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ハワイ出身の日本のプロ野球選手 ウィキペディアから
若林 忠志(わかばやし ただし、本名:タダシ・ヘンリー・ワカバヤシ(Tadashi Henry Wakabayashi)、1908年3月1日 - 1965年3月5日[1])は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)生まれのプロ野球選手(投手)・監督。ハワイ移民の日系2世。
1946年 - 1948年頃 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
アメリカ合衆国 ハワイ準州オアフ島 |
生年月日 | 1908年3月1日 |
没年月日 | 1965年3月5日(57歳没) |
身長 体重 |
175 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1936年4月30日 |
最終出場 | 1953年10月4日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1964年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
|
ジャズ・ミュージシャンの津上研太は孫。
1908年3月1日、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii、現:ハワイ州)・オアフ島ワヒアワで出生[2][3]。九人兄妹の五番目の三男[2]。父親の代に広島県芦品郡戸手村(現:福山市)からハワイへ移民しており、父母ともに広島県芦品郡生まれの日本人[2][4][5]。両親は日本を主な取引相手とする雑貨貿易商を営むかたわら、パイナップル缶詰会社を経営する等、事業で成功し裕福な家庭で育った[2]。
国籍はアメリカ・日本の二重だったが、1928年に日本国籍を一旦離脱。日系外国人に退去命令が出された1941年に日本国籍を回復、アメリカ国籍から離脱した。愛称は「ボゾ」(アメリカ俗語「BOZO」は「(筋肉ばかりある)薄ら馬鹿の男」といった意味。発祥は第一次世界大戦直後)。マッキンレー・ハイスクール時代は、アメリカンフットボールに熱心だったが、試合中に頭を蹴られ2か月の大けがをする。以後、両親からアメリカンフットボールを禁止され、次にベースボールをはじめた。元は捕手だったが、マッキンレー・ハイスクール時代の1学年上の田中義雄には敵わず、田中から投手転向を勧められ、上段から投げ下ろす剛速球を武器とするエースとなった[2][4]。
1928年、スタクトン野球団のメンバーとなり、親善試合のため来日。当時日本にはまだプロ野球が存在しなかったため東京六大学の早稲田・明治・法政などと対戦した[6]。若林の存在はたちまち話題になり、六大学のうち特に法政大学が熱心に勧誘した。若林自身も両親の母国である日本に敬愛の念を抱いており、法政入学は決定かと思われたが、日本の中学校を出ていない外来選手の獲得には法政を除く六大学各校から反対意見が噴出したため[7]、同年7月のハイスクール卒業を待って再来日させ、9月、横浜の旧制本牧中学校(現:横浜高等学校)に4年生として編入学させた。若林にはアメリカのAAA、サンフランシスコ・シールズからの誘いもあった[8]。1929年3月に卒業。同年4月晴れて法政大学予科に入学となった。当時の東京六大学野球は早慶明の鼎立時代で、それに対して法大野球部は弱小チーム。若林の右腕に全てがかかっていたが、1年目はハワイと日本の野球の違いに戸惑い好結果を残せなかった。1930年徐々に適応してきた秋のリーグで法大は念願の初優勝。エースとして存分の働きを見せた。
3年生となった1931年秋、肘・肩を痛めサイドスローへの転向を余儀なくされる。これにより剛速球を失い、変化球とコーナーワークを磨くことになる。1932年4月に本科経済学部に進学。この年の秋季リーグ戦で2度目の優勝を果たす。1933年1月15日、東北の大富農本間家の出である妻・房と学生結婚し、原宿穏田に居を構えていた。1934年通年1シーズン全15戦の試合形式に変更され、法大は主力が大量に卒業し戦力が低下。若林が全15戦全てに登板し、11勝3敗1分の個人成績=チーム成績を残すという空前絶後の働きを見せ、3度目の優勝に輝いた。リーグ戦通算87試合(史上最多)、43勝[9](史上4位。リーグ初の40勝)28敗。この他、隠し球をプロ野球で初めてやったといわれる苅田久徳にやり方を教えたのは大学時代の若林という[10]。同年、同校体育会アメリカンフットボール部の創設に携わる[11]。
1935年3月、法大を卒業。4月、知人の紹介で日本コロムビアに入社[9]。ビジネスマンとして働く傍ら同社の実業団(社会人)チーム「コロムビア」にも参加し野球を続けた。給料は当時の一流会社の重役以上の500円と破格だった[8]。
1935年7月16日に東京巨人軍が米国遠征から帰国。8月、第9回都市対抗野球大会で決勝戦進出、東京倶楽部に敗れたが最優秀選手に選ばれる[8]。若林の元には巨人、大阪野球倶楽部設立(12月10日)に動いていた阪神電気鉄道(阪神)、大阪阪急野球協会設立(1936年1月23日)に動いていた阪神急行電鉄(阪急)が勧誘に訪れた。最初に来たのは巨人だったが、月給150円を提示され「プロ野球が隆盛に向かうように持っていく自信があるが、それにしては金額が安すぎる」として、巨人の勧誘を断る。次に阪神と阪急が来るが、若林は当時日本になかった概念「契約金」(1万円)を要求する。阪神がこれに応じて契約をまとめ、若林は本契約書サインをもって、1936年1月9日に大阪野球倶楽部に入団した。翌1月10日には大阪野球倶楽部のチーム名が大阪タイガースに決定した[12]。
若林は妻の実家も裕福で、前述のようにハワイの実家も事業で成功していたため、父親から「野球をやらなくても食えるようにしてやっている。ハワイに戻って来い」と催促されたが、「人の援助はもう受けたくない。アメリカの野球選手は立派に一流の社会人として成功している。日本だって必ずプロ選手としてやっていける」と確信してタイガース入団を決意した[8]。
プロ野球は最初は非常に茨の道であったが、若林は将来最も有望な事業であると堅く信じていたという[8]。当時のタイガースは1936年の背番号を"いろは"順に定めたが、若林はこの順番とは違い18だった。若林は本来4をつけるはずだったが、4は縁起が悪いため、空番号のうち一番若い18をつけることになったのが理由である。若林が18をつけてエースとして活躍したことで「エースナンバー=18」と言われるようになる[注 1]。
タイガース入団時すでに28歳になっていたが投手寿命は非常に長く、45歳まで現役を続け、1リーグ時代の技巧派の代表的投手とされている。「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル)と呼ばれ、ナックルを初めて投げたとも言われる。だが、普段はそれほど多くの球種を投げておらず、殆どはストレートとカーブで、それを制球力と緩急によって投げ分け、打者を幻惑させた。コントロールに優れ、わざとコースを3つ続けて外して3ボールとし打者の打ち気を外してから打ち取ることを楽しみにしていた。特に絶妙のコントロールで、低めで変化させる球を持つことが、長く勝てる理由だとも述べている[13]。
特筆すべきは被本塁打の少なさで、3557回投げてわずか69本しか打たれていない。9イニング当りに換算すると0.175本、すなわち6試合投げて1本しか打たれなかったことになる。戦前のこととはいえ飛び抜けて低い数値であった。球質が重かったと言われているが、それに加えコントロールが良かったことの証明であろう。
1936年(1年目)は10勝、1937年(2年目)は17勝を挙げる。この頃は彼より若い西村幸生や御園生崇男の方が活躍していた。秋シーズン前に肩痛が悪化する。3年目の春シーズンは戦線を離脱して治療に専念し、秋シーズン終盤に復帰した。
1939年(4年目)には全盛期に入り、自己最高の28勝と勝率・防御率のタイトルを獲得。以後シーズン20勝以上を6度記録し、ヴィクトル・スタルヒンや野口二郎と共に、戦中から戦後復興期の日本を代表する投手として活躍を続けた。
1944年、戦前最後のシーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き[9]、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得した。この年の阪神のチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利(19勝)より多かった。36歳で開幕を迎えたシーズンの最多勝獲得は2005年の下柳剛(阪神)と並び史上最年長タイ記録である。また、14試合連続登板の日本記録も残している。
戦争による中断を経て、終戦後は妻の故郷である宮城県石巻市で水産会社の社長を務めていた。プロ野球再開で復帰を要請されたが年齢も40に近く、会社も軌道に乗っていたため当初は復帰を拒否した。しかし戦時に何度も召集された藤村富美男が、体がボロボロになりながら監督兼エースとして投げている、などと聞き心を動かされ復帰を決意したといわれる[14]。1947年に監督兼選手に復帰[9]。11月3日対中日戦(後楽園球場)の延長10回裏1死から救援登板、11回表に味方打線が勝ち越し点を奪い裏を若林が締めてゲームセット。勝ち投手となり、スタルヒンに次ぐ200勝目を挙げた。このシーズンは26勝を挙げて優勝に貢献し、二度目のMVPに選ばれた[9]。この年39歳で20勝投手の最年長記録である。
1948年3月、若林は自身が監修・発行人となり大阪で雑誌『ボールフレンド』を創刊[15]。また子供のために『少年ボールフレンド』を発行した[8]。同年「タイガース子供の会」を個人で立ち上げ、少年野球の発展ひいては阪神ファンの開拓に尽力した[8][16]。
1949年、41歳で15勝を挙げ、この年まで阪神在籍13年で501試合に登板し233勝を挙げた。この数字は現在も阪神の投手最多勝記録である。この間、1940年 - 1941年は助監督を、1942年 - 1944年、1947年 - 1949年は監督を兼任している。
1950年、2リーグ分裂に伴い、パ・リーグの毎日へ移籍した[9]。彼は以前から2リーグ制論者であり、1949年に始まったプロ野球再編問題に際しては阪神と毎日を中心とする新リーグ設立を積極的に支持していたが、結局阪神が巨人と同じリーグに残ることを決定したため、フロントとの対立が深刻化した結果である。この時に別当薫・土井垣武・呉昌征らも若林と行動を共にして阪神の弱体化を招いたため、阪神サイドから裏切り者扱いされて長らくそのイメージがつきまとうようになった。この理由を、彼のアメリカナイズされたビジネスライクな価値判断に求める意見もあり、例えば水原茂は『プロ野球史再発掘』の中で、「若林は考えが進歩的で、アメリカ式の価値判断でものごとをやっていく。日本式の義理人情じゃない。阪神には義理を感じてなかった男です。…われわれは入団当時、プロの初期のときには月給いくらと決まって、それっきりでいった時代です。ところが若林はちゃんと計算して、月給いくらよこせ、いくら契約金くれということで入っているんですよ。…新しいリーグができる。それじゃ新しく、変わった新天地で、自分を高く評価判断して買ってもらおうとすぐ割り切る男ですよ。だから阪神で相当もらっていても、それは別として、毎日から評価を受けて買われるとなると、パッと切り替えるんですよ」などと述べている[17]。だが彼にしてみれば、2リーグ制の確立に貢献したいという信念に基づく行動である。来日中だったサンフランシスコ・シールズのフランク・オドール監督と交流するうちに2リーグ制の必要性を更に痛感するようになっており、スポーツニッポン紙1950年1月21日付の座談会「僕はなぜやめたか」で退団理由を次のように語っている。
「私としては長年ご厄介になった阪神を辞めたくなかったし、辞めるにしても気持ちよく綺麗にやめたかった。しかし、シールズ軍の連中が来たときにいろいろ話を聞いてみるにつけ、連盟の首脳部および球団のオーナーに対する不満が抑えきれないものになってきた」[18]
既に42歳になっており、選手としてはシーズンをフルに戦える余力はなかったが、11月12日の対近鉄戦では最年長完封勝利(当時)を果たしている[注 2]。同年の第1回日本シリーズ第1戦に自ら志願して先発。老練な投球内容で日本シリーズ最初の勝利投手となり[注 3]、毎日の日本一に貢献した。第6戦に2番手投手として登板した際、その試合で既に2本の本塁打を放っていた岩本義行を無死満塁から敬遠した。満塁での敬遠は日本プロ野球史上初である(リーグ公式戦では1975年に広島・中日戦で記録されたのが最初)。岩本自身が「ノーアウトで敬遠なんて、自分の長い野球生活でも後にも先にもない」と驚く作戦だった。
1951年は白星ゼロに終わり、翌1952年は登板もなく、引退同然の状態であった。1953年は2試合に登板したが、これは通算奪三振数がそれまで999個だったので、1000個にするためだったといわれる。黒星1個・自責点8と引き替えに三振1個をもぎ取り、同年正式に現役引退を表明した。
毎日時代も監督を兼任していたが、1950年 - 1952年は総監督の湯浅禎夫が実指揮を執っており、若林はヘッドコーチ的な立場に過ぎなかった。なお1952年は平和台事件の責任を取って、シーズン途中で二軍監督に降格している。1954年には毎日の営業担当取締役に就任するが1年限りで退職し、トンボのヘッドコーチに招かれる。しかしチームは記録的な敗数を喫し1年で退団した。この後いったんプロ野球を離れ「日本ペプシコ」社長やアメリカのテレビ映画『ローハイド』などを輸入した「PCAジャパン」日本支社長に就き、その傍ら毎日放送(テレビ・ラジオ)の野球解説者としても活動した。
1961年に大洋の二軍非常勤投手コーチとして球界に復帰。1963年は西鉄のヘッドコーチに就任。トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウイルソンら3名の外国人選手を西鉄に紹介[20]。また、田中勉、安部和春、若生忠男、畑隆幸、井上善夫ら若手の投手陣を指導し、長らく稲尾和久一人に頼った西鉄投手陣の立て直しを図った[20]。西鉄は南海に14.5ゲーム差をつけられたが、これらの選手が活躍してゲーム差を逆転し10月21日にリーグ優勝を達成、若林の手腕は高く評価された。
1964年には野球殿堂入りを果たす。しかし11月に末期の胃癌が判明し、同年限りで西鉄から退団した。ただし妻の房の意向で妻と当時の西鉄監督だった中西太以外には事実が伏せられたため、「チームの不振の責任を若林1人に負わせた」として西鉄球団や中西が非難される事態となった。
1965年3月5日、57歳で死去[1]。プロ野球葬が行われ「最期まで病床で現場復帰を懇願していた」と中西が後に語っている。
没後の2011年3月4日、阪神球団がチーム内において優秀な社会貢献活動をした者を表彰する「若林忠志賞」を創設することを決定。2011年シーズンオフから実施することを明らかにし[21]、7月21日に阪神から正式に発表された。毎年11月の優秀な社会貢献活動をした選手は11月の球団納会などにおいて、記念盾と表彰金100万円、活動支援金100万円がそれぞれ贈呈されるほか、阪神甲子園球場内にある「甲子園歴史館」に賞のコーナーを設置して顕彰される[22]。なお、監督・コーチ・フロントなどから「若林忠志賞特別賞」を授与する場合もある[23]。
同じくして2011年4月8日から7月31日まで「甲子園歴史館」にて、企画展『初代エース若林忠志と助っ人外国人列伝』が開催された[21][24]。
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936春夏 | 大阪 阪神 大阪 |
9 | 7 | 4 | 0 | 0 | 5 | 2 | -- | -- | .714 | 311 | 68.0 | 70 | 3 | 29 | -- | 3 | 39 | 0 | 0 | 42 | 30 | 3.97 | 1.46 |
1936秋 | 12 | 9 | 4 | 1 | 0 | 5 | 4 | -- | -- | .556 | 318 | 75.2 | 60 | 1 | 28 | -- | 1 | 27 | 0 | 0 | 24 | 19 | 2.25 | 1.16 | |
1937春 | 21 | 10 | 4 | 0 | 1 | 8 | 2 | -- | -- | .800 | 393 | 92.0 | 85 | 1 | 25 | -- | 2 | 41 | 1 | 0 | 37 | 18 | 1.76 | 1.20 | |
1937秋 | 19 | 13 | 6 | 2 | 1 | 9 | 4 | -- | -- | .692 | 434 | 104.2 | 95 | 2 | 25 | -- | 0 | 35 | 0 | 0 | 42 | 29 | 2.49 | 1.15 | |
1938秋 | 7 | 4 | 2 | 0 | 0 | 4 | 2 | -- | -- | .667 | 184 | 44.2 | 32 | 2 | 18 | -- | 0 | 14 | 0 | 0 | 18 | 15 | 3.00 | 1.12 | |
1939 | 48 | 30 | 25 | 8 | 3 | 28 | 7 | -- | -- | .800 | 1326 | 330.0 | 248 | 4 | 91 | -- | 3 | 99 | 1 | 0 | 79 | 40 | 1.09 | 1.03 | |
1940 | 56 | 28 | 23 | 6 | 3 | 22 | 17 | -- | -- | .564 | 1380 | 347.1 | 266 | 5 | 108 | -- | 4 | 88 | 0 | 0 | 94 | 70 | 1.81 | 1.08 | |
1941 | 42 | 23 | 21 | 2 | 0 | 18 | 17 | -- | -- | .514 | 1264 | 321.2 | 234 | 2 | 102 | -- | 1 | 87 | 1 | 0 | 70 | 52 | 1.45 | 1.04 | |
1942 | 58 | 27 | 24 | 4 | 2 | 26 | 12 | -- | -- | .684 | 1518 | 377.1 | 294 | 4 | 127 | -- | 3 | 109 | 1 | 0 | 96 | 67 | 1.60 | 1.12 | |
1943 | 52 | 39 | 39 | 10 | 4 | 24 | 15 | -- | -- | .615 | 1656 | 415.2 | 299 | 1 | 123 | -- | 2 | 99 | 2 | 0 | 80 | 49 | 1.06 | 1.02 | |
1944 | 31 | 24 | 24 | 5 | 4 | 22 | 4 | -- | -- | .846 | 990 | 248.0 | 199 | 1 | 53 | -- | 0 | 45 | 0 | 1 | 59 | 43 | 1.56 | 1.02 | |
1946 | 12 | 7 | 7 | 0 | 0 | 4 | 4 | -- | -- | .500 | 359 | 82.2 | 83 | 1 | 38 | -- | 3 | 25 | 1 | 0 | 35 | 28 | 3.04 | 1.46 | |
1947 | 43 | 35 | 31 | 10 | 5 | 26 | 12 | -- | -- | .684 | 1318 | 331.2 | 277 | 8 | 69 | -- | 5 | 86 | 1 | 0 | 101 | 77 | 2.09 | 1.04 | |
1948 | 48 | 33 | 26 | 4 | 5 | 17 | 20 | -- | -- | .459 | 1338 | 326.1 | 318 | 7 | 66 | -- | 2 | 78 | 0 | 2 | 120 | 90 | 2.48 | 1.18 | |
1949 | 43 | 25 | 19 | 4 | 2 | 15 | 14 | -- | -- | .517 | 1135 | 271.0 | 271 | 14 | 73 | -- | 3 | 93 | 1 | 1 | 117 | 99 | 3.29 | 1.27 | |
1950 | 毎日 | 14 | 7 | 4 | 1 | 1 | 4 | 3 | -- | -- | .571 | 306 | 73.0 | 79 | 7 | 15 | -- | 0 | 20 | 0 | 0 | 41 | 30 | 3.70 | 1.29 |
1951 | 11 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | -- | -- | .000 | 173 | 41.0 | 46 | 6 | 6 | -- | 0 | 14 | 0 | 1 | 29 | 22 | 4.83 | 1.27 | |
1953 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 35 | 6.2 | 15 | 0 | 2 | -- | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 | 8 | 10.29 | 2.55 | |
通算:16年 | 528 | 327 | 263 | 57 | 31 | 237 | 144 | -- | -- | .622 | 14438 | 3557.1 | 2971 | 69 | 998 | -- | 32 | 1000 | 9 | 5 | 1093 | 786 | 1.99 | 1.12 |
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1942年 | 昭和17年 | 阪神 | 3位 | 105 | 52 | 48 | 5 | .520 | 21 | 9 | .204 | 1.82 | 34歳 |
1943年 | 昭和18年 | 3位 | 84 | 41 | 36 | 7 | .532 | 11 | 12 | .201 | 1.80 | 35歳 | |
1944年 | 昭和19年 | 1位 | 35 | 27 | 6 | 2 | .818 | - | 1 | .248 | 1.53 | 36歳 | |
1947年 | 昭和22年 | 1位 | 119 | 79 | 37 | 3 | .681 | - | 17 | .258 | 2.18 | 39歳 | |
1948年 | 昭和23年 | 3位 | 140 | 70 | 66 | 4 | .515 | 17 | 50 | .262 | 2.88 | 40歳 | |
1949年 | 昭和24年 | 6位 | 137 | 65 | 69 | 3 | .485 | 20.5 | 141 | .283 | 4.47 | 41歳 | |
1953年 | 昭和28年 | 毎日 | 5位 | 120 | 56 | 62 | 2 | .475 | 14.5 | 56 | .252 | 3.13 | 45歳 |
通算:7年 | 740 | 390 | 324 | 26 | .546 |
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