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日本の上皇后 ウィキペディアから
上皇后美智子(じょうこうごうみちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )は、日本の皇族。第125代天皇・明仁の皇后。身位は上皇后。敬称は陛下[2]。お印は白樺。勲等は勲一等。旧名は正田 美智子(しょうだ みちこ)。
明治時代以降初めての民間出身[注釈 1][注釈 2]の皇后ならびに皇族。現皇室典範下で立后した初めての皇后でもある。2019年の明仁の退位に伴い、新たに設けられた身位である上皇后となった。
1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉グループ会長の正田英三郎・正田富美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現・東京都文京区東部)の東京帝国大学医学部附属病院で誕生[3]。
大和郷幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学。1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県藤沢市の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現・館林市立第二小学校)、1945年(昭和20年)5月には、長野県の軽井沢第一国民学校(初等科5年に転入、同年9月まで在籍)[4]と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。
小学生時代の性格は、担任の回想では「真面目な女子児童」、「活発で勝ち気だった」、「神経質な性格だった」とされていて、スポーツが得意な女子だった[5]。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた[6]。
1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は品川区五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだったことから「テンプルちゃん」や[7]「ミッチー」「ミチ」[6]と呼ばれていた。
1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(現・英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。在学中に中学・高校の英語教員免許取得 [8]。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長[9]、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた[10]。卒業式では総代として答辞を読んだ[11]。自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた[12]。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクインした[13]。昭和29年度(1954年度)の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学の卒業論文は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』(The Forsyte Chronicles by John Galsworthy)。大学卒業後にフランス語の習得をしながら19世紀の児童文学の研究を続けていた[14]。
同年8月、長野県の軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られ、その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、「皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。
1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会第1回世界会議」の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行する。
1958年7月24日、日本新聞協会加盟の新聞・通信・放送各社は、皇太子妃の選考について正式発表まで自発的報道管制を決定した。『週刊女性』11月23日号は正田美智子内定を報道し、問題となった。
同年11月27日、皇太子明仁親王と正田美智子の結婚が皇室会議(議長:内閣総理大臣・岸信介)において満場一致で可決された。同日、両親の正田英三郎と富美子夫人との記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは当時の流行語にもなった[15]。また第一印象について「ご清潔な方」とした。皇太子明仁親王と正田美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売されるなどのミッチー・ブームが起こる。
「(将来の皇后となる)皇太子妃は「皇族(臣籍降下後の旧宮家)か五摂家(伯爵以上)といった特定の旧華族に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、1958年(昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された[16]。
旧皇族久邇宮家出身で姑ともなる皇后良子(当時)は夏に、静岡県の御殿場[注釈 3]に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。
旧皇族の梨本伊都子[17]は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」と記している。ただ、この結婚に理解を示した義理の姪の配偶者(伊都子の夫梨本宮守正王の兄が久邇宮邦彦王であり香淳皇后の父)である昭和天皇の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった[18][19]。
1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚する。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった[20]。「燕尾服の胸元には大勲位菊花大綬章、シルクハットを右手に晴ればれとしたお顔の皇太子殿下。ダイヤをちりばめた宝冠ティアラー、白いローブデコルテの上には金糸を縫い取りましたショール、美しくも気高いプリンセス美智子妃殿下。白地に花模様のお馬車のシートにむつまじく寄り添われたこの一組の明日の日本の象徴は、奉祝の人波の嵐のような歓呼ににこやかに応えておられます」とはNHKによる実況放送の一部である。またパレードの際には暴漢が馬車を襲撃[注釈 4]して取り押さえられる事件が起こった。 お印は夫妻の出会いの場だった軽井沢にちなんで白樺とした[21]。
晴れがましい成婚パレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる[22]。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従入江相政に対し「(香淳皇后は)平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという[23]。
一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる東久邇成子より自宅のホームパーティーに招待されるなど、好意的な旧皇族も存在した。
1960年(昭和35年)2月23日に坂元正一男性産婦人科医師を担当主治医として第一子・第一男子徳仁親王(浩宮)が誕生した。出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」と労いの言葉をかけられた。また、後の第126代天皇となる浩宮徳仁の命名は祖父・昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのようなときでも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国連邦政府より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待され、ドワイト・アイゼンハワー大統領夫妻と会談した。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。
1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ[24]。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に小山いと子が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説『美智子さま』の連載と単行本発行中止を宮内庁が平凡出版に申し入れ、連載は中止された[25]。直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、胞状奇胎と診断され翌23日の午後に流産の処置手術が行われた[25]。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連づけ、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる[25]。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった[26]。7月8日から皇太子・皇孫浩宮とともに軽井沢で過ごしたあと、9月1日に帰京し、9月13日の第18回国民体育大会(山口国体)から、段階的に公務に復帰した。
1961年(昭和36年)夏頃、聖心女子大学でキリスト教女子教育を受けた事情からキリスト教に心酔していることに昭和天皇が激怒し、美智子妃が「絨毯の上にひれ伏して謝ったが、天皇のお怒りは容易に静まらなかった」と『文藝春秋』が報じた[27]。
1965年(昭和40年)11月30日、第二子・第二男子文仁親王(礼宮)誕生。
1969年(昭和44年)4月18日、皇太子明仁親王との第三子・第一女子清子内親王(紀宮)誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。
これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した[注釈 5]。
1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点をつけるか」との問いに対し、皇太子が「点数をつけることはできないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。
1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。
晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃勢津子とはともにマラソンを観戦した姿も目撃・報道された[28]。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は高松宮妃喜久子と関係が深く、孫のようにかわいがられていたといわれる。
1989年(昭和64年)1月7日、義父の昭和天皇が崩御し夫の明仁親王即位に伴い、皇太后となった姑の香淳皇后を引き継ぎ立后する。即位・立后後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する長男の徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。
1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。
同年の『宝島30』1993年8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた[29][30]。
島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻を昭和天皇や香淳皇后に比して、「華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々、皇后が学習院ではなくミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が相次いで掲載された[30][31]。宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる[30]。
このため皇后は精神的な苦痛から失声症となった[30][31]。これに対し、宝島社および文藝春秋の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が宮中祭祀を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の菊タブーが明らかになったとされる[30]。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している[31]。
1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災発生後の兵庫県神戸市を見舞い(行幸啓)、同市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた[32]。
1998年(平成10年)、インド・ニューデリーで開催された「国際児童図書評議会(IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本神話に触れ、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、IBBYの本部があるスイス・バーゼルで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。
2002年(平成14年)10月20日、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で、次のように北朝鮮による日本人拉致問題についてコメントした。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います[33]。」
2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという[34]。
2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。
しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された[35]。
2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、同年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震による東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京都足立区)を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人ひとりを親しく激励した。
2015年(平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。宮内庁は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、東京大学病院で精密検査を受診すると発表した。同病院で冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している[36]。
2016年(平成28年)8月8日に国民に向けたビデオメッセージとして全国放送された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の録画収録の際には、その場にも同伴した。2017年(平成29年)6月9日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が成立、202年ぶりとなる天皇譲位[37]が実現することとなった。
これにより夫・明仁が2019年(平成31年)4月30日で退位し同日の退位礼正殿の儀にて皇后としての最後の公務に臨んだ。翌(令和元年)5月1日に長男の皇太子徳仁親王が第126代天皇に即位することに伴い、皇太子徳仁親王妃雅子が立后した。
美智子の称号は「上皇后(じょうこうごう)」となった。前皇后の称号については、夫帝の生死に関わらず歴史的に用いられてきた「皇太后(こうたいごう)」、あるいはその略称である「太后(たいこう)」の称号を用いるべきであるとする反対意見もあったが、「退位した上皇が健在にもかかわらず、(皇室史上においても)崩御により夫と死別した未亡人というイメージが強い皇太后の称号を使用することは避けるべき」という見解が出たため、新称号を創設する運びとなった。
上皇后となって1か月が経過した後、2019年(令和元年)6月8日に宮内庁病院で心臓の検査を受けた。この検査は白内障の手術を受けるために行われた血液検査において、心不全の診断指標であるBNP値が上昇していたことから実施された。専門医による診断の結果、中等度の三尖弁逆流症、軽度の僧帽弁逆流症及び不整脈の所見が認められた。その後、上皇との同伴で京都府での「孝明天皇山陵及び明治天皇山陵に親謁の儀」を済ませた後の6月16日に右眼の白内障手術を、6月23日に左眼の白内障手術を受けた[38]。以後は、目の保護のためサングラスをつける。
2020年(令和2年)1月2日、夫の上皇明仁、天皇徳仁と皇后雅子および他の皇族らと共に、皇居での新年一般参賀に参加。夫の上皇とともに上皇后となって以降、初めて公の場で姿を見せた。同年3月31日、上皇と共に仮住居となる高輪皇族邸(高輪仙洞仮御所)に引越した。それ以降、新型コロナウイルスの影響により、ほとんど外出を控えるようになり、国民の目に触れることも少なくなっていた。同年9月11日、定期健診のため宮内庁病院に赴いた[39]。
2022年(令和4年)4月26日、夫の上皇明仁とともに静養先の葉山御用邸を出発し、赤坂の仙洞御所(旧赤坂御所)に引っ越した[40]。
2024年6月3日、宮内庁の黒田武一郎次長は定例記者会見で、新型コロナウイルスに感染していることが確認された、と発表した[41]。
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
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1953 | 3月30日 | 10月12日 | イギリス アメリカ合衆国(立寄り) カナダ(立寄り) フランス(立寄り) スペイン(立寄り) モナコ(立寄り) スイス(立寄り) (立寄りした国は合計13カ国) | 英エリザベス2世女王戴冠式参列、天皇名代 | |
1960 | 9月22日 | 10月 | 7日アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 日米修好100年記念 |
11月12日 | 12月 | 9日 イラン エチオピア帝国 インド ネパール王国 タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1962 | 1月22日 | 2月10日 | パキスタン インドネシア | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
11月 | 5日11月10日 | フィリピン | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1964 | 5月10日 | 5月17日 | メキシコ アメリカ合衆国(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
12月14日 | 12月21日 | タイ | 皇太子妃 | 国際親善(名代) | |
1967 | 5月 9日 | 5月31日 | ペルー アルゼンチン ブラジル | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1970 | 2月19日 | 2月28日 | マレーシア(天皇名代) シンガポール | 皇太子妃 | 国際親善 |
1971 | 6月 3日 | 6月12日 | アフガニスタン王国 イラン(立寄り) タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善(名代) |
1973 | 5月 6日 | 5月23日 | オーストラリア ニュージーランド | 皇太子妃 | 国際親善 |
10月11日 | 10月22日 | スペイン アメリカ合衆国(立寄り) ベルギー(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 | |
1975 | 2月20日 | 2月28日 | ネパール王国 バングラデシュ(立寄り) インド(立寄り) | 皇太子妃 | ネパール国王戴冠式参列 |
1976 | 6月 8日 | 6月25日 | ヨルダン ユーゴスラビア(名代) イギリス タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1978 | 6月12日 | 6月27日 | ブラジル パラグアイ アメリカ合衆国(立寄り) | 皇太子妃 | ブラジル移住70周年記念式典参列 |
1979 | 10月 | 5日10月14日 | ルーマニア ブルガリア(名代) オランダ(立寄り) ベルギー(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1981 | 2月27日 | 3月 7日 | サウジアラビア スリランカ タイ(立寄り) シンガポール(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
7月26日 | 8月 2日 | イギリス ベルギー(立寄り) | 皇太子妃 | 英チャールズ皇太子結婚参列 差遣 | |
1983 | 3月10日 | 3月25日 | ザンビア タンザニア ケニア(名代) ルクセンブルク(立寄り) ベルギー(立寄り) タイ(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1984 | 2月25日 | 3月 8日 | ザイール セネガル(名代) ベルギー(立寄り) イギリス(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
1985 | 2月23日 | 3月 9日 | スペイン アイルランド(名代) ポーランド(立寄り) イギリス(立寄り) | 皇太子妃 | 国際親善 |
6月 1日 | 6月15日 | スウェーデン デンマーク ノルウェー(名代) フィンランド | 皇太子妃 | 国際親善 | |
1987 | 10月 | 3日10月10日 | アメリカ合衆国 | 皇太子妃 | 国際親善 |
年 | 出国 | 帰国 | 訪問地 | 同行 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1991年 (平成3) | 9月26日 | 10月 | 6日 タイ マレーシア インドネシア | 皇后 | 国際親善 各国からの招待 |
1992年 (平成4) | 10月23日 | 10月28日 | 中国 | 皇后 | 国際親善 中国からの招待 |
1993年 (平成5) | 8月 6日 | 8月 9日 | ベルギー | 皇后 | 国王ボードゥアン1世の国葬参列 |
9月 3日 | 9月19日 | イタリア ベルギー ドイツ バチカン(立寄り) | 皇后 | 国際親善 各国からの招待 | |
1994年 (平成6) | 6月10日 | 6月26日 | アメリカ合衆国 | 皇后 | 国際親善 アメリカからの招待 |
10月 | 2日10月14日 | フランス スペイン ドイツ(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 | |
1997年 (平成9) | 5月30日 | 6月13日 | ブラジル アルゼンチン ルクセンブルク(立寄り) アメリカ合衆国(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
1998年 (平成10) | 5月23日 | 6月 5日 | イギリス デンマーク ポーランド(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2000年 (平成12) | 5月20日 | 6月 1日 | オランダ スウェーデン スイス(立寄り) フィンランド(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2002年 (平成14) | 7月 6日 | 7月20日 | ポーランド ハンガリー チェコ(立寄り) オーストリア(立寄り) | 皇后 | 国際親善 両国からの招待 |
2005年 (平成17) | 5月 7日 | 5月14日 | ノルウェー アイルランド(立寄り) | 皇后 | 国際親善 ノルウェーからの招待 |
6月27日 | 6月28日 | サイパン島 | 皇后 | 平和祈念 戦没者慰霊 | |
2006年 (平成18) | 6月 8日 | 6月15日 | シンガポール タイ マレーシア(立寄り) | 皇后 | 国際親善 シンガポールからの招待 タイ国王即位60年記念式典臨席 |
2007年 (平成19) | 5月21日 | 5月30日 | スウェーデン エストニア ラトビア リトアニア イギリス | 皇后 | 国際親善 各国からの招待[44] |
2009年 (平成21) | 7月 3日 | 7月17日 | カナダ ハワイ | 皇后 | 国際親善 カナダからの招待 ハワイ州皇太子明仁親王奨学金財団50周年記念行事[45] |
2012年 (平成24) |
5月16日 | 5月20日 | イギリス | 皇后 | 女王エリザベス2世即位60周年の記念午餐会招待[46] |
2013年 (平成25) | 11月30日 | 12月 | 6日インド | 皇后 | 国際親善 インド政府からの招待[47] |
2015年 (平成27) | 4月 8日 | 4月 9日 | パラオ | 皇后 | 戦没者慰霊 平和祈念 パラオ国の招請[48] |
2016年 (平成28) | 1月27日 | 1月30日 | フィリピン | 皇后 | 国際親善 フィリピン政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念[49] |
2017年 (平成29) | 2月28日 | 3月 6日 | ベトナム タイ(立寄り) | 皇后 | 国際親善 ベトナム政府からの招請 戦没者慰霊 平和祈念 タイ国前国王プミポン・アドゥンヤデートの弔問[50] |
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[51] | |
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親王 | 昭和35年(1960年) 2月23日(64歳) |
第1皇男子(第1子) | 今上天皇(第126代天皇) 小和田雅子と結婚。后妃:皇后雅子 子女:1女(1人)。 | |||
親王 | 昭和40年(1965年) 11月30日(58歳) |
第2皇男子(第2子) | 秋篠宮文仁親王 秋篠宮家(あきしののみや)当主かつ皇嗣(皇位継承順位第1位) 川嶋紀子と結婚。后妃:(皇嗣妃) 文仁親王妃紀子 子女:1男2女(3人)。 | |||
内親王 | 昭和44年(1969年) 4月18日(55歳) |
第1皇女子(第3子) | 黒田慶樹と結婚。 黒田家に降嫁し皇籍離脱[52]以後、黒田清子(姓読み:くろだ)。 子女:無し。 |
1男3女の孫がいる。
諱 | 誕生時の身位 | 生年月日 | 御称号 | 続柄 | 現在[51] | |
---|---|---|---|---|---|---|
内親王 | 平成13年(2001年) 12月1日(22歳) |
今上天皇第1皇女子(第1子) | ||||
内親王 | 平成3年(1991年) 10月23日(32歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1女子(第1子) | 小室圭と結婚。 小室家に降嫁し皇籍離脱[52]以後、小室眞子(姓読み:こむろ)。 子女:無し。 | |||
内親王 | 平成6年(1994年) 12月29日(29歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第2女子(第2子) | ||||
親王 | 平成18年(2006年) 9月6日(17歳) |
皇嗣秋篠宮文仁親王第1男子(第3子) | 皇位継承順位第2位 |
※順序は兄弟姉妹間長子を優先。
文右衛門(3代目) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文右衛門(4代目) | 作次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文右衛門(5代目) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
きぬ | 貞一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明一郎 | はる | 建次郎 | ? | 勅子 | 英三郎 | 冨美子 | 祐子 | 順四郎 | 篤五郎 | 和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彬 | 巌 | 美智子 | 恵美子 | 修 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美智子が家族とともに、出生から結婚までの大半を過ごした正田英三郎邸は、清水組によって設計・建設され1933年(昭和8年)10月に竣工した木造2階建て和洋折衷洋館。戦後の複合的な増築により屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などのモダニズム建築の要素も加えられた。近世イギリスのテューダー朝形式の英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せるハーフティンバー様式も取り入れたデザインは上流邸宅の典型。邸内は1階客室兼書斎の中央にマントルピースを備え、居間にはシャンデリアも下がり、和室も複数存在した[55]。美智子の成婚後は、里帰り時の自動車が玄関に直接横付けできるよう、門、車庫周りを大きく改造した。
2001年6月、前年の英三郎死去に伴う相続税支払いのため、土地建物ともに国に物納され国有財産となる。昭和史の舞台であり稀少な戦前の邸宅が失われることを憂いた地域住民「旧正田邸を守る会」組織や西村眞悟衆議院議員らによって保存運動が展開され、ナショナル・トラスト(国民環境基金)方式によって、保存活用を図りたいと望む動きは全国に広がり、軽井沢町が移築・復元・保存を財務省に申し出るが、「皇后さまご自身は保存を望まれないご意向」が宮内庁長官から伝えられ、築70年目の2003年(平成15年)3月、解体された。跡地には2004年(平成16年)8月26日、品川区立公園であるねむの木の庭が開園した。園名は、美智子が聖心女子学院高等科時代に作った詩「ねむの木の子守歌」にちなんで命名された。竣工時の旧正田邸の門を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。園内には、皇后が歌会始で詠んだやまぼうし、ねむの木、ライラックや、美智子のお印である白樺などが植えられている。また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇プリンセス・ミチコも、初夏と秋に咲いている。