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日本の東京都渋谷区にある映像制作会社 ウィキペディアから
株式会社円谷プロダクション(つぶらやプロダクション、英: Tsuburaya Productions Co., Ltd.)は、日本の独立系映像製作会社。円谷フィールズホールディングス(円谷FHD)の連結子会社でバンダイナムコホールディングス(バンナムHD)の持分法適用会社。
本社が入居する渋谷ガーデンタワー | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 |
円谷プロ TPC |
本社所在地 |
日本 〒150-0044 東京都渋谷区南平台町16-17 渋谷ガーデンタワー24階 |
設立 | 1963年4月12日 |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 8011001070222 |
事業内容 |
映像作品の企画、制作、配給、商品化、広告ライセンシング事業 ライブイベント企画、制作、運営 映像、造形技術提供 |
代表者 |
代表取締役会長兼CEO 塚越隆行 代表取締役社長兼COO 永竹正幸 |
資本金 | 3億1000万円(2008年1月21日時点) |
売上高 | 55億8884万円(2007年2月期実績) |
総資産 | 52億896万円(2007年2月期実績) |
従業員数 | 162名 |
決算期 | 2月28日 |
主要株主 |
円谷フィールズホールディングス 51% バンダイナムコホールディングス 49% |
関係する人物 | 円谷英二(創業者) |
外部リンク |
tsuburaya-prod |
特記事項: 1963年4月12日、株式会社円谷特技プロダクションとして設立。 1968年12月6日、社名を株式会社円谷プロダクションに変更。 |
高度な特殊撮影技術を用いた作品を作ることで知られており、『ウルトラシリーズ』を始めとする数多くのテレビ番組や映画を製作し続けている。
円谷プロダクションの作品は『ウルトラシリーズ』に代表されるようにクオリティの高い作品が多いが、それゆえに1本当たりの制作費が高くなり、作れば作るほど制作費の赤字がかさむという負の連鎖に長年悩まされていた。やがて、この問題は経営にたびたび大きく影響を及ぼしはじめた。
設立当初は創業者である円谷英二の出身映画会社である東宝との結びつきが強く、円谷プロダクションの筆頭株主にもなっており、東宝役員が非常勤役員を兼ねたり支配人など事務系スタッフを出向させていた。また、東宝の東京都世田谷区砧にある撮影所の近くにある衣装部の倉庫や東京美術センターの提供を受けたり、東宝受注のテレビ番組と映画を孫受けて受注するなどしていた。
1969年、特撮テレビドラマ『怪奇大作戦』が終了するころになっても、テレビ局からの新番組の発注はなく仕事が途絶えてしまう。経営に行き詰まった円谷プロダクションは資金調達のために増資を実施。筆頭株主の東宝がこれを引き受けて同社株の60%を取得して子会社化。社長は円谷英二だったが東宝からは7人の役員が派遣されて東宝の藤本真澄も代表権を持った。
東宝はリストラによる経営再建策で、金城哲夫が所属している企画文芸部を廃止して約150人いた社員を40人にまで圧縮した[1][2]。滞っていた業者への支払いや借金返済についても、親会社になった東宝の力によって5年間の猶予期間が設けられた。そのおかげで制作を継続することができた[3]。
人材的にも当初はプロデューサーの市川利明、末安昌実、監督の梶田興治、野長瀬三摩地による東宝からの出向者に多くを担ったが、『ウルトラシリーズ』の開始後はTBS映画部のディレクター陣が演出の中枢を担うようになり、このうち円谷一と満田かずほは退社してTBSに移籍している。
1970年1月25日、円谷英二の病死により、TBSを退社した円谷一が2代目社長に就任。
1973年2月9日、円谷一の急死により、円谷皐が3代目社長に就任。
1979年、映画『ウルトラマン怪獣大決戦』が松竹富士系で大ヒットしたが、これに関して映画雑誌『キネマ旬報』に「ライバルの松竹に塩を送った格好の東宝は渋い顔」という内容の記述がある[要文献特定詳細情報][注釈 1]。
1983年、経理は東宝から出向した重役が管理しており、代表印も東宝が保有していた。これにより、東宝のメインバンクであった三和銀行からの融資も容易になっており、経営難を乗り越えることができていた[4]。円谷皐は、この状況を快く思っていなかった。
1992年、TBSへ期限付きで譲渡していた『ウルトラシリーズ』の販売権や窓口権が戻ってくると、これらの権利を担保に得た資金で、円谷プロダクションの株式を円谷皐が15%、皐が設立した円谷エンタープライズが45.5%を取得して東宝との資本関係を解消。円谷皐が円谷プロダクションの株式過半数を握るオーナー社長として円谷プロダクションを運営していた[5]。
1995年6月11日、円谷皐が死去により、円谷一夫が4代目社長に就任。その後、円谷プロダクションの株式過半数は円谷一夫に相続された[6]。
2001年、特撮テレビシリーズの本格的再開により、制作費は増加してしまった。しかし、その一方で大ヒットに恵まれなかったこと、東宝からの離反に伴いかつての後ろ盾であった三和銀行が抜けたため、経営基盤が弱体化してTBSとの関係が悪化してしまう[7]。
2002年2月、円谷プロダクションを退社していた円谷粲が再入社して副社長に就任[8]。
2003年、円谷一夫が辞任して円谷昌弘が5代目社長、円谷一夫が代表権を持つ会長、円谷英明が専務に就任。一方で専務取締役の高野宏一は、この過程でバンダイの乗っ取りに加担するクーデターを計画したとして、辞表を出すように要求されて退社する事態となった[9]。
2004年6月、円谷昌弘が女性社員へのセクハラで辞任して円谷英明が6代目社長に就任[10]。経理の正常化を目指した円谷英明も1年後に役員会で解任動議が出されて、円谷プロダクションの株式を持つ会長の円谷一夫の同意により解任。東宝不動産の取締役だった大山茂樹が7代目社長に就任[11]。
2007年2月、期決算で売上高約56億円に対して当期純利益は約4400万円にとどまった。累積赤字の膨張による倒産を危惧した役員は、円谷一夫から制作部の円谷昌弘への社長交代を要求。6月、取締役会で大幅なリストラを主張していた大山は解任されて円谷一夫が8代目社長に就任[12]。
銀行からの融資がストップしたため、30億円の累積赤字を抱えて倒産の危機に直面。10月、非常勤取締役の森島恒行の紹介により、CM映像のコンテンツ製作などを手がけるTYOから、当面の資金繰りのための数千万円の融資を受けた。しかし、それを返済できなかったため、TYOが担保になっていた円谷エンタープライズの株の過半数を取得。さらにTYOが第三者割当増資で取得した株と合わせて、円谷エンタープライズの株式の80%を保有して筆頭株主となった。また、円谷一夫が保有していた円谷プロダクションの株式22.5%を円谷エンタープライズに譲渡することにより、円谷エンタープライズにおける円谷プロダクションの株保有比率を45.5%から68%に引き上げた。これらのプロセスを経て、TYOは円谷プロダクションの経営権を取得してTYOの連結子会社となった[13]。円谷一夫は解任されて森島が9代目社長に就任。TYOの経営参画後円谷一夫が円谷プロダクションと円谷エンタープライズの会長として残ったものの、設立から続いてきた円谷家による同族経営に終止符が打たれた。
TYOによる内部的な組織改革などが進み、これらと並行して円谷プロダクションとは『ウルトラシリーズ』で強い縁を持つバンダイナムコグループが資本参加。
2008年1月21日、TYOは持ち株のうち、33.4%をバンダイナムコグループの子会社であるバンダイに譲渡売却。10月、森島が辞任して大岡新一が10代目社長に就任。
2009年7月、さらなる株式譲渡が行われて(バンダイ持ち株比率は49%)、バンダイナムコグループの円谷プロダクションにおける経営発言力が増した。この間に円谷一夫は会長から名誉会長へ退き、その名誉職も退任となり、これで円谷家は経営から一切排除された。
2010年4月2日、TYOは保有する円谷プロダクションの株式51%をフィールズに売却して、円谷プロダクションはフィールズの連結子会社となった[14][15]。2014年3月期に2007年ごろから続いてきた債務超過を解消[16]。
2017年8月1日、大岡が辞任して塚越隆行が11代目社長に就任。2019年4月1日、塚越が辞任して永竹正幸が12代目社長、塚越は会長に就任。
2022年10月、フィールズがグループ会社を含めた持株会社制に移行するのに伴い、円谷プロダクションは円谷フィールズホールディングスの連結子会社となった。3月の時点でフィールズの営業利益のうち、4割近くを円谷プロダクションが占めている。
歴代 | 氏名 | 在職期間 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | 円谷英二 | 1963年 - 1970年 | 円谷プロダクションの創業者 |
第2代 | 円谷一 | 1970年 - 1973年 | 円谷英二の長男 |
第3代 | 円谷皐 | 1973年 - 1995年 | 円谷英二の次男 |
第4代 | 円谷一夫 | 1995年 - 2003年 | 円谷皐の長男 |
第5代 | 円谷昌弘 | 2003年 - 2004年 | 円谷一の長男。女性社員へのセクハラで退任 |
第6代 | 円谷英明 | 2004年 - 2005年 | 円谷一の次男 |
第7代 | 大山茂樹 | 2005年 - 2007年 | 東宝不動産の取締役から招致で円谷家以外から初の社長就任 |
第8代 | 円谷一夫 | 2007年 | 大山茂樹を解任して復職 |
第9代 | 森島恒行 | 2007年 - 2008年 | 円谷エンタープライズの設立に参加 |
第10代 | 大岡新一 | 2008年 - 2017年 | 円谷プロダクションの生え抜きカメラマン |
第11代 | 塚越隆行 | 2017年 - 2019年 | ウォルト・ディズニー・ジャパン出身でMovieNEXの仕掛け人 |
第12代 | 永竹正幸 | 2019年 - | タカラトミーの海外部門「トミーインターナショナル」で海外事業を経験 |
かつて東京都世田谷区砧に存在した円谷プロダクションの初代社屋。元々は東宝スタジオで京都衣裳の衣装倉庫として使用されていた。
1964年、東宝が資本参加した際に円谷プロダクションへ提供していた[36]。京都衣装以前は医療関係の建物であったとされる[36]。
2005年4月、本社移転により、名称をKinuta Digital SymphonyとしてCG部門の編集スタジオとして使用されていた。
2008年2月、Kinuta Digital Symphonyを解体。
『快獣ブースカ』に登場した大作発明研究所や『ウルトラセブン』第8話に登場した警察署などは、砧社屋の建物を使用して撮影されていた[36]。円谷プロダクション製作以外の作品では『有言実行三姉妹シュシュトリアン』第40話でロケ地の1つとして使用されていた。
かつて円谷プロダクションに東宝が資本参加していたころ、東京都世田谷区砧に存在した円谷プロダクションの初代社屋2階にヒーローと怪獣の着ぐるみを保管していた倉庫。当初は着ぐるみに特化していたわけではなく衣装、小道具、人形、模型、ミニチュアなども保管されていた[36][37]。
2005年4月、本社の移転により、収蔵物の多くも新社屋に移された[38]。
2006年7月、着ぐるみ、衣装、小道具、人形、模型の一部を陳列した展示スペースとして改装されて限定的に一般公開された[39][40]。
2008年2月、砧社屋の閉鎖により、怪獣倉庫も解体された。京都衣装時代から残されていた衣装整理用の札が貼られた傷だらけの柱[40]の一部は円谷プロダクションで保管されている[41]。
『ウルトラファイト』第196話や『ウルトラマンマックス』第24話などの撮影には怪獣倉庫も使用されていた[36][37]。
かつて存在した東宝の撮影所の1つである。『ウルトラシリーズ』の撮影場所として長年使用されたことから「特撮の聖地」とも言われている
中野稔がデザインして「ツブラヤ」の「ツ」をモチーフに、「ツ」の線に加えて各線端を繋いで形成した多角形と中段に「TSUBURAYA」の英字表記を記したものとなっている[42]。
エイプリルフール(4月1日)になるとインターネットで手の込んだネタを発表していた[43][44]。円谷英二の、ひ孫にあたる円谷洋平が所属しているサイバーエデン(円谷プロダクションの公式サイト「円谷ステーション」を運営している会社)が企画、円谷プロダクションが監修の下で行われていた[44]。
過去にインターネットで歴代キャラクターの人気投票を実施していた。
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