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無線通信により音声を送受信する技術 ウィキペディアから
ラジオ(英: radio)
もともとの意味は冒頭で示した定義文のように「電磁波による無線方式の送受信」全般を意味する言葉である[2]。しかし、日本において一般的には、電波による音声放送(ラジオ放送)とその受信機(ラジオ放送受信機)を指して使っていることが多い[2]。
当記事ではいずれも扱う。つまり、音響(音声や音楽など)を電磁波の信号に変換し無線でつまり送信側と受信側を電線で繋いだりせずに信号を送信・受信する技術、その技術を用いた放送、その放送を受信するための装置、いずれも扱う。
いくつかの方式があり、最も歴史の長いのは振幅変調による中波放送(AM放送)で、基本的な方式は100年間ほど変わらなかったが、同じく振幅変調方式であるが波長の短い短波放送(SW放送)も(国境を越えるような放送で)使われ、さらに1937年には周波数変調方式のFM放送も登場し、地域放送などで活用されるようになった。→#ラジオ放送の種類。
ラジオ放送の種類に応じて、AMラジオ(- 受信機)、SWラジオ(短波ラジオ受信機)、FMラジオ(- 受信機)などがあり、複数の方式を受信できるマルチバンド受信機もある。→#ラジオ放送受信機の種類
無線電信の英語表記であるradiotelegraphyの短縮語を語源とする[3]。
カタカナでは「レディオ」「レイディオ」と表記される場合もあり、戦前はラヂオなどと表記した[注 1]。
1950年(昭和25年)施行の日本の電波法では、当記事で扱っていること(無線で音声を送・受信すること)は「無線電話」と呼んでいる。古くは、現在のラジオ放送の前身にあたるものを「放送無線電話」などとも呼んだ[4]。
極超短波以上を用いる地上波放送は、電波の性質上不適当であるために過去に実施されていたものも含めてどの国でも行われていない。
1950年代までは基本的に次のように分類していた。
鉱石ラジオは受信したものを増幅せず鉱石検波器やゲルマニウムダイオード等で直接検波し、クリスタル・イヤホン等で聴取するもの。それに対して真空管ラジオは真空管で増幅回路を組み増幅を行うものだった。真空管ラジオは、使う真空管の数で(1球/2球/3球/4球/5球...と)分類された。
トランジスタを用いたトランジスタラジオが登場した1950年代なかごろ以降は基本的に次のように分類された
そしてトランジスタラジオはやはり、用いるトランジスタの数で(1石/2石/3石/4石/5石/6石...などと)分類されることになった。
真空管やトランジスタなどを用いるラジオ受信機は、主に増幅回路の方式により次のように分類できる(鉱石ラジオも、異質な回路ながら併せて列挙することがある)。
チューニング(tuning、同調、選局)方式による分類は以下の通りである。
厳密な線引きは必ずしもないが、形態によりおおよそ以下に分類できる。
送信機と組にする無線設備としての性能を重視したもので、外観としてはチューニング・ダイヤルが大きく操作しやすい、読みとりやすい周波数目盛りがあるかデジタル表示になっている、感度や選択度を可変できるつまみ類が付いている、電波型式を切り替えるスイッチがある、外部アンテナ端子があるなどの特徴がある。ただし必ずしもこれらすべてを満たしているとは限らず、また機能が豊富なものではよりたくさんのつまみ、スイッチ、接続端子を備えているものもある。一般に「レシーバー」とも呼ばれ、ラジオ放送帯域外にも対応する事が多い。出力音質は重視されない事が多い。
1900年、歪みはひどいものの世界で初めて電波[注 4]に音声を乗せることに成功したのは、カナダ生まれでエジソンの会社で技師として勤めたこともある電気技術者レジナルド・フェッセンデンであった。これが無線電話の始まりである。
フェッセンデンは引き続き、ヘテロダイン検波方式や、電動式の高周波発振器を開発して改良に取り組み、1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶を無線電話で送信した。フェッセンデンはこの日、レコードでヘンデル作曲の「クセルクセスのラルゴ」と、自身が演奏するヴァイオリンと歌唱で“O Holy Night”をそれぞれ流し、聖書を朗読した。この実験はあらかじめ無線電信によって予告されたもので「世界初のラジオ放送」であっただけでなく「最初のクリスマス特別番組」でもある。フェッセンデンは「史上初のラジオアナウンサーでプロデューサー」と言える。
しかし、ヒューゴー・ガーンズバックが1905年11月より一般人向けて通信販売を始めた大衆無線機「テリムコ」の受信機は電波から音声を復調できないコヒーラ検波器[注 5]によるものである。またグリーンリーフ・ホイッティア・ピカードが電波に乗せた音声を復調する鉱石の検波作用を発見しその特許を得たのは遅く、1906年になってである。1906年当時のアマチュア無線家らはまだコヒーラ検波器を使っており[13][14][15]、彼らの受信機が鉱石検波器へ切替わったのは1910年頃であった[16]。こういった時代背景を勘案すると、フェッセンデンの実験は広く聴取者に向けて送信される「ラジオ放送」というよりも、限定された技術者・通信士を対象とした「無線電話」の実験に属するとも考えられる。
一般人で無線の受信機を所有していたのはアマチュア無線家達のみであった[注 6]。アマチュア無線は第一次世界大戦の勃発で禁止されていたが、その終戦で1919年4月12日より、まず受信活動が解禁された[注 7]。戦後は一般アマチュアでも真空管が入手できるようになり、鉱石式受信機から真空管式受信機への置き換えが急速に進んでいた。
1920年1月17日、ワシントンD.C.アナスコティアにある海軍飛行場から、海軍省が娯楽音楽放送 NOFを始めた。これをもって国営放送の嚆矢とするが[17][18]、そのリスナー層は自分で受信機を組み立てたアマチュア無線家であった。なお、1923年1月3日、アナコスティア海軍航空局 NOFは本来の航空無線の研究に専念することとなり、娯楽放送を終了している[19]。
また、一部のアマチュア無線家は無線電話を実験するようになり、無線電話で「放送したい」アマチュア無線家と、モールス電信で「交信したい」アマチュア無線家の混信問題が始まったのもこの頃である[注 8]。
民間企業による商業放送として世界で最初に許可されたものは、ウェスティングハウス電気製造会社が1920年11月2日にアメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグで放送を開始したKDKAである。その中波送信機は同社の技術者フランク・コンラッドが設計し、開局初日の番組は大統領選挙の開票情報で、ハーディング候補の当選を伝えた。
選択度(分離性能)が良くない受信機で起きる、商業放送(周波数833kHz)とアマチュア無線家の放送(周波数1,500kHz)の混信問題もくすぶっていたが、1922年と1923年の法改正でアマチュア無線のオペレーター資格では放送できないことになり、多くのアマチュア無線家が商業放送局のオーナーや技術者に転向したため、問題はやや軽減した。さらに、1923年6月28日の規則改正[20]では、アマチュア無線家は短波を申請する権利を失ったかわりに、1,500 - 2,000kHzの帯域免許を獲得した。同時に毎夜20時00分から22時30分と、日曜午前の礼拝タイム[注 9]を送信禁止として、ラジオ放送とアマチュア無線の混信問題は一応の解決をみた。
極長距離を伝送できる短波ラジオ放送を最初に行ったのはオランダの国営放送で、1927年11月から海外植民地向けに放送を開始[21]。翌1928年には当時オランダ領であったインドネシア・ジャワ島での受信に成功する。この実績に追随してドイツ、ソ連、フランス、イタリア、イギリス等が1929 - 1932年にかけて植民地向け放送や海外宣伝放送を短波で開始している。
1902年に周波数変調方式(FM方式)がフェッセンデンによって考案された。しかし、実用的なFMラジオは1933年12月26日にアメリカのエドウィン・H・アームストロングが特許を取得した技術による[21]。アームストロングは世界初のFMラジオ局 W2XMNを1937年に開局させ放送を開始した[21]。
2000年代に入って、先進国で地上デジタルラジオ放送が開始された。また、アメリカのシリウスXMラジオのような衛星デジタルラジオサービスも開始されている。
2000年代にインターネットにおけるストリーミング配信を使ってラジオ番組を配信する方法が考案され、法人・個人含め様々なラジオ局が開設された他に、従来から電波を用いて放送してきたラジオ局もサイマル放送などで次々と参入した。PCやスマートフォンで手軽に聴取でき、従来の電波ラジオより音質も良いことから、2010年代後半以降はインターネットラジオが主流になった。アメリカでは各局のWebサイトでラジオ番組を配信しており、日本ではradikoが一括して加盟局のラジオ番組のサイマル放送を行っている。
アメリカでは1926年11月5日にRCAの子会社としてNBCが設立され2波(NBC red network及びNBC blue network)の放送を開始した[21]。
また、1927年9月18日にCBSがラジオ放送をスタートさせた[21]。
1940年にはNBC red networkとNBC blue networkが分割され、1945年6月15日にRCAはNBC blue networkを売却[21]。NBC blue networkは社名をThe Blue Networkとし、ネットワーク名をABCとした[21]。
アメリカでは1961年に連邦通信委員会(FCC)がFMのステレオ技術を規格化して数百のFM局が開局した[22]。この規格ではゼネラル・エレクトリックとゼニス社の共同に基づく「AM-FM」方式が標準ステレオ方式として採用された。
1966年には連邦通信委員会(FCC)がFMの放送内容をAMと分離することを決定し、FM放送の視聴者が増えるきっかけとなった[22]。
日本のアマチュア無線家は1920年代初期から自作の無線機で個人間の無線交信を行っており、1922年にはラジオ受信機の製作に関する情報誌『ラヂオ』が創刊されている[23]。
現在はオーディオ雑誌に変わっているが、誠文堂新光社刊の『無線と実験』などが数多く発売され、また新聞社による独自のラジオ中継が行われたりした。1924年には、大阪朝日新聞による皇太子裕仁親王(昭和天皇)御成婚奉祝式典や大阪毎日新聞による第15回衆議院議員総選挙開票の中継をはじめ、数多くの実験的要素の強い中継が行われている。
1923年12月、逓信省は放送用私設無線電話規則を制定。翌年、当面東京、名古屋、大阪の3地域で、公益法人として各1事業者ずつ、ラジオ放送事業を許可する方針を打ち出した。
日本初のラジオ放送は、1925年3月22日9時30分[24]、社団法人東京放送局(JOAK:現在のNHK東京ラジオ第1放送。略称:AK)が東京・芝浦の東京高等工芸学校(千葉大学工学部の前身・現在の 東京工業大学附属科学技術高等学校(JR田町駅前))内に設けた仮送信所から発した京田武男アナウンサーによるもので、第一声は
アーアー、聞こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始致します
であった。波長は375m(周波数800kHz)、空中線電力(出力)約220Wであった。当時の受信機の性能に比して出力が弱かったため、東京市内でないとよく聴こえなかった。
元々は3月1日に放送を開始する予定であったが、購入を予定していた当時の日本に1台しかないウェスタン・エレクトリック(WE)社製の放送用送信機が、前年12月に同じく設立準備中の社団法人大阪放送局(JOBK:現在のNHK大阪放送局、略称:BK)に買い取られてしまった。そこで東京放送局は、東京市電気局電気研究所が放送実施のために購入したゼネラル・エレクトリック社製の無線電信電話機を借り放送用に改造して使用することにしたが、2月26日の逓信省の検査で「放送設備が未完成のため3月1日の放送開始は時期尚早」と判断された。既に3月1日から放送を開始すると発表しており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験送信」の名義で逓信省の許可を受け、何とか3月1日から放送を開始することができた。
3週間の試験放送の後、逓信省の検査に合格し、3月22日に仮放送(仮施設からの正式な放送という意味)を開始し、7月12日に東京府東京市芝区(現在の東京都港区)の愛宕山からの本放送が開始された。これには改めて購入した出力1kWのWE社製送信機を使用した。
大阪放送局はその年の6月1日から仮放送を出力500Wで開始した。
さらに、社団法人名古屋放送局(JOCK:現在のNHK名古屋放送局、略称:CK)も同年7月15日に、出力1kWのマルコーニ[要曖昧さ回避]社製送信機を使用して放送を開始した。
1925年、ラジオ聴取契約者は東京13万1373、大阪4万7942、名古屋1万4290件、受信機は鉱石式10円、真空管式120円[25]。
社団法人東京・大阪・名古屋放送局は翌年の1926年に「社団法人日本放送協会」として統合された。これは実質的には政府機関的な性格を持っていた。「全国鉱石化」(日本全国のどこでも鉱石受信機によるラジオ聴取を可能とするインフラの整備)を目標[注 10]に日本各地に放送局を開設したほか、外地の南樺太(豊原放送局)や南洋群島(パラオ放送局)にも置局した。さらに、朝鮮には朝鮮放送協会、台湾には台湾放送協会が設立され、日本放送協会の番組を多く中継した。
1927年8月、ラジオで全国中等学校優勝野球大会が中継された(初のスポーツ中継)[26]。
1928年11月には昭和天皇の即位の礼が全国中継された(初の本格的な全国ネット放送)[26]。また、1930年2月にはロンドン軍縮会議の中継が行われた(初の国際中継)[26]。
受信機としては、交流商用電源や大容量電池によって作動する真空管を使ったものが登場し、鉱石式のイヤホンに代わって、スピーカーで大きな音量の放送が聞けるようになる。ラジオ受信機自体は国内メーカーによって生産が可能となった。
アマチュアによる受信機自作も当時から趣味の一ジャンルとして広まり始めていた。雑誌『無線と実験』に1930年、匿名男性が寄稿した「ラジオをつくる話」は、岡本次雄が当時のアマチュアと東京のラジオ商の様子を見事に描いているとして『アマチュアのラジオ技術史』(1963)に収録した。
ラジオ聴取契約者は1931年に100万を突破した[25]。聴取世帯数は1932年2月には100万、1935年2月には200万、1939年1月には400万を突破[26]。ラジオ受信機の普及が進み、音楽、演芸、スポーツ中継、ラジオドラマなどの多彩なプログラムが提供されるようになったことで娯楽の主役となった[27]が、1941年の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦とその後の戦局の進行と共に大本営発表を行なうための機関と化しプロパガンダ的な番組が増えた。この傾向は終戦まで続いた。1941年12月25日、NHKは全国を軍管区にしたがって5群に分け各群ごとに同一周波数放送を実施した[25]。
聴取世帯数は1940年代にも増加し続け、1940年5月には500万、1941年8月には600万、1943年3月には700万を突破した[26]。しかし、1945年4月になると放送時間は大幅に減少し、1945年5月には名古屋中央放送局が空襲により焼失[26]、8月6日には広島中央放送局が広島原爆で大打撃を受けた(25時間後に再開)[28][29]。
1945年8月15日に終戦ノ詔勅(いわゆる玉音放送)が放送され、戦後は海外領土を失う。「社団法人日本放送協会」は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理・監督下に置かれ言論統制が行われた。アメリカ軍とイギリス軍を中心とした(中華民国軍及びソビエト連邦軍は日本本土に進駐していない)、いわゆる進駐軍向け放送局が主要都市に置かれた。アメリカ軍向けは後にFEN、現在のAFNの前身である。一部の局については日本放送協会から施設や役務の提供が行われた。
戦後、ラジオ受信世帯数は減少しており1946年7月には538万であった[26]。
1951年9月1日朝に中部日本放送(現在のCBCラジオ)、同日昼に新日本放送(現在のMBSラジオ)が日本初の民間放送を開始した。東京では、民間放送の申請を目指す会社が乱立。新聞社系の放送会社の一本化が行われたこともあり、同年12月25日になってラジオ東京(現在のTBSラジオ)に開始された[30]。1953年にはテレビ放送も開始されたが、白米10kg680円、銭湯の入浴料15円程度であった時代にテレビ受像機の価格は20から30万円程度と高価で一般には買えず、ラジオが一家の主役であり続けた。
民間放送開始前にはラジオ受信機の所持には政府の許可が必要であり、聴取料を納める必要があったが、無料で聴ける放送の開始によってラジオへの関心が高まり、『初歩のラジオ』『模型とラジオ』など少年向けのラジオ製作雑誌が相次いで創刊された[23]。当時は物品税が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは秋葉原などから真空管などの部品を買い集めて自作したほうが安かったために、受信機を製作する人が多かった。彼らは「少年技師(後のラジオ少年)」とも呼ばれ、高度成長期の日本のエレクトロニクス産業の発展の基礎を作る要因の一つともなった[23]。
1955年には東京通信工業が日本初のトランジスタラジオを発売[26]。1958年11月にはラジオ受信契約数が1481万件を越えピークとなった[26]。しかし、当時の皇太子・明仁親王が1959年に正田美智子と結婚しパレードのテレビ中継が行なわれたのをきっかけに、テレビ受像機が普及し始め、ラジオは斜陽化の時代を迎える。
超短波を使用したFMラジオ放送については、1957年12月にNHK-FMが東京で試験放送を開始し、翌1958年12月には学校法人東海大学により、放送教育を目的とした「東海大学超短波放送実験局」が放送を開始した。
東海大学のFM実験局は1960年に日本最初の民放FM局[注 11]であるFM東海となる。1969年にはNHK-FMの本放送が開始され、同年には民放でもFM愛知が開局。1970年には、FM大阪、FM東海を東海大学から引き継いだFM東京、FM福岡の3局が相次いで開局した。いずれも音楽を中心とした編成で、高音質のステレオ放送により、レコードに次ぐHi-Fi音源として人気を集めることになる。
この頃、部品のトランジスタの普及が進み、これを使ったトランジスタラジオの商品化や、さらにモータリゼーションにより、カーラジオが普及するなど、ラジオは一家に一台から一人に一台というパーソナル化の方向へ向かう。ラジオ放送は家族をターゲットにした編成から、個人をターゲットにした編成へと転換していく。情報トーク番組や音楽番組が増えた他、ターゲットを絞った深夜放送も盛んになった。
FM放送開始と同時期に登場したラジカセの普及によって、放送される楽曲をオープンリールテープやカセットテープで録音する「エアチェック」も流行し、エアチェックを目的として放送される楽曲が載ったFM情報誌も創刊された[23]。しかし、民放局を中心に「楽曲そのものを楽しむ」から「トークの合間に楽曲が流れる」など番組スタイルの変化などから、次第にエアチェックという言葉自体が廃れていくようになる。
1970年代後半に、中東戦争やオイルショック、日中国交正常化などをきっかけとして海外の国際放送を受信するBCLブームが中学生・高校生を中心に起こった。この時期には、冷戦による宣伝放送目的もあり日本向け日本語放送の充実を図る放送局も多く、時事ニュースに留まらずその国の文化などの理解を深めるうえで一定の役割を果たした。また、受信報告書を送ると受け取れるベリカードの収集も盛んに行われた。さらに、送信方向が日本向けではないなど、一般的には受信困難な放送を工夫を重ねて受信しようとするマニアも増えた。これに応じ、受信周波数帯域の広いラジオ受信機、いわゆるBCLラジオが各社より発売され、戦後に再び黄金期がおとずれた。しかし、日本からの海外旅行の一般化や通信自由化を遠因とする国際放送の縮小などで、BCLブームも終わりを遂げ、BCLラジオメーカーも次々と撤退した(2006年時点で国内メーカーはソニー以外は撤退)。
1978年11月23日には国際電気通信連合(ITU)の取り決めによりAMラジオの周波数一斉変更(10kHz間隔→9kHz間隔。通称:9キロヘルツセパレーション)が行われた[31]。
1982年のFM愛媛を皮切りに全国に民放FM放送局が相次いで開局する。1988年には東京で2番目となるエフエムジャパン(現在のJ-WAVE)が開局、大都市圏では複数の民放FM局が開設されるようになり、対象セグメントの多様化が進んだ。
この時期にはニューメディアの掛け声のもと新技術導入が相次ぐ。1991年、衛星放送による有料ラジオ放送「セント・ギガ」開始。1992年にはコミュニティ放送が制度化され、都道府県単位よりもかなり狭い地域を対象としたラジオ放送が行われるようになった。同じく1992年にはAMステレオ放送開始、1995年にはFM文字多重放送もスタートする。
1995年の阪神・淡路大震災では、災害時における情報伝達メディアとしてのラジオの重要性がクローズアップされる結果となった。以降、各局とも災害への対応を重点に置くようになる。また災害時の情報発信用として大都市圏に外国語FM局が開局したが、後に経営難に苦しむこととなる。
不況に加えインターネットをはじめとするメディアの多様化が起因となりラジオ離れの動きが顕在化し、それに伴い広告費も減少し続けていることから、ラジオ局は厳しい運営状況を強いられていく(詳細はラジオ離れを参照)。
2000年12月、BSデジタル放送によるBSデジタル音声放送が開始されたが、2003年にセント・ギガが終了するなど衛星ラジオは市場規模が小さいまま終わり、他局も2005年以降順次廃局した。FM文字多重放送や、その後登場した地上デジタルラジオも失敗に終わっている。
AMステレオ放送を実施していた放送局も会社の合理化に加え、送信機更新の際に必要な装置が2000年半ばまでに生産中止になったのに伴い、AMステレオ放送を終了して元のモノラル放送に戻す放送事業者も2000年代後半に九州地区で出てきた。
一方で2000年代にはインターネットによるインターネットラジオが普及していった。
2010年3月15日0時(3月14日24時)より、地上波のラジオ放送と同内容をインターネットを利用してサイマル配信するIPサイマルラジオ「radiko」の実証実験が開始された。同年12月1日より「株式会社radiko」となり、順次配信対象エリアを拡大していった[32]。radikoは当初、本来の放送エリア内での無料配信のみとしていたが[注 12]、2014年4月1日からは放送エリア外からも有料で聴取が可能になるエリアフリーサービス「radikoプレミアム」がスタートした。
またこれとは別に、RNBラジオでは、独自で2010年10月1日にCATVサイマル放送を、同年12月18日から2011年3月31日までIPラジオ実験放送をした。
一方、2010年、AMステレオ放送を断念してAMモノラル放送へ復帰する局が相次いだ。MBSラジオとHBCラジオが2月28日深夜(3月1日未明)、ABCラジオが3月14日深夜(3月15日未明)、STVラジオが3月28日深夜(3月29日未明)の放送をもってAMステレオ放送を終了した。終了の理由としてステレオ放送対応のための機材の生産が終了していてメンテナンスの保証がなくなった事があげられている[33]。2011年1月30日深夜(1月31日未明)にはTBSラジオも終了し、縮小していった。
AM放送については「都市型難聴対策」・「外国波混信対策」・「地理的・地形的難聴対策」・「災害対策」の観点から、2012年までに終了したアナログテレビ放送の周波数帯の一部を利用してFM波による補完放送が行われることになり、2014年12月1日の北日本放送・南海放送を皮切りに、翌2015年に名古屋・東京・広島・長崎・鹿児島など、2016年には大阪・福岡など全国各地でスタートしている。これらの放送は一般的に「ワイドFM」と呼ばれる。
2020年以降流行した新型コロナウイルスへの感染対策として、2020年4月以降は収録時におけるアクリル板設置やリモート出演などの措置をとる所もみられた。
2021年6月15日、民間放送のAM局のうち北海道・秋田の3社(北海道放送・STVラジオ・秋田放送)を除く44社が2028年秋を目処にAM放送からFM放送に転換し、在京局(TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送)を含む一部の社ではFM放送に一本化することを発表した[34][35]。既に各社ともワイドFMを実施しているが、広告収入の低下が続く中でFMとAMの二重投資になっていること、特にAM送信施設の立地(水害に弱い河川敷など広い土地が必要)や設備更新費用の高さ、放送を継続したままでの設備更新が問題となるのに対し[34]、FMは簡易な設備で費用が抑えられることがメリットとしている[35]。一方で、ワイドFMが受信可能なラジオ受信機の普及は2019年(平成31年)2月調査の段階で53%にとどまり、受信機買い替えのために周知期間も必要として、2021年6月の段階で発表したとしている[34]。2022年度にはAM局がFM局へ転換できるよう制度を改正し、2023年には停波の実証実験を行う考え[35]。
1950年代、NHKラジオ第1放送・第2放送や民放各社などが、2つの放送波を使ったステレオ放送(当時は立体放送と呼ばれた)を行った。NHKの例でいえば第1放送が左側の音声、第2放送は右側の音声をそれぞれ放送し、2つのラジオを並べて置いたり、2台分のチューナーを搭載したレシーバーを使ってステレオ音声を受信するものであった。テレビ放送が開始されると、ラジオとテレビを併用した立体放送も実施された。番組の冒頭では「左のラジオを○○放送に、右のラジオを○○放送に合わせ、私の声が中央から聞こえるように、受信機の音量を調節して下さい」といったアナウンスと、受信機の調整のための音楽が流された。
この方式では「モノラル放送との互換性がとれず、受信機を2台用意しないと片方のチャンネルしか聞くことができない」「左右の受信機に位相特性、周波数特性、レベル等の特性差があると、正しいステレオイメージが得られない」「NHKを除き、2局が協力しないと実現できない」などの問題が多かった。1963年以降、FMラジオ放送で、これらの問題点を解決したステレオ放送が行われるようになったことで、2つの放送波による立体放送は終了した。
日本では1963年6月25日から当時のFM東海によってこの方式による試験放送が開始される。
日本においてステレオ放送が開始された当初は、電電公社のステレオ中継回線が整備されていなかったため、ステレオでの生放送は東京近辺のごく限られた地域でしか聴取できなかった。ステレオ収録された番組を放送する場合、NHKでは各拠点局(札幌、仙台、東京、金沢、名古屋、大阪、広島、松山、福岡)にパッケージテープを送り、各地方局ではテープを流している拠点局の電波を再生する「放送波中継」方式がとられていた。また、FM東京をはじめとする民放でもパッケージテープを再生する方式がとられた。
その後、1978年10月1日からFM放送用のPCMステレオ回線が整備され、パッケージテープの送付が廃止される。1980年代には全国のNHK及び民放FM局に、PCMステレオ回線設備が導入され、全国でステレオ音声での生放送が聴取できるようになっている。
日本では1990年代から一部で導入されたが、普及しなかった。
インターネット回線を利用して放送や配信を行う。ネット回線の強力さから、日本でも2010年代より有力な聴取手段となっている。
室外アンテナが主流のテレビと異なり、受信機に備え付けのアンテナを使った室内での受信が普通なので、受信環境がチャンネル選択に影響を及ぼす。放送区域内だからといって必ずしも全ての局が安定して受信できる訳ではない。そのため、そういった環境下では、チューニングしやすい局がよく聴かれる傾向にある。特に、室内で受信する場合、建物(鉄筋コンクリート等)によって電波が遮られたり電気製品などのノイズを受けたりすることも多く、電波状態の良好な局が好まれる。受信環境は別売りの外部アンテナを使用したり、FMの場合はVHFアンテナを使用し改善できる場合もある(電界強度の弱い地域ではVHFアンテナを使用しても改善できない場合がある。この場合はFM帯域に対応した外部アンテナが必要となる)。ただし、VHFアンテナはアナログテレビ放送の終了にともない、2010年に大手メーカー各社が相次いで生産打ち切りを発表した。
仕事や作業をしながらでも番組を楽しむことができるため、職場やカーラジオなどで聴取されることも多い。首都圏では10:00 - 11:00にテレビの視聴率よりもラジオの聴取率が高くなる。地域・放送内容・機器などの影響により、長時間にわたり1つの局を聴取する傾向のリスナーもいる。番組ごとのスタッフ数は、テレビと比較して少ない[52]。
放送局の選局は、ダイヤルを回してチューニング(いわゆる同調)する伝統的なタイプが安価なものを中心に多数採用されているが、テレビ同様プリセット式で局をボタンで一発選局(いわゆる電子チューナー)できる受信機もある。
短波による国際放送の場合、同じ内容の放送を同時に複数の周波数で放送し、聴取者が最も受信状態の良好な電波を選んで受信できるようにしているのが一般的である。
音声と画像を記録するテレビ番組は予約可能で録画機器が独立/内蔵レコーダー・パソコン・ワンセグ対応機器などとなっているが、音声のみ記録のラジオ番組を予約録音できる商品はラジカセ・CD/MDラジカセ・コンポ・ICレコーダー・HDDレコーダー・パソコン対応機器などの種類がある。また、ラジオ機器とタイマー・録音可能な機器などの機材を組み合わせて予約録音を行うことも可能であり、録音機器としてカセットデッキやMDデッキ以外にもテープ部分が機械式のラジカセ・ビデオデッキ・DVDレコーダー・HDDレコーダー・パソコン(適切なソフトが必要)が活用できる場合もある。
世界的にテレビがデジタル放送を開始しているのに対して、衛星放送を除きラジオのデジタル化は普及していない。過去に何度か地上波によるデジタルラジオの試験局が開設されているが、多くは実用化に至らないまま放送を終了し、モバイル回線の台頭により必要性も薄れてしまっている。
送信システムは比較的簡単な構造で、仮に地震などで放送局が破壊されても、肩に担げる程度の大きさの小型送信機から放送することも可能。これを活かし、大規模災害の発生時には臨時災害放送局が開設されることがあり、東日本大震災以降、この開局が盛んとなっている。一部のラジオ放送局ではこの特長を利用し、自分以外の局員が全員操作できない状態になっても、1人いれば、全てを遠隔操作して放送が続けられるようになっている。
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