京都大学
京都府京都市左京区にある国立大学 ウィキペディアから
京都府京都市左京区にある国立大学 ウィキペディアから
京都大学(きょうとだいがく、英語: Kyoto University)は、京都府京都市に本部を置く日本の国立大学。略称は京大(きょうだい)。
京都大学 | |
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百周年時計台記念館 | |
大学設置/創立 | 1897年 |
学校種別 | 国立 |
設置者 | 国立大学法人京都大学 |
本部所在地 |
京都府京都市左京区吉田本町36-1 北緯35度1分34秒 東経135度46分51秒 |
学生数 | 22,455 |
キャンパス |
吉田(京都府京都市左京区) 宇治(京都府宇治市) 桂(京都府京都市西京区) |
学部 |
総合人間学部 文学部 教育学部 法学部 経済学部 理学部 医学部 薬学部 工学部 農学部 |
研究科 |
文学研究科 教育学研究科 法学研究科 経済学研究科 理学研究科 医学研究科 薬学研究科 工学研究科 農学研究科 人間・環境学研究科 エネルギー科学研究科 アジア・アフリカ地域研究研究科 情報学研究科 生命科学研究科 地球環境学大学院 公共政策大学院 経営管理大学院 総合生存学館 |
ウェブサイト |
www |
1897年創立、1897年大学設置。国内の旧帝国大学7校の一つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。
京都大学は、日本で2番目に創設された帝国大学である京都帝国大学の流れを汲んでいる国立大学で、精神的な基盤として「自由の学風」を謳っている[1]。また、西部講堂のロックコンサートなどに代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。
創立以来「自由の学風」を建学の精神としている[1]。国立大学法人となった後に制定された京都大学の基本理念にも引き継がれた[1]。
京都市内の繁華街から離れた古都の風情を残す落ち着いた環境の中にあり、何事も学生の自主性に任せるという「自由の学風」を標榜している[2]。学生寮の入退寮選考を学生に任せた結果、無学籍者も居住するようになった[3]。リベラルな学風の傾向にある[4]。毎年行われる11月祭や折田先生像を巡る落書き、卒業式での仮装などにもその一端を垣間見ることができる[5]。
京都大学や(前身の)京都帝国大学では、それらの自由の拡大あるいは縮小を巡る攻防戦が繰り返されてきた。滝川事件は最も有名な事例の一つである[6]。
京都大学は学部・研究科以外に19の附置研究所・研究センターを設置している[7]。2010年3月現在、国内の大学で最多である[8]。2020年4月時点で、そのうちののべ14の研究所・研究センターは文部科学省「共同利用・共同研究拠点」に認定されており、国内の大学で最多である[9]。
共同利用・共同研究拠点の前身に当たる「全国共同利用型附置研究所・研究施設」の仕組みを初めて採用したのは京都大学の基礎物理学研究所である。これらの事実について京都大学の関係者は「幅広い分野において日本を代表する学術研究拠点となってきた、京都大学の社会的特徴を表している」[5]と考えている。
タイムズ・ハイアー・エデュケーションによる『THE世界大学ランキング 2023-2024』(2023年度)では、世界同点第55位、アジア同点第10位、国内第2位[10](同誌の世界大学名声ランキングでは第26位、アジア第5位、国内第2位[11])である。またQS世界大学ランキング 2024(2023年)では、世界第46位、アジア第9位、国内第2位である[12]。
タイムズ・ハイヤー・エデュケーションがベネッセと連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2023』では、前年に総合順位を4位から5位に繰り下げたままの結果となり、第5位に甘んじた[13][14]。
2019年10月10日現在、卒業生から8人、ゆかりのある人物も含めると11人のノーベル賞受賞者(いずれも自然科学分野)を輩出している。これはアジアの大学で最多である。フィールズ賞、ラスカー賞、ガードナー国際賞の受賞者数も国内の大学で最多である。
(沿革節の主要な出典は公式サイト[15][16][17][18][19][20][21])
京都大学の起源は文久元年8月16日(1861年9月20日)に長崎に設立された長崎養生所(その後、長崎精得館へ改称)まで遡る。長崎精得館の理化学部門は、当初は江戸にあった開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていたが、明治維新の混乱で実現しなかった。慶応4年(1868年)に明治政府は「理化学校」を舎密局(せいみきょく、後の理学校)として大阪に開設することを決定、明治2年(1869年)に開校した。明治3年(1870年)、理学校は明治2年10月24日(1869年11月27日)に開設された洋学校と合併、開成所となる。開成所はその名称を大阪英語学校 (旧制)、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校と変遷させ、1886年(明治19年)に公布された中学校令によって第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は1889年8月1日に京都市吉田町に取得した新校地へ移転した。1894年に公布された高等学校令に基づいて第三高等中学校は旧制の第三高等学校(以下、本記事において「第三高等学校」は特に断りのない限り、旧制第三高等学校を指す)となる。
帝国大学令制定後、近畿地方にも帝国大学の設置を求める声が上がっていたが、財政難のため見送られ続けていた。1895年に西園寺公望は日清戦争で得た賠償金を基に第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行う。最終的に第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され、翌年、予算処置が可決される。1897年6月18日に京都帝国大学設置に関する勅令(明治30年勅令第209号)が制定され、「京都帝国大学」が発足する。
創設時の計画では1898年にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しの上、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された。続いて1899年京都帝国大学法科大学および京都帝国大学医科大学、1906年京都帝国大学文科大学を設置し、約10年をかけて分科大学を設置した。初代総長(1897年 - 1907年)には文部省専門学務局長の木下広次が就任。事務局長に当たる「書記官」には中川小十郎が就任した。
当時の総長の意向もあって、「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、ドイツの大学のシステムに倣った。高根義人の主導によるこの方針は現在の「自由の学風」に影響を与えたといわれる。法科大学の卒業生の高等文官試験での不振を端として転換されたものの、京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となったことは確かである。
1919年(大正8年)に分科大学制が学部制に変わった。その年には、経済学部が法学部から分離して独立の学部となり、1923年には農学部の設置と学部の増設が相次いだ。農学部増設と同じ年には本部構内に京都大学のシンボルとして親しまれている時計台を持つ大学本館が完成している。1926年には京都大学初の附置研究所に当たる化学研究所が設置された。
昭和に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。1928年(昭和3年)、文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求。教授会は河上の辞職を認める決議を出し、河上は大学を追われることになる。さらに1933年には鳩山一郎文部大臣が法学部の瀧川幸辰教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にしたことから、法学部の全教官が辞表を提出。総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しに遭い、結局瀧川ら7人の教官が大学を去る事態となった(滝川事件)。
日中戦争激化に伴う戦時体制の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの国策に沿った講座が設けられた。太平洋戦争の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。
また、京大医学部出身の軍医である石井四郎は、満州国の関東軍に731部隊を設立し、化学兵器や生物兵器の開発や、捕虜や罪人に対する人体実験などを行った。これに対し、医学部長を務めた戸田正三や、石井の指導教員であった医学部教授の清野謙次は、京大医学部出身者を部隊の人材として送り込み、石井の活動を支援した。
1943年、文系大学生の徴兵猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都帝国大学の学徒出陣壮行会では、総長の羽田亨を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したという。
第二次世界大戦終結後、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた瀧川幸辰らが大学に復帰した。1946年から女子の入学が認められた。創立五十周年に当たる1947年には大学名から「帝国」が削られて京都大学と改称。1949年には第三高等学校を統合して、新制大学となった。同年には、理学部教授湯川秀樹が日本人初のノーベル賞に輝き、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置。その後、湯川記念館は基礎物理学研究所に改組されている。
1968年、青年医師連合の京都大学の支部による医学部大学院入試ボイコットの呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」が発生。これを端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部は閉鎖された。東大のような入試中止という事態は免れたものの、戦後初めて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物の閉鎖は依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。なお、1973年度は、入学式が中止になっている。
1992年(平成4年)、総合人間学部が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。1997年に京都大学は創立百周年を迎えた。そして2004年、国の改革の一つとして国立大学法人法が施行され、その規定により京都大学は国立大学法人に改組した。2017年6月、指定国立大学法人に指定される。
本稿ではこれらの経緯から、創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である1869年、設立は京都帝国大学が誕生した1897年としている。
一部の研究所、施設を除き、キャンパスは全て京都府内に所在する。
作詞 水梨彌久、作曲 下総皖一。1939年に出された『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』に応えるものとして1940年に制定された。歌詞は前年に学内で公募されたもので、卒業生の水梨の作品が一等に選ばれた。卒業式と入学式などで使われる。なお、卒業生で指揮者の朝比奈隆のファーストレコーディングは、この学歌である(テイチク。演奏は京都大学交響楽団)。旧帝国大学では唯一の学歌である。歌詞は京都大学の公式サイト上に紹介されている。 1997年の創立百周年を期に新しい学歌の制定を計画し、歌詞の募集も行われたが、結局『従来の学歌の方がよい』との意見が多数を占めたため、計画は中止された。
その他の京都大学に関係する歌としては以下がある。
第三高等学校のあるクラスのクラス歌が、全校に広まり、第三高等学校・京都大学を象徴する歌となった。1946年に黒澤明監督の映画『わが青春に悔なし』の挿入歌に使われたことで全国にも知られるようになった。当初の歌詞は現在伝わっているものと一部異なる。
第三高等学校水上部(現京都大学ボート部)部員の小口太郎が琵琶湖周航の途上に作詞した。曲は当時部員の間で流行していた歌『ひつじぐさ』(作曲 吉田千秋)を流用している。第三高等学校の寮生らに愛唱された。
アルト・ハイデルベルクを基にした学生歌。戦後、吉田寮の寮生らに愛唱された。
吉田キャンパス時計台前のクスノキを図案化したものが大学のエンブレムとして使用されている。元々は1950年頃から「事務局シール」として印刷物などに用いられていたもので、1990年に正式にエンブレムとして了承された。
共同研究や研究者・学生の交流を行うため、170の大学・機関と大学間交流協定を結んでいる。また延べ965の大学・機関と部局間協定を結んでいる。()内の数字は締結年。
採択23件
採択13件
京都大学での学部段階での教育は、全学が対象の教養科目と各学部ごとの専門科目に大別される。このうち教養科目については、1993年の教養部廃止以降、全学共通科目を中心に再編された。教養科目と専門科目の分担は、1・2回生を教養課程、3回生以上を専門課程とするような学年による区分は行わず、1回生では教養科目を多く履修し、学年が上がるに従って専門科目の割合を徐々に増やし、卒業までに教養・専門のそれぞれで必要な単位を取得する方式を採っている。ただし学部によっては、途中の年次までに所定の教養科目の単位を取得していないと系登録・研究室配属などができない(事実上の留年)ことがある。
2013年度に全学共通で年間登録授業数の上限を定めるキャップ制が新規入学生に適用されることとなった。様々な科目を広く履修し、各学生が己の適性を探っていけるよう理学部や文学部は学科を細分せず単学科となっている。だが、キャップ制にはこれら既存の教育制度との齟齬があるとして、しばしば在学生の間で問題視されている。
教養科目の大半は全学共通科目であり、平成24年度までは以下の5群に分類されていた。
平成28年度からは以下のように分類されている。
教養科目の運営は、教養部廃止時には総合人間学部が担当していたが、2003年以降は新設された高等教育研究開発推進機構が担当している。
履修登録や休講・レポート・試験などの連絡を WEB 上で行うため、全学共通教育教務情報システム(略称 KULASIS = Kyoto University's Liberal Arts Syllabus Information System, クラシス)が運用されている。
1916年に設立された朝比奈隆の出身サークルとして交響楽に詳しい人々の間では著名な京都大学交響楽団や学生新聞に当たる『京都大学新聞』を発行している京都大学新聞社などが知られている。また、京都大学SF研究会はSFファンダムにおいてローカルコン「京都SFフェスティバル」の主催などで知られている。
京都大学体育会が課外スポーツの振興に当たっており、現在55のクラブが所属している関西の強豪校である。大学スポーツ協会には参加せず。京大のスクールカラーである濃青をシンボルカラーとし、濃青地に白で十字が染め抜かれた意匠「体育会十字」を旗などに使う。歌に関しては#学歌を参照。年に1度、4月に機関紙「濃青」を発行し、全新入生に配布している。全国七大学総合体育大会および近畿地区国公立大学体育大会の参加校である。また、2009年より、東京大学との間で、京都大学東京大学総合対校戦を開催している。
アメリカンフットボール部はギャングスターズの愛称を持ち、大学チャンピオン6回、日本チャンピオン4回の経験がある。特に1986年と1987年は、甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)・ライスボウル(日本選手権)連覇を果たした。関西学生アメフト DIV1 所属。
硬式野球部は関西学生野球連盟に加盟し、旧関西六大学野球連盟時代に2度の優勝がある。帽子のロゴ「DB」は Dark Blue の略で、スクールカラー「濃青」に因んでいる。
ボート部は、全日本大学選手権大会などで男子舵手付きペアの優勝経験がある。
男子ラクロス部は、関西学生ラクロスリーグファイナルで2004年、2006年、2008年、2010年に優勝している。
2013年優勝。毎年レベルの高いマシン作りに定評がある。
全学規模の同窓会として、京都大学同窓会が2006年11月に発足した。
また学部・研究科や専門分野ごとに以下のような同窓会がある。
また地域ごとの同窓会組織がいくつか存在する。
社団法人学士会は、旧帝国大学出身者、教授・助教授・学長(経験者含む)で構成されており、もちろん京都大学の卒業生、修了生も加盟することができる。
学部と大学院のほとんどが設置されているキャンパス。
旧陸軍の弾薬庫跡地を利用して1947年に開設された。1950年度から1960年度まで教養部1回生の講義が行われていたことがあったが、現在は学部の講義は行われていない(ただし夏休みなどに行われる全学共通科目の集中講義の中には宇治で行われるものもある。たとえば「ビーム科学入門」のように化学研究所提供のものなど。)。工学部や理学部、農学部の4回生は、配属された研究室によっては、ここで卒業研究を行うこともある。
1990年代には吉田・宇治の両キャンパスが手狭になったことから、「第3キャンパス」の建設が計画された。当初は京都府南部や滋賀県も候補地として検討されたが、京都市の提案により桂坂ニュータウンに隣接する、市が住宅地として開発していた「桂御陵坂」地区が建設地に選ばれた。2003年に化学系・電気系専攻の移転が完了し、使用が開始された。キャンパスはAからDの4つの「クラスター」に分かれている。物理系であるCクラスターは2012年秋に竣工[35]、12月から移転を開始している[36]。情報系であるDクラスターは整備開始の目処が立っておらず、未造成である。なお京都市営地下鉄東西線の桂キャンパス付近への延伸構想があるが、建設時期などは未定である。
元々は山であった場所を切り開いて建設したため、地形が起伏に富んでいる。桂駅側からの場合、長い坂道を登らなければならない。周囲から隔絶されている。
学生・教員向けに各キャンパス間の連絡バスが運行されている。吉田(本部構内)~宇治間(通称宇治バス)が1日6往復、吉田~桂間が1日7往復、宇治~桂間が1日3往復、所要時間はいずれも50分から1時間である。しかし、渋滞などにより定時制の確保が難しい、最終バスの時間が早いため、それ以降は自転車や原動機付きバイクなどがない学生は公共交通機関を利用しなければならないなど、学生の間には不満もある。
京大生協の食堂はそのメニューの数が日本一と自ら謳っている[要出典]。特に学生食堂にはあまりないパフェが数多くメニューに並んでいる。西部講堂の付近にあるカフェテリアルネのパフェは16種類ものレギュラーメニューを取り揃えており、期間限定のメニューを含めると現在40種類近くが確認できている。また、南部食堂に併設される喫茶ブリュッケでも個性的なパフェが扱われている。中央食堂や吉田食堂、および本部キャンパスにあるカフェレストラン「カンフォーラ」でもパフェがオーダーできる。
2005年11月には、当時の尾池和夫第24代目総長自身がレシピをプロデュースした「総長カレー」が、大学内の食堂において、人気メニューとして話題となった。2年後の2007年9月には、レシピを再現したレトルトカレーが発売され、現在では京大生協・食堂のみならず、京都土産の人気商品となった他、KBS京都プロデュースのネットショップでも発売されている。
京都大学の学生寮は自治寮である。
※「(図書館)」とあるものは京都大学附属図書館保管、保管先注記のないものは京都大学総合博物館保管
産官学連携本部を設置して、出資やインキュベーション施設の運営などにより、京大発ベンチャー企業の育成や産学連携に取り組んでいる[39]。2014年にベンチャーキャピタルの京都大学イノベーションキャピタルを設立した。また、2018年には産学連携を橋渡しする京大オリジナル株式会社を設立した[40]。
京都にある各大学と連携して、首都圏での情報発信や交流の窓口となる「京都アカデミアフォーラム in 丸の内」を東京・丸の内に開設している。参画しているのは京都外国語大学、京都光華女子大学、京都工芸繊維大学、京都市立芸術大学、京都女子大学、京都精華大学、京都美術工芸大学、同志社女子大学[41]。
京都大学の教授として多くの哲学者を育成した西田幾多郎と田辺元らは、京都学派と呼ばれる学派を形成し、日本における哲学の理論形成に影響を与えた。京都学派の思想については、今なお世界各国で研究が続いている。
京都帝国大学では学問の自由、大学の自治の観点から、慣行的に教授の任免を教授会が行ってきた。しかし1913年、文部省が任命した澤柳政太郎総長は、教授会の同意なく文科大学と理工科大学の7名の教授を免官した。法科大学(後の法学部)は「教授の人事権は教授会にあり」と澤柳に反旗を翻し、翌1914年1月には法科の全ての教授と助教授が抗議の連帯辞職を宣言した。教官を失いそうになった法科学生は、教官の復職と教授会自治の獲得等を目指し、法科支持の運動を繰り広げた。東大法科も京大法科を支援した。結局、奥田義人文相は法科の言い分を認め、後ろ盾を失った澤柳は辞任に追い込まれた。教授会自治を文相が公認したことにより、京大や他大学の自治の発展にも好ましい影響を及ぼした。なお、京大ではこの事件を契機に、総長の学内選出を求める運動が起こり、これも数年後に実現した。
1910年代、日本の大学・高校・専門学校等ではマルクス主義を研究する社会科学研究会がしばしば組織されていた。1924年、全国49校の社研が参加する学連が発足し、マルクス主義の研究や普及、労働争議や労働者教育に関する運動を活発に行った。しかし政府は学生達の活動を危険視し、徹底的な弾圧を開始した。1925年12月、特高警察が、京大や同大の社研会員の自宅や下宿を急襲し、学生33名を検挙した。寄宿舎(吉田寮)で立会人なしの家宅捜索を行ったことが批判され、一度は全員を釈放したものの、翌1926年1月には捜査態勢を立て直し、改めて多数を検挙した。検挙された学生のうち38名が出版法および治安維持法違反、不敬罪で起訴され、37名が有罪になった。社研と繋がりのあった教員も捜査の対象になった。この事件は日本内地で治安維持法が適用された最初の事例になった。政府は当初、治安維持法を利用してマルクス主義や共産主義を取り締まっていた。しかしやがて自由主義や民主主義、社会主義、反戦運動、新宗教、右翼も同様に弾圧するようになり、いつしか国民が政府を批判することは一切許されなくなってしまった。
澤柳事件を経て、京大を含む国内の大学は高度な自治を勝ち取った。しかし1930年代、ナショナリズムが高揚し軍国主義が台頭すると、政府は教育や学術研究を統制するため、学問の自由を担保する大学の自治、その総本山と見なされていた京大を攻撃した。1933年5月、鳩山一郎文相は、京大法学部の瀧川幸辰教授の講演や著書の内容が無政府主義的であるとして、小西重直総長に瀧川の罷免を要求した。法学部と小西総長は要求を拒絶したものの、文部省は瀧川の休職処分を強行した。法学部は澤柳事件に倣い、全教官・全学生が辞職届・退学届を提出するなどして激しく抵抗したが、瀧川の休職は解除されず、小西総長は辞職に追い込まれ、辞職届・退学届もたたき返されてしまった。言論弾圧の対象が、(従来の)マルクス主義的・共産主義的思想から自由主義的・反政府的思想へと拡大された瞬間だった。以降、政府は政権運営に都合の悪い言論・思想への弾圧をエスカレートさせていったが、統制下に置かれた大学に政府の暴走を指摘する自由はもはやなく、抑制を欠いた日本は日中戦争・太平洋戦争へとのめり込んでいった。この事件を基にして戦後、映画『わが青春に悔なし』(黒澤明監督)が製作された。
連合国軍占領下の日本において、GHQは新聞や雑誌等のメディアを検閲し、広島・長崎の原爆被害の実情が一般市民に伝わるのを妨害していた。そこで、京都大学の全学学生自治会(同学会)は原爆の実情と意味を世間に知らしめるため、1951年(昭和26年)7月に京都駅前の丸物百貨店で一般向けの原爆展「綜合原爆展」を開催した。この種の原爆展は世界で初めての試みだったとされるが、数万人の入場者を集めて大成功した。その後も同展覧会のパネルを利用して各地で小さな原爆展が開かれ、非常な注目を集めた。第五福竜丸がビキニ水爆実験で被爆し、反核運動に火がつくのは、その3年後のことだった。
1951年(昭和26年)、昭和天皇が来学した際に、見物に詰めかけた学生と警備の警察との間で一時的に緊張が高まった事件。実力行使はなく、違法行為も見られなかったが、文部大臣や保守派の議員などから不敬であると非難され、同学会が解散に追い込まれた。同学会はこの時に2度目の綜合原爆展を計画していたが、天皇の来学と同学会の解散の影響で実現はならなかった。
2018年2月、2017年の二次試験(物理)で出題ミスがあったことを認め、追加合格の措置を取ると公表。予備校講師から「解答不能の問題がある」と指摘され判明[42]。
京都大学学生寄宿舎規程では、学生寮は副学長が管理し、寮生活の運営は「寮生の責任ある自治」によるものと規程されている[54]。しかし、京都大学は熊野寮自治会に対して令和3年12月15日に「自治会としての責務を果たす意思と能力がない」と判断[55]しておきながら、その後も同自治会に寮運営を任せ続けている。また、「入舎する者の選考は、寮生代表の意見をきいて、副学長が行う。」との条項に反して熊野寮の入退寮選考を寮生に任せており、熊野寮に無学籍者が多数居住しているとの宣言が熊野寮自治会から出されるに至った[56]。
寄宿舎規程への違反について京都大学は遅くとも2018年3月15日には認めていたが[57]、その後は女子寮の管理運営に関する改定がされたのみで、未だに違反は解消されていない。
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