ロバート・ローズ

アメリカの野球選手 (1967 - ) ウィキペディアから

ロバート・ローズ

ロバート・リチャード・ローズ[注 1](Robert Richard "Bobby" Rose, 1967年3月15日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手

概要 基本情報, 国籍 ...
ロバート・ローズ
Robert Rose
Thumb
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州コビーナ
生年月日 (1967-03-15) 1967年3月15日(57歳)
身長
体重
180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手
プロ入り 1985年 MLBドラフト5巡目
初出場 MLB / 1989年8月12日
NPB / 1993年4月10日
最終出場 MLB / 1992年5月19日
NPB / 2000年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
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日本プロ野球 (NPB) 時代は、セ・リーグ球団横浜ベイスターズで「マシンガン打線」の中心打者として活躍し、1998年シーズンのリーグ優勝・日本一に貢献した[1]。「横浜史上最高の外国人選手」と称される選手であるとともに[2]、日本プロ野球歴代2位のシーズン打点記録(153打点)保持者でもある[3]

2024年度より監督を務める予定だった火の国サラマンダーズでは、球団ウェブサイトでボビー・ローズと記載されていた。

来歴・人物

要約
視点

アメリカ時代

1985年MLBドラフトにてカリフォルニア・エンゼルスから5巡目指名を受け、契約を合意。1989年シーズン、メジャーに昇格。この頃より横浜大洋ホエールズ牛込惟浩スカウトから注目される[4]。メジャーでも将来を嘱望される野手だったが1992年5月ニューヨークからボルチモアへ移動中だったバスが交通事故を起こし、足首を捻挫した為、マイナーへ降格させられる[4]。結局メジャーリーグでは通算73試合の出場に留まった。肘の故障もあり、マイナーでも戦線に復帰できず、失意の中にいたが同年のシーズンオフの10月15日にはR.J.レイノルズに代わる新外国人として大洋と2年契約(年俸・契約金併せて推定約50万ドル=日本円約6000万円)で契約を合意[5]。ローズ自身は、バス事故からベイスターズとの契約までの期間を「ずっと眠っていて、起きたら日本にいたという感じだった」と表現している。なお、大洋球団はローズ加入後の11月11日に球団名を「横浜ベイスターズ」へ変更している[6]

横浜時代

日本球界1年目の1993年シーズンは年俸35万ドルで、開幕戦でいきなり犠打のサインが出たことからもわかるように、来日当初は併殺の取れる二塁手として打撃はあまり期待されておらず、守備要員という印象すらあった[4]。同じく同年ベイスターズに入団したグレン・ブラッグスの方が大リーグの実績もあり、注目度も高かったがオープン戦から確実性の高い打撃を見せつけ、開幕すると勝負強さも発揮し、来日1年目から首位打者打点王の二冠王争いを見せ、ベストナインを獲得した。1993年4月10日の開幕戦から1996年4月23日まで405試合連続出場を果たすなど、体も丈夫な選手であった。入団時約3600万円だった年俸は、1995年シーズンオフに1億円を超えた。

主に5番を打っていたが、大矢明彦新監督の構想により、3番打者として開幕を迎えた来日4年目の1996年シーズンも序盤こそ三塁手への守備位置のコンバートの影響もあったためか絶好調ではなかったが、最終的には打率を3割に乗せ、及第点の成績を残す。しかし球団はローズのパワーを物足りないと考え、翌期の契約も微妙な状況であったといわれる。ところが翌1997年シーズンは前年のシーズンオフにブラッグスが退団し、前年の終盤4番打者として育てていた鈴木尚典も怪我で開幕を出遅れると、半ば消去法的に4番打者に収まる。ローズ自身、自分は4番バッタータイプではないと考えていたというが、前年のシーズンから一転し、開幕から絶好調で、シーズンを通し4番打者として十分すぎる活躍を見せる。3番鈴木、4番ローズを中心としたいわゆる「マシンガン打線」もこの頃完成した。日本での活躍が認められ、オフには新設された大リーグ・ダイヤモンドバックスから獲得オファーが来るも断っている。翌1998年は開幕から不調と怪我が重なり、4番を外れることも多かったが7月末より猛打を取り戻し、シーズン終盤、優勝争いに入り疲れと固さの見えていた打線のポイントゲッターとしてリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。

1999年シーズンは、6月30日にプロ野球史上初となる3度目のサイクル安打を記録、前半戦最後の試合となった7月22日ヤクルト戦では1試合10打点のセ・リーグタイ記録を達成した。前半戦を打率.388、27本塁打、100打点という成績で折り返し、史上初めて前半戦(81試合目。1試合欠場でローズ自身は80試合目)で100打点に到達した。7月25日オールスター第2戦では2度の満塁でのタイムリーヒットに加えソロ本塁打を放ち、オールスタータイ記録となる6打点を挙げ、MVPに選出されている。シーズンでは、最終的に153打点を記録した(失速したわけではなく、前後半戦を試合数で分けた場合、前半の67試合で73打点、後半の67試合で80打点となる)。

このシーズン153打点は小鶴誠松竹)の161打点(1950年)に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり、打点王を獲得[注 2]。同年のシーズンのリーグ2位のヤクルトのロベルト・ペタジーニとは41点差を付け、1963年に野村克也南海)が記録した39点差を上回る新記録となった。さらに右打者では当時史上最高の打率.369を記録し、首位打者を獲得。また、192安打は当時セ・リーグ歴代1位の記録となり、最多安打も獲得。本塁打もリーグ3位の37本を記録するなどいずれも驚異的な打撃成績を残した。この年のセ・リーグMVPは優勝した中日野口茂樹だったが、ローズも3位チームの選手であるにもかかわらず、MVPの投票で5位につけた。

このように大活躍をしたシーズンであったが、6月8日に突如引退宣言をしている。その後、妻の希望もあり、引退を撤回した[7]

2000年シーズンもリーグ2位[8] の打率.332を記録。2年連続でリーグ最多安打を記録するが年俸5億円超を要求したと言われ[9]、交渉は決裂し、横浜を退団。巨人をはじめ国内他球団・MLB各球団が獲得を目指して争奪戦を繰り広げたが、いずれの球団が提示した条件も高額年俸を望むローズの要求と折り合いがつかなかった為[9]、アメリカに帰国した。その後、2年間は日米のどの球団からも誘いはなく、実戦経験もなかったが、トレーニングは続けていた[10]

横浜退団後

2年間のブランクを経て、2002年シーズンオフ(アメリカ時間で12月5日・日本時間では12月6日)に千葉ロッテマリーンズと1年契約・年俸8000万円・背番号4で契約した[11]。しかし春季キャンプ中の紅白戦3試合で8打席安打が出ず[12]、2月19日には「野球に対する情熱がなくなった」との言葉を残し、退団となった[7][9][13]。 来日からわずか28日後の退団は「史上最速退団」記録となってしまい、ロッテ首脳陣・ファンの期待を大きく裏切るものとなった[1]。ローズの退団を受け、当時監督業に加えてスカウト活動も行っていた山本功児は代役としてホセ・フェルナンデスを獲得した[14]

引退後はアメリカ・コロラド州の、自身の子供が通う高校で野球のコーチをしていたという。

2012年4月4日、横浜スタジアムでの新球団・横浜DeNAベイスターズ開幕戦の試合前のイベントで、1998年の横浜優勝時の監督である権藤博、当時の同僚である佐々木主浩谷繁元信(中日)とともに登場。佐々木から安打を打った[15]

2013年からは、テキサス・レンジャーズ傘下A級ヒッコリー・クロウダッズのコーチを務めていた。

2018年、ボルチモア・オリオールズ傘下A級デルマーバ・ショアバーズ英語版の打撃コーチに就任[16]

2023年、横浜DeNAベイスターズが6月2日~4日の埼玉西武ライオンズ戦で開催したイベントのスペシャルサポーターを務めるため来日した。イベントでは監督・コーチとなった三浦大輔石井琢朗鈴木尚典やかつてのチームメイトと再会したほか[17]、2015年のアリゾナ・フォールリーグで自身が打撃コーチを務めていた際に教え子だったタイラー・オースティンとも横浜の地で再会した[18]

2023年11月24日、九州アジアリーグ火の国サラマンダーズ監督に就任することが発表された[19]。発表では名前を「ボビーローズ」と記載していたが[19]、その後チームウェブサイトに掲載されたスタッフリストでは中点入りの「ボビー・ローズ」となっている[20]。しかし、2024年シーズン開幕前の2月15日、家族の都合による帰国が決まったため、同日付で退任したことが発表された[21]。投手コーチ兼任選手の荒西祐大が監督代行を務めることも同時に発表された[21]

プレースタイル

打撃面

NPB通算打率は.325。しかし、歴代ランキングの条件である4000打数に達していないため、ランク外となっている。不足分の71打数を凡打にしても打率.319であり、1位のレロン・リーの打率.320に肉薄する(歴代ランキングにおいては例外規定は適用されない。横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはレロン・リーについで史上2位である)。

巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかく単打を打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられていたという[9]鹿取義隆は「投手から見ると、どこに投げても打たれそうな雰囲気のあるバッターでした」と語っている[22]

横浜時代に同僚だった駒田徳広は「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っている[23]

守備面

横浜時代に二塁手としてゴールデングラブ賞を獲得している[24]。MLB・NPBでは二塁手、マイナーリーグでは三塁手としての出場試合が最も多く[25]、1試合で全部のポジションを守った経験もある[26]

ローズ加入まで正二塁手として君臨していた高木豊は、引退後に自身のYouTube公式チャンネルで「三塁手として獲得したはずなのにローズが二塁しか守れないって言うから、俺が三塁に転向することになった」と発言している[27]

人物

要約
視点

日本に馴染もうとせず、取材嫌いで知られていた。1999年途中に引退宣言をした際、旧知のスポーツライターにその理由を「僕ら外国人選手なんて、使って捨てられるだけのような高給取りの娼婦みたいなもんだ。メジャーにいた経歴があるだけで、それなりの成績を残すのが当たり前と思われているから、もし成績が2割に落ちるとかになれば、嫌でも球団から辞めてくれと言われる。そんな惨めな思いはしたくないし、辞める時はいい時に自分の意志で辞めたい。」と明かしたことがある[28]。また、引退後の2023年に応じたインタビューでは「僕の仕事は、グラウンドでパフォーマンスを見せる事であって、テレビ局で愛想よくインタビューに応じたり、スタイリストをつけて雑誌の撮影に応じることじゃない。たくさんのオファーをいただいていましたが、すべて断っていました。そのことで充分な準備ができず、集中力とパフォーマンスを削がれたくなかった」と述べている[29]

1998年から2000年まで横浜の監督を務めた権藤博を「最高のボス」と慕っている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得したり、年俸の値上げを渋ったりする横浜フロントにわだかまりを持ち、打撃不振に陥っていた1998年のシーズン序盤や、絶好調であった1999年のシーズン中も引退を考えていた。1999年の夏頃、これを憂えた権藤は球団通訳ではなく、英語を話せる自分の娘のみを同伴させて1対1でローズと腹の割った話をした。結果「権藤がボスでいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置いた。そして権藤が退任した2000年に、自らも横浜を去ることになる。引退の理由の一つに、家族との時間を大切にしたいということを挙げている。自分の知らないうちに娘がブラジャーをするようになっており、そのことに関して「娘の成長に目を向けられないほど、家族のことをほったらかしにしてしまっていた」という旨の発言をしている。

ロッテ時代は前述の通りキャンプ途中で退団してしまったが、キャンプ初日からチーム練習が始まる前に一人でウエートトレーニングを行う熱心さや頭脳的な打撃練習は首脳陣から絶賛され、チームメートは尊敬の眼差しで見つめていたという[13]

横浜退団後の2年間何をしていたのかについて「コロラドで家族と一緒に過ごしていた。フットボールを観戦したりウインタースポーツをしたり、また娘の通っている高校で野球を教えていた」と語っている[10]

ロッテ退団時には日本へまた来るかとの問いに「もちろん家族も自分も日本は大好き。野球をするためではないけれど必ず帰ってきたい。その時はソフトボール(選手)かもね」と語っている[13]

タイラー・オースティンとは、2015年のアリゾナ・フォールリーグで打撃コーチと選手の関係だった事があり、2023年にベイスターズのイベントのために来日した際にベイスターズに在籍するオースティンと再会している[30]

詳細情報

年度別打撃成績

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O
P
S
1989 CAL 144238481211630010201102.211.268.421.689
1990 716135500182001020010.385.467.6151.082
1991 2269655185112880001300131.277.304.431.735
1992 30968410185022910111181292.214.295.345.640
1993 横浜 130544486611583341925694231447866316.325.389.527.915
1994 130574510711512841523286110755027225.296.362.455.817
1995 1305524927615532422261973106382167615.315.379.530.909
1996 1265524836214721616228861001253046611.304.370.472.842
1997 13057246370152307182509932079111117017.328.444.540.984
1998 124545468701522941924696230468657925.325.413.526.938
1999 1345975219319234237341153310663778119.369.439.6551.093
2000 1355895067116831521272971104731065916.332.419.538.957
MLB:4年 7322320024491135812311321513335.245.305.405.710
NPB:8年 103945253929574127523836167208680816121504884457566144.325.402.531.933
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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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一塁二塁三塁




































1993 横浜 -129287341797.989-
1994 -1303323401597.978-
1995 -130299335992.986-
1996 -882082221358.971361560310.962
1997 -1293153051184.983-
1998 -124317331989.986-
1999 2141011.000133276354781.989-
2000 430011.000135306426985.988-
NPB 6171021.0009982340265480683.984361560310.962
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タイトル

NPB

表彰

NPB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録
  • 1試合10打点:1999年7月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(横浜スタジアム) ※セ・リーグタイ記録
  • サイクル安打:3回 ※史上46人目(達成3度はプロ野球史上唯一[9]
    • 1回目:1995年5月2日、対中日ドラゴンズ2回戦(横浜スタジアム) ※史上48度目
    • 2回目:1997年4月29日、対ヤクルトスワローズ4回戦(横浜スタジアム) ※史上49度目
    • 3回目:1999年6月30日、対広島東洋カープ11回戦(富山アルペンスタジアム) ※史上54度目
  • オールスターゲーム出場:4回 (1995年、1997年、1999年、2000年)
  • オールスターゲーム1試合最多打点:6(1999年第2戦、タイ記録)
  • シーズン153打点(1999年) 歴代2位(2017年シーズン終了時点)[3]
  • シーズン打率.369(1999年) ※右打者として当時のNPB記録(2008年に内川聖一が更新)
  • シーズン192安打(1999年) ※当時のセ・リーグ記録(2005年に青木宣親が更新)
  • 6年連続打率3割(1995年 - 2000年) ※外国人選手史上2人目

背番号

  • 6(1989年 - 1992年)
  • 23(1993年 - 2000年)
  • 4(2003年)
  • 98(2024年 - 同年2月15日)

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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