新加入のマイク・ディアズは.301、39本塁打、105打点の成績を残し、愛甲も3割をマーク。
順位は球団史上初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には金田正一が2度目の監督就任。主力の高沢、水上善雄と広島・高橋慶彦、白武佳久ら3選手とのトレードが成立。
ディアズを一時捕手で起用するなど復帰した金田監督のパフォーマンスや退場劇が注目されたがチーム成績は5位。2年目の初芝清が三塁に定着、西村が首位打者になる。10月13日に川崎球場で行われた引退試合を最後に村田兆治、袴田英利が現役を引退した。高橋慶は成績が振るわずに阪神へ移籍。8球団競合でドラフト1位指名の小池秀郎が入団拒否。
首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など、川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。8月9日の対日本ハムファイターズ戦(川崎球場)で、谷保恵美が初めて一軍試合のアナウンスを担当[34]。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった[35]。
シーズン中に広島から高沢が復帰、平井光親が首位打者を獲得し、堀幸一は二塁に定着して20本塁打を放つ。オフに金田が監督を解任された[36]。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が再び八木沢に追い出された形となった。監督の八木沢によると、西武コーチだった1991年の夏にオーナー代行の重光昭夫同席の下、「監督をやってくれ」と言われたという[注釈 13][39]。
1991年9月4日、翌年からフランチャイズを神奈川県から千葉県、本拠地を川崎球場から千葉マリンスタジアムに移転することがオーナー会議によって承認された。
本拠地移転に伴う新しい球団名は当初は地名をつけた「千葉ロッテオリオンズ」となる予定だった。しかし、11月1日に一転して一般公募により、改称されることになり[40]、11月21日、新しい球団名は「千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。監督の八木沢は「ドルフィンズ」を推していた[39]。
球団名およびフランチャイズ変更や本拠地移転に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。
3月3日に千葉マリンスタジアムで初の練習を行い、新本拠地での活動を開始した。本来開幕権はオリックス・ブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、ディアズは不振で途中退団し、千葉移転初年度は前年に続き、最下位となった。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。新人の河本育之は19セーブで抑えに定着。
この年もメル・ホールや地元出身の宇野勝を獲得し、補強を行ったが、チームの地力は上がらず、5位に終わると、移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。オフに当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
首位から15.5ゲーム差の5位に沈んでいた8月1日、八木沢は球団幹部から春日部近くの喫茶店で休養を勧められ了承、そのまま退団した[39]、その後は、中西太が代理監督を務め、やや持ち直すも5位に終わる。八木沢は監督時代を「投手は伊良部の他に牛島和彦、小宮山悟、園川一美、前田幸長、吉田篤史、河本育之らがいて他チームに引けを取らなかったが、打線が点を取れなかった。」[39] と述べている。オーナーの重光武雄が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団[41]。伊良部秀輝は自己最多の15勝挙げて最多勝、最多奪三振を獲得。
日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していたピンク色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインに開幕からリニューアル。2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇[注釈 14]。代わりにフリオ・フランコ、ピート・インカビリアを獲得。序盤は出遅れるが、2年目ながら1番打者に起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀、打点王を獲得した初芝清[注釈 15]、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟、新外国人のエリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で1985年以来10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。フランコも広岡との確執で解雇。
バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの、大学で広岡の後輩だったとのことで、「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。投手陣は伊良部が最優秀防御率を獲得し、ヒルマンが防御率2位、成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きを見せ、2年目の黒木知宏が奮闘したが、開幕投手を務めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪化するなどそれ以外が計算出来なかった。野手陣も外国人が活躍出来ず、初芝もマークが厳しくなって勝負強さを発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水でチームは5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され[42]、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。ヒルマンも巨人へ移籍した。
横浜ベイスターズ元監督の近藤昭仁が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の藤田元司に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった[43]。横浜ベイスターズ時代のスクイズの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、佐々木主浩らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。投手陣は伊良部とヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかし、ストッパーの成本が大怪我によりシーズン途中でリタイア。野手陣は新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足で、初芝と堀も不振。前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦や田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦で先発マスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局、投打にわたり、駒不足でチームは最下位に終わる。
近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた[44]。4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱し、セットアッパーの吉田篤史も不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤はシーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言し、ロッテを去った。
1999年には山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組み、前年「七夕の悲劇」となった日に勝利し首位に浮上したがこの試合直後に8連敗し優勝争いからも脱落した。チームはその後も球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった。黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗と大型連敗を経験した。1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝え、自由契約で横浜ベイスターズに移籍した[45]。90年代初期から中期を支えたWストッパーの河本がトレード志願で読売ジャイアンツに移籍、成本も怪我で満足な投球ができず、2000年に戦力外通告を受け、退団した。2001年に福浦和也が首位打者、ミンチーが最優秀防御率を獲得した。2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している[46]。2003年は特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし、4位に浮上している。特に2003年の9月・10月は22勝8敗1分で勝率.733という好調ぶりだった。山本功児は5年間監督を務めたが、全てBクラスに終わるも、年々勝率を上げ、2002年・2003年は4位、2003年にはシーズン最終成績を68勝69敗3分と、借金1にまでチームを戻したところで退団。成績不振による事実上の解任だった[47]。しかし、山本功児監督時代に福浦和也、サブロー、里崎智也、小林宏之、小林雅英などを起用し、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。オフに韓国・サムスン・ライオンズから李承燁を獲得。
2000年は20世紀最後のペナントレースだったので、ロッテは当時の12球団の中でダイエー、阪神と共に「20世紀に1度も日本一を本拠地で飾れなかった球団」となった[注釈 16][注釈 10][注釈 17]。
バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃したが、シーズン全体では勝率5割を記録した。
今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し、3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日に2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対西武戦に勝ち、1995年以来10年ぶりの勝ち越しを決めると、同時に1971年以来34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス・バファローズ戦で勝利したことで、プレーオフ進出と1995年以来10年ぶりのAクラスが確定した。9月19日、1971年以来34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージでは西武、第2ステージでは2戦先勝するも、第3戦、第4戦と敗北。第5戦でも2点先制されるが、8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。その後もリードを保ち、福岡ソフトバンクホークスを破り、1974年以来31年ぶりのリーグ優勝を果たした[注釈 18]。
10月22日からの日本シリーズでは第1戦(千葉マリンスタジアム)は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏一死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、コールドゲームとなる珍事が起きている。その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、1974年以来31年ぶり3度目の日本一を達成した。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し、優勝している[注釈 19]。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し、リーグ優勝をしており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた[注釈 20]。久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。
以上のことから、この年のロッテはペナントレース、ポストシーズン、対外試合全てにおいて、これまでにない躍動ぶりを発揮した。
小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフにソフトバンクを退団したフリオ・ズレータを獲得。
3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[注釈 21]。翌日も延長12回で引き分け[注釈 22]。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦がシーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得した。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方、野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。
先発投手陣が揃って不調に陥り、開幕直後に捕手の里崎智也、橋本将、田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位に終わった。チーム防御率はリーグワースト。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、当時の契約最終年であった4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。
ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。バレンタインとの契約を同年限りとする前年12月の球団声明を受けて、長らく球団の応援活動を牽引したファングループのMVPおよび外野応援団のメンバーを中心に、バレンタインの残留を求め、球団フロント関係者を糾弾する活動がシーズン開幕前後から繰り広げられ、終盤戦では行き過ぎた言動を咎めた西岡剛への中傷・応援ボイコットにまで発展。グラウンド内外での騒動の影響もあって、チームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスと5位でシーズンを終えた。バレンタインは球団方針通りシーズン終了を以て監督を退任し、一連のトラブルを招いたMVP・外野応援団は解散に追い込まれた。バレンタインの後任にはヘッド兼外野守備走塁コーチの西村徳文が監督に昇格した。オフに韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。
序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは西武に2連勝。ファイナルステージではソフトバンクに王手をかけられながらその後3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズ優勝。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・南海ホークス以来37年ぶりとなった[注釈 23]。日本シリーズではセ・リーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、2005年以来5年ぶり4度目の日本一を達成し、パ・リーグで初めて年間勝率1位によるリーグ優勝をせずに日本シリーズを制した球団となった[注釈 24][注釈 25]。年間勝率3位からの日本一は球団史上初となった。西村は球団生え抜きとして初の日本一監督となった[注釈 26][注釈 27]。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフに小林宏之が阪神、西岡がミネソタ・ツインズにFA移籍。堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーはなく、現役を引退した。
3月11日に発生した東日本大震災ではQVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが、周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている[52]。開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり[注釈 28]、4対6で敗れ、開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として[53]以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落[54]。交流戦は8勝14敗2分の10位[55]。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる[56]。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし、後半戦に入ると、連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し、球団通算4000勝を達成[57]するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日に2002年以来9年ぶりの11連敗を記録し[58]、9月30日の対日本ハム戦(QVC)に勝利し、連敗を止めるも、3位のオリックスが楽天に勝利し[59]、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたため、Bクラスと最下位が確定した。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めてである[60]。最終的には54勝79敗11分と首位ソフトバンクとは33.5ゲーム差、3位西武とは13ゲーム差、5位楽天にも10ゲーム差をつけられ[61]、得点は432と球団史上最低記録[注釈 29]、チーム本塁打は46本と球団史上最少。ちなみにチーム本塁打数が50本以下だったのは1959年の近鉄以来であり、2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初である。さらにこの年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回ったが、1チームの本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄が記録して以来のことであった[注釈 30][62]。金泰均が打撃不振や怪我もありシーズン途中9月に帰国、退団している[63]。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー[注釈 31]がFA移籍で半年に復帰[64]。
開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど[65]、序盤から首位争いをし、5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し、首位浮上[66]。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した[67]。しかし、後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に3対5に敗れ、2か月半ぶりに首位陥落し[68]、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり[69]、9連敗するなど、順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日の対オリックス戦(京セラドーム)に1対2で敗れ、2年連続Bクラスが確定し[70]、最終的には62勝67敗と首位日本ハムとは10ゲーム差、3位ソフトバンクにも3.5ゲーム差をつけられ、5位に終わった。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった[71]。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し、2010年以来2年ぶり3度目の日本一になっている[72]。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任[73]、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団[74]。10月18日、監督に伊東勤[75]が就任。
5月9日に2006年以来7年ぶりの8連勝で首位に立ち[76]、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わる。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると、6日に4連敗で2位に転落し[77]、前半戦を2位で折り返す[78]。7月27日に当時13連勝中だった田中将大相手に9回表終了時点でリードを奪うも、その裏に守護神益田直也が失点し、サヨナラ負けを喫し、田中の連勝は続いた。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで、楽天の優勝が決まり、優勝を逃すが[79][80]、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの2010年以来3年ぶりのクライマックスシリーズ出場が決定した[81]。10月8日の西武ドームでの西武との最終戦は共に勝った方が2位確定となるも、西武に敗れ、3位が確定した[82]。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが[83]、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗退した[84]。オフに西武からFA宣言した涌井秀章を獲得。
楽天が球団創設初の年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になったことにより、ロッテは現存11球団の中で日本ハム、阪神、中日と共に「新球団に年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった[注釈 32][注釈 33][注釈 34]。
1月1日付けで球団社長に前みずほ銀行執行役員の山室晋也が就任した[88]。
開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり、6月の荻野、7月のクレイグ・ブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、下位に低迷した。シーズン途中にキューバ出身でリーガ・メヒカーナ・デ・ベイスボルの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得[89]。9月25日の日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定し、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった[90]。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退した[91]。成瀬がヤクルトにFA移籍。DeNAを自由契約となった陳冠宇を獲得。
開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが、4月中盤から徐々に低迷した。交流戦では一時は首位に立つ[92]も、最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れて6連敗となり、自力優勝の可能性が消滅した[93]。その後、連敗を7で止めるも、前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグのベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなり、10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上し、4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し、3位が確定し、2013年以来2年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した[94]。
クライマックスシリーズファーストステージではシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期なことから、「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分を除く)で敗退した。オフに今江がFAで楽天、クルーズが巨人に移籍。ソフトバンクを退団したジェイソン・スタンリッジを獲得。
2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。
開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われると、以降はソフトバンクの後塵を拝する状況が続いた。しかし、その後は3位をキープし続け9月24日に3位が確定し、クライマックスシリーズ進出と1985年以来31年ぶりの2年連続Aクラスが決定した[95]。クライマックスシリーズでは2位のソフトバンクと対戦するも、2戦全敗で敗退した。角中が首位打者と最多安打を獲得、石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞した。サブローが現役を引退、デスパイネも金銭面の関係で退団となり、ソフトバンクへの移籍が決まった。
オープン戦を首位で終えたが、シーズンに入ると、打撃陣は新外国人のジミー・パラデスとマット・ダフィーの不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も前年に最優秀防御率のタイトルを獲得したエースの石川の大乱調などで、4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ、最下位に転落すると[96]、5月16日の西武戦にも敗れて6連敗を喫し、通算37試合目にしてロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した[97]。5月から6月にかけてWBCキューバ代表のロエル・サントス[98]、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーしたウィリー・モー・ペーニャ[99]を相次いで獲得。秋口になると、チームも復調し、9月は12勝10敗でシーズン初の月間勝ち越しを達成するが[100]、 シーズン終了まで1度も最下位を脱出することができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったため、2011年以来6年ぶりの最下位が確定した。10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終え、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督は辞任し、井口が現役を引退した。オフに大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。コーチ陣も刷新し、10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの山下徳人ら7コーチに対して翌年のコーチ契約を行わないことを通告した[101]。10月12日に現役を引退した井口がロッテの監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された[102]。井口のダイエー時代のチームメイトだった鳥越裕介がヘッド兼内野守備走塁コーチ、的場直樹が戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任した。
2月23日、重光昭夫代表取締役オーナー代行が同月13日、韓国で贈賄の罪で収監された[103]ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ、同日付でロッテホールディングス取締役の河合克美が代表取締役オーナー代行に就任した[104]。
ルーキーの藤岡裕大、新外国人のマイク・ボルシンガー、4年目の中村奨吾、5年目の井上晴哉が活躍した。5月10日にヘッド兼内野守備走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任となり、二軍内野守備走塁コーチの小坂誠が内野守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備走塁コーチに配置転換され、小坂内野守備走塁コーチのベンチ入りの影響で打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦和也がコーチ登録を抹消され、内野手に専念することとなった。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落してからは本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦が通算2000本安打を達成しても、チームは逆転負けするなど、9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れ、2年連続Bクラス、10月5日の楽天戦に勝利し、5位が確定したが、球団史上初めてパ・リーグ5球団を相手に負け越しが決まった[105]。
チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録した。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。
大隣憲司、金澤岳、根元俊一、岡田幸文が現役を引退した。オフに平沢大河、酒居知史、種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。
11月6日、ケニス・バルガスの獲得を発表した。その他にも元楽天の細川亨、元日本ハムのブランドン・レアード、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューした元横浜・DeNAのブランドン・マン、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビンを獲得。広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツとの争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。長年の課題であった長打力不足を解消するため、ZOZOマリンスタジアムにホームランラグーンを新設した。このホームランラグーンは、いわゆるラッキーゾーンにより、外野フェンスが最大で4メートル前にせり出すこととなり、本塁打の増加が期待された。
この年は平成最後のペナントレースだったので、ロッテは現存12球団と2004年に消滅した近鉄を含む全13球団の中で「平成時代に1度も年間勝率1位によるリーグ優勝ができなかった唯一の球団」と同時に同12球団の中でオリックス[106]、DeNA[107]、阪神[108]と共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズ1位通過を決められなかった球団」[109]かつ中日と共に「平成時代に1度も年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一にどちらもなれなかった球団」となった[注釈 35]。
開幕戦では楽天を相手に中村、加藤、レアードの3本の本塁打、藤原恭大のプロ初ヒットなどもあり勝利。この試合では酒居が1球勝利投手を記録している。4月11日には一時最下位へ転落したが、そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。7月4日、阪神タイガースから石崎剛を高野圭佑とのトレードで獲得[110]。7月14日、レオネス・マーティンの獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。7月30日の対オリックス・バファローズ13回戦(ZOZOマリンスタジアム)の5回終了(試合成立)[注釈 36]時点で、谷保恵美は公式戦通算1800試合アナウンス担当を達成した[34]。9月23日にZOZOマリンスタジアムで行われた引退試合を最後に福浦和也が現役を引退した。9月24日の西武戦に敗れ、目の前で優勝を決められた上、楽天に僅差で躱され、4位が確定。2位のソフトバンクには17勝8敗と大きく勝ち越したが、優勝の西武には8勝16敗1分、最下位のオリックスには9勝15敗1分と負け越した。荻野貴司がベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞した。前述のホームランラグーン新設により、チーム本塁打は前年の78本から158本へと大幅に増加した。
プエルトリコで行われるウインターリーグに岡大海、山本大貴、安田尚憲の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに鎌田光津希、原嵩、松田進の三選手を派遣。
ドラフト会議では「令和の怪物」と評された佐々木朗希を4球団競合の末、獲得に成功した。
オフに補強にも積極的に動き、荻野貴司、益田直也がFA権を行使せずに残留、鈴木大地が楽天にFA移籍したが、その楽天から美馬学、ソフトバンクから福田秀平をFAで獲得。一度のオフにFA選手を2人獲得するのは、球団初のことである。楽天からFAの人的補償として小野郁を獲得した一方、涌井秀章が金銭トレード、酒居もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。その他、自由契約となった西巻賢二とフランク・ハーマン、元広島のジェイ・ジャクソン、育成選手として元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元富山GRNサンダーバーズのホセ・フローレスを獲得。阿部和成、伊志嶺翔大が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
山室晋也球団社長が12月1日付で退任し[注釈 37]、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された[112]。
現役を引退した福浦和也が二軍ヘッド兼打撃コーチ、戦力外通告を受け、その後現役を引退した阿部和成が二軍サブマネージャー、同じく戦力外通告を受け、その後現役を引退した伊志嶺翔大が走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任。
1月1日、球団設立70周年を機にユニフォーム左袖のプライマリーマークを更新。二重丸を赤から黒に変更し、ベージュの影色が入っていたカモメの大半を白一色とした[113]。
1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めた重光武雄が韓国のソウル特別市で老衰のため享年98で他界する[114]。
3月10日、当時は予定通り3月20日に開幕する予定であり、三木亮と平沢大河がコンディション不良であったことから、前年まで阪神タイガースに在籍していた鳥谷敬を獲得[115]。
3月24日、球団の株主総会と取締役会において1月に死去した重光の次男で、3月18日に親会社ロッテホールディングスの会長職に選任されたばかりの昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。昭夫は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった[116][117]。
6月28日、対オリックス戦において6連勝。新型コロナウイルスの影響による変則日程で、2020年の開幕直後は同一カード6連戦が組まれていたが同一カード6連勝はプロ野球史上初となった[118] が、8回を任されたジャクソンが7月9日に突如退団し、10日に大麻所持の容疑で逮捕された。開幕から新戦力の福田秀平を怪我で欠く中、シーズン中盤にも故障者が続発しレアードや種市篤暉、松永昂大、ハーマンなどが相次いで離脱した。その中で9月7日に読売ジャイアンツから香月一也とのトレードで獲得した澤村拓一[119] がシーズン終盤にブルペンを支えた。一方、9月21日にマイアミ・マーリンズを解雇された陳偉殷を獲得。厳しいチーム事情の中でも首位ソフトバンクとの直接対決では大きく勝ち越しており、9月末の段階で首位のソフトバンクに迫る勢いで優勝争いを演じていた。ところが、10月4日に岩下大輝とチームスタッフ一人が新型コロナウイルスに感染していたことを発表、それを受けて一軍の監督やコーチ、選手、スタッフ全員に対して行われたPCR検査の結果、ベテランの鳥谷のほかにも、荻野貴司、角中勝也、清田育宏、菅野剛士、藤岡裕大、三木亮の7人も新型コロナウイルスの陽性判定を受けたことを同月6日に発表した[120]。岩下の濃厚接触者も含めこれら全員が一軍登録を抹消される緊急事態となり、21日の西武戦で主砲のマーティンが左足首を捻挫して負傷離脱した。それでも、10月8日には首位のソフトバンクに対してゲーム差0に迫ったが、ソフトバンクが11日から22日まで破竹の12連勝と波に乗った一方で失速し、一気に離されてしまった。22日にはロッテの自力優勝が消滅し、27日のソフトバンク戦(PayPayドーム)にも敗れ、ソフトバンクの優勝決定。前年に引き続き目の前で優勝を決められた。ソフトバンクに対しては10月9日までは11勝5敗1分だったが10日から11月4日まで6連敗し、最終戦の5日に勝ち、対ソフトバンク戦は12勝11敗1分だった。11月に入ると西武との2位争いとなり、一時的に3位に転落するが11月8日に西武との直接対決を制し、2007年以来13年ぶりに2位となり、クライマックスシリーズ進出が確定した。しかし、2016年以来4年ぶりの出場となったクライマックスシリーズではエラーをきっかけに流れを掴まれ、ソフトバンクの前に2連敗を喫してしまい、ソフトバンクがアドバンテージの1勝を含めて3勝としたために敗退した。
12月、庄司こなつの退団後も残っていたイベントMCのまさなり・ゆき・みもも(現・坂井美萌々)が揃って退団した。一方、2日に陳偉殷が自由契約となった(阪神に移籍)。24日にアデイニー・エチェバリアを獲得。
1月15日、清田が前年の札幌遠征において球団ルールに反する不適切な行動を行い、これに関する虚偽報告を行っていたことなどが判明したため清田を無期限謹慎(無期限活動停止)とし、松本尚樹球団本部長に厳重注意したことを発表した[121]。清田は5月1日に無期限謹慎処分が解除となったが解除後、再び球団ルールに反する行動を行っていたことが判明したため、「度重なる不適切な行動及びチームに対する背信行為」を理由として5月23日付けで清田との契約を解除した[122]。清田はこれを不服として法廷闘争に出、2023年2月に自身のInstagramにて、球団と和解したことを発表。
3月7日の対ライオンズ戦にて2005年から16年間スタジアムDJを務めていた野田美弘が卒業し、後任にはYUI(ゆい)がスタジアムMCとして担当することになった[123][124]。
開幕5連敗でスタートダッシュには失敗したものの、それ以降は持ち直した。しかし、交流戦では苦戦して負け越しとなり、6月14日から16日にかけてDeNAから有吉優樹とのトレードで国吉佑樹、中日から加藤翔平とのトレードで加藤匠馬、元中日のエンニー・ロメロを獲得。8月31日には千葉移転後の主催試合で通算1000勝を達成した。9月5日の日本ハム戦に勝利し、オリックスが敗れたため、シーズン初の首位に立ち[注釈 38]、8日の対オリックス18回戦(ほっともっとフィールド神戸)で7回裏にマーティンがオリックスの吉田凌から3ランホームランを放ち、球団通算8000本塁打を達成した。10月14日に首位オリックスとの直接対決に勝利して残り試合数の関係上、2位でありながら優勝した1970年以来51年ぶりとなるマジックナンバーが点灯したが、27日のビジターでの対楽天戦(仙台)に1-2で敗れた。
クライマックスシリーズファーストステージでは本拠地のZOZOマリンスタジアムで3位の楽天と対戦。第1戦では8回裏2死からエチェバリアが松井裕樹から同点のソロ本塁打を放ち、9回裏には1死2塁から佐藤都志也が楽天のセットアッパー・宋家豪からサヨナラ適時打を放って試合を決めると、2015年のファイナルステージ第1戦から続いたポストシーズンでの連敗を7で止めた。続く第2戦は2回表に炭谷銀仁朗、山崎剛に2点適時打を打たれ先制されたが、その裏に無死1,3塁から岡の併殺打の間に1点を返すと、4回裏に1死1塁から山口の適時打で同点とする。更に6回裏には山口のソロ本塁打で勝ち越した。直後の7回表、炭谷にソロ本塁打、島内宏明に適時打を打たれ逆転されるがその裏、主砲のマーティンが酒居知史からソロ本塁打を放って同点とし、その後は両者無得点で同点のまま9回表が終了した。この時点で前日に勝利したため、ファイナルステージ進出を決めた。大会ルールにより、9回裏の攻撃を行わず、試合は引き分けとなった。
そして迎えたオリックスとのファイナルステージでは第1戦でエースの山本由伸、第2戦で田嶋大樹とオリックスのリリーフ陣の前に完封負けを喫した。後のない第3戦では3回表に中村奨の犠飛で先制した。ところが6回裏、先発の岩下が宗佑磨に逆転の2点本塁打を打たれたものの、7回表、二死二塁で佐藤都の適時打で同点。8回表に一死から中村奨がソロ本塁打を放って勝ち越しに成功したが、9回裏にクローザーの益田が無死1,2塁のピンチを迎えると、続く小田裕也にも同点のタイムリーを打たれた。この時点ですでに3勝しているオリックスの1996年以来25年ぶりの日本シリーズ進出が決定したため、2年連続でファイナルステージ敗退となった。オフに新外国人としてタイロン・ゲレーロを獲得した。
オリックスが1996年以来25年ぶり、近鉄との球団合併後初の年間勝率1位によるリーグ優勝を果たしたことにより、ロッテは20世紀に創設した現存10球団の中で中日、DeNAと共に「後継球団に年間勝率1位によるリーグ優勝を先にされた球団」となった[注釈 39]。
4月10日の対オリックス戦で佐々木朗希が21世紀初・令和初の完全試合を達成した。また、13連続奪三振で日本記録をマークし、19回奪三振で日本記録タイに並んだ。通算14試合目の登板(史上最速)、20歳5か月(NPB史上最年少記録)、プロ初完投・初完封だった試合が完全試合(史上初)など、様々な記録が残った。だが、前年に打線の主軸を担ったレアードとマーティンの両外国人が打撃不振に陥り、最終的に5位に終わった。また、投手陣が好投しても打線が援護できず敗戦するという試合が目立った。特に小島はチームで唯一規定投球回に到達し、防御率3.14を記録したものの、3勝11敗と大きく負け越した。髙部瑛斗が盗塁王のタイトルを獲得し、美馬が規定投球回未到達ながら10勝を挙げた。シーズン最終戦となる10月2日、ホーム最終戦セレモニーで井口監督が突如退任を発表し、後任としてピッチングコーディネーターの吉井理人が監督に就任。オフに巨人からC.C.メルセデスとグレゴリー・ポランコ、新外国人としてルイス・ペルドモとルイス・カスティーヨを獲得した。
オリックスが1996年以来26年ぶり、近鉄との球団合併後初の年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になったことにより、ロッテは20世紀に創設した現存10球団の中で阪神、中日、DeNA、広島と共に「後継球団に年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった[注釈 39]。
監督の吉井がMLB経験者として選手の状態やデータ重視で「スタメンはすべて日替わり」「勝ちパターンの中継ぎは固定せず」という采配をするようになった。その起用が当たり、序盤は5月時点で首位と好調であったが、交流戦は7勝9敗と振るわなかった。7月24日の対ソフトバンク戦では9回裏2死で前年までロッテに在籍していたオスナから角中が逆転サヨナラ2点本塁打を放ち勝利を飾った。しかし、中盤以降は首位のオリックスに突き放され、楽天との負ければ4位となる最終戦を制して何とか2位に食い込んだ。また、この最終戦では小島和哉が勝ち投手となり、チームとしては種市篤暉と並んでシーズン10勝に到達した。
クライマックスシリーズではZOZOマリンスタジアムで3位ソフトバンクと対戦。2勝1敗でファイナルステージに進出したが、オリックスに1勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗れ、日本シリーズ進出はならなかった。
ポランコが球団としては1986年の落合博満以来37年ぶり、千葉移転後では史上初そして自身初となる本塁打王、ルイス・ペルドモが最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。オフにポランコとメルセデス以外の助っ人を自由契約し、DeNAからネフタリ・ソト、新外国人としてジミー・コルデロとジュニオール・フェルナンデスとジェームス・ダイクストラを獲得した。
オリックスが近鉄との球団合併後初めて年間勝率1位によるリーグ優勝を現在の本拠地で決めたことにより、ロッテは20世紀に創設した現存10球団の中で日本ハム、中日と共に「後継球団に現在の本拠地での年間勝率1位によるリーグ優勝を先にされた球団」となった。
7月31日、西武戦に開幕13連勝。1965年の中日の産経戦13連勝に並ぶ同一カード開幕最多連勝タイ記録を達成。中日は1引き分けを挟んでおり、開幕から13戦全勝は史上初[125]。8月1日の西武戦にも勝利し、プロ野球新記録となる同一カード開幕14連勝を達成[126]。最終的には8月28日の勝利で16連勝まで記録を更新した[127]が、29日の西武戦に敗れ、開幕に限らない同一カード連勝のパ・リーグ記録である17連勝には届かなかった[128]。9月15日、上記の通り前年から数えて16連勝をした西武に5対1で敗れ、リーグ優勝が完全消滅した[129]。10月1日、楽天戦(楽天モバイルパーク宮城)を5対1と勝利したことで3位が確定し、2年連続クライマックスシリーズ出場が決定した[130]。なお、この楽天戦では佐々木朗希が2022年の完全試合以来の完投勝利を挙げ、自身初の2桁勝利に到達した。最下位西武に21勝4敗、5位オリックスに16勝8敗1分けと大きく勝ち越し、4位楽天に13勝11敗1分と勝ち越したが、優勝したソフトバンクに8勝16敗1分け、2位日本ハムに6勝18敗1分けと負け越した。
クライマックスシリーズではエスコンFで初めて行われた2位日本ハムとのファーストステージで1戦目に勝利し、王手を掛け、2戦目も9回ウラ1アウトまで追い詰めたが、万波中正の同点本塁打により、延長戦になり、10回裏に淺間大基のサヨナラ適時打により、逆王手を掛けられて勢いづかれ[131]、第3戦も2点先制したものの、その直後に清宮幸太郎の同点、7回に水野達稀の勝ち越し打により、2試合連続逆転負けによるファーストステージ敗退となり、ファイナルステージ進出を逃した[132]。オフに建山義紀を投手コーチ、大家友和を二軍チーフ投手コーチに招聘した。
※1974年はプレーオフを制してリーグ優勝(併せて前・後期通算での年間勝率1位=.580を達成)。
「年間勝率1位」は2024年現在、1974年から50年連続と優勝条件がセ・リーグとは異なっていた時期があったとはいえ、現存12球団と2004年に消滅した大阪近鉄バファローズを含む全13球団で最も年間勝率1位から遠ざかっている球団になっている。
※2005年は年間勝率2位からプレーオフを制してリーグ優勝をした、2010年は年間勝率3位からクライマックスシリーズを突破した上で日本一になっている。
「年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一」と「年間勝率1位によるリーグ優勝」は2024年現在、前者は1950年から74年連続、後者は1970年から54年連続と優勝条件がセ・リーグとは異なっていた時期があったとはいえ、うち前者は中日ドラゴンズが1954年から続いている70年、どちらも横浜DeNAベイスターズが大洋時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超えてNPBワースト記録である[注釈 43][注釈 44]。
以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。
大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも、「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし、実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した[注釈 48][133][135][134]。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた[133]。
1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。英語の名詞形marineは「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。公募の際に「パラダイス」票が最終選考まで残った。変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームのため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
かつては所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフの初芝清と堀幸一)、2017年オフの涌井秀章以降は再契約を認めるようになっている。
2000年代後半以降は長距離打者の不足に悩まされることが増え、2019年終了時点で30本塁打以上打ったのは2005年の李承燁と2019年のブランドン・レアードのみである[136]。本塁打王も2023年にグレゴリー・ポランコ(26本)が受賞[注釈 49]するまで37年間ロッテ在籍選手が獲得することがなかった[137][138]。日本人では1986年の落合博満以来四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない[139]。これについては、本拠地の千葉マリンスタジアムに吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである[139][140]。これに対し、千葉マリンスタジアムでは2018年シーズン後に「ホームランラグーン」を設定して外野席を4m前方へ近づける改修を行った[141]。
最後のリーグ優勝は2005年で、パ・リーグ現存6球団と2004年に消滅した近鉄を含む全7球団で最もリーグ優勝から遠ざかりかつ1度も球団名を変更および本拠地を移転していない楽天を除く同5球団で現在の球団名や本拠地になってから年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になっていない最後の球団になっている[注釈 44]。
2021年にオリックス・バファローズが球団史上初のクライマックスシリーズ1位通過を決めたことにより、同6球団でクライマックスシリーズ1位通過を決めていない最後の球団になっている。
2006年から2015年までは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。2016年に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、東京ドームを会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアムでの試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった[142][143](試合は4-0でホークスが勝っている)。
2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアム、8月21日に2年ぶりに東京ドームで地方開催を行った[144]。
2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアム、9月8日に水戸市民球場(茨城県)での地方開催を予定していたが[145]、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した[146]。水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった[147]。
2023年は4年ぶりに地方開催を行うことを2022年12月に発表し、2023年7月6日の対埼玉西武ライオンズ戦を東京ドームにて行った[148]。
現在のマスコットであるマーくんは3代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている[149]。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国のKBOリーグ、ロッテ・ジャイアンツにもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似しユニフォーム類を改変したヌリがペットマークに使用されている。後述のクールが登場していた頃は、野球マスコットとしては珍しくキャラクターショーで声があてられていた(声優不明)。
他にもイベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。
ファンサービスの向上は本拠地を千葉市に移転した翌年の1993年頃から取り組み始めており、外野席のホーム・ビジターの区分けやレプリカのユニフォームを着用しての応援などはプロ野球界ではロッテが一番早く導入した。ロッテの内野応援団員を経て、ロッテマリーンズ球団職員を長年勤めた横山健一によれば、同時期に発足したサッカー・Jリーグを始め、メジャーリーグやアイスホッケーなど、国内外のスポーツ応援を参考に球団と応援団が新しい応援スタイルを確立していった[163]。
1996年にはビジター用のレプリカユニフォームがファン達の要望によって作られた。当初は「よその球場で着るユニフォームをなぜ作るんだ」と反対されていたものの、横山の説得もあり実現となった[164]。
瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題により、ロッテが千葉を去る可能性が取り沙汰されたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。過去は売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らなかった。2004年以降は県と市の協力を得て改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置し、動物とふれあう場所を設け、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始し、スタンド内にベビーベッドが設けた。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想ではロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、2006年度から指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたほっともっとフィールド神戸と、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のフルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城の例がある。2016年には管理許可のもとで横浜スタジアムを運営していた第三セクターの株式会社横浜スタジアムを、横浜DeNAベイスターズが友好的TOBにより買収している。
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。この結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される。販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
球団公式ファンクラブ『TEAM26』があり、ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・無料会員の5コースがある。チケット購入(前売りチケット含む)やオンラインショップ、スタジアム内各売店での購入でMポイントを貯めることが出来る。貯めたポイントは、観戦チケットやスタジアム内各売店で使用可能な金券チケット、各会員の入会特典グッズ、日程ポスターに交換できる。2010年度(2011年1月31日)までの「TEAM26」会員証は全日本空輸との提携による楽天Edy機能搭載のAMCカード一体型だった[179]。
2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の瀬戸山隆三は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(池田健、宮本裕司、小林憲幸、白川大輔、大谷龍次)は支配下登録を受けた1名(宮本)を除き、2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた長崎セインツへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。
約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグへ選手の派遣を認めた[180]。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は広島東洋カープ・オリックス・バファローズ・中日ドラゴンズ・東北楽天ゴールデンイーグルス・埼玉西武ライオンズ)。
2014年3月にベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツと業務提携を行い、ロッテ球団職員の荘勝雄がトレーニングコーチとして派遣されることになった[181]。
2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した「ALL for CHIBA」という特別試合時に、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用する。
2022年までの「ALL FOR CHIBAユニフォーム」を2023年に「CLMユニフォーム」へ名称を変更した。
2023年までに着用していた「CLMユニフォーム」からデザインとコンセプトを一新した。「球団の歴史にリスペクトを持ちながら、新たな時代への挑戦を模索していく、これまでとこれからのマリーンズを体現する」というコンセプトのユニフォーム。
「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベントで着用する。
乳がん撲滅の啓発を目的としたピンクリボン活動のPRとして、ピンク色がユニフォームの一部に取り入れられ、年に一度「MOTHER’S DAY」と題してイベントが行なわれる際に着用される[注釈 57]。ピンクリボンデザインのベースが使用される。
「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年、広告代理店の博報堂がデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された[207]。ビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。
ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判[207]。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、綱島理友の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている[208][注釈 59]。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
代 | 氏名 | 就任[※ 1] | 退任[※ 2] | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
毎日オリオンズ | 1 | 湯浅禎夫◎[※ 3] | 1950年 | 1952年7月27日 | 1950年のみ選手兼任監督 ここから毎日オリオンズ |
2 | 別当薫(第1次) | 1952年7月30日 | 1952年 | 選手兼任監督 | |
3 | 若林忠志[※ 4] | 1953年 | 1953年 | ||
4 | 別当薫(第2次) | 1954年 | 1959年 | ここから毎日大映オリオンズ | |
毎日大映オリオンズ | |||||
5 | 西本幸雄 | 1960年 | 1960年 | ||
6 | 宇野光雄 | 1961年 | 1962年 | ||
7 | 本堂保次[※ 5] | 1963年 | 1965年 | ここから東京オリオンズ | |
東京オリオンズ | |||||
8 | 田丸仁 | 1966年 | 1966年 | ||
9 | 戸倉勝城[※ 6] | 1967年 | 1967年8月14日 | ||
10 | 濃人渉[※ 7] | 1967年8月15日 | 1971年7月23日 | ここからロッテオリオンズ 1971年7月24日から終了まで二軍監督 | |
ロッテオリオンズ | |||||
11 | 大沢啓二 | 1971年7月24日 | 1972年 | 1969年から1971年7月23日まで二軍監督 | |
12 | 金田正一(第1次)◎[※ 8] | 1973年 | 1978年 | ||
13 | 山内一弘 | 1979年 | 1981年 | ||
14 | 山本一義 | 1982年 | 1983年 | ||
15 | 稲尾和久 | 1984年 | 1986年 | ||
16 | 有藤道世 | 1987年 | 1989年 | ||
17 | 金田正一(第2次)[※ 9] | 1990年 | 1991年 | ||
千葉ロッテマリーンズ | |||||
18 | 八木沢荘六[※ 10] | 1992年 | 1994年 | ここから千葉ロッテマリーンズ | |
19 | ボビー・バレンタイン(第1次) | 1995年 | 1995年 | ||
20 | 江尻亮[※ 11] | 1996年 | 1996年 | ||
21 | 近藤昭仁 | 1997年 | 1998年 | ||
22 | 山本功児 | 1999年 | 2003年 | ||
23 | ボビー・バレンタイン(第2次)◎[※ 12] | 2004年 | 2009年 | ||
24 | 西村徳文◎[※ 13] | 2010年 | 2012年 | ||
25 | 伊東勤 | 2013年 | 2017年 | ||
26 | 井口資仁 | 2018年 | 2022年 | ||
27 | 吉井理人 | 2023年 |
沢村栄治賞は、2023年シーズン終了時点の現存する12球団ではロッテのみ未選出である[注釈 62]。過去には小野正一、村田兆治が沢村賞クラスの活躍をしたが当時、パシフィック・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、受賞できなかった[210]。
2023年シーズン終了時点で達成者はいない[211]。
ロッテでの三冠王の達成者は1人。また、落合博満が日本人打者史上初の複数回達成し、日本プロ野球史上初および日本プロ野球最多記録となる3回三冠王を達成している[212]。2023年シーズン終了時点で3回達成者は落合のみ。
2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[213]。
ロッテの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは1人[214]。
1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。
のちに日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。
ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で敗れ、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、1リーグ制へ移行を画策し始めた。
当時ロッテはジプシー生活を強いられて首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。ロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測され、合併調印は時間の問題といわれていた。関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
重光はこの合併を否定して合併もほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した。詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照。
2004年には大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらに球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した。詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。
この過程でロッテは当時親会社ダイエーの経営難から、球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案も報じられたが、結局実現には至らなかった。ロッテと西武ライオンズを合併して「ロッテライオンズ」、ロッテとヤクルトスワローズを合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが[注釈 63]、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため、実現しなかった。
結局、同年オフにダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図ることとなり[注釈 64]、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2005年現在、パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台野球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。
ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。1987年に2年前(1985年)の阪神タイガース優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やすバーター取引、更には神戸市または福岡市(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。
しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していた南海電気鉄道では、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に仲介を依頼。その結果、ダイエー社長の中内㓛は買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断[218]。オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した[219]。
1998年、6月13日から7月8日までの19試合で日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている[220]。
試合日 | ビジター | スコア | ホーム | 備考 | 開催球場 | 勝敗 | 責任投手 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
6月12日 | オリックス | 1 - 2 | ロッテ | 千葉マリン | ○ | 黒木知宏 | |
6月13日 | オリックス | 6 - 4 | ロッテ | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 | |
6月16日 | ロッテ | 8 - 12 | 近鉄 | 藤井寺 | ● | 竹清剛治 | |
6月17日 | ロッテ | 6 - 9 | 近鉄 | 藤井寺 | ● | 近藤芳久 | |
6月18日 | ロッテ | 5 - 7x | 近鉄 | 延長11回 | 藤井寺 | ● | 竹清剛治 |
6月19日 | ロッテ | 0 - 7 | 日本ハム | 東京ドーム | ● | 小宮山悟 | |
6月20日 | ロッテ | 2 - 3 | 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 | |
6月21日 | ロッテ | 10 - 11x | 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 | |
6月23日 | ロッテ | 0 - 4 | 西武 | 富山市民 | ● | 薮田安彦 | |
6月24日 | ロッテ | 5 - 6x | 西武 | 延長11回 | 富山市民 | ● | 竹清剛治 |
6月26日 | 近鉄 | 3 - 1 | ロッテ | 延長11回 | 千葉マリン | ● | 藤田宗一 |
6月27日 | 近鉄 | 3 - 1 | ロッテ | 千葉マリン | ● | 武藤潤一郎 | |
6月28日 | 近鉄 | 6 - 2 | ロッテ | 千葉マリン | ● | クロフォード | |
6月30日 | 西武 | 5 - 5 | ロッテ | 延長12回 | 福井県営 | △ | -- |
7月1日 | 西武 | 7 - 4 | ロッテ | 石川県立 | ● | 礒恒之 | |
7月3日 | ダイエー | 4 - 3 | ロッテ | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 | |
7月4日 | ダイエー | 10 - 7 | ロッテ | 延長11回 | 千葉マリン | ● | 礒恒之 |
7月5日 | ダイエー | 10 - 3 | ロッテ | 千葉マリン | ● | クロフォード | |
7月7日 | ロッテ | 3 - 7x | オリックス | 延長12回 | GS神戸 | ● | 藤田宗一 |
7月8日 | ロッテ | 4 - 6 | オリックス | GS神戸 | ● | 薮田安彦 | |
7月9日 | ロッテ | 9 - 6 | オリックス | GS神戸 | ○ | 小宮山悟 |
2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。
開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球を記録し、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
ロッテ | 2 | 11 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 7 | x | 26 |
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。
ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。この間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸が日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。
結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で、記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上を記録した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
広島 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
ロッテ | 0 | 2 | 5 | 0 | 0 | 15 | 1 | 0 | x | 23 |
ロッテは、2010年6月7日の対ヤクルト4回戦(明治神宮野球場)で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに南竜介の左前安打から連打攻勢がスタートした。代打の青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発・村中恭兵をKOした。今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2点本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。そして南がこの回2本目の中前安打を放ち、10者連続安打の新記録を達成している。
青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。同日、ロッテがこの記録を達成した直後には、オリックスが対広島4回戦(福山市民球場)の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ロッテ | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 0 | 14 |
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
ロッテは宮城県仙台市の宮城球場での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた[注釈 65]。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス戦で記録した21連敗である。
平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の1950年代までは頻繁に、それ以後も少なくとも1980年代まではリーグ順位決定後の消化試合やポストシーズンを中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、2011年の東日本大震災発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム[221] に繰り上げたことがあった[注釈 66]。
その3年後の2014年、今度は春休みのファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初[注釈 67] となる平日デーゲームを4月2日と4月3日の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも2013年最初の平日ナイトゲームとなった同4月3日に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、2015年度最初の地元主管試合となる4月1日と4月2日の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった[222]。
このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、楽天も2007年以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている[注釈 68]。ロッテ・楽天以外にも、同じく東日本に本拠地を置く日本ハムと西武も後に平日デーゲームを開催する[注釈 69]。
球団の親会社であるロッテは、当初は業務提携であったが1969年から球団経営に参画した。詳細は前述。長らくパ・リーグ自体が不人気で(詳細はパシフィック・リーグの項目を参照)球団は毎年赤字決算が続いていた[注釈 70]ものの、2000年代に入り、地域密着に注力してファンを増やし観客動員が伸びたほか、グッズの売り上げの貢献や、球団が千葉マリンスタジアムの指定管理者となったことで球場内での飲食などでも収益を得られるようになったため収支が大幅に改善していった。2018年は観客動員、グッズ、飲食など全てで過去最高益を更新したことで、球団名が「ロッテ」となってから50年目となる2018年度の決算で初めて、親会社による補填に頼らず黒字化を果たした[225]。2019年4月15日に公表した第70期決算公告によると、2018年度の純利益額は3億8,513万円、利益剰余金は4億1,767万円であった[226]。2020年4月15日に公表した第71期決算公告でも、2019年度の純利益額は7億5,536万円、利益剰余金は11億7,303万円となり[227]、2年連続で黒字となり最高益を更新した。
テレビ中継は全てハイビジョン制作
パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
各球団がさまざまな形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た。GyaOは日本国外の視聴不可である。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
2015年からCS放送の配信先がTBSテレビ運営のTBSニュースバードに変更されたが、TBSテレビは基本的に制作には関与せず、球団主導型の製作は引き続き維持されている(ただし、スコア表示のフォントについては、TBSテレビ地上波・BSの中継に準拠したものである)。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
J:COM 千葉セントラル制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJ:COMグループのケーブルテレビ局のJ:COMチャンネル(コミュニティチャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜」。タイトルの由来は、“マリーンズ一筋”“マリーンズ命”などの意味から生まれた「マリーンズ狂」を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する「ロングインタビュー」や「マークンファミリーの取材」「球団主催行事取材」など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。ゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している[233]。司会進行は庄司こなつが担当している。
2012年9月21日と9月22日にQVCマリンフィールドにてホワイトスペースを利用するワンセグ型エリア放送が実施された[234]。
毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#施設概要を参照。
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