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かつて存在した日本のプロ野球球団 ウィキペディアから
大阪近鉄バファローズ(おおさかきんてつバファローズ、英語: Osaka Kintetsu Buffaloes)は、かつて存在した日本のプロ野球球団である。1949年から2004年まで活動し、1950年から解散までパシフィック・リーグに加盟していた。現在のオリックス・バファローズの前身球団の一つである。
大阪近鉄バファローズ | |
---|---|
Osaka Kintetsu Buffaloes | |
会社名 | 株式会社大阪バファローズ |
創設 | 1949年12月1日 |
解散 | 2004年11月30日 |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
大阪ドーム[注 1](解散時) | |
収容人員 | 36,477人(大阪ドーム[注 1]) |
大阪府(1952年 - 2004年) | |
永久欠番 | |
1:鈴木啓示 | |
獲得タイトル | |
日本一(0回) | |
なし | |
リーグ優勝(4回) | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(4回) (太字は勝利した年) | |
0勝4敗 | |
プレーオフ(前後期制)出場(3回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
2勝1敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 田代和(解散時) |
運営母体 | 近畿日本鉄道(解散時) |
球団社長 | 小林哲也(解散時) |
監督 | 梨田昌孝(解散時) |
フランチャイズ制度が導入された1952年から大阪府を保護地域とし、球団消滅時点で一軍は大阪市西区にある大阪ドーム[注 1]、二軍(ウエスタン・リーグ所属)は藤井寺市にあった藤井寺球場を本拠地としていた。
球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述)。ただし、三原脩の監督時代のサインなど、球団及び近鉄グループ関係者が誤用した例がある。
1999年3月31日までの球団名は「近鉄バファローズ」で、地域密着を謳うために1999年4月1日付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。
2004年11月30日に球団と近鉄グループの経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、運営会社も2005年3月31日に解散した。職員の大半はオリックス野球クラブ、一部は新規に創設された楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトにより、オリックス・バファローズ(ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに配分された。
オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれていない。球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年の大映ユニオンズ[注 2]以来となった。また、存続した期間は55年間におよびこれまで消滅した球団の最長存続記録である松竹ロビンズの17年間を大きく上まわっていた。
合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照。
1944年6月から1947年5月まで南海鉄道と関西急行鉄道の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリング[注 3]との球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークスの系譜である。
セ・リーグの内、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、松竹ロビンス、大洋ホエールズ→大洋松竹→洋松ロビンス→大洋→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズとは1度も日本シリーズでの対戦経験がない[注 4]。
1950年から1968年にかけて20年間で13回のリーグ最下位を経験した当時の近鉄は「地下鉄球団」[1]とも揶揄(やゆ)された。
球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中で「55年の球団史上1度も日本シリーズに4回出場した上で日本一になれなかった唯一の球団」となった[注 5][注 6]。
「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム[注 1]移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドーム[注 1]に移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム移転後を参照。
西本幸雄の下、リーグ初優勝を遂げ、長かった低迷期を脱する。また仰木彬の監督就任後は毎年のように西武ライオンズとの激しいペナントレース争いとなり[注 14]、西本退任以降の1982年から仰木彬が指揮した1992年までではBクラスは3度と安定した成績を保った[29]。
本拠地を大阪ドーム[注 1]に移転するも、選手の年俸が高騰したことや、球場使用料が藤井寺球場(グループ会社の近鉄興業が保有)本拠地時代より大幅に上昇したこと、移転2年目である1998年以降は観客動員数が伸び悩んだこともあり、赤字額が年々膨れ上がった。また、大阪ドームも最寄り駅が近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となり[注 27]、観客が近鉄を利用しなくなったため、その分の運賃収入も途絶えるといった影響も出た。
2005年1月15日に御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所を閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村紀洋のポスティング申請など、残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズは解散となる。6月20日付で清算結了となり、法人格が消滅した。なお、近鉄はこの後、球団合併後の暫定処置として2007年までオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、同年シーズン終了と同時に完全撤退した[46]。ただ、球団経営から撤退後も、「近鉄沿線デー」と銘打って優待企画を実施するなどしているほか、オリックスが優勝時には近鉄百貨店で優勝セールを実施するなど、間接的に関わりは持ち続けている。
2013年から2015年と2017年から2019年にかけてオリックスがOSAKAクラシックと銘打って、昭和時代に同じく大阪の球団であったソフトバンクとの復刻ユニフォームでの試合を行い、近鉄各時代のユニフォームを使用した[注 34]。
2022年10月30日にオリックスが日本シリーズ第7戦でヤクルトを4勝2敗1分で下したことにより、前身球団こそ異なるものの、球団愛称「バファローズ」としては6度目の正直で悲願の日本一を達成した。この日本一で球団唯一の永久欠番の選手だった鈴木啓は多くの祝電をもらったという[60]。バファローズの日本一により、日本プロ野球全12球団が現在の球団愛称になってからリーグ優勝・日本一になった[注 35]。これは、横浜DeNAベイスターズの前身「横浜大洋ホエールズ」が「横浜ベイスターズ」に変更された1993年から数えて29年目のことだった[61]。
タイトル制定(1989年)以後の該当者は以下の通り。
タイトル制定以前の該当者は以下の通り。
近鉄在籍時代に記録したもののみ(他球団在籍時での記録は数字に含まれない)[63]
「大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の年度別成績一覧」も参照
太字は優勝達成監督
歴代監督名は「球団名変遷と年度別成績」の項目を参照。
なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。
藤井寺球場
野茂英雄がパシフィック・リーグ初の沢村栄治賞受賞を達成。1990年に沢村賞を受賞した野茂より前の時代だと、鈴木啓示が投手三冠王を達成するなど活躍をしたが、当時、パ・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、鈴木は受賞出来なかった[66]。
達成者はいない[67]。
複数回受賞の達成者はいない[68]。
複数回受賞の達成者はいない[68]。
1967年8月、近鉄は、これまでの1・2軍とは別に、若手育成の観点から将来3軍を結成することを念頭においた新人オーディション(入団テスト)を実施した。まず面接・書類審査に98人が応募。その中から24人に絞り、実技による2次審査を4日間にわたり藤井寺球場で実施。3軍のチーム化を念頭に、十数名程度の獲得を目指そうとした。
しかし、実際に実技テストを合格したのは4人のみで、3軍を結成するとした目標には遠く及ばず、その4名のうち3人は投手で野手は1名だけだった。しかも彼らは全員結果を出せず、2人は2年、もう1人は3年で引退。残り1名についても1972年に南海へ移籍したため、3軍制構想は失敗に終わった[79]。
2004年のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第三者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム、球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案だったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。
ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季 - 1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年 - 1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年 - 1978年)[注 47]、ロッテオリオンズ(1969年 - 1970年に大映が親会社で永田雅一がオーナー、中村長芳がオーナー代行だった。1971年大映からロッテに正式に譲渡)などの例がある。近鉄の場合、命名権の販売対象企業として名前が挙がっていたのが消費者金融のアコムだったため、青少年への影響面から認められなかった理由のひとつに挙げられていた[注 48]。近鉄の命名権販売が認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。
2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇が広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では、
と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。
本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。
また、青木一三は著書で、佐伯オーナーが1979年頃に、愛媛県を本拠とする来島どっくグループ総帥の坪内寿夫に球団売却の申し入れをおこなっていたと記している[80]。
放映権に関しては、朝日放送(現:朝日放送テレビ及び朝日放送ラジオ)に優先権があるなど、阪神タイガースとほぼ同じである。
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