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DNAサンプルの特定領域を増幅させる反応または技術 ウィキペディアから
ポリメラーゼ連鎖反応(ポリメラーゼれんさはんのう、英語: polymerase chain reaction)とは、DNAサンプルの特定領域を増幅させる反応。
一般的には数百万〜数十億倍に増幅する。英語読みもされるが、その頭文字を取ってPCR法、あるいは単純にPCRと呼ばれることが多い[1][2]。
DNAポリメラーゼと呼ばれる酵素の働きを利用して、一連の温度変化のサイクルを経て任意の遺伝子領域やゲノム領域のコピーを指数関数的に増幅することで、少量のDNAサンプルからその詳細を解析するに十分な量にまで増幅することが目的である[3][4][5]。医療や分子生物学や法医学などの分野で広く使用されている有用な技術である。1983年にキャリー・マリス(Kary Mullis)によって発明され[6][7]、これによりマリスはノーベル賞を受賞した。
PCR法が確立したことにより、DNA配列クローニングや配列決定、遺伝子変異誘導といった実験が容易かつ迅速になった。分子遺伝学や生理学、分類学などの研究分野で活用されている。古代DNAサンプルの解析、法医学や親子鑑定などで利用されるDNA型鑑定、感染性病原体の特定や感染症診断に関わる技術開発(核酸増幅検査)、などにも用いられる。また、PCR法から逆転写ポリメラーゼ連鎖反応やリアルタイムPCR、DNAシークエンシング等の技術が派生して開発されている。今日では、生物学や医学をはじめとする幅広い分野における遺伝子解析の基礎となっている[8][9]。
PCR法は、試薬を混交したDNA溶液の温度を上げて下げる、という一連の熱サイクルによって動作する。このDNAサンプルの加熱と冷却の繰り返しサイクルの中で、二本鎖DNAの乖離、プライマーの結合、酵素反応によるDNA合成、という3つの反応が進み、最終的に特定領域のDNA断片が大量に複製される。
PCR法では、増幅対象(テンプレート)のDNAサンプルの他に、大量のプライマー(標的DNA領域に相補的な配列を持つ短い一本鎖DNA〈オリゴヌクレオチド〉)とDNAの構成要素である遊離ヌクレオチド、そしてポリメラーゼの一種であるDNA合成酵素(DNAポリメラーゼ)という3つの試薬を使用する。
以上のようにPCR法は、DNA鎖長による変性とアニーリングの進行速度の違いを利用して、反応溶液の温度の上下を繰り返すだけでDNA合成を繰り返し、任意のDNAの部分領域を増幅する技術である。
使用するDNAポリメラーゼが熱に弱い場合、変性ステップの高温下でDNAとともにポリメラーゼも変性してしまい、失活してしまう。そのためPCR法の開発当初は、DNA変性時の毎回にDNAポリメラーゼを酵素として追加しており、手間と費用がかかっていた[10]。現在では、サーマスアクアティカスという好熱菌由来の熱安定性DNAポリメラーゼであるTaqポリメラーゼなどを用いることで、途中で酵素の追加をせずに反応を連続して進めることができる。
増幅対象のDNA領域の両端の塩基配列を決定し、対応するプライマーを人為合成する。このときプライマーは、増幅予定の2本鎖DNAの両鎖それぞれの3'側に結合する相補配列であり、通常20塩基程度である。多くの場合、実験室でカスタムメイドされるか、商業的な生化学サプライヤーから購入可能である。
増幅対象DNA、プライマー、DNAポリメラーゼおよびDNA合成の素材(基質)であるデオキシヌクレオチド三リン酸(dNTP)、そして酵素が働く至適塩濃度環境をつくるためのバッファー溶液を混合し、PCR装置(サーマルサイクラー)にセットする。流通しているPCR試薬キットに付属するバッファー溶液には二価カチオンが含まれていることが多い[11]。通常はマグネシウムイオン (Mg2+)であるが、PCR媒介DNA突然変異誘発が高いマンガンイオン(Mn2+)を使用することで、あえてDNA合成の間のエラー率を増加させることも可能である[12]。Taq DNAポリメラーゼの場合、一価カチオンとしてカリウムイオン(K+)が入れられることもある[13]。また場合によっては硫酸アンモニウムを加えることもある。アンモニウムイオン(NH4+)は特にミスマッチなプライマーとテンプレート塩基対間の弱い水素結合を不安定化する効果があり、特異性を高めることができる[13]。
PCR処理をn回のサイクルを行うと、1つの2本鎖DNAから目的部分を2n-2n倍に増幅する。ただし、通常は最高で35サイクル程度行なう事から、近似的には2nの項は無視できる大きさになる。サイクル数をさらに増やすと、時間経過によりDNAポリメラーゼが活性を失い、またdNTPやプライマーなどの試薬が消費し尽くされるため、反応が制限されて最終的には一連の反応は停止する。
この反応の成否は、増幅対象DNAとプライマーの塩基配列、サイクル中の各設定温度・時間などに依存する。それらが不適切な場合、無関係なDNA配列を増幅したり、増幅が見られないことがある。また、合成過程において変異が起こる可能性も少なからずあるため、使用目的によっては生成物の塩基配列のチェックが必要である。
PCRはターゲットのDNAの領域を劇的に増幅する技術であり、非常に少量のDNAサンプルであっても、PCRを経ることで分析を可能になる場合がある。このことは、証拠として極微量のDNAしか入手できない法医学などの分野においては、特に重要である。あるいは、例えば数万年前の古代のDNAの分析などにもPCRは威力を発揮する[14]。
定量PCR(リアルタイムPCR、あるいは単純にqPCRとも呼ばれる。RT-PCRとは異なることに注意)の技術確立により、サンプル中に存在する特定のDNA配列の量も推定することができる[15]。これは、遺伝子発現レベルを定量的に決定する用途などで利用されている。定量的PCRでは、PCRサイクルのプロセスを実行中に、PCRサイクルの中で増幅されてゆくPCR産物の濃度をリアルタイムで測定していくことで、元々存在したターゲットのDNA領域の存在量を定量化することができる。大きく2つの手法があり、一つは二本鎖の間に非特異的に保持される蛍光色素を使用する方法、もう一つは予め蛍光標識が付加され特定の配列をコードしたプローブを利用した方法である。後者の方法では、プローブとその相補DNAのハイブリダイゼーションが行われることで初めて蛍光を検出することができる。
リアルタイムPCRと逆転写反応を組み合わせたRT-qPCR(逆転写ポリメラーゼ連鎖反応)と呼ばれる手法では、DNAではなくRNAの定量を可能にしている。この技術では、まず最初にmRNAをcDNAに変換し、そのcDNAをqPCRによって定量化する。この手法は、がんなどの遺伝病に関連する遺伝子の検出や発現量測定に多く利用されている[16]。
PCRは分子生物学や遺伝学をはじめとする、様々な研究分野に応用されている。
PCRは、子供が生まれる前に特定の遺伝の保因者であるかどうか、あるいは実際に病気に冒されているかどうかをテストする、いわゆる出生前診断に利用することができる[18]。出生前検査用のDNAサンプルは、羊水穿刺による絨毛膜絨毛サンプリング、あるいは母親の血流中を循環するごく少量の胎児細胞の分析によって取得できる。PCR分析は着床前診断も不可欠であり、発生中の胚の個々の細胞の突然変異をテストできる。
PCRは、臓器移植に不可欠な組織タイピングの高感度な試験としても使用できる。血液型に対する従来の抗体ベースのテストをPCRベースのテストに置き換える提案も、2008年にされている[19]。
がんの多くの形態は、がん発生に関連する各種遺伝子(がん遺伝子)の配列変化を伴うが、PCR技術を活用してこの突然変異を分析することで、治療方針を患者に合わせて個別にカスタマイズできる可能性がある。またPCRは、白血病やリンパ腫などの悪性疾患の早期診断を可能にする。がん研究分野で開発が進められており、現在ではすでにPCRは日常的に使用されている。ゲノムDNAサンプルを直接PCRでアッセイすることで、転座特異的悪性細胞を他の方法よりも少なくとも10,000倍高い感度で検出できることが報告されている[20]。PCRはまた、腫瘍抑制因子の分離と増幅も可能にする。たとえば、定量PCRを使用して単一細胞を定量し、DNAやmRNA、タンパク質の存在量と組み合わせを解析することが可能である[21]。
PCRは、細菌やウイルスによって引き起こされる感染症の、高感度で迅速な診断に役立っている[22]。PCRでは、マイコバクテリア や嫌気性細菌、または組織培養アッセイや動物モデルからのウイルスなど、培養できない微生物や成長の遅い微生物の迅速な同定も可能である。またPCR診断は、感染性病原体の検出のみならず、その細菌が特定の遺伝子を持っているかどうかを判断することで、非病原性株か病原性株かを区別できる[22][23]。一方で、様々な欠点も報告されている(後述)。
PCRベースのDNA型鑑定(フィンガープリンティング)は、法医学分野で広く応用されている。
PCRには原理と実際の作業は非常に簡単で、結果を迅速に得ることができ、また非常に感度が高い、といった多くの利点がある。定量PCR (qPCR、quantitative PCR) ではさらに、ターゲットとなったDNA領域の定量化もできる利点がある。一方で、PCRには様々な技術的制約や限界も知られている。
PCRの技術的な制限の1つに、選択的増幅を可能にするプライマーを生成するために、ターゲット領域の配列に関する事前情報が必要なことが挙げられる[30]。すなわち、PCR実施者は通常、プライマーとテンプレートが適切に結合するように、事前にターゲットとなるDNA領域の前後の配列情報を知っておく必要がある。そのため、配列情報が完全に未知のターゲットに対しては、PCRをかけることは原則的に不可能である。また、他のあらゆる酵素と同様であるが、DNAポリメラーゼ自体もDNA合成時にエラーを起こしやすく、生成されるPCR増幅物の配列に変異が生じることがある[31]。さらに、PCRはごく少量のDNAでも増幅できるため、誤って混入したDNAを元に増幅が起きてしまい、曖昧な結果や誤った結果が生じることがある。
このような問題を回避し、PCR条件を最適化するため、多くの手法と手順が開発されている[32][33]。例えば、サンプルが外来DNAの混入によって汚染されてしまう可能性を最小限に抑えるために、試薬の準備とPCR処理・分析、の各ステップで別々の部屋を利用することで、両者を空間的に分離することが有効である[34]。また、サンプルや試薬の操作には常に使い捨ての新品チューブ類やフィルター付きピペットチップを使用し、作業台や機器は徹底的に洗浄して常にきれいな空間で作業することが有効である[35]。PCR産物の収量を改善して偽産物の形成を回避する上でプライマー設計を見直すこと、バッファーやポリメラーゼ酵素の種類を検討することも、また重要である。バッファーシステムにホルムアミドなどの試薬を添加すると、PCRの特異性と収量が増加する場合がある[36]。プライマー設計を支援するための、理論的なPCR結果のコンピューターシミュレーション (Electronic PCR) も開発されている[37]。
PCRは非常に強力で実用的な研究ツールであり、実際に多くの感染症において、病因の配列決定はPCRを用いて解明されている。この手法は、既知ウイルスや未知ウイルスの識別に役立ち、疾患自体の理解に大きく貢献している。手順をさらに簡素化でき、高感度の検出システムを開発できれば、PCRは今後臨床検査室の重要な位置を占めるようになると考えられている[38]。しかしながら、感染症診断におけるPCRの利用には、利点のみならず様々な欠点も指摘されている。
Kjell Kleppeとハー・ゴビンド・コラナらは、プライマーと短いDNAテンプレートを使用して酵素アッセイをin vitroで行う手法を、1971年にJournal of Molecular Biology(分子生物学ジャーナル)に最初に発表した[39]。これはPCRの基本的な原理を説明したものであったが、当時あまり注目されておらず、ポリメラーゼ連鎖反応の発明は一般的に1983年のキャリー・マリスの功績によるものとみなされている[40]。
1983年にマリスがPCRを開発したとき、彼はカリフォルニア州エメリービルで、最初のバイオテクノロジー企業の1つであるシータス社(Cetus Corporation)で働いていた。マリスは「ある夜、Pacific Coast Highwayを車でドライブ中に、PCRのアイデアを思いついた」と書いている[41]。彼は、DNAの変化(突然変異)を分析する新しい方法を考えていた時、当時すでに知られていたオリゴヌクレオチドとDNAポリメラーゼを用いたDNA合成反応を繰り返すことで核酸の部分領域を増幅することを思いついた[41]。
マリスはこの方法を "polymerase-catalyzed chain reaction"(ポリメラーゼ触媒連鎖反応)と名付け、ネイチャーやサイエンスなどの著名な科学雑誌に論文として投稿したが、掲載されなかった。一方、PCR法自体はシータス社の同僚の手により鎌状赤血球症という遺伝性疾患の迅速な診断手段に応用された。サイエンス誌に "Enzymatic amplification of beta-globin genomic sequences and restriction site analysis for diagnosis of sickle cell anemia"として報告され、オリジナル論文より前に世界の科学者の注目を集めることとなった[7]。1987年にようやく、マリスの論文は Methods in Enzymology 誌に"Specific synthesis of DNA in vitro via a polymerase-catalyzed chain reaction."として掲載された[42]。後にマリスはサイエンティフィック・アメリカンで、「PCRは、遺伝物質DNAの単一分子から始めて、午後には1,000億の類似した分子を生成できる。反応は簡単に実行できる。試験管、いくつかの簡単な試薬、および熱源を必要とするだけである」と記述している[43]。DNAフィンガープリンティングは1988年に父子鑑定に初めて使用された[44]。
この成果を評価され、マリスはシータス社の同僚と共に、PCR技術を立証してから7年後の1993年にノーベル化学賞を受賞した[45]。また、1985年のR.K. SaikiおよびH.A. Erlichによる“Enzymatic Amplification of β-globin Genomic Sequences and Restriction Site Analysis for Diagnosis of Sickle Cell Anemia”(「鎌状赤血球貧血の診断のためのβグロビンゲノムシーケンスの酵素的増幅および制限部位分析」)の論文が、2017年の米国化学会の化学史部門の化学ブレイクスルー賞を受賞した[46][47]。しかしながら、マリスの研究に対する他の科学者の貢献や、彼がPCR原理の唯一の発明者であったかどうかに関しては、以下に記述するように、いくつかの論争が残っている。
PCRは当初、大腸菌のDNAポリメラーゼIをズブチリシン処理し、5'-3'エキソヌクレアーゼ活性を除去したクレノー断片を用いて反応を起こすものが大半であった。しかしながらこの酵素は、各複製サイクル後のDNA二重らせんの分離に必要な高温に耐えられず、DNAポリメラーゼが失活してしまうために、サーマルサイクルごとに手作業でこの酵素を加える必要があった[48]。そのため、DNA複製の初期手順は非常に非効率的で時間がかかり、プロセス全体で大量のDNAポリメラーゼと継続的な処理が必要であった。シータス社の研究グループは、この欠点を解決するために、50〜80°Cもの高温環境(温泉)に住んでいる好熱性細菌であるサーマス・アクアティクス(T. aquaticus)[49]から、耐熱性DNAポリメラーゼとしてTaqポリメラーゼを精製し、これを用いたPCRの手法を1976年にサイエンス誌に発表した[8]。T. aquaticusから単離されたDNAポリメラーゼは、90 °C (194 °F)超える高温で安定であり、DNA変性後も活性を維持する[50]ため、各サイクル後に新しいDNAポリメラーゼを追加する必要がなくなる[51]。これにより、PCR反応の簡便化と自動化への道が開かれ、幅広く応用可能な手法として発展することになった。
このように、PCR法の応用、発展に関してはシータス社グループ(当初はマリスも含む)の果たした役割が大きいのである。
ただし最初にこの方法を着想し方向性を示したのはキャリー・マリスであるので、マリスがノーベル化学賞を1993年に受賞した。PCR技術はマリスが特許を取得し、1983年にマリスが技術を発明したときに働いていたシータス社に譲渡された。Taqポリメラーゼ酵素も特許で保護されている。デュポンが提起した不成功の訴訟を含む、この技術に関連するいくつかの有名な訴訟が存在した。スイスの製薬会社エフ・ホフマン・ラ・ロシュは、1992年に特許権を購入したが、現在その特許権は失効している[52]。
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