間柴茂有

日本のプロ野球選手、コーチ (1951-) ウィキペディアから

間柴 茂有(ましば しげくに、1951年11月15日 - )は滋賀県大津市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ。旧名は富裕(とみひろ)。愛称は「ケロヨン」。

概要 基本情報, 国籍 ...
間柴 茂有
基本情報
国籍 日本
出身地 滋賀県大津市
生年月日 (1951-11-15) 1951年11月15日(73歳)
身長
体重
177 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1969年 ドラフト2位
初出場 1970年4月22日
最終出場 1990年5月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 福岡ダイエーホークス (1990 - 1994)
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日本ハムに在籍していた1981年に、プロ野球史上3人目となるシーズン無敗を記録した[1]

1981年の15連勝という記録を持つ一方で、1975年から1977年には13連敗をしている。

経歴

要約
視点

プロ入りまで

日下部明男監督に勧誘されて入学した比叡山高校では2年次の1968年からエースとなり、夏の甲子園県予選準決勝に進むが、長浜北高に逆転負け。同年の秋季近畿大会に進出し、準々決勝で三田学園に惜敗するが、1969年春の選抜への同校初出場を決めた。3年次の同年に出場した選抜では2回戦(初戦)で鍛治舎巧のいた岐阜商に敗退[2]するが、春季近畿大会では1回戦で桜宮高を相手にノーヒットノーランを記録。続く夏の甲子園県予選を勝ち抜いて京滋大会決勝に進出するが、渋谷通らを擁する平安高に延長11回の熱戦の末に敗れ、甲子園出場を逸する。

現役時代

大洋時代

同年のドラフト2位で大洋ホエールズに入団。

1年目の1970年4月22日阪神戦(甲子園)で初登板を果たすが、3年目の1972年は阪神戦3敗を含む6連敗と散々な内容であった。

1973年のオフには整理対象選手となったが、1974年に奮起し、5月4日中日戦(宮城)で初勝利を挙げるなど5勝を記録。

1975年には4月9日の阪神戦(川崎)で江夏豊と投げ合って完封勝利で1勝目を挙げると、同13日ヤクルト戦(川崎)は完投で2勝目、23日広島戦(広島市民)では再び完封勝利で3勝目、29日巨人戦(川崎)では坂井勝二をリリーフし、5月3日のヤクルト戦(藤崎台)では1安打完封で開幕5連勝を決める。5月7日の広島戦(川崎)では自らのバットで若生智男からサヨナラ犠飛を放ち、リーグ最多の3完封を含む開幕6連勝を飾るが、この試合を最後に勝ち星から遠ざかる。その後は7連敗を喫して夏場に二軍へ降格し、イースタン・リーグでは防御率0.69で最優秀防御率を獲得。

1976年は4連敗と再びシーズン0勝に終わるが、1977年4月17日の中日戦(千葉天台)で奥江英幸をロングリリーフすると、田代富雄大石弥太郎から2本塁打を放つなど打線が逆転し、3年越しの連敗を13でストップさせた。

日本ハム時代

1978年野村収との交換トレードで杉山知隆と共に日本ハムファイターズへ移籍。

1980年には植村義信コーチの指導でフォークを習得し、初の2桁となる10勝を挙げてオールスターゲームにも出場。

1981年は、開幕から先発でKOを食らう試合が計6試合あったが全て打線の援護で負けを免れ[3]5月終了時点で防御率6.32ながら4勝0敗であった。9月1日近鉄戦(後楽園)でパ・リーグタイ記録の12連勝[4]7日南海戦(後楽園)で日本プロ野球タイ記録の13連勝[4]13日阪急戦(西宮)で当時の日本プロ野球新記録の開幕から14連勝を達成[4]9月18日西武戦(後楽園)で15連勝で[4][5]、このシーズン15勝0敗で戦後初の「勝率10割」を達成し、最高勝率のタイトルを獲得。同月の月間MVPも受賞し、ロッテとのプレーオフでは10月11日の第3戦(後楽園)で完投勝利を挙げて優秀選手賞を受賞。同年の巨人との日本シリーズでも2試合に先発し、同18日の第2戦は西本聖と投げ合うが8回に逆転され惜敗、25日の最終第6戦は早々に打ち込まれ、いずれも敗戦投手となった。

1983年にも10勝を記録し、3年ぶりのオールスター出場も果たすなど、その後も主力投手として活躍する。

ダイエー時代

1989年には福岡ダイエーホークスに移籍し、1990年5月9日の近鉄戦(北九州)で500試合登板を達成すると、シーズン途中で現役を引退。

現役引退後

引退した1990年のシーズン途中よりダイエーの投手コーチ補佐に就任[6]1994年までダイエーの二軍投手コーチを務めた。

1995年にフロント入り。

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1970 大洋 22300001----.00012628.22331912241018154.661.47
1971 2000000--------122.141100300229.002.14
1972 23500006----.00016540.23311602250023224.831.20
1973 2000000--------112.041100000314.502.50
1974 469300540--.55640295.176104238611035333.131.24
1975 4417530670--.462611137.1142137034760067644.201.54
1976 157000040--.00016536.04052303141030276.751.75
1977 3514000250--.28636985.185204124583153474.981.48
1978 日本ハム 37249227110--.389723170.2176851210771077703.681.33
1979 3520211340--.429504116.0138122821430059554.271.43
1980 38235001070--.588797188.1188235655761088803.831.30
1981 27219211500--1.000639150.2157134425714062583.461.33
1982 25175005101--.333508116.0134144112472073675.201.51
1983 17157111050--.667492116.2119112705421049352.701.25
1984 36193105110--.313636147.0156264254471084764.651.35
1985 214101310--.75017340.2445801190019163.541.28
1986 2610100541--.55634781.090112004530043424.671.36
1987 162110310--.75018547.23721210230016163.021.03
1988 141000010--.0007816.0244112151014147.882.19
1989 ダイエー 153000210--.66715333.2455821211019164.281.57
1990 41000000------315.01214005007610.803.20
通算:21年 5002155111681832--.49471271657.0172718956531627901818417624.141.38
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  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル

表彰

記録

初記録
  • 初登板:1970年4月22日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に4番手で救援登板・完了、2回1失点
  • 初奪三振:同上、7回裏に藤田平から
  • 初先発:1970年5月27日、対阪神タイガース7回戦(川崎球場)、2回2/3を1失点
  • 初勝利:1974年5月4日、対中日ドラゴンズ2回戦(宮城球場)、3回表に2番手で救援登板・完了、7回3失点
  • 初先発勝利・初完投勝利:1974年9月14日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1975年4月9日、対阪神タイガース1回戦(川崎球場)
  • 初セーブ:1982年8月7日、対ロッテオリオンズ後期4回戦(宮城球場)、6回裏1死に2番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点
節目の記録
その他の記録
  • 勝率10割(プロ野球記録・1981年) ※史上3人目、2リーグ制以後かつ戦後初
  • オールスターゲーム出場:2回(1980年、1983年)

背番号

  • 48(1970年 - 1972年)
  • 38(1973年 - 1974年)
  • 15(1975年 - 1977年)
  • 19(1978年 - 1988年)
  • 25(1989年 - 1990年途中)
  • 79(1990年途中 - 1994年)
    • シーズン途中の引退・コーチ就任に伴う変更。同時期に濱中英次投手が54番から25番に変更した。

登録名

  • 間柴 富裕(ましば とみひろ、1970年 - 1976年)
  • 間柴 茂有(ましば しげくに、1977年 - 1990年)

脚注

関連項目

外部リンク

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