この項目では、2004年までのバファローズについて説明しています。2005年以降のバファローズについては「オリックス・バファローズ 」をご覧ください。
大阪近鉄バファローズ (おおさかきんてつバファローズ、英語 : Osaka Kintetsu Buffaloes )は、かつて存在した日本 のプロ野球球団 である。1949年 から2004年 まで活動し、1950年 から解散までパシフィック・リーグ に加盟していた。現在のオリックス・バファローズ の前身球団の一つである。
概要 大阪近鉄バファローズ, 会社名 ...
大阪近鉄バファローズ
Osaka Kintetsu Buffaloes 会社名
株式会社大阪バファローズ 創設
1949年12月1日 解散
2004年11月30日 ロゴデザイン
所属リーグ
パシフィック・リーグ 歴代チーム名
近鉄パールス(1949年 - 1958年)
近鉄バファロー(1959年 - 1961年)
近鉄バファローズ(1962年 - 1998年)
大阪近鉄バファローズ(1999年 - 2004年)オリックス・ブルーウェーブ との吸収合併により球団消滅 本拠地
大阪ドーム [注 1] (解散時) 収容人員
36,477人(大阪ドーム[注 1] )
大阪府 (1952年 - 2004年) 永久欠番
1:鈴木啓示 獲得タイトル
日本一 (0回)
なし
リーグ優勝 (4回)
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場 (4回) (太字 は勝利した年)
0勝4敗
プレーオフ(前後期制)出場 (3回) (太字 は勝利した年、斜体 は後期優勝)
2勝1敗
球団組織 オーナー
田代和 (解散時) 運営母体
近畿日本鉄道 (解散時) 球団社長
小林哲也 (解散時) 監督
梨田昌孝 (解散時) テンプレートを表示
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フランチャイズ制度 が導入された1952年 から大阪府 を保護地域とし、球団消滅時点で一軍は大阪市 西区 にある大阪ドーム [注 1] 、二軍 (ウエスタン・リーグ 所属)は藤井寺市 にあった藤井寺球場 を本拠地 としていた。
球団愛称の正式表記は「バファローズ」であり、「バッファローズ」ではない(経緯に関しては後述 )。ただし、三原脩 の監督時代のサインなど、球団及び近鉄グループ関係者が誤用した例がある。
1999年 3月31日までの球団名は「近鉄バファローズ 」で、地域密着を謳うために1999年4月1日 付で上記球団名に改称された後も通称として使われていた。なお、運営法人の商号 は株式会社大阪バファローズ、近畿日本鉄道 株式会社の100%の連結対象子会社(額面500円)だった。
2004年 11月30日に球団と近鉄グループ の経営難からオリックス・ブルーウェーブの運営会社「オリックス野球クラブ」に営業譲渡し、運営会社も2005年 3月31日に解散した。職員の大半はオリックス野球クラブ、一部は新規に創設された楽天野球団に移り、選手は分配ドラフトにより、オリックス・バファローズ (ブルーウェーブから改称)と同時に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルス に配分された。
オリックスの球団史において大阪近鉄バファローズは傍系扱いとなるため、チームタイトルや個人賞などの各種記録については一切含まれていない。球団史が引き継がれずに終焉する形でのチーム消滅は1958年 の大映ユニオンズ [注 2] 以来となった。また、存続した期間は55年間におよびこれまで消滅した球団の最長存続記録である松竹ロビンズの17年間を大きく上まわっていた。
合併までの経緯・詳細についてはプロ野球再編問題 (2004年) を参照。
1944年 6月から1947年 5月まで南海鉄道 と関西急行鉄道 の戦時統合によって設立された近畿日本鉄道が運営していた近畿日本軍→近畿グレートリング [注 3] との球団の系譜としてのつながりはなく、これは現在の福岡ソフトバンクホークス の系譜である。
セ・リーグの内、阪神タイガース 、中日ドラゴンズ 、松竹ロビンス 、大洋ホエールズ→大洋松竹→ 洋松ロビンス→大洋→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ とは1度も日本シリーズでの対戦経験がない[注 4] 。
1950年から1968年にかけて20年間で13回のリーグ最下位を経験した当時の近鉄は「地下鉄 球団」とも揶揄(やゆ)された。
球団が消滅した2004年時点で現存していた12球団の中で「55年の球団史上1度も日本シリーズに4回出場した上で日本一になれなかった唯一の球団」となった[注 5] [注 6] 。
近鉄パールス時代
1949年
近畿日本鉄道 をスポンサーとする近鉄パールス (設立時は近鉄本社、後にグループ会社の近鉄野球株式会社(初代、のちの近鉄興業株式会社)が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇 の鶴の一声で結成。「パール(真珠 )」は賞金5万円の公募によって決められ、近鉄沿線の伊勢志摩 地方で真珠養殖が盛んなこともあって命名された[3] 。近鉄にとっては、南海鉄道 合併当時の1944年 - 1947年 (近畿日本軍 → グレートリング、現:福岡ソフトバンクホークス )以来の球団運営である。近鉄は大阪電気軌道 (大軌)時代よりラグビー 部(現:花園近鉄ライナーズ )を有していたが、後の佐伯の述懐によれば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を動かしたという。11月26日 に発足した太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ )に加盟し、12月1日 をもって正式に球団創設となった。2リーグ制構想を最初に打ち出した正力松太郎 は、大阪地区で4チームが同一のリーグに入ることは好ましくないと考え、片方のリーグに近鉄と阪神、もう一つのリーグに阪急と南海を入れる考えを持っていたといわれる[5] 。しかし、毎日新聞 側で電鉄系球団が結束した後に阪神が離脱するという経過により、この正力の考えは実現しなかった(経過についてはプロ野球再編問題 (1949年) を参照)。加盟申請は早かったものの、チーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学 出身者(監督藤田省三 始め、関根潤三 など法政大学 勢が多かったため、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、プロ野球経験者は黒尾重明 (東急フライヤーズ )、森下重好 、田川豊 (いずれも太陽ロビンス )ら数えるほどで、選手層が薄く、球団創設より4年連続最下位となる。
1950年
開幕直前に藤田省三が高熱でダウン、藤田は球場には来たが加藤春雄が実質指揮を取る中で3月12日、藤井寺球場での対毎日オリオンズ 戦が球団としての初めての公式戦となるが、初回四番森下重好のタイムリーで先制するものの、失策で自滅し、2対6で敗戦。翌13日の対南海ホークス 戦で沢藤光郎 が粘投し、4対3でチーム初勝利を収める。チームは連敗、連勝、連敗を続け、この年は森下が30本塁打 、沢藤が18勝を挙げる活躍を見せるが、最終的には首位の毎日から37.5ゲーム離された最下位に終わる。投打共に駒不足を露呈した。球団本社からの強化費用が予想以上に出ず、新人2選手が加入しただけで終わる(その2選手も翌年には退団)。
大阪球場時代
1951年
この年もシーズン終盤まで低迷、9月に14勝8敗1分と追い上げるも6位の東急と0.5ゲーム差で2年連続最下位に終わる。この年のオフ、大下弘 の獲得に乗り出すが失敗に終わる。
1952年
5月から6月にかけて13連敗を喫し、シーズン通して首位の南海に4勝14敗、2位の毎日には3勝15敗と大きく負け越し、最終的に30勝78敗、3割に満たない勝率[7] で3年連続最下位に終わる。シーズン終了後、藤田省三が監督を辞任し、芥田武夫 が就任。 小玉明利 、鈴木武 ら後に中心となる新人補強に加え、独特の練習スタイルで結果を出す。
1953年
開幕直後には9連勝するなど、5月8日 に一時期ながら首位に立つが、夏場以降は失速し、首位南海と22ゲーム差の最下位となる。勝率は初めて4割を超える。
1954年
8月7日 に新人の山下登 が対高橋ユニオンズ 戦で球団史上初のノーヒットノーラン を達成している。74勝63敗5分で、球団創設初となる最下位脱出の4位、勝率5割を越えてのAクラスとなった。近鉄選手初のタイトルとして田中文雄 が最多勝 、鈴木武 が盗塁王 を獲得しており、チーム盗塁数223は当時の日本プロ野球歴代5位であった。
1955年
序盤から投手陣が大不振。6月19日 には武智文雄(田中から改姓)が対大映スターズ 戦(大阪)でパ・リーグ初となる完全試合 を達成する。この年連敗することが多く、60勝80敗2分の5位に終わる。
1956年
4月後半の10連勝で勢いをつけたが、終盤に失速し5位。この頃は万年最下位とは呼ばれなくなったが、優勝争いをしている西鉄、南海とは地力の差があった。
1957年
この年パ・リーグは高橋ユニオンズと大映スターズが合併したことで8球団から7球団となり、日程が組みにくくなったことから最下位の球団は消滅させようという動きがあり、関根潤三 は「大映オーナーの永田雅一 による近鉄潰しだ」と述べている。6月22日 、芥田がシーズン途中で休養。加藤春雄 が代行を務めるが8月を終わっても最下位で、消滅の危機となったが、最終的には6位に終わっている[注 7] 。加藤春雄はオフに監督就任[注 8] 。
日本生命球場時代
1958年
開幕から不振が続き、6戦目で最下位になると、そのまま浮上することなく、首位の西鉄に3勝22敗1分、2位南海に4勝22敗1分と大きく負け越し、この年の近鉄のシーズン29勝は最多勝投手の稲尾和久 の33勝を下回り、球団史上最低記録となる勝率.238でシーズンを終える。シーズン終了後、加藤が監督辞任、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂 を監督に招聘し、チーム名を近鉄バファロー に改名[注 9] 。岡本太郎 による球団マーク(通称、猛牛マーク)が制作される。なお、同年はパ・リーグの他球団から名古屋への進出を持ちかけられたがこれを拒否している[14] 。
近鉄バファロー時代
1959年
5月に最下位になると、そのまま浮上できずにシーズンを終える。チーム39勝は、最多勝の南海の杉浦忠 の38勝より1勝多いだけであった。前年と合わせ8人の選手が読売ジャイアンツ から移籍するなど、チームの大幅な入れ替えを図る。なおシーズン途中の6月20日 に千葉茂が途中休養、代行監督に林義一 が就任するが、オフに千葉が監督復帰する。
1960年
43勝87敗1分で首位の大毎と39ゲーム差の最下位。
1961年
日本プロ野球シーズン最多記録となる103敗を記録。首位南海とは51.5、5位阪急とも18.5ゲーム差をつけられ、チームの勝ち星は1958年に続き、稲尾和久の42勝に届かぬ36勝に終わった。新人の徳久利明 が15勝を挙げ[注 10] 球団初の新人王 を獲得する。1958年から4年連続でチームは160失策以上を記録し[注 11] 、チーム38盗塁は2リーグ制以降、当時の最少記録となっている。シーズン終了後、千葉茂が監督を更迭[18] 、別当薫 が就任。
後年、この当時の事情を千葉茂はなかなか語ろうとしなかったが、1997年 ごろに語ったところによれば「巨人で20年やってきたことがすべてひっくり返った」と述べ、「選手もプロ意識は低かったが、親会社の体質にも問題があった」とし、当時三等車 だった列車での移動を西鉄並の二等車 にしてほしいと頼めば、球団に「15人だけにしてほしい」と言われたとされる。一方の選手は西鉄の稲尾和久や南海の杉浦忠 などが登板することが分かると、高熱や腹痛などの仮病を使って試合を欠場したとも述べている[20] 。
近鉄バファローズ時代
「近鉄バファローズ」という球団名は1998年まで使われたが、ここでは大阪ドーム[注 1] 移転前年の1996年までの事について述べ、大阪ドーム[注 1] に移転した1997年・1998年の両年については#大阪ドーム移転後 を参照。
別当監督時代
1962年
チーム名を近鉄バファローズ に改名。ジャック・ブルームフィールド が.374の高打率で首位打者 を、28勝を挙げた久保征弘 が最多勝 を獲得するも、チーム全体ではわずか57勝(久保はほぼ半分の勝ち星を1人で稼いだ)で5年連続最下位。土井正博 が18歳で四番に抜擢される。
1963年
5月以降チームは勝率5割を保ち、東映との3位争いをするものの、1ゲーム差[注 12] の4位に終わる。この年のオールスター には7人が選ばれた。長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線 」のあだ名がつく。
1964年
この年4人の10勝投手が出るも、2年ぶりの最下位。1958年よりこの年まで7年連続で失策数はリーグワースト。シーズン終了後、別当薫が監督を辞任。後任には岩本義行 が就任。球団結成時から在籍している関根潤三 に対して球団の中には「監督をやれ」という人もいたが、関根にそのつもりはなく、近鉄を退団し、巨人に移籍した[21] 。
小玉監督時代
1967年
4月1日 、球団運営のための会社法人として近鉄野球株式会社 (2代目)を設立し、近鉄興業(同年3月に近鉄野球株式会社=初代を商号変更)から経営を移管。チームは開幕ダッシュもあり5月半ばまで首位だったが、主力選手の相次ぐ故障もあり4年連続の最下位に終わる。シーズン終了後、小玉明利が監督を辞任し、選手として阪神に移籍した。後任には三原脩 が就任した。
三原監督時代
1968年 [23]
西鉄との開幕戦で3連勝後、4月を14勝4敗として6月まで首位だったが、夏場以降は失速し、首位の阪急と23ゲーム差の4位に終わる。しかし、監督の三原によって選手に自信をつけさせたとされる。三原は家族の問題から退任を申し入れるも、慰留され続投。
1969年 [23]
5月までに9連敗を記録するなど低迷、しかしその後18勝1敗2分けと一気に追い上げ、球団初の首位争いを阪急と展開する。互いに直接対決4試合のみを残した10月17日の時点で2厘差で首位を保ち、阪急よりも優位であった[注 13] 。しかし、10月18日からの対阪急4連戦に初戦から3連敗で阪急の逆転優勝を許し、2位に終わる。球団創立以来シーズンの対戦成績で勝ち越したことがなかった南海に対し17勝9敗と初めて勝ち越し、また15シーズン連続で負け越していた西鉄にも15勝11敗で勝ち越した。ドラフト会議では、高校野球で甲子園のアイドルと呼ばれた太田幸司 を獲得。
1970年
5月14日 に黒い霧事件 に関連し、球団職員だった山崎晃が外部の人間より八百長(野球協約上の敗退行為)を強要され、監督や選手に敗退行為の依頼を行ったことが報道された。山崎は1967年に当時選手兼監督だった小玉明利を始め、木原義隆 、吉沢岳男 、高木喬 の4名に八百長を依頼したとされる。捜査の結果、依頼された4人については金銭の授受はなく試合で敗退行為を行った確証も得られなかったため、プロ野球機構からの処分は厳重戒告に留まったが、山崎については八百長工作を行っていたことが確実になったため、6月15日 に野球賭博への関与を理由とした永久追放処分が下された。10月6日 、対南海戦で佐々木宏一郎 が完全試合を達成。シーズン終了後、三原が監督を辞任し、後任を鶴岡一人 に一本化するが招聘に失敗し、コーチの岩本尭 が監督に昇格した。
岩本(尭)監督時代
1971年
鈴木啓示 、清俊彦 、佐々木宏一郎 、神部年男 の投手4本柱が防御率7位以内に入る安定感を見せ、3位を確保。
1972年
序盤に首位に立った南海相手に7連勝(1分)するなど、4月29日に同率首位にもなったが[25] 、総合では首位とは14ゲーム差の2位に終わる。この頃は鈴木啓示が5年連続20勝を挙げ、また太田幸司人気もあってテレビ中継も増えている。
1973年
パ・リーグは前後期2シーズン制を導入。投手力のある近鉄が優勝候補にも挙げられたが、その投手陣が相次ぐ故障などから崩壊し防御率3.83はリーグ5位で10勝以上あげたのが鈴木啓示のみ、打線も土井が唯一打率ベスト10入り(3位)しただけでチーム打率はリーグ最下位の.237、本塁打113本は南海と同数の5位、盗塁、得点はリーグ最少、失点、失策はリーグ最多で、8月末に岩本は休養し、島田光二 が代理監督を務めるが、前後期とも最下位の6年ぶりの最下位に終わっている。二軍がウエスタン・リーグを初制覇している。シーズン終了後、前阪急監督の西本幸雄 が監督就任。
関口監督時代
1982年
序盤は首位になり前後期とも勝ち越し3位となるが、首位の日本ハムからは大きく離されての結果となった。
1983年
4月末に7連敗すると5月まで最下位、持ち直すものの、以降は1度も5割にならないままこの年は4位、シーズン終了後、関口清治が監督を辞任、後任は岡本伊三美 。広島から加藤英司 がトレードで加入。
岡本監督時代
このシーズンから1997年に大阪ドームが開設されるまで、本拠地が藤井寺球場に固定される。
1984年
このシーズンでは、藤井寺球場のナイター設備が完成し、4月6日にナイター開きが行われた。5月5日 には鈴木啓示が通算300勝を達成するが、新外国人選手だったドン・マネー が待遇面をめぐって4月末に退団するなどもあり、4位となるが、3位の対西武戦を9勝17敗と大きく負け越している。
1985年
7月10日 に鈴木啓示が現役引退を表明、背番号1は球団唯一の永久欠番となる。本塁打はリーグ最多の212本だが、防御率はリーグワーストの5.10で、この年は4位の阪急と勝率1毛差の3位であったが、首位西武とは15ゲーム差をつけられ、二桁勝利投手もストッパーの石本貴昭 だけであったが、この時期は1979年、1980年の優勝メンバーと、後の1989年優勝メンバーの世代交代の時期だったとされ、打者では大石大二郎 、投手では石本の他に小野和義 、吉井理人 、佐々木修 、山崎慎太郎 などの獲得や台頭が見られる。オフに有田、加藤英が巨人・淡口憲治 らとトレード成立。
1986年
後半戦は西武との熾烈な優勝争いとなり、互いにマジックが点灯と消滅を繰り返す展開となる。9月終了時で西武と1ゲーム差の2位だが、残り試合の関係でマジック10が点灯していた。10月5日 のロッテ戦で9回裏に2点差を追い付き、引き分けで同率首位に並ぶと、翌日はロッテに勝って単独首位に立つ。両チーム残り3試合の時点でマジック3としたが、10月8日 から阪急に3連敗。ロッテにホームで連勝し逆転優勝を果たした西武と2.5ゲーム差の2位に終わる。記録の残る1952年以降としては初めて観客動員が100万人を突破している。
1987年
移籍2年目の新井宏昌 が首位打者、ルーキー阿波野秀幸 が15勝を挙げ新人王を獲得する活躍をみせるもののチーム内の不協和音もあり5位のロッテとは1.5ゲーム差で、4球団には11勝以上したものの残る西武には5勝19敗3分と大きく負け越したこともあり、最下位となる。シーズン終了後、岡本伊三美が監督を辞任、コーチだった仰木彬 が就任、権藤博 が投手コーチ。
仰木監督時代
1988年 [39]
終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げることとなった。開幕から西武が独走、6月に入ると貯金20で2位近鉄は8ゲームをつけられ、7日 には主砲のリチャード・デービス が大麻不法所持で逮捕され解雇というアクシデントに見舞われ、同月28日 に急遽中日ドラゴンズ から金銭トレードでラルフ・ブライアント を獲得した。ブライアントはこの後、74試合の出場ながら34本塁打を記録するなど大活躍をした。9月に入っても西武が独走状態は続き、15日の時点では西武に6ゲーム差をつけられるが西武が一時後退して29日の時点では1.5ゲーム差、10月に入り5日にはゲーム差無しで一時近鉄が首位に立つなど、以降シーズン終了まで、首位の西武と近鉄がともに譲らずハイペースで勝ち続けるという展開となり、10月16日 に西武が全日程を終了した時点では、近鉄は残り4試合のうち3勝すれば優勝だったが、17日の対阪急戦に敗れ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となり、川崎球場 へ移動しての18日の対ロッテ戦に勝利し、10月19日 のロッテとのダブルヘッダーでは第1試合を9回に逆転勝利するが、第2試合延長10回時間切れで4対4の引き分け[注 16] に終わり、130試合目にして優勝を逃す結果となった(詳細は10.19 を参照)[注 17] 。この試合でも活躍の梨田、吹石が引退。
この年は昭和 最後のペナントレースだったので、近鉄は当時の12球団の中で大洋と共に「昭和時代に1度もリーグ優勝を本拠地で飾れなかった球団」かつ日本ハムと共に「昭和時代に1度も年間勝率1位によるリーグ優勝を本拠地で飾れなかった球団」となった[注 18] [注 19] [注 20] 。
1989年
開幕前は西武と近鉄が優勝争いになると見られたが、ペナントに入ると開幕戦で近鉄に大勝したオリックス・ブレーブス が開幕から8連勝と抜け出し、近鉄や西武は勝率5割前後と出遅れる。近鉄はエースの阿波野秀幸が開幕から6連勝や、いてまえ打線の復調もあり、7月から8月にかけて2度の4連勝などで8月に一時首位に立つが、9月に入ると連敗を重ねて9月25日の時点で3位に後退していた。近鉄に後がない状況で迎えた10月12日の西武戦(西武球場 )ダブルヘッダーにおいて、ラルフ・ブライアントがこの日4打数連続本塁打[注 21] が出て西武に連勝。近鉄がマジック2を点灯させる(詳細は10.19#1989年10月12日のダブルヘッダーと近鉄1年越しの優勝 を参照)。10月14日、藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス 戦に勝利し、129試合目で1980年以来9年ぶり3度目の優勝達成となった[44] 。これが近鉄にとって初の1シーズン制度上での初優勝となった。これにより、当時のパ・リーグ全球団がリーグ優勝を正式な本拠地で決めた[注 22] と同時に当時の全12球団が前身を含め、年間勝率1位によるリーグ優勝をした。前者の方は、フランチャイズ を導入した1952年から数え、37年目のことである[45] 。本拠地で初の日本シリーズ開催となった[注 23] が、初戦から巨人に3連勝するものの、加藤哲郎 の「巨人はロッテより弱い」発言問題もあり[注 24] 、その後4連敗を喫し、巨人に敗れる。栗橋、淡口、羽田が引退し、村田が移籍、権藤コーチが退団した。ドラフト において、8球団競合[注 25] による抽選の上、新日鉄堺 の野茂英雄 の交渉権を獲得し、入団している。
この年は平成最初のペナントレースだったので、近鉄は「平成最初のパ・リーグ優勝球団」となった[46] 。
1990年
野茂英雄が最多勝、防御率など主な先発投手タイトルを獲得する活躍で新人王&MVP となり、沢村賞 も獲得。また同じく新人の石井浩郎 も6月以降にレギュラーに定着し規定打席不足ながら打率.300、22本塁打と活躍。しかし、チームは開幕2戦目から9連敗を喫し、大きく出遅れ、阿波野の不振や小野の故障など野茂以外の投手陣が軒並み成績を落としたこともあり、西武との大差を縮められず3位に終わる。オフには中西太 ヘッドコーチが退団した。
1991年
西武が開幕から抜け出すが、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返すものの、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝される。この年の77勝は当時の球団最多勝利記録だった。野茂は2年連続最多勝、トレーバー は打点王獲得も退団した。ブライアントの故障、長期離脱も響いた。
1992年
前年とは逆に近鉄が序盤は首位を走るが、6月になると西武に逆転され、その後は西武の独走を許し、2位に終わった。赤堀元之 が最優秀救援とともに防御率1.80を記録し最優秀防御率 を獲得したが、規定投球回数達成者としては球団唯一の防御率1点台投手となった[35] 。野茂は入団から3年連続最多勝、高村祐 は新人王。シーズン終了後、仰木彬が監督辞任。後任には小玉明利以来26年ぶりとなる生え抜きの鈴木啓示が監督に就任する。
鈴木 → 佐々木監督時代
1993年
監督の鈴木啓示と野茂英雄や吉井理人といった主力選手との確執が続いた。野茂は4年連続で最多勝を挙げるが四球や自責点もリーグ最多で安定感に欠き、野茂以外に10勝以上投手が出なかったものの、抑えの赤堀元之と、石井浩郎、ブライアントなどのいてまえ打線が好調で、開幕から好スタートの直後に連敗が続き、最下位に転落するも、最終的には首位の西武と7ゲーム差の4位に終わる。
1994年
開幕の対西武戦で赤堀元之が伊東勤 に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びる波瀾のスタートとなり、序盤からチームは低迷。6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位に沈む。しかし、いてまえ打線 の爆発により、夏場から調子を上げ、7月26日から8月10日にかけて球団新記録となる13連勝を記録し、一時は首位に立つなど、約1か月半で32勝6敗、勝率.842の驚異的な成績を残す。しかし、野茂が離脱した8月以降は後退、最終的に首位西武と7.5ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後、野茂が契約のこじれから退団、メジャーリーグ のロサンゼルス・ドジャース に移籍[注 26] 。金村義明 がFA 権を行使し、中日に移籍。阿波野が香田勲男 との交換トレードで巨人へ移籍。
1995年
開幕直前、吉井が西村龍次 との1対1の交換トレードによりヤクルトに移籍。開幕から2年目のリー・スティーブンス が13試合で10本塁打と打ちまくるが、ブライアント、石井浩郎の故障離脱があり投手陣も高村が怪我で離脱、ストッパー赤堀が絶不調もあってチームは低迷。8月8日夜、鈴木は遠征先を訪ねてきた球団社長に「これ以上、あなたの顔に泥を塗れない」と、3季目途中の解任通告、退任会見もせず、ひっそりグラウンドを去った[48] 。8年ぶりの最下位になる。シーズン終了後、佐々木恭介が監督に就任する。ドラフト では高校生としては史上最多7球団が1位指名したPL学園 の福留孝介 の交渉権を獲得するが、福留は入団拒否。ダイエーを自由契約となった山本和範 が15年ぶりに復帰。
1996年
テスト入団の山本が開幕から活躍しオールスターにも選ばれたが、投手陣の調子の波が激しく勝率5割付近を行き来する展開となる。翌年から本拠地が新たに大阪ドーム [注 1] に移転するため、Aクラス入りし、開幕カードを新本拠地で迎えたかったが、終盤戦Aクラス入りをかけた対西武2連戦に敗れ、4位に終わった。オフ、大幅減俸提示を拒否した石井が巨人に移籍。
大阪ドーム移転後
本拠地を大阪ドーム [注 1] に移転するも、選手の年俸が高騰したことや、球場使用料が藤井寺球場(グループ会社の近鉄興業が保有)本拠地時代より大幅に上昇したこと、移転2年目である1998年以降は観客動員数が伸び悩んだこともあり、赤字額が年々膨れ上がった。また、大阪ドームも最寄り駅が近鉄の駅ではなかったため、近鉄沿線からは孤立した存在となり[注 27] 、観客が近鉄を利用しなくなったため、その分の運賃収入も途絶えるといった影響も出た。
佐々木監督時代
1997年
開幕カードのグリーンスタジアム神戸 での対オリックス2連戦がともに雨で中止となったため、4月8日 の大阪ドーム[注 1] での対千葉ロッテマリーンズ 戦が開幕試合となり、大阪ドームでの初試合を4対2で勝利している[49] 。借金が最大14になるなど、夏場までロッテと5位を争う状況だったが、8月24日の対ロッテ戦(大阪ドーム)でパ・リーグ史上初(プロ野球通算3度目)の10点差逆転勝利(延長12回)を機にチームは浮上。最終的には3位でシーズンを終える。この年の観客動員は186万6千人に達し、球団の年間最多観客動員記録となった。この年限りで大石大二郎が引退。
1998年
8月半ばまで日本ハムと優勝争いを繰り広げ、日本ハムの失速もあり一時0.5ゲーム差まで詰め寄るが、直後に連敗し、西武、ダイエーを含めた4チームの混戦となる。先発投手陣が安定せず1952年以来となる2桁勝利投手が出ず、ロブ・マットソン の9勝がチーム最高の勝ち星となった[注 28] [35] 。最終的には借金1の5位に終わる。
大阪近鉄バファローズ時代
1999年
4月 に地元企業との提携と地元密着を目指してチーム名を大阪近鉄バファローズ に改称し、9月 に従来の近鉄野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」を設立。4月は首位で折り返すが、前年以上に先発投手陣が安定せず(2年連続して2桁勝利投手が皆無だった)、途中プロ野球新記録となる5試合連続2桁失点のワースト記録を樹立するなど、低迷して4年ぶりに最下位に終わる。シーズン終了後に佐々木恭介が監督を辞任、後任は近鉄最後の監督となる梨田昌孝 。
梨田監督時代
2000年
就任した梨田に「選手層が薄いが、ケガ人さえいなければ」と言われた状況において、オープン戦で吉岡雄二 が骨折こそ免れたものの手首に重傷のけが[51] 、シーズンに入って礒部公一 が顔面死球で、フィル・クラーク が手首骨折で次々に離脱する状況で、中村紀洋 が本塁打王 と打点王 の二冠を獲得するが、チームは33年ぶりの2年連続最下位に終わる。投手陣では3年連続二桁勝利投手は現れず、野手陣でも規定打席到達で3割を超えたのは武藤孝司 だけであった。
この年は20世紀 最後のペナントレースだったので、近鉄は「20世紀最後のパ・リーグ最下位球団」となったが、これが近鉄にとって最後のリーグ最下位となった(つまり、21世紀 は4年間で1度もリーグ最下位にならなかった)[46] 。
2001年
開幕戦の3月24日の対日本ハム戦は一時は1対6で5点差をつけられるものの、両軍合わせて8本塁打の打ちあいとなり最後は10対9で逆転勝利する。その後も4月に2試合連続サヨナラ勝ちを収めるなど、逆転勝利が多く(78勝のうち41勝が逆転勝ち)、7月17日の対ロッテ戦も9回5点差から8得点を挙げ逆転勝ち、前半戦終了時には、5位のロッテとは5ゲーム、最下位の日本ハム以外が勝率5割以上という状況ながら、1991年以来10年ぶりに首位で折り返す。この年からロサンゼルス・ドジャース と業務提携を結び、シーズン途中にドジャース元監督のトミー・ラソーダ の紹介でショーン・バーグマン とジェレミー・パウエル の2投手、ショーン・ギルバート 内野手を獲得。この補強も功を奏した。終盤の9月3日から5連敗し、9月5日の段階でもダイエーと同率首位、1厘差で西武が追い、5位まで6.5ゲーム差という混戦となるが、9月9日からの11試合を10勝1敗とした[53] 。9月24日 の対西武戦ではタフィ・ローズ が当時の本塁打シーズン日本プロ野球タイ記録となる55号本塁打を達成し、試合も9回裏松坂大輔 から中村紀洋のサヨナラ2ラン本塁打で勝利し、優勝マジックを1とした。9月26日、対オリックス戦(大阪ドーム[注 1] )で2対5とリードされた9回裏、無死満塁から代打北川博敏 が日本プロ野球初となる「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打 」で1989年以来12年ぶり4度目のリーグ優勝を大阪ドームで初めて決めた。梨田は球団生え抜きとして初の優勝監督となった[注 29] [注 30] 。また、同一監督での前年最下位からの優勝は1976年の巨人の長嶋茂雄 に次いで2人目で、パ・リーグでは初。ロッテには20勝8敗と大きく勝ち越したが[注 31] 、防御率リーグ最下位(4.98)での優勝と2位チームへの2桁負け越し(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。日本シリーズ ではヤクルトスワローズ に自慢のいてまえ打線を封じ込まれ、1勝4敗で敗退。シーズン78勝は球団記録。
オフに球団初(唯一)のFA移籍で加藤伸一 を獲得。
この年は21世紀最初のペナントレースだったので、近鉄は「21世紀最初のパ・リーグ優勝球団」となったが、これが近鉄にとって最後のリーグ優勝・日本シリーズ出場となった[46] 。そのため、上記の大阪ドームおよび生え抜き監督によるリーグ優勝 もこの年が最初で最後となった。
2002年
5月28日から6月15日にかけて8年ぶりの10連勝を記録し、首位西武に一時2ゲーム差に詰め寄る。しかし、その後は西武の独走を許すと、8月16日の直接対決で9点差を逆転負けし、西武に優勝マジック34が点灯[57] 。最終的に優勝した西武から16.5ゲーム差の2位に終わる。オフに古久保健二 が現役を引退した。シーズン終了後に中村がFA宣言するが、メジャーリーグを含めて1カ月余りの交渉の末、近鉄と推定4年20億円プラス出来高払いの契約を結び、残留した。大塚晶文 はメジャーリーグへのポスティングシステム による移籍を希望するが、入札球団が現れず、中日に金銭トレードされる。打撃陣では中村とローズが本塁打を量産したものの、規定打席到達で3割を超えた選手が一人もいなかった。
2003年
1月 に会社の商号を株式会社大阪バファローズ に変更。開幕5連勝と好調な滑り出しを見せ、首位ダイエーと1.5ゲーム差の2位で前半戦を終える。しかし、後半戦に入ると、大塚の移籍に伴う抑え投手の不在や4番中村の負傷・不振が響き、3位に後退、そのままシーズンを終える。シーズン終了後、長年主砲として活躍し、この年も本塁打王を獲得しているローズを年俸高騰から自由契約とする(巨人が獲得)。
2004年プロ野球再編問題
2004年 [58]
この年が近鉄球団として最後の年となった。
1月31日、ネーミングライツ の構想[注 32] を表明するも、巨人が猛反対したことで、他球団も多くがこれに追随し、結局失敗に終わる。6月13日 、日本経済新聞 が1面で「近畿日本鉄道がプロ野球球団『大阪近鉄バファローズ』をオリックス に譲渡する方向で交渉を進めている」というスクープ記事を掲載したことで、世間が大騒ぎとなる。のち球団側もこれを認め、オリックス・ブルーウェーブと球団合併する方向で準備を進めていることを発表する。6月30日 にライブドア が球団を買収する動きを見せたものの、近鉄は買収には応じず(ライブドアの動きについてはこちら も参照)[59] 、8月10日に合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日 のオーナー会議でこの合併が正式に認められた。9月18日から19日にかけて、この問題に反発するプロ野球選手会による日本プロ野球初となるストライキ が行われ、12球団全ての試合が中止となった[注 33] 。
オープン戦で吉岡雄二 がアキレス腱断裂で離脱。ローズに代わる主砲と期待されたラリー・バーンズ が開幕3戦目で離脱、同じくストッパーとして期待されたヘクター・カラスコ も、4月に4連敗で防御率20.00となり登録抹消。4月7日に4位となって以降このシーズンはAクラスになることはなく、4月は最下位で終える。岩隈久志 が開幕から球団記録となる12連勝もあり、一時は4位となるが、6月13日の球団合併発表の翌試合から4連敗するなど、5位となり、7月は4位で終わるものの、アテネオリンピック で岩隈、中村が抜けた8月7日から7連敗で、以降は5位となる。梨田は合併発表時の時点では「借金4で手ごたえはあった」としているが、7月7日のオーナー会議の時点では選手は放心し、最後は立ち上がれなかったとも述べている。9月24日 、大阪ドーム[注 1] での最終戦となる対西武戦が行われ、この年ここまで出場のなかった吉岡が代打で出場、この試合が引退登板となった赤堀元之や加藤伸一などが登板した。試合は延長11回裏、1死二塁で星野おさむ の右翼線へのサヨナラ安打で3対2で勝利、これが球団公式戦最後の勝利となった。9月27日 のYahoo! BBスタジアム の対オリックス戦が共に合併する球団同士の公式戦最終戦となったが、2対7で敗れた[61] 。チームは61勝70敗で4年ぶりのBクラスの5位で終え、消滅後の2007年 から始まったクライマックスシリーズ を含む13球団で唯一同年以降の現行のプレーオフシーズンに参戦せずに消滅した。岩隈は15勝を挙げ、最多勝 を獲得するなど計算できた投手陣に比べ、打撃陣はローズが抜けたことや吉岡などの故障もあり、前年より本塁打、得点が激減した。二軍は前期優勝で、9月30日 、藤井寺球場で最後の二軍公式戦、ウエスタンリーグ優勝決定戦が行われたが、後期優勝の中日に敗れている。
11月8日、オリックスと楽天 の間で選手分配ドラフト が行われ、近鉄の選手はオリックスと楽天に振り分けられることになった。大村直之 がソフトバンクにFA移籍。中村紀洋がポスティングシステム でロサンゼルス・ドジャースに移籍。
以上の合併への動きは選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、球団合併反対運動では選手も署名活動に参加するなど、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。そして、11月30日をもってプロ野球チームとしての大阪近鉄バファローズは55年の歴史に幕を降ろした[62] 。
2005年以降
2005年 1月15日に御堂筋グランドビル7階に置いていた株式会社大阪バファローズ事務所を閉鎖。1月17日、同ビル15階に事務所移転し、中村紀洋のポスティング申請など、残務処理を引き続き行う。3月31日、この日をもって株式会社大阪バファローズは解散となる。6月20日 付で清算結了となり、法人格が消滅した。なお、近鉄はこの後、球団合併後の暫定処置として2007年までオリックス球団の株式を20%保有し、ユニフォーム左袖部分に「近鉄」のロゴを入れたが、同年シーズン終了と同時に完全撤退した。ただ、球団経営から撤退後も、「近鉄沿線デー」と銘打って優待企画を実施するなどしているほか、オリックスが優勝時には近鉄百貨店 で優勝セールを実施するなど、間接的に関わりは持ち続けている。
2013年 から2015年 と2017年 から2019年 にかけてオリックスがOSAKAクラシック と銘打って、昭和時代に同じく大阪の球団であったソフトバンクとの復刻ユニフォームでの試合を行い、近鉄各時代のユニフォームを使用した[注 34] 。
2022年 10月30日にオリックスが日本シリーズ第7戦でヤクルトを4勝2敗1分で下したことにより、前身球団こそ異なるものの、球団愛称「バファローズ」としては6度目の正直で悲願の日本一を達成した。この日本一で球団唯一の永久欠番 の選手だった鈴木啓は多くの祝電をもらったという[64] 。バファローズの日本一により、日本プロ野球全12球団が前身を含め、現在の球団愛称になってから年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になった[注 35] 。これは、横浜DeNAベイスターズ の前身「横浜大洋ホエールズ」が「横浜ベイスターズ」に変更された1993年から数えて29年目のことだった[65] 。
1950年から2004年までの順位のグラフ 「大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の年度別成績一覧 」も参照
初試合 1950年 3月12日・藤井寺球場(対毎日、2-6)
初勝利 1950年 3月13日・藤井寺球場(対南海、4-3)
リーグ優勝 4回
(1979年 - 1980年、1989年、2001年)
日本一 0回
前期優勝 1回
後期優勝 1回
Aクラス 22回
(1954年、1969年 - 1972年、1975年、1978年 - 1980年、1982年、1985年 - 1986年、1988年 - 1992年、1994年、1997年、2001年 - 2003年)
Bクラス 33回
(1950年 - 1953年、1955年 - 1968年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年、1981年、1983年 - 1984年、1987年、1993年、1995年 - 1996年、1998年 - 2000年、2004年)
最下位 19回
(1950年 - 1953年、1958年 - 1962年、1964年 - 1967年、1973年、1981年、1987年、1995年、1999年 - 2000年)
連続Aクラス入り最長記録 5年(1988年 - 1992年)
連続Bクラス最長記録 14年(1955年 - 1968年)
シーズン最多勝利 78(2001年)
シーズン最少敗戦 45(1979年)
シーズン最高勝率 .622(1979年)
シーズン最少勝利 29(1958年)
シーズン最多敗戦 103(1961年)※プロ野球記録、2024年シーズン終了時点で唯一シーズン100敗を記録
シーズン最低勝率 .238(1958年、当時は引き分けを0.5勝0.5敗で計算していたため、現在の勝率に換算すると.230)
シーズン最高打率 .290(1980年)
シーズン最多得点 791(1980年)
シーズン最多安打 1332(2001年)
シーズン最多二塁打 249(2002年)
シーズン最多三塁打 40(1953年、1954年)
シーズン最多本塁打 239(1980年)※当時日本新記録。現在はパ・リーグ記録
シーズン最多四球 581(2001年)※日本記録)
シーズン最多四死球 644(2001年)※日本記録
シーズン最多盗塁 223(1954年)
シーズン最多犠飛 52(1978年)※日本記録
シーズン最高防御率 2.66(1954年)
シーズン最低防御率 5.10(1985年)
シーズン本塁打数200本以上3回(1980年、1985年、2001年)※日本記録
最大連勝 13(1994年 7月26日・対ロッテ - 8月10日・対ロッテ)
最大連敗 13(1952年 5月25日・対毎日第1試合 - 6月15日・対西鉄第1試合)
1試合最多得点 21(1980年6月30日・対ロッテ第1試合、2000年9月5日・対オリックス)
1試合最多失点 25(1985年9月18日・対南海)
1試合最多安打 26(2003年8月18日・対日本ハム)
1試合最多二塁打 8(1963年6月19日・対東映、1963年10月3日・対阪急)
1試合最多三塁打 3(1984年5月24日・対南海 他4度)
1試合最多本塁打 8(2003年7月12日・対日本ハム)
1試合最多犠打 7(1987年・対南海)※日本記録
1試合最多盗塁 9(1954年7月27日・対毎日)
1950年 - 1989年 佐伯勇 [68]
1989年 - 1998年 上山善紀 (1981年より1989年までオーナー代行)
1998年 - 2002年 金森茂一郎
2002年 - 2004年 田代和
歴代監督名は「球団名変遷と年度別成績」の項目を参照。
なお、この他地方開催扱いとなるが、近鉄沿線への配慮から、以下のスタジアムも準本拠として公式戦を行った。
名古屋地区 ナゴヤ球場 [注 38] ( - 1996年)、長良川球場 (1991年 - 1996年)、ナゴヤドーム (1997年 - 1999年)で3 - 10試合程度。オープン戦では本来本拠地とする中日とのビジターゲームもあった。
京都地区 西京極球場 (1965年 - 1973年:1968年は非開催)で5 - 10試合程度。これとは別に同様に準本拠地としていた阪急主催での対近鉄戦もあった。
また、1989年と1990年は大阪球場で10試合前後の主催試合を行った。
本拠地についての備考
日生球場・大阪球場
日生球場は収容人員が日本野球機構 主催によるオールスター や日本シリーズを開催する時の最低下限である3万人よりも少なかったので、近鉄主管で行われる場合(1979年、1980年のプレーオフ も)大阪球場を使った他、オールスターについては近鉄が主管となる順番となった回は南海ホークス に開催権を譲渡していた。ただし、1975年のプレーオフは藤井寺で開催しており、仮に日本シリーズ出場が決まった場合も藤井寺を使う予定だった。なお、ナイトゲーム主催のために近鉄は日生球場にナイター設備(1958年)や観客席増設(1962年)の工事を負担している。
藤井寺球場
形式上は藤井寺、大阪球場(1957年まで)→日生(1958年以後)のダブルフランチャイズだったが(専用球場 の届出もこの2カ所で登録された)、1983年までは日生をメインに日曜・祝日などのデーゲーム時に藤井寺を使用。1984年以後は藤井寺をメインに年10 - 20試合程度を日生で開催した。1997年にメインを大阪ドーム[注 1] に移した後も1999年までは藤井寺とのダブルフランチャイズで登録された。
球団創立(1950年)時点での藤井寺球場の所在地は「南河内郡 藤井寺町 」であり、NPBでは唯一「市」ではなく「町」に本拠地を置いていたことがある球団であった[注 39] 。
野茂英雄 がパシフィック・リーグ 初の沢村栄治賞 受賞を達成。1990年 に沢村賞を受賞した野茂より前の時代だと、鈴木啓示 が投手三冠王 を達成するなど活躍をしたが、当時、パ・リーグは沢村賞の選考対象外だった為、鈴木は受賞出来なかった[70] 。
放映権に関しては、朝日放送(現:朝日放送テレビ及び朝日放送ラジオ)に優先権があるなど、阪神タイガース とほぼ同じである。