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日本のプロ野球チーム ウィキペディアから
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エーベイスターズ、英: Yokohama DeNA BayStars[注釈 1])は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「ベイスターズ」「DeNA」。
横浜DeNAベイスターズ | |
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Yokohama DeNA BayStars | |
会社名 | 株式会社横浜DeNAベイスターズ |
創設 | 1949年11月22日 |
今シーズン | |
2024年の横浜DeNAベイスターズ | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
セントラル・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
横浜スタジアム(神奈川県横浜市中区) | |
収容人員 | 34,046 人(横浜スタジアム) |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
日本一(3回) | |
リーグ優勝(2回) | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(4回) (太字は勝利した年) | |
3勝1敗 | |
クライマックスシリーズ出場(6回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
2勝4敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 南場智子(ディー・エヌ・エー代表取締役会長) |
運営母体 | ディー・エヌ・エー(DeNA) |
球団社長 | 木村洋太 |
監督 | 三浦大輔 |
選手会長 | 大貫晋一 |
キャプテン | 牧秀悟 |
横浜DeNAベイスターズ | ||||||||
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YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2013年10月11日 - | |||||||
ジャンル | 野球 | |||||||
登録者数 | 約37.1万人 | |||||||
総再生回数 | 約2億4626万回 | |||||||
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チャンネル登録者数・総再生回数は 2024年11月4日時点。 |
神奈川県を保護地域としており、横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍[注釈 2](イースタン・リーグ所属)の本拠地は横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。
1950年のリーグ分裂時に大洋ホエールズとして発足し、松竹ロビンスの合併などを経て、1955年から一貫して神奈川県内に本拠地を置き、親会社の変更などにより球団名が大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズと変わったのち2012年よりディー・エヌ・エー(DeNA)を親会社とする現球団名となり、現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒231-0015 神奈川県横浜市中区尾上町一丁目8番 関内新井ビル7階 |
設立 |
1953年12月16日 (株式会社大洋松竹球団) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 1020001029572 |
事業内容 | プロ野球興行事業など |
代表者 |
南場智子(取締役オーナー) 岡村信悟(代表取締役社長) |
資本金 | 1億円(2015年12月31日現在)[1] |
発行済株式総数 | 130万株(2011年12月31日現在) |
純利益 |
12億2100万円 (2023年12月期)[2] |
純資産 |
79億1800万円 (2023年12月期)[2] |
総資産 |
167億9100万円 (2023年12月期)[2] |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 |
ディー・エヌ・エー 97.69%[3] (2015年11月現在) |
主要子会社 | 株式会社横浜スタジアム |
外部リンク | https://www.baystars.co.jp/ |
特記事項:1954年12月11日に株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団へ、1993年4月に株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ、2011年12月2日に株式会社横浜ベイスターズから株式会社横浜DeNAベイスターズへ商号変更。 |
林兼商店(後の大洋漁業→マルハ、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に山口県下関市で創立[4]され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では初挑戦ながら、全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた[5]。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活。同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し、一躍名を上げる[5]。
1949年オフにプロ野球がリーグ拡張方針を打ち出すと、各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部から戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出すこととなった。
1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている[6]。
社会人野球としての大洋漁業野球部はまるは球団創立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた[5]。
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博ら、阪急ブレーブスから宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
特に、1950年は超長期遠征を強いられる状態となり、6月21日の兼六園球場を皮切りに、8月27日の後楽園スタヂアムに至るまでの延べ69泊70日・17会場で36試合を、北は旭川市から西は本拠地に近い徳山市まで、下関以外で消化するという異例の日程が組まれていた[7]。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって、広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他の主催試合は徳山市営毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合(うち山口県内では3球場で23試合)の主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は浜田市設、旧松江市営、岡山県営球場、甲子園球場、川崎球場、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場、函館千代ヶ岱球場で開催された[8]。
1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[注釈 3]の該当球団となった松竹ロビンス[注釈 4]と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。
1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも、運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は、名目上は下関市営球場と衣笠球場を並列で本拠地登記したものの、実際には興行面の利点から大阪球場で行われた。なお衣笠球場は木造スタンドだったため、1951年の中日スタヂアム全焼火災事故発生をきっかけに防災上の観点から所有者の立命館大学が使用禁止令を出したことから、合併後は行われていない[9]。
1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。
大洋漁業と松竹以外の資本構成が複雑だったことから、新聞・雑誌によって「大洋」「松竹」「洋松」と呼称が一定していなかった。また、1953年2月8日の京都新聞は、この前日に新大阪ホテルで開催した大洋漁業と松竹の合同会見について「今回の合併は全面的な松竹の敗北であり、プロ球界の惑星と呼ばれた田村駒治郎(松竹球団オーナー)の発言力も、ロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎない」と、事実上大洋が主導権を握った合併であるように受け止められている[9]。
ロビンス時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し[注釈 5]、1955年のシーズン開幕直前となる2月15日、保護地域を神奈川県横浜市にあった横浜公園平和野球場(後の横浜スタジアム)へ移転した[10]。当初は東京移転を計画しており、東京都に本拠地を置く読売ジャイアンツ(巨人)からは了承を得たが、同じく東京を本拠地としていた国鉄が反対したため、本拠地を平和球場に移転した[10]。しかし、同球場もスタンドが狭いなど、プロ野球チームが常時使用するには適さない球場だったため、大洋球団は「横浜は神奈川県内」「県内ならプロ野球をすでに開催している川崎球場に」と本拠地を拡大解釈し、同じ神奈川県内にある川崎球場(川崎市川崎区)への移転を決定[10]。当時既に川崎球場を本拠地としていたトンボユニオンズ(パシフィック・リーグ)はこれに反発したが、当時の川崎市長・金刺不二太郎が「セ・パの球団が市民に野球の神髄を披露してくれれば」と仲介し、川崎移転が決定した[10]。しかし、このように急な拡大解釈で本拠地移転問題を解決したため、球団がNPBに届け出た書類では本拠地は横浜、開催球場は川崎とされており、これが後の横浜移転時に横浜市と川崎市が対立する原因となる[10]。球団事務所は川崎市中原区に設置された。
川崎球場を本拠地とする新生・大洋ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗の最下位。首位・巨人とのゲーム差はNPB史上最大記録となる61.5ゲーム差まで開き、5位・国鉄にも27ゲームの大差をつけられてシーズンを終えた[11][12]。
1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。
ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年権藤正利、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録)。
前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも大毎オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた[13]。なお、大洋は1978年から球団名を横浜大洋ホエールズ、1993年から球団名を横浜ベイスターズに変更し、1978年から本拠地を横浜スタジアムに移転するため、大洋ホエールズおよび川崎時代としてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一、川崎球場での日本シリーズはこの年が最初で最後となった。
この日本一により、大洋は「球団数が12球団になってから初代セ・リーグ日本一球団」となった[14][15][16]が、それと同時にこの年から1998年にかけて38年間、リーグ優勝・日本シリーズ・日本一から遠ざかることになる。
開幕4連勝こそしたが、その後失速。昨年のリーグ優勝・日本一球団がわずか1年でリーグ最下位となった。
1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うも、あと一歩及ばず、1963年は最下位・広島と1ゲーム差の5位。
1965年以降、チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず、関係していた。
開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが、7月頃から徐々に低迷し、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれ、前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。
チームは3年連続5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。
4年連続5位。
15年ぶりの最下位。川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は横浜での新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は大洋漁業55%、国土計画45%となった。
2年連続最下位。オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎が継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても、山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。
国土計画の主導で神奈川県横浜市中区[注釈 6]の横浜公園内に建設した横浜スタジアムに移転[注釈 7][注釈 8]。川崎球場は当時、大洋の長期低迷から集客も低迷しており、その打開策を考えていた中で横浜スタジアム建設構想が持ち上がったのである[19]。大洋球団は前述のように川崎移転時、当初の本拠地は横浜として届け出ており[10]、同球団にとってはプロ野球開催に適した野球場が横浜に完成した暁には名実ともに横浜へ移転することはいわば既定事項であった[19]。一方で横浜移転問題が浮上した1977年、これに反発した川崎市民は移転反対運動を展開し、市長の伊藤三郎を代表とした「大洋球団横浜誘致に反対する川崎市民総連合」が結成され、市民54万人分の署名が横浜市、横浜スタジアム、大洋球団へと届けられたが、横浜市側も飛鳥田一雄新市長の下で熱心に大洋を誘致、最終的に大洋は同年7月、正式に横浜移転を川崎市へ通告した[19]。一方で主を失うこととなった川崎市側は神奈川県への進出を目指していたロッテオリオンズの誘致に乗り出し、移転先の第一候補を横浜としていたロッテも最終的には第二候補であった川崎への移転を決める[19]。神奈川県内で大洋以外のNPB球団が主催試合を開催する場合、同県を保護区域としている大洋の許可を得る必要があったが、大洋は横浜移転にあたり、他球団が川崎球場での試合開催を希望した場合は前向きに推進するとの譲歩案を示したため、ロッテの川崎移転への障害はなくなり、川崎からプロ野球の灯を消すまいと新たな市民球団としてロッテの誘致を進めていた川崎市側と新球場への移転を目指していたロッテ球団側の利害が一致、ロッテは川崎球場に移転することとなった[19]。
横浜移転と同時に球団名も都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)に変更。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[注釈 9]など、営業体制の改革を伴った改変により、ファンが増加した。国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(現・TBSホールディングス)に2:1の割合で売却された。これにより、2002年初めまで球団株式保有率は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)55%、ニッポン放送30%、TBS(現・TBSホールディングス)15%となった。しかし、この15年間で1度もリーグ優勝はなかった。
序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、1971年以来7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している[注釈 10]。
1971年以来8年ぶりのAクラスと2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。
土井淳が監督に就任。初年度は4位。ドラフトでは地元東海大学の原辰徳を1位指名したが、交渉権を獲得できなかった。
キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に山下大輔が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。
長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。オフに長嶋は一時は就任に前向きな態度を見せるも、最終的には「もう少し野球を勉強してから」と固辞。関根は長嶋の就任が決まれば勇退することを決めていたが、長嶋の就任辞退により、続投。
4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。
最下位に転落。この年限りで平松政次が引退。同年限りで関根は辞任。
近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し、注目された。しかし、遠藤一彦、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は4位と振るわなかった。
年明けにレオン・リーを解雇し、カルロス・ポンセ、ダグ・ローマンを獲得。投手陣はストライクゾーンの改正もあり開幕戦から阪神に3連勝するなど、勢いがあったものの、加藤博一、田代富雄ら主力が離脱すると、選手層の薄さを露呈し[21]、4位に終わり、近藤貞雄は2年で監督を退任。屋鋪要はこの年から3年連続盗塁王。
広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎え、広島時代のコーチやスカウトで首脳陣を固めた。他球団からもベテランの永射保、片平晋作らを獲得して積極的に起用した。また、韓国球界から復帰した新浦壽夫は11勝でカムバック賞。しかし、6月18日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に高木由一が現役を引退した。また、遠藤は10月の巨人戦で走塁中にアキレス腱断裂の負傷。打撃陣は開幕直前にメジャーで実績のあるレスカーノを前年に実績をあげたローマンを解雇してまで獲得したが、すぐに引退してしまう。外野転向のポンセは4番に定着して35本塁打、高橋雅裕は遊撃手のレギュラーとなる。5位に終わる。将来的に長嶋茂雄の監督招聘を見据え、ドラフト会議で長嶋一茂を1位指名するが、競合の末にヤクルトが指名権を獲得したため、長嶋招聘の話は無くなった。
出場機会が減っていた山下大輔が開幕直前に引退。新加入のジム・パチョレックは高木とともに3割を打って、ポンセも本塁打王、打点王の2冠。投手では中山裕章が抑えに定着し、捕手は市川和正が抜擢された。最終成績は4位。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、大洋は当時の12球団の中で「昭和時代に1度もリーグ優勝・日本一をどちらも本拠地で飾れなかった唯一の球団」となった[注釈 11]。
開幕から振るわず、屋鋪は不調でスタメン落ちすると、山崎賢一が台頭して規定打席に届かずも3割を打ってシーズン終盤には4番まで任された。パチョレックは.333の好成績を収めるが、ポンセは前年から成績を落とす。投手陣はベテランに衰えが見え始めて軸ができなかった。古葉は1984年以来5年ぶりの最下位の責任を取り、5年契約ながら3年目で監督を辞任した。このことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている[22]。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえるが、古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では高田繁の名前が挙がったものの、大洋で2年間二軍監督に経験のある須藤豊が監督に就任し、投手コーチには小谷正勝が3年ぶりに復活した[23]。
序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せ、その後失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。巨人の二軍監督で実績を残した須藤監督は若手を積極起用した。また、パワーのあるジョーイ・マイヤーを獲得し、ポンセは主にファームで終わり、退団した。パチョレックは高木豊と首位打者を争って3年目にして念願の獲得。中山裕章は先発転向し、遠藤は抑えに回ると、21セーブでカムバック賞。加藤博一が現役を引退した。
阪神以外のセ・リーグ5球団の首位争いの中、4月は首位に立つも、その後失速し、5月以降は5位に転落。野村弘樹は15勝を挙げる。パチョレックは4年連続の3割を打つも、本塁打の少なさから解雇された(阪神に移籍)。10月10日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に田代富雄が現役を引退した。オフの12月25日に前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして、神奈川県警察(捜査一課・金沢警察署)に強制わいせつ・公然わいせつ容疑で逮捕され[25]、年明け後の翌1992年1月7日に球団を解雇された[26]。また、この事件に伴い、川島廣守セ・リーグ会長はNPB12球団に対し、「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが[27]、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日で球界復帰を果たした[28]。
前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し、5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督に昇格し、閉幕まで采配を振る。本人の希望で野手転向した石井琢朗がレギュラーを取る。盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立され、チームも復調し、混戦だったリーグ戦で1985年以来7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが、5位に終わり、江尻の来シーズンの契約更新はなかった。10月7日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に遠藤一彦が現役を引退した。また、新入団のラリー・シーツは打点王を獲得したが、退団した。
1993年4月1日、親会社の大洋漁業がCI実施により、マルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し、「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取ったベイスターズとなった。
球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。
選手育成に定評があった球団OBの近藤昭仁が監督に就任[29]。近藤昭仁と西武時代が一緒だった長池徳士がヘッド兼打撃コーチ[30]、近藤昭仁の早稲田大学の後輩高橋直樹が投手コーチ、近藤昭仁と同じく球団OBの山下大輔が内野守備コーチ[31]、後に監督に昇格する大矢明彦がバッテリーコーチに就任。新外国人選手としてグレン・ブラッグス、ロバート・ローズを獲得[29]。15試合を消化した時点で2勝13敗とつまづいた[29]。それでも徐々に巻き返し、7月13日のヤクルト戦に勝利した時点で36勝34敗の2位[29]。しかし、その後はブラックスが故障で離脱する不運もあり、翌日から10連敗を喫し、浮上することなくベイスターズ初年度は5位に終わるが[29]、巨人には1985年以来8年ぶりに勝ち越した。ブラッグスは29試合連続安打の外国人選手記録を塗り替えるも、後半は故障、ローズは打点王を獲得。また、石井は盗塁王。投手では野村が17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得[29]。石井、進藤達哉が初の規定打席到達[29]。10月22日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に斉藤明夫が現役を引退した。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に近藤を師と慕う巨人の駒田徳広を獲得[29]。長年チームを支えた高木豊、屋鋪要、山崎賢一、大門和彦が自由契約となり(高木は日本ハム、屋鋪は巨人、山崎はダイエー、大門は阪神に移籍)、市川和正と松本豊が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
怪我から復活したブラックスが35本塁打を放ち、駒田は攻守で期待に応え、ローズも安定した成績を残すなど、6月下旬までは勝率5割近辺の戦いぶりを見せるが、前年同様シーズン途中でチームは失速。9月にやや復調し、勝率自体は前年を上回ったが[29]、結果的に1989年以来5年ぶりの最下位に終わるも[29]、優勝した巨人に唯一勝ち越した。前半戦を離脱していた守護神・佐々木主浩の穴を16セーブを挙げた盛田幸希の活躍が光った[29]。
近藤昭仁の早稲田大学の後輩八木沢荘六が投手コーチに就任[32]。8月下旬まで巨人と3位争うも、直接対決で大きく負け越したことが響き、結果的に4位に終わるも[29]、1990年以来5年ぶりに中日に勝ち越し、1979年以来16年ぶりの勝率5割以上を果たす[29]。確かなチーム力の向上が見られた[29]。佐々木は32セーブを挙げて完全復活(最優秀救援投手賞)、リーグ最多の57試合に投げた盛田とダブルストッパーの必勝パターンを形成した[29]。三浦大輔が初めて規定投球回を投げ8勝、2年目の波留がレギュラーに定着して打率.310を記録、石井も自身初の3割を達成[29]。鈴木尚典は規定打席にわずかに届かなかったものの、打率.283、14本塁打と活躍を見せた[29]。若手が成長し、手応えを感じていた近藤だったが、オフに志半ばで解任された[29]。
バッテリーコーチの大矢明彦が監督に昇格。盛田を先発、五十嵐をセットアッパー、内野手の石井を三塁から遊撃、進藤を遊撃から二塁、ローズを二塁から三塁にコンバートするなど、大改革をする。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも、5月以降は失速し、セ・リーグ5球団に負け越し、5位に終わった。
後に監督に昇格する権藤博がバッテリーチーフコーチに就任。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績により、好調を優先した起用をし始めると、チームは浮上し、シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で石井一久の前にノーヒットノーランで敗れると、勢いも止まり、2位に終わったが、1990年以来7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に1992年以来5年ぶりに勝ち越したが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。オフに大矢は2年契約を終えて監督を辞任。
バッテリーチーフコーチの権藤博が監督に昇格。抑えの佐々木を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利したことで、阪神に1993年以来5年ぶりに勝ち越し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝[注釈 12]を果たした[注釈 13]。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが[33]、4勝2敗で1960年以来38年ぶりの日本一を前身を含め、初めて本拠地で飾った。なお、横浜は2012年から球団名を横浜DeNAベイスターズに変更するため、横浜ベイスターズとしてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一はこの年が最初で最後となった。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また、前年怪我のため、一軍登板がなかった斎藤隆が復活を果たし、カムバック賞を獲得。ドラフトではこの年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが、獲得できなかった。
この年から2017年にかけて19年間、日本シリーズ、2024年までに26年間、日本一から遠ざかることになる。
ローズが当時右打者シーズン最高の打率.369、153打点を記録し、二冠王に輝く活躍を見せるなど、マシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録[注釈 14]を更新する。しかし、投手陣は川村丈夫が17勝[注釈 15]を挙げるものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数が揃わず、3位に終わった。オフに佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。
この年よりファーム組織を湘南シーレックスに変更し、独立採算を目指した活動を開始する。ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず、2年連続3位に終わった。オフに権藤が監督を勇退。駒田が戦力外通告を受け、その後現役を引退し、ローズも退団した。進藤、戸叶尚、新井潔との3対3トレードで小川博文、杉本友、前田和之を獲得。
この年は20世紀最後のペナントレースだったので、横浜は当時の12球団の中で「20世紀に1度もリーグ優勝を本拠地で飾れなかった唯一の球団」となった。
西武を8度のリーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続Aクラスと3年連続3位に終わった(この年の順位に関しては後述)。オフにチーム最多勝投手の小宮山がメジャーリーグに挑戦するために退団した。正捕手の谷繁元信が監督の森との確執もあり[34]、中日にFA移籍。中日から金銭トレードで中村武志を獲得。監督の森祇晶の西武時代の教え子の森繁和を投手コーチ、辻発彦を内野守備走塁コーチに招聘した。
2001年11月15日のプロ野球実行委員会で球団株の53.8%を保有していた筆頭株主(親会社)のマルハ(現・マルハニチロ)が株を第二株主のニッポン放送に譲渡し、ニッポン放送の株保有比率を51%以上にすることで、ニッポン放送が新たな親会社になることが承認された[35]。しかし、翌16日、巨人オーナーの渡邉恒雄はニッポン放送がフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)の筆頭株主であり、フジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団の株を20%保有していることに言及した上で、その資本関係は野球協約第183条の「球団、球団の役職員および監督、コーチ、選手は直接間接を問わず他の球団の株式を所有することはできない」に違反するという見解を明かし、協約違反状態を解消するためにはフジサンケイグループがヤクルトの株を売却する必要があると指摘した[36]。これを受けて、NPBコミッショナーの川島廣守は11月29日に臨時の実行委員会を開き[37]、15日の承認を白紙に戻した[38]。このため、マルハ(現・マルハニチロ)は第三株主のTBS(現・TBSホールディングス)へ筆頭株主になることを要請し[39]、翌2002年1月22日のプロ野球実行委員会でマルハ(現・マルハニチロ)が保有している全球団株をTBS(現・TBSホールディングス)と関連会社のBS-i(現・BS-TBS)に売却することが承認され[40]、26日のプロ野球オーナー会議もこれを承認し[41]、31日に全株式70万株を3月28日付でTBS(現・TBSホールディングス)とBS-i(現・BS-TBS)に合計140億円で売却することを発表した[42]。株価は1株2万円(球団価値は総額260億円)とされ[43]、マルハ(現・マルハニチロ)は球団株売却に伴い、帳簿価格3億5000万円を差し引いた136億5000万円を譲渡益として計上した[42]。
2002年1月31日、当時のTBS(現・TBSホールディングス)社長砂原幸雄が球団オーナーに就任(詳細はマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代の節を参照)[注釈 16][44]。これに際し、1978年からニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。これを境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。
当時、電波メディアが球団を経営する事例は史上初で、電波メディアの参入によるプロ野球の活性化が期待されており[45]、当時の主将だった石井琢朗はTBS(現・TBSホールディングス)が親会社になったことで、球団がメディアで取り上げられる機会が増加することを期待する旨をコメントしていた[46]。また、球団買収が決まった直後、TBS(現・TBSホールディングス)は社内総務局に「横浜ベイスターズ応援室」を新設し、グループ企業であるTBSラジオ&コミュニケーションズ社内にも球団を応援する施策を研究することを目的に「プロジェクトY」を新設したほか[47]、開幕6連戦では「ボールパーク構想」として横浜スタジアムと同球場最寄り駅であるJR関内駅の間をベイスターズ一色で装飾したり、TBS(現・TBSホールディングス)本社に隣接する赤坂メディアビル内の「TBSストア」で球団グッズを販売したりなど、球団を応援するキャンペーンを展開していた[48]。しかし、それから2011年までの10年間で1度もリーグ優勝はなく、Aクラスは2005年の1シーズンのみに終わった一方、この間に8回のリーグ最下位を経験、TBS(現・TBSホールディングス)は2011年オフに球団運営から撤退した。
開幕から記録的な低迷が続き、球団ワーストタイ目前となる1986年以来16年ぶりの13連敗を喫するなど、全日程で1994年以来8年ぶりの最下位となり[注釈 17]、9月26日に監督の森祇晶がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされ、3年契約の2年目ながらこの年限りで事実上の解任となり、翌27日からヘッド兼打撃コーチの黒江透修が監督代行として指揮を執ることを発表した。オフに監督代行の黒江が退団した。この年での最終勝率は.363だった。NPB12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラゲームは0勝6敗となった。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは1978年の広島以来24年ぶり。チーム防御率は3.75から4.09、チーム失策も68から81に悪化した。チーム防御率・失点リーグ5位、チーム打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。西武から石井義人、細見和史との2対2トレードで中嶋聡、富岡久貴を獲得。2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。
この年から2015年にかけて14年間で10回のリーグ最下位を経験する暗黒時代を迎えることになる。
球団OBの山下大輔が監督に就任。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約でダイエーからFA宣言した若田部健一を獲得するなど、大型補強を試みる。だが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人のタイロン・ウッズや新人の村田修一、若手の多村仁ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど、大きく苦しみ、6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分と惨憺たる成績で、シーズン90敗到達はNPBでは1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。オフに投手コーチの森繁和が退任。日本ハムから横山道哉とのトレードで野中信吾を獲得。中村武志の復調や相川亮二の台頭で来季構想外となった中嶋聡が金銭トレードで日本ハムに移籍。佐々木主浩が年俸6億5,000万円の2年契約を結び、5年ぶりに復帰。
打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つも、その後投手陣の不振により、徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続ける中、最終戦に敗れ、広島と勝率0.001(1厘)差という僅差で1959年以来45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方、前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど、一定の成績は残した。オフに監督の山下、二軍打撃コーチの辻が退任。球団オーナーの砂原が一場靖弘への金銭授受の問題の責任をとって辞任し、後任にTBS(現・TBSホールディングス)副社長若林貴世志が球団オーナーに就任。
牛島和彦が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも、不調だった三浦をはじめ、投手陣が復活し、2001年以来4年ぶりの3位と暗黒時代で唯一のAクラス入りを果たした。また、巨人には東京ドームで同一カード3連勝を記録するなど、一度も負け越しがなく、16勝6敗と大きく勝ち越した。しかし、8月9日にフルキャストスタジアム宮城で行われた引退試合を最後に佐々木主浩が現役を引退した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど、新しいファンサービスを行った。オフに斎藤隆がロサンゼルス・ドジャースに移籍。
投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や吉村裕基ら若手野手の台頭があったものの、2004年以来2年ぶりの最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、9月3日にこの年限りで監督を退任。10月9日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に万永貴司が現役を引退した。この年チーム唯一の2桁勝利だが、年俸査定に不満を持った門倉健が巨人にFA移籍。巨人から小田嶋正邦+金銭とのトレードで仁志敏久、ソフトバンクから多村仁とのトレードで寺原隼人、巨人にFA移籍した門倉の人的保障として工藤公康を獲得。日本ハムを自由契約となった横山道哉が4年ぶりに復帰。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを、理事長を球団OBの平松政次として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。10月、「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。
大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。打撃コーチの田代富雄が湘南シーレックス監督に就任。前半戦は移籍組やベテラン勢の活躍で一時首位に立つなど、上位を猛追し、3位で折り返す。最終戦で敗れ、シーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年ぶりに70勝に到達し、村田が球団日本人選手としては桑田武以来48年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど、主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。オフにマーク・クルーンが自由契約となった(巨人に移籍)。オリックス・バファローズから古木克明とのトレードで大西宏明を獲得。
一方で当時、巨人戦のナイター中継の関東地区における視聴率は平均9.8%へと下落しており、TBSにとっては球団を保有するメリットが低下していたことから、TBS(現・TBSホールディングス)はこの頃から球団売却に向けた検討を始めており、翌2008年秋のリーマン・ショック後に広告収入が低迷したことなどもそれを後押しする結果となった[49]。
開幕投手最有力で阪神キラーの三浦大輔が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた。一方、スウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドームで行われた阪神との3連戦の1度だけで最大の連勝は3に留まった。
セ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、12球団で最少だった阪神(85被本塁打)の倍近くにあたる168本塁打を打たれ、いずれも12球団ワースト。与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりな一方で、6月10日に巨人から鶴岡一成とのトレードで真田裕貴、16日に中日から小池正晃とのトレードで石井裕也を獲得するなど、投手陣を補強したが、チーム防御率4.74(先発防御率が5.09と12球団ワースト、救援防御率が4.25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。在籍3年間で84セーブを挙げたクルーンが巨人に移籍したことで、27セーブと9回の失点は52はいずれもセ・リーグワーストを記録した上、先発投手が5回未満で降板した試合数53と先発投手が6回以上投げて自責点3以内に抑えた割合(QS%)の31.3%はいずれも12球団では群を抜くワーストだった。
この年に飛躍し、右打者シーズン最高打率を塗り替え、首位打者と最多安打を獲得した内川聖一、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村とリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べなかったため、チーム打率は.2655にもかかわらず、出塁率は.31552と12球団ワーストだった。加えて盗塁は37と4年連続でリーグワースト[注釈 18]を記録し、盗塁成功率も.552と67回の盗塁企図数と共に12球団では群を抜くワーストだった。
10月5日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に川村丈夫が現役を引退した。
投打ともにリーグまたは12球団のワースト記録を量産し、2006年以来2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。チームの勝率は.338と内川の打率(.378)よりも低く、「リーグ首位打者のシーズン打率が所属チームの勝率を上回る」という2リーグ分裂後ではプロ野球史上初となる珍事も発生する始末でオフにヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、投手コーチの斉藤明夫ら4コーチが解任。石井琢朗が自由契約となった(広島に移籍)。相川亮二がヤクルトにFA移籍。広島から金銭トレードで森笠繁、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得。入来祐作、鈴木尚典が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
ワールド・ベースボール・クラシックでの村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど、序盤から低迷し、5月18日に監督の大矢が無期限休養に入り、併せて湘南シーレックス監督の田代富雄が監督代行として指揮を執ることを発表した。一方、7月に新外国人としてスティーブン・ランドルフを獲得。しかし、チームを浮上させることなく、93敗を喫し、2年連続最下位に終わる。前年と同様、勝ち越しは1度もなく、無期限休養に入っていた監督の大矢が正式に退任、監督代行の田代富雄が退任と同時に湘南シーレックス監督に復帰、投手コーチの杉本正が1年で解任、チーム防御率・失点[50]・打率・得点[51]はリーグ最下位に終わった。
ドラフトでは筒香嘉智を単独で1位指名した。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った。
オフに仁志敏久が退団し(ランカスター・バーンストーマーズに移籍)、工藤公康が自由契約となり(西武に復帰)、横山道哉が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。ロッテから那須野巧、齋藤俊雄との2対1トレードで清水直行、元ロッテの杉原洋、日本ハムから加藤武治、松家卓弘、関口雄大との3対3トレードで稲田直人、坂元弥太郎、松山傑、ソフトバンクを自由契約となった篠原貴行、ロッテからFA宣言した橋本将、ロッテから金銭トレードで早川大輔、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジ、新外国人として王溢正、クリス・ブーチェック、ホセ・カスティーヨを獲得。
当初の構想では前年途中から抑えを務めた山口俊を先発に転向させ、抑えに起用する予定だったブーチェックがオープン戦で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、三浦大輔が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから、急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、最下位からの脱出は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。一方、4月1日に日本ハムから石井裕也とのトレードで江尻慎太郎を獲得。4月7日にキンタナロー・タイガースに入団していた大家友和が12年ぶりに復帰。4月20日にソフトバンクから吉川輝昭とのトレードで井手正太郎を獲得。しかし、5月9日に吉見祐治が金銭トレードでロッテに移籍。開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。また、6月に新外国人としてブレット・ハーパーを獲得。1度も浮上することなく、9月7日の対巨人戦、25日の対中日戦に敗れ、5年連続Bクラスと3年連続最下位が確定し、28日の対ヤクルト戦、10月6日の対阪神戦に敗れ、プロ野球史上初の3年連続90敗と130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。
8月にはオフをもって二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。
9月10日に佐伯貴弘が自由契約となった(中日に移籍)。10月2日に森笠繁、6日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に木塚敦志が現役を引退した。
9月30日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・LIXILグループ)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ[52]、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSホールディングスとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(TBSホールディングス副社長)が交渉に関し「大筋で合意しており、10月中に正式決定」とコメントしていた[53]が、実際の交渉は難航。結局、10月27日にTBSホールディングスが住生活グループとの交渉を打ち切り、来季も球団を保有することを発表するに至った[54]。交渉決裂の理由としてはTBSホールディングスおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている[55]ものの、翌28日に加地隆雄球団社長は秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにし[56]、潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった。」と理由を述べた[57]。
オフにヘッドコーチの島田誠が不振の責任を取って1年で辞任。ランドルフら外国人選手3人が退団した。オリックスから桑原謙太朗、野中信吾、高宮和也、寺原隼人との計4対3トレードで一輝、山本省吾、喜田剛、新外国人としてクレイトン・ハミルトン、ブランドン・マン、ブレント・リーチ、陳冠宇、東北楽天ゴールデンイーグルスから金銭トレードで渡辺直人、日本ハムからFA宣言した森本稀哲、西武から坂元弥太郎とのトレードで大沼幸二を獲得。内川聖一がソフトバンクにFA移籍。
3月11日、横浜スタジアムでヤクルトとのオープン戦を行っていた最中に東日本大震災が発生。球場全体が揺れて試合は打ち切りとなり、選手や観客がグラウンドに避難している[58]。また、4月1日にリーチがNPB史上初の制限選手となった。当初は3月25日に公式戦の開幕が予定されていたが、震災の影響で4月12日に延期された。2007年以来4年ぶりに本拠地での開幕となった中日との3連戦で2000年以来11年ぶりとなる開幕カード勝ち越しを決めた。一方、4月25日に前年オフに退団したランドルフを再獲得。しかし、5月以降は低迷状態に陥り、23日に新外国人としてルイス・ゴンザレス、元楽天の中村紀洋を獲得。交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わる[59]。また、6月28日にランドルフが解雇、ウェイバー公示され、7月8日にリーチを支配下選手に復帰させたが、またしても1度も連勝できないまま[60]オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す[61]。後半戦では7月29日に国吉佑樹を支配下選手に登録させたが、1度も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れ、6年連続Bクラスと4年連続最下位が確定した[62][63]。10月18日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に早川大輔が現役を引退した。最終的には47勝86敗11分で首位中日とは27.5ゲーム差、5位の広島とは11.5ゲーム差がついた[64]。チーム防御率は2005年以来6年ぶりの3点台だったものの、2年連続最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷し[65]、個人タイトル・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・月間MVPが2年連続で0件に終わった。
10月19日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半をディー・エヌ・エー(DeNA)に譲渡することで、大筋合意がなされたことが報道[66]され、22日の最終戦終了後、監督の尾花、総合コーチの岡本哲司、投手コーチの吉田篤史、バッテリーコーチの福澤洋一、ブルペンコーチの芦沢真矢、外野守備走塁コーチの米村理、巡回打撃コーチの杉村繁が休養に入り[67]、11月4日、TBSホールディングスが所有する株式の一部(TBSホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)およびBS-TBSの保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で(NPB実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として)ディー・エヌ・エー(DeNA)に譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)[68]。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてディー・エヌ・エー(DeNA)による横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認され[69]、翌2日には株譲渡が完了した[70]。前述のようにTBSホールディングスは140億円で球団株70万株を買収した一方、売却額は65億円と買収当時の額を大幅に下回った[71]。しかし、球団を保有していた間、球団の収益低下を反映させて株の簿価を下げていたため、TBSホールディングスの2011年4月 - 12月期連結決算には約59億円の特別利益が計上された[70]。
オフに監督の尾花、総合コーチの岡本哲司、投手コーチの吉田篤史、バッテリーコーチの福澤洋一、ブルペンコーチの芦沢真矢、外野守備走塁コーチの米村理、巡回打撃コーチの杉村繁が解任[72]。ゴンザレスが解雇され、大家友和、杉原洋、稲田直人、松山傑、リーチら外国人選手3人が自由契約となった。西武から武山真吾とのトレードで後藤武敏を獲得。喜田剛、桑原義行が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
この年までに入団した現役選手は筒香嘉智(DeNA)、田中健二朗(くふうハヤテ)、国吉佑樹(ロッテ)の3人。筒香はMLBを経て復帰したのに対して、田中健と国吉は他球団に移籍しているため、横浜ベイスターズ時代からの現役生え抜き選手は1人もいない。
2011年12月2日、球団株式が譲渡され、商号変更により、「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航。当初は新庄剛志や工藤公康らの名が候補に挙がり、最終的には横浜OBでもある工藤公康が候補とされたが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督などの人事を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べ、6日に当初からの候補であった中畑清の名前が挙がり、9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表された[73]。
戦力面では村田修一が巨人にFA移籍。真田裕貴が自由契約となった(巨人に移籍)。巨人を退団したアレックス・ラミレス、他球団からFAで4年ぶりに復帰した鶴岡一成と小池正晃の両名、日本ハムを自由契約となった菊地和正と林昌範の両名、広島を自由契約となったジオ・アルバラード、巨人にFA移籍した村田の人的補償として藤井秀悟、新外国人としてオスカー・サラサーを獲得。
2012年1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において、「新ユニフォーム発表セレモニー」を行い、3月18日、これまでの球団マスコットだったホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。
親会社および球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。
3月30日、阪神との開幕戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし[74]、4月1日の開幕第3戦に6対2で勝利して親会社および球団名変更後初白星を挙げるも[75]、続く4月4日から10日、22日から5月1日にかけて2度に渡り、6連敗するなどした。一方、6月8日に元楽天のランディ・ルイーズを獲得。交流戦は9勝14敗で10位に終わる。しかし、6月22日にハミルトンが契約解除となった。また、6月24日に楽天から藤田一也とのトレードで内村賢介を獲得(ドラフト育成選手では球団初の単独のトレード)。その後、6月25日に大沼幸二が現役を引退した。さらに、7月4日に新外国人としてボビー・クレイマーを獲得。7月6日の対中日戦に敗れ、借金20となり、自力優勝が消滅した[76]。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初の同一カード3連勝をしたものの[77]、前半戦を最下位で終える。9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れるも、29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)を記録するも[78]、30日の対中日戦(横浜)に敗れ、7年連続Bクラスと5年連続最下位が確定し[79]、10月7日の対巨人戦(東京ドーム)でサヨナラ負けを喫したことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり[注釈 19]、東京ドームにおいて、セ・リーグ初の記録となった[80]。最終的には首位巨人とは41ゲーム差、5位阪神にも9.5ゲーム差をつけられ、セ・リーグ5球団に全て負け越した[81]。10月8日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に新沼慎二が現役を引退した。
オフに大原淳也、福山博之、清水直行、ブランドンら外国人選手5人が自由契約となった。日本ハムから北篤とのトレードで土屋健二、ソフトバンクから江尻慎太郎、山本省吾、吉村裕基との3対3トレードで多村仁志(7年ぶりに復帰[82])、吉川輝昭(3年ぶりに復帰)、神内靖、中日を自由契約となったトニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサ[83]、新外国人としてナイジャー・モーガンを獲得。阪神を自由契約となった鄭凱文、新外国人としてケビン・モスカテルと育成契約を結んだ。
2月26日に鄭凱文を支配下選手に昇格させた。しかし、5月29日に王溢正が契約解除となり(Lamigoモンキーズに復帰)、6月4日に新外国人としてティム・コーコランを獲得。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる[84]。一方、7月7日に西武から渡辺直人とのトレードで長田秀一郎を獲得。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、球団史上初のクライマックスシリーズ出場の可能性が消滅し、8年連続Bクラスが確定したが、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、2007年以来6年ぶりの最下位脱出が決まり[85]、最終的には1996年以来17年ぶりの5位が確定した。阪神、中日、ヤクルトを相手に勝ち越しが決まったが、セ・リーグ3球団に勝ち越したのは2001年以来実に12年ぶりのことであった[86]。篠原貴行、小池正晃が現役を引退した。
オフにラミレス、森本稀哲、鄭凱文とコーコランの両外国人選手が自由契約となり、モーガンが退団した。中日を自由契約となった柳田殖生、日本ハムから佐藤祥万とのトレードで加藤政義、阪神からFA宣言した久保康友、オリックスを退団したアーロム・バルディリス、コロラド・ロッキーズを自由契約となった高橋尚成、新外国人としてギジェルモ・モスコーソを獲得。FA入団した久保の人的補償として鶴岡一成が阪神に移籍。嶋村一輝が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。
楽天が球団創設初の年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になったことにより、DeNAは現存11球団の中で広島、ヤクルト、オリックスと共に「新球団に年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった[注釈 20]。
3・4月は7勝18敗、勝率.280[88]と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、4月27日に萬谷康平を支配下選手に登録させ、5月13日にキューバから大砲のユリエスキ・グリエルを獲得。5月に井納翔一、6月に山口俊(9月にも獲得[89])、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度(最終的には1シーズン4度)の月間MVPを獲得し、5月から8月にかけて勝率を5割以上キープ。5月終了時点で首位広島に9.5ゲーム差、6月終了時点で首位巨人に11ゲーム差の最下位。しかし、7月以降は最下位から脱出し、9月までに球団史上初のクライマックスシリーズ出場の可能性を残していたものの、勝負の同月に失速し、27日にAクラス入りの可能性が消滅し[90]、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、9年連続Bクラスと2年連続5位が確定した[91]。モスカテルが現役を引退した。ドラフトでは後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる山﨑康晃(亜細亜大学)を1位指名。
オフに藤江均、菊地和正、ソーサら外国人選手4人が自由契約となった(菊地とソトは群馬ダイヤモンドペガサス、藤江は楽天、陳冠宇はロッテ、ブランコはオリックスに移籍)。金城龍彦が巨人にFA移籍。オリックスを自由契約となった東野峻、ソフトバンクを自由契約となった岡島秀樹、巨人を自由契約となったホセ・ロペス、新外国人としてヨスラン・エレラ、キューバからグリエルの弟のグリエルJr.を獲得。中村紀洋、藤井秀悟、神内靖が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。
1月16日に球団オーナーが春田真からディー・エヌ・エー(DeNA)の創業者でもある南場智子に交代したことを発表、NPB初の女性球団オーナーが誕生した[92][93]。また、ユニフォームも濃紺から青色(通称:横浜ブルー)に変わった。
4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、現在の親会社や球団名になってから初の単独首位につく[94]など、序盤は好調な滑り出しを見せた。一方、6月7日に砂田毅樹を支配下選手に登録させた。しかし、交流戦では全6カードを全て負け越し[95]、球団では2008年以来の10連敗(1引き分けを挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録[96]。交流戦終了後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう[97]。しかし、6月23日の巨人戦に7-2で勝利し、連敗を12で止めた[98]。交流戦後の混戦の中、6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。一方、7月3日に新外国人としてデュアン・ビロウを獲得。前回優勝の1998年以来となる前半戦首位ターンとなった[99]。しかし、後半戦に入ると、徐々に順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ、自力での球団史上初のクライマックスシリーズ出場の可能性が消滅し[100]、10月3日にシーズン最終戦(巨人戦)で敗れ、10年連続Bクラスと2012年以来3年ぶりの最下位が確定した[101]。前半戦を首位で折り返しながらシーズンを最下位で終えるのは球団史上初(2期制時のパは除く)の記録となった[101]。本塁打数はリーグ最多の112、得点はリーグ2位の508だった[102]ものの、チーム防御率3.80、総失点598はリーグワーストだった[103]。黒羽根利規、髙城俊人、嶺井博希を起用するなど、固定できなかった捕手陣は11捕逸[104]と1990年のロッテオリオンズの日本プロ野球タイに並ぶ68暴投を記録した[103]。また、明治神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。観客動員数は好調で、球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑は低迷の責任を取る形で退任。これにより、4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた[105]。後任に球団史上初の外国人監督となるラミレスが就任[106]。
10月21日、ラミレスの新監督就任が正式に発表された[107]。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表[108]。ドラフトでは即戦力として期待された左投手の今永昇太(駒澤大学)を1位指名。課題であった捕手にも戸柱恭孝(NTT西日本)を4位指名で迎える。
オフに多村仁志、岡島秀樹、ビロウとバルディリスの両外国人選手が自由契約となった(多村は中日、バルディリスはサムスン・ライオンズに移籍)。新外国人としてジェイミー・ロマック、ザック・ペトリック、巨人を自由契約となった久保裕也、ソフトバンクとの育成契約を拒否した白根尚貴を支配下選手として獲得。東野峻、土屋健二、加藤政義、靍岡賢二郎が戦力外通告を受け、4人ともその後現役を引退した。
この年で暗黒時代は一応終わり、リーグ最下位も令和時代では2021年の三浦大輔監督就任までない。
前年11月に開始されていた本拠地である横浜スタジアムの運営会社・株式会社横浜スタジアムの友好的TOBが一段落し、1月20日付で横浜スタジアム運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を総額74億2,500万円で取得した。このため、運営会社は1月28日付で名義を横浜DeNAベイスターズの子会社(DeNAの孫会社)に変更。
キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発した。山崎憲晴が左膝靱帯断裂で今季絶望となったほか、石川雄洋、山口俊、梶谷隆幸が故障により、開幕に間に合わず、3・4月は投打にわたり、戦力不足で9勝18敗と大きく負け越し、開幕直後に日本ハムから金銭トレードで藤岡好明、広島を自由契約となったマイク・ザガースキーを獲得したが、5月に入ると、怪我で離脱していた梶谷ら主力選手も戻り、15日に新外国人としてエリアン・エレラを獲得。その後、石田健大、今永昇太が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど、3日時点で11あった負け越しを28日に完済した。交流戦は負け越したものの、7月11日に三浦大輔が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成(ギネス世界記録に認定され、8月22日、横浜スタジアムで認定証が授与)するなど、勢いを取り戻し、1999年以来17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決めた。一方、7月14日に新外国人としてマイク・ブロードウェイを獲得。7月19日から22日にかけて筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど、大爆発した。後半戦は8月25日に4位阪神に0.5差まで詰められるも、最後までAクラスを守り抜き、9月19日、広島との最終戦にて勝利し、2005年以来11年ぶりのAクラスと3位が確定し、球団史上初のクライマックスシリーズ出場が決定した。これにより、NPB全12球団がクライマックスシリーズに出場した経験を持つことになった[109]。最終結果は69勝71敗3分。投手陣ではルーキーの今永、2年目の石田が先発ローテーションに入り、野手陣では筒香嘉智が本塁打王と打点王のタイトルを獲得。桑原、倉本がレギュラーに定着するなど、若手の台頭が目立った。シーズン最終戦となる9月29日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に投手兼任コーチの三浦大輔が現役を引退した。ドラフトでは濵口遥大(神奈川大学)を単独で1位指名。佐野恵太(明治大学)を9位指名し、これが大化けへと繋がってゆく。
クライマックスシリーズではファーストステージで2位巨人と対戦し、2勝1敗で巨人を破り、上記と同時に球団史上初のファイナルステージ進出が決定し、首位広島と対戦し、第3戦で借金チーム初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの、1勝4敗で敗れ、ファイナルステージ敗退となり、日本シリーズ出場を逃した。これにより、セ・リーグでは2010年代でクライマックスシリーズ制度導入後10年目にして、セ・リーグ全球団がファイナルステージに進出した。
オフに内村賢介、長田秀一郎、久保裕也、エレラら外国人選手6人が自由契約となった(ロマックはサンディエゴ・パドレス、ブロードウェイはワシントン・ナショナルズ、ペトリックはサムスン・ライオンズ、久保は楽天、ザガースキーはデトロイト・タイガース、長田は新潟アルビレックスBC、モスコーソはレオン・ブラボーズに移籍)。山口俊が巨人にFA移籍。新外国人としてアウディ・シリアコ、ジョー・ウィーランド、スペンサー・パットン、フィル・クライン、ヤクルトを自由契約となった田中浩康、巨人にFA移籍した山口の人的補償として平良拳太郎を獲得。渡邊雄貴、柳田殖生、井手正太郎が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。
5月30日の交流戦初戦で3位に浮上[110]。一方、7月6日に日本ハムから黒羽根利規とのトレードでエドウィン・エスコバーを獲得。8月22日から24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から筒香嘉智(2ラン)、ロペス、宮﨑敏郎の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏二死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に梶谷隆幸のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から倉本寿彦の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である[111]。9月に入り、巨人が持ち直してきたため、巨人との間で激しい3位争いとなり、順位が入れ替わることもあった。その最中、26日に高崎健太郎、大原慎司が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。10月1日の対広島戦で勝利し、2年連続3位が確定した[112]。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりの勝ち越しを決めた。今永、濱口、ウィーランドの3人が二桁勝利を挙げ、宮﨑は首位打者、ロペスは最多安打と打点王のタイトルを獲得した。
クライマックスシリーズではファーストステージで2位阪神と対戦し、2戦目は大雨で異例のコンディションの中、泥試合と称される戦いに勝利し、その勢いで2勝1敗で阪神を破り、2年連続ファイナルステージ進出が決定し、第1戦を落とした後に4連勝し、4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で広島を破り、1998年以来19年ぶり、セ・リーグ初の年間勝率3位からの日本シリーズ出場が決定した。これにより、セ・リーグでは2010年代でクライマックスシリーズ制度導入後11年目にして、セ・リーグ全球団がクライマックスシリーズを突破した。
ソフトバンクとの日本シリーズでは3連敗で王手をかけられた後、2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身を含め、球団史上初の日本シリーズ敗退となり、日本一を逃した。これにより、昭和時代に創設した現存11球団と2004年に消滅した近鉄を含む全12球団が前身を含め、日本シリーズ敗退を経験した。
オフに山崎憲晴、久保康友、クラインら外国人選手3人が自由契約となった(山崎は阪神、シリアコはサセックスカウンティー・マイナーズ、久保はゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ、エリアンはメキシコシティ・レッドデビルズに移籍)。元ソフトバンクのE.バリオス、新外国人としてネフタリ・ソト、中日を自由契約となった武藤祐太、楽天を自由契約となった中川大志、補強の目玉として阪神からFA宣言した大和を獲得。FA入団した大和の人的補償として尾仲祐哉が阪神に移籍。下園辰哉、小杉陽太、林昌範が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。
2011年以来現在の親会社や球団名になってから初の本拠地での開幕を迎えた。開幕投手は2年連続で石田健大が務めたが、試合は3対7で敗れ[113]、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝し、4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると[114]、4月7日から15日にかけて2001年以来17年ぶりとなる8連勝を記録した。しかし、ここから急降下し、7月4日に元ロッテの中後悠平、9日にオリックスから髙城俊人、白崎浩之との2対2トレードで伊藤光、赤間謙を獲得。7月18日にオーストラリアン・ベースボールリーグのキャンベラ・キャバルリーと戦略的パートナシップを締結したことを発表した[115]。8月までに2か月連続で負け越し、最下位に沈む。9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初、2015年以来3年ぶりのBクラスと2007年以来11年ぶりの4位に終わった。山﨑が初の最多セーブ、ソトは本塁打王のタイトルを獲得。加賀繁、後藤武敏が現役を引退した。
オフに荒波翔、ウィーランドが自由契約となった(荒波はモンテレイ・サルタンズ、ウィーランドは起亜タイガースに移籍)。巨人を自由契約となった中井大介を獲得。かつてチームに所属していた古村徹が4年ぶりに復帰。白根尚貴、田中浩康が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。高田繁がGMを退任。田代富雄をチーフ打撃コーチ、三浦大輔を投手コーチに招聘した。
この年は平成最後のペナントレースだったので、DeNAは現存12球団と2004年に消滅した近鉄を含む全13球団の中で楽天と共に「平成時代に1度も年間勝率1位によるリーグ優勝を本拠地で飾れなかった球団」と同時に同12球団の中で「平成時代に1度も本拠地でクライマックスシリーズを行わなかった唯一の球団」[116]および阪神、オリックス、ロッテと共に「平成時代に1度もクライマックスシリーズ1位通過を決められなかった球団」[116]かつ中日と共に「平成時代に1度もファーストステージ敗退とならなかった球団」となった。
球団創設70周年を記念し、この年[注釈 21]限定の球団プライマリーロゴが登場した。従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る[注釈 22]。
1月に監督のラミレスの日本国籍取得が認められた。3月14日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと業務提携を締結した。
3月26日に楽天から熊原健人とのトレードで濱矢廣大を獲得。4月に2015年以来4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。5月30日の中日戦に勝利したことで、最下位から脱出する。一方、翌31日に新外国人としてS.ソリスを獲得。オールスター前には首位巨人と9.5ゲーム差の2位で折り返し、一時は首位巨人との差を0.5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、直接対決で敗れたことが響き、結局1度も首位に立つことなく、優勝を逃したが、それでも9月24日の中日戦に勝利したことで、1997年以来22年ぶりの2位が確定し、球団史上初の本拠地でのクライマックスシリーズ開催が決定した。これにより、NPB全12球団が本拠地でクライマックスシリーズを開催した経験を持つことになった。2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年ぶり。
クライマックスシリーズではファーストステージで3位阪神と対戦するも、第1戦で6点差から逆転負けしたこともあり、1勝2敗で敗れ、球団史上初のファーストステージ敗退となり、ファイナルステージ進出を逃した。
N.ソトが43本塁打を放ち、2年連続の本塁打王と打点王を獲得した。
オフに三浦投手コーチが二軍監督に就任。バリオスとソリスの両外国人選手が自由契約となり(バリオスはメキシコシティ・レッドデビルズ、ソリスは2021年シーズン途中、モンクローバ・スティーラーズに移籍)、田中健二朗が肘の負傷を理由に育成契約を結んだ。新外国人としてとしてマイケル・ピープルズ、タイラー・オースティンを獲得、その後ジョフレック・ディアスと育成契約を結んだ。オリックスを自由契約となった髙城が1年半ぶりに復帰。筒香がポスティングシステムを利用しての大リーグ挑戦を正式に発表した[117]。
1月25日、佐野が筒香のポスティングシステムでのタンパベイ・レイズへの移籍に伴い、空席となっていたキャプテンに就任することが発表された[118]。
春季キャンプでは過去にMLBでゴールドグラブ賞を11度受賞した守備の名手であるオマー・ビスケルを特別コーチとして招聘し[119][120]、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスよりバリー・エンライト[注釈 23]とブレイク・ラリー[注釈 24]がコーチ研修目的で参加し[121]、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーとスティーブン・チェンバースが2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた[122]。
新型コロナウイルス感染症によるパンデミックにより、3月に開幕予定だった公式戦は3か月遅れの6月19日に開幕した。プロ野球公式戦史上初の無観客での開幕だった。
開幕後は今永とオースティンが故障で投打の主力の離脱が相次いだほか、ロペスとソトの両外国人選手の不調があるも、佐野らの活躍でしばらくはAクラスに留まった。しかし、9月の初旬に5.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との3連戦で3連敗したのが響き、優勝戦線から脱落。その後は阪神、中日とAクラス争いになる。10月以降、ナゴヤドームで6連敗を喫するなど(結果的に7月14日の勝利以降11連敗)、負けが込み、11日の阪神戦に敗れ、4位に転落以降はBクラスから抜け出せず、25日に球団からラミレスの退任が発表され、11月5日の中日戦に敗れ、2018年以来2年ぶりのBクラスが確定し、11日に広島が中日に負けたため、4位でシーズンを終えた。シーズン最終戦そしてラミレス政権最後の試合で巨人を相手に逆転サヨナラ勝ちをして有終の美を飾った。この勝利によって、巨人戦6連勝を記録し、リーグで12勝12敗と唯一負け越すことなく、巨人の完全優勝を阻止した。また、佐野がレギュラー1年目で首位打者を獲得するなど、明るい話題もあった。これにより、5年間に及ぶラミレス政権は幕を閉じた。後任に二軍監督の三浦大輔が昇格する形で就任。
11月17日、三浦の新監督就任が正式に発表された。
オフにロペスとパットン(テキサス・レンジャーズに移籍)の両外国人選手が退団し、赤間謙、石川雄洋が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。梶谷と井納の両名が巨人にFA移籍。ヤクルトを自由契約となった風張蓮、巨人にFA移籍した梶谷の人的補償として田中俊太を獲得。新外国人としてケビン・シャッケルフォードと育成契約を結び、その後フェルナンド・ロメロを獲得。巨人を自由契約となった宮國椋丞と育成契約を結んだ。
新型コロナウイルス感染症の影響で外国人選手が12球団で唯一全員来日できず[123]、戦力が揃ったのは4月15日のことであり、3、4月は2引き分けを挟んで10連敗を含む[124]6勝21敗4分と大きく負け越した[125]。一方、4月23日にシャッケルフォードを支配下選手に昇格させた。また、6月14日にロッテから国吉とのトレードで有吉優樹を獲得、その後15日に田中健二朗を支配下選手に復帰させた。さらに8月30日に宮國椋丞を支配下選手に昇格させた。打撃陣は打率3割を記録した選手を4人(牧秀悟、桑原、佐野、宮﨑)輩出したほか、チーム本塁打136本、チーム得点559点はいずれもリーグ2位だった[126]が、7連敗以上を2度記録したこともあり、また勝利数が最も多かった大貫晋一でさえ6勝止まりと成績を大幅に落とし、2年連続Bクラスと2015年以来6年ぶりの最下位が確定した[127]。牧は1年目ながら数々の新人記録を打ち立てる活躍を見せ、新人特別賞を受賞した。
オフに風張蓮、ピープルズとシャッケルフォードの両外国人選手が自由契約となり(風張はケンタッキー・ワイルドヘルス・ゲノムスに移籍、ピープルズは再契約、シャッケルフォードは退団)、平良拳太郎が肘の負傷、勝又温史が伸び悩みを理由に戦力外として育成契約を結んだ。楽天を自由契約となった藤田一也が10年ぶりに復帰[128]。新外国人としてブルックス・クリスキーを獲得、その後ハンセル・マルセリーノと育成契約を結んだ。日本ハムを自由契約となった大田泰示を獲得。齋藤隆をチーフ投手コーチ[129]、鈴木尚典を打撃コーチ[129]、石井琢朗を野手総合コーチ[130]に招聘した[131]。相川亮二がバッテリーコーチに就任[132]。
オリックスが1996年以来25年ぶり、近鉄との球団合併後初の年間勝率1位によるリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAは20世紀に創設した現存10球団の中で中日、ロッテと共に「後継球団に年間勝率1位によるリーグ優勝を先にされた球団」となった。
今永、ソトとオースティンの両外国人選手が春季キャンプ中に故障して開幕から出遅れ、4月6日にはチームに新型コロナウイルスの陽性者が続出したことから、翌7日から10日までの4試合を中止し、12日からは総勢22人の選手を入れ替え、一軍の試合を再開した。4・5月は最大借金9と下位に落ち込むも、交流戦以降はチーム成績も安定し、今永が6月7日の日本ハム戦(札幌ドーム)で球団としては1970年の鬼頭洋以来52年ぶり4人目となるノーヒットノーラン達成。特に投手面では大きく改善し、今永が防御率でリーグ3位に入って11勝、大貫も11勝を挙げ、伊勢大夢、エスコバー、そこから割って入る入江大生、田中健二朗の勝ちパターンの確立が大きかった。一方、6月23日に石川達也を支配下選手に登録させた。また、7月16日に新外国人としてロバート・ガゼルマン(翌々18日にピープルズが再び退団)、28日に楽天から伊藤裕季也とのトレードで森原康平を獲得。さらに、7月30日に平良拳太郎を支配下選手に復帰させ、宮城滝太を支配下選手に登録させた。8月に入ると、21日の広島戦まで横浜スタジアムで開催された試合で連勝を続け、プロ野球史上3球団目となる球団新記録となる本拠地17連勝、18勝6敗と球団としては1997年8月以来の月間18勝を記録し、首位ヤクルトを追う2位まで浮上したが、26日からの首位ヤクルトとの直接対決で3連敗してしまい、ゲーム差を広げられたため、首位ヤクルトとのゲーム差を詰めることはできずヤクルトの優勝マジックが2になった9月25日の明治神宮球場での直接対決でまさかのサヨナラ負けを喫し、優勝争いには敗れたものの、2019年以来3年ぶりのAクラスと2位が確定した。前身を含め、球団生え抜き監督によるAクラス入りは球団史上初。
クライマックスシリーズではとのファーストステージで3位阪神と対戦するも、打率3位の.306を記録した佐野が3戦で10打数1安打と不振に陥り、最後は1点ビハインドで迎えた9回1死満塁のチャンスに藤田が4-2-3のホームゲッツーで試合を終えた。この年は3位阪神に2013年以来9年ぶりの勝ち越しを決めていたが、1勝2敗で2019年以来3年ぶりのファーストステージ敗退となり、ファイナルステージ進出を逃した。
オフに三上朋也、ロメロとクリスキーの両外国人選手が自由契約となり(三上は巨人、ロメロはロサンゼルス・エンゼルス、クリスキーはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍)、櫻井周斗が疲労骨折の再発、松本隆之介が肩の負傷を理由に戦力外として、ロッテを自由契約となった西巻賢二と育成契約を結んだ。中日から砂田とのトレードで京田陽太、新外国人としてJ.B.ウェンデルケン、トレイ・アンバギー、トレバー・バウアーを獲得。嶺井博希がソフトバンクにFA移籍。山下幸輝、浅田将汰、田部隼人、髙城俊人、有吉優樹が戦力外通告を受け、5人ともその後現役を引退した。
オリックスが1996年以来26年ぶり、近鉄との球団合併後初の年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一になったことにより、DeNAは20世紀に創設した現存10球団の中で阪神、中日、広島、ロッテと共に「後継球団に年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった。
ワールド・ベースボール・クラシックでは今永と牧が日本代表、ソトがプエルトリコ代表に選出された。
4月8日に櫻井周斗と松本隆之介の両名を支配下選手に復帰させ、28日に西巻賢二を支配下選手に昇格させた。交流戦は全日程を終え、11勝7敗の首位タイでDeNA、巨人、オリックス、ソフトバンクの4チームが並び、初のTQB(得失点率差)で交流戦19年目にして初の優勝を飾った[133]。前半戦を3位で終えると一方、7月23日に上甲凌大を支配下選手に登録させ、26日にヤクルトから阪口皓亮とのトレードで西浦直亨を獲得。最終的には首位阪神とは12ゲーム差、2位広島にも0.5ゲーム差をつけられ、2年連続Aクラスと2017年以来6年ぶりの3位が確定した。
クライマックスシリーズではファーストステージで2位広島と対戦するも、2連敗を喫し、2年連続ファーストステージ敗退となり、ファイナルステージ進出を逃した。
10月4日に東京ドームで行われた公式戦、10月15日にマツダスタジアムで行われたクライマックスシリーズファーストステージを最後に藤田が現役を引退した。
オフに平田、田中健、笠原祥太郎、池谷蒼大、宮國、田中俊、アンバギーら外国人選手5人が自由契約となった(田中健と池谷はくふうハヤテ、笠原は台鋼ホークス、田中俊はオイシックス、エスコバーはシカゴ・カブス、ソトはロッテ、ガゼルマンはワシントン・ナショナルズ、バウアーはメキシコシティ・レッドデビルズに移籍)。小深田大地、粟飯原龍之介が育成契約を結び、勝又温史を支配下選手に復帰させた。ソフトバンクを自由契約となった森唯斗、オリックスを自由契約となった中川颯、新外国人としてローワン・ウィック、アンソニー・ケイ、アンドレ・ジャクソンを獲得。巨人を自由契約となった堀岡隼人と育成契約を結んだ。今永がポスティングシステムを利用してMLBに挑戦することが承認された。
12月18日、牧が来季から佐野に代わってキャプテンに就任することが発表された[134]。
オリックスが近鉄との球団合併後初めて年間勝率1位によるリーグ優勝を本拠地で決めたことにより、DeNAは現存11球団の中で楽天と共に「後継球団に本拠地での年間勝率1位によるリーグ優勝を先にされた球団」となった。
序盤は混戦の中、一時首位に立ったり、最下位に転落したりと、乱高下する中、4月16日に筒香が5年ぶりに復帰[135]。6月以降は首位広島を阪神・巨人とともに追いかけるマッチレース中にAクラス争いが展開。一方、6月8日にディアスと堀岡隼人の両名を支配下選手に昇格させた。7月4日に新外国人としてマイク・フォードを獲得。ところが、7月の終盤には巨人、阪神に遅れを取り、4位に長く沈む。9月に広島が失速すると、再び激しいAクラス争いが勃発。その最中、広島が10月2日のヤクルト戦に敗れたことで、3年連続Aクラスと2年連続3位が確定した[136]。
クライマックスシリーズではファーストステージで2位阪神を2連勝で下し、2018年以来6年ぶりのファイナルステージ進出[137]、ファイナルステージで首位巨人を4勝3敗で下し、2017年以来7年ぶりの日本シリーズ出場[138]が決定した。
日本シリーズではソフトバンクを4勝2敗で下し、1998年以来26年ぶり3度目、親会社および球団名変更後初の日本一を達成した[139]。年間勝率3位からの日本一は2010年のロッテ以来2回目、セ・リーグでは初となった[139]。球団生え抜き監督による日本一は球団史上初となった[注釈 25][注釈 26]。これにより、セ・リーグ全球団が球団OB監督の下で日本一になった[注釈 27]と同時に1度も親会社や球団名を変更していない楽天を除く現存11球団全てが現在の親会社や球団名になってから日本一になった[注釈 28]。貯金(勝ち越し)2、勝率.507は日本一になった球団で最も低く、1975年の阪急の貯金5、勝率.520を下回る最少貯金かつ最低勝率でソフトバンクとの貯金差40を覆しての日本一は1971年に巨人が阪急を破った際の23差を上回る最大格差逆転勝利となった[139]。
オフに三浦銀二、髙田琢登、大和、小深田大地、楠本泰史、石川達也が自由契約となり、ウェンデルケンとフォードの両外国人選手が退団した。西浦直亨、大田泰示、村川凪が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。
この年よりコーチ陣の見直しを図り、打撃コーチの肩書をなくし、田代、大村、石井琢、鈴木尚、柳田の5コーチが一・二軍の肩書のない野手コーチに配置転換され、村田修一、辻俊哉が一・二軍の肩書のない野手コーチに就任した[145]。一・二軍の肩書のない野手コーチは戦術系を担当する役割ではなく、選手のパフォーマンス向上や育成を担当する役割で、コーディネーターの差配によって一・二軍のどちらにいるか定義されるポジションとなった[146]。
※2024年は年間勝率3位からクライマックスシリーズを突破した上で日本一になっている。
「年間勝率1位によるリーグ優勝・日本一」は2024年現在、1998年が最後となっている[注釈 31]。
1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)[注釈 32]、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。
前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した大洋軍は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。なお、アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく、「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。
2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」を使用することが承認されたが[147]、NPBの公式サイトでは「ディ」あるいは「デ」の表記も使用されている[148]。また、共同通信社[149]、日刊スポーツ[150]では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元tvkが「横」、サンテレビが「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のTigers-aiが「デ」、J SPORTSの自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。
NPBの公示等で使用される英字略称は、1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点では「Yokohama BayStars」から取った「YB」[注釈 33]であったが、2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更された[147]。なお、2019年にオリックス・バファローズの英字略称がそれまでの「Bs」から「B」へ変更されたため、同年以降は唯一英字略称が2文字の球団となっている。
球団マスコットは、「DB.スターマン」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくり[注釈 34]としたユニホーム姿のゆるキャラ。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。
また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。
翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「DB.キララ」が登場した。
2015年以降、ドアラを除く関東圏球団以外のマスコット交流はセ・パ交流戦とオールスター以外ではなくなっている。
上記のほか、2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクトI☆YOKOHAMAを掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。
球団のマスコットではないが、TBSが親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。
また、カネシゲタカシがスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』[157]の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている[158][159]。
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいてゲートフラッグの掲揚が行われている。
また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある[注釈 35]。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「シャボン玉」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時ジェット風船の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。
DeNA球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。
以下の団体は、現存しない応援団である。
前述の沿革にもある通り、元々大洋球団は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)の100%出資だったが、1978年の完成を目指して横浜スタジアムの改築が行われるにあたり、当時の国土計画社長・堤義明は、大洋球団の第三者割当増資を行う際、株式の約45%を取得して第2位の筆頭株主となった。
しかし、横浜スタジアムが完成した1978年10月、クラウンライターライオンズを運営する福岡野球株式会社の保有株式を、個人の中村長芳から国土計画が買収、本拠地を西武ライオンズ球場(後の西武ドーム、現・ベルーナドーム)に移転した際、野球協約による、同一企業、ないしはその関連会社が複数の球団を支配することを禁じる違反規定に触れるため、この際、ニッポン放送に3割、残り15%を当時の東京放送に譲渡している。しかし、2001年のマルハ(現・マルハニチロ)からの球団経営権譲渡に際して、ニッポン放送の保有株をめぐり、ヤクルトスワローズの第2位株主であるフジテレビジョンとの関係が指摘されることになる。
2001年11月16日、経営が悪化していた当時の筆頭株主(親会社)・マルハ(現・マルハニチロ)が球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビジョンがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBSに譲渡された(この結果、TBSが51.54%で1位、ニッポン放送が30.77%で2位、TBS系列のBS-iが17.69%で3位となった。[165])。この際、TBS(現・TBSホールディングス)がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから、「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により、当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円[注釈 50]の支払いは不要とされた。
それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ(現・マルハニチロ)→TBS(現・TBSホールディングス)のケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところはユニホームの袖についたTBS(現・TBSホールディングス)のロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
2005年10月、楽天がTBS(現・TBSホールディングス)の株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから、野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社TBSホールディングスに移行したことから、楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。
前述の通り2002年以降は2005年・2007年を除き、8度も最下位に陥る惨状となった。結局、2011年オフにディー・エヌ・エーに持株の大部分を譲渡して、球団経営から撤退した。
中日へ谷繁元信やT.ウッズ、巨人へ村田修一やM.クルーンなど、同一リーグへの主軸流出を黙認しており、優勝を狙う経営姿勢とは程遠かった。球団運営の荒廃も進んでおり、球団スタッフ全員がインターネットにアクセスする環境すらないなど、IT企業のディー・エヌ・エーからすれば絶句する状況にあった[167]。
ディー・エヌ・エーが親会社となった2012年以降は上記放送のほか、各ライブ配信サービスでの主催試合生中継も展開している。展開状況は以下の通り。
TBS(現・TBSホールディングス)が筆頭株主(事実上のオーナーと目される)だった時代も傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオでは週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継(散発的に中国放送などビジターの地元局にもネット)は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)が保有していた時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。対巨人戦以外の試合は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独放送し[注釈 52]、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビも過去の球団とニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本、対広島戦はテレビ新広島)制作中継のために使っていた。こちらもコスト削減のために球団経由でTBSテレビから主要映像の配信を受けることがあった。
CS放送については、2002年にマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)に譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみTBSニュースバードで放送するも、当時フジテレビ系のCSであったJ SPORTS(のちにスポーツ・アイ ESPNとの合併の際、TBSテレビも資本参加)で中継していたが、解説をフジテレビまたはテレビ神奈川の解説者が、実況をTBSテレビのアナウンサーが行うという変則形態の時もあった。2008年以後、TBSニュースバードに放送チャンネルが移行し、制作も全面的にTBSテレビが行う形式となり、さらに2014年シーズンよりTBSチャンネル2に移行された[注釈 53][171]。
ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系列、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系列で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がない時に放送された[注釈 54]。
TBSホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで自社での放送は撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみが中継している。
2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている[注釈 60]。
親会社がディー・エヌ・エー(DeNA)に変更された2012年からは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中に選手および監督・コーチはスペシャルユニフォームを着用。2016年からは『キッズSTAR☆NIGHT』というイベントも行われているが、3日間開催となった2023年と2024年は、このイベント期間中も同じスペシャルユニフォームを着用。
なお、2020年は東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-9月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場や、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムでの代替開催も予定していたが[203]、オリンピックの開催延期に伴い、全て横浜スタジアムに変更となった[204]。
2021年は延期になった東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-8月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場で2試合、東京ヤクルトスワローズの本拠地明治神宮野球場で5試合の代替開催を行っている。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
代 | 氏名 | 就任[※ 1] | 退任[※ 2] | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
大洋 | 1 | 渡辺大陸 | 1950年 | 1950年 | ここから大洋ホエールズ(第1次) |
2 | 中島治康 | 1951年 | 1951年6月30日 | 選手兼任監督 | |
3 | 有馬義一 | 1951年7月18日 | 1951年 | 当時の球団専務(選手・指導者歴なし) | |
洋松 | 4 | 小西得郎 | 1952年 | 1953年 | ここから大洋松竹ロビンス |
5 | 永沢武夫 | 1954年 | 1954年 | ここから洋松ロビンス | |
大洋 | 6 | 藤井勇 | 1955年 | 1955年 | 選手兼任監督 ここから大洋ホエールズ(第2次) |
7 | 迫畑正巳 | 1956年 | 1958年 | ||
8 | 森茂雄 | 1959年 | 1959年 | ||
9 | 三原脩◎ | 1960年 | 1967年 | ||
10 | 別当薫(第1次)[※ 3] | 1968年 | 1972年8月30日 | ||
11 | 青田昇 | 1973年 | 1973年 | ||
12 | 宮崎剛 | 1974年 | 1974年 | ||
13 | 秋山登 | 1975年 | 1976年 | 1977年二軍監督 | |
14 | 別当薫(第2次) | 1977年 | 1979年 | 1978年から横浜大洋ホエールズ | |
15 | 土井淳[※ 4] | 1980年 | 1981年9月24日 | ||
16 | 関根潤三 | 1982年 | 1984年 | ||
17 | 近藤貞雄 | 1985年 | 1986年 | ||
18 | 古葉竹識 | 1987年 | 1989年 | ||
19 | 須藤豊 | 1990年 | 1992年5月2日 | ||
20 | 江尻亮 | 1992年5月3日 | 1992年 | ||
横浜 | 21 | 近藤昭仁 | 1993年 | 1995年 | ここから横浜ベイスターズ |
22 | 大矢明彦(第1次) | 1996年 | 1997年 | ||
23 | 権藤博◎ | 1998年 | 2000年 | ||
24 | 森祇晶[※ 5] | 2001年 | 2002年9月25日 | ||
25 | 山下大輔 | 2003年 | 2004年 | ||
26 | 牛島和彦 | 2005年 | 2006年 | ||
27 | 大矢明彦(第2次)[※ 6] | 2007年 | 2009年5月17日 | ||
28 | 尾花高夫 | 2010年 | 2011年 | ||
DeNA | 29 | 中畑清 | 2012年 | 2015年 | ここから横浜DeNAベイスターズ |
30 | アレックス・ラミレス | 2016年 | 2020年 | 球団初の外国人監督(2019年に日本国籍取得) | |
31 | 三浦大輔◎ | 2021年 |
球団の永久欠番は次の通り。
2023年シーズン終了時点で達成者はいない[208]。
2023年シーズン終了時点で達成者はいない[209]。
2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[210]。
2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[211]。
DeNA球団では、球団在籍時に日本プロ野球名球会の入会条件である通算2000本安打・通算200勝・通算250セーブのいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。2023年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(2012年以降。それ以前は現在リボンビジョンが設置されている右翼フェンス上部)に設置されている。
2023年現在、レリーフが設置されている顕彰対象者は以下の通り。
背番号 | 選手名 | 守備位置 | 選手歴 | 顕彰理由 | 通算成績 |
---|---|---|---|---|---|
25 | 松原誠 | 一塁手 |
|
2000安打達成 | 2095安打 |
27 | 平松政次 | 投手 |
|
200勝達成 | 201勝 |
10 | 駒田徳広 | 一塁手 |
|
2000安打達成 | 2006安打 |
22 | 佐々木主浩 | 投手 |
|
250セーブ達成 | 381セーブ[注釈 69] |
5 | 石井琢朗 | 遊撃手 |
|
2000安打達成 | 2432安打 |
3 | アレックス・ラミレス | 左翼手 | 2017安打[注釈 70] | ||
99 | 中村紀洋 | 三塁手 | 2106安打[注釈 71] |
※達成順に記載。背番号は条件達成当時、通算成績は顕彰理由に該当するもののみ。
年度 | 開幕投手 | 勝敗 | スコア | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
1950 | 今西錬太郎 | ○ | 2-0 | 国鉄 |
1951 | 高野裕良 | ○ | 4-2 | 名古屋 |
1952 | 高野裕良 | ○ | 4-2 | 阪神 |
1953 | 江田貢一 | △ | 1-1 | 名古屋 |
1954 | 権藤正利 | ○ | 9-2 | 阪神 |
1955 | 権藤正利 | ● | 2-8 | 広島 |
1956 | 江田孝 | ● | 2-11 | 中日 |
1957 | 大石正彦 | ● | 0-4 | 広島 |
1958 | 大石正彦 | ● | 6-7 | 阪神 |
1959 | 鈴木隆 | ● | 1-3 | 中日 |
1960 | 幸田優 | ● | 3-4 | 中日 |
1961 | 秋山登 | ○ | 8-7 | 広島 |
1962 | 島田源太郎 | ● | 1-3 | 国鉄 |
1963 | 稲川誠 | ● | 1-4 | 広島 |
1964 | 稲川誠 | ○ | 7-4 | 中日 |
1965 | 稲川誠 | ○ | 1-0 | 国鉄 |
1966 | 秋山登 | ○ | 6-3 | 巨人 |
1967 | 森中千香良 | ○ | 3-2 | 中日 |
1968 | 森中千香良 | ○ | 8-5 | 巨人 |
1969 | 平岡一郎 | ○ | 1-0 | 阪神 |
1970 | 平松政次 | ● | 2-3 | 広島 |
1971 | 平松政次 | ● | 1-2 | ヤクルト |
1972 | 山下律夫 | ● | 3-6 | 広島 |
1973 | 平松政次 | ○ | 3-1 | 阪神 |
1974 | 平松政次 | ● | 1-2 | 阪神 |
1975 | 平松政次 | ○ | 8-4 | 巨人 |
1976 | 平松政次 | ● | 0-1 | 中日 |
1977 | 渡辺秀武 | ○ | 15-7 | 広島 |
1978 | 平松政次 | ○ | 3-1 | 中日 |
1979 | 平松政次 | ○ | 9-0 | ヤクルト |
1980 | 平松政次 | ○ | 4-3 | 巨人 |
1981 | 斉藤明雄 | ● | 1-2 | 巨人 |
1982 | 斉藤明夫 | ○ | 3-2 | 阪神 |
1983 | 遠藤一彦 | ● | 2-5 | 巨人 |
1984 | 遠藤一彦 | ● | 3-9 | ヤクルト |
1985 | 遠藤一彦 | ○ | 12-6 | 巨人 |
1986 | 遠藤一彦 | ○ | 8-7 | 阪神 |
1987 | 遠藤一彦 | ○ | 5-1 | 広島 |
1988 | 欠端光則 | ○ | 2-1 | 中日 |
1989 | 斉藤明夫 | ○ | 4-3 | 中日 |
1990 | 中山裕章 | △ | 5-5 | 中日 |
1991 | 中山裕章 | ○ | 4-3 | 阪神 |
1992 | 野村弘樹 | ● | 4-6 | 中日 |
1993 | 有働克也 | ● | 2-5 | 巨人 |
1994 | 有働克也 | ○ | 4-3 | 中日 |
1995 | 野村弘樹 | ● | 0-4 | 広島 |
1996 | 盛田幸希 | ● | 1-2 | ヤクルト |
1997 | 盛田幸希 | ● | 2-3 | 中日 |
1998 | 川村丈夫 | ○ | 8-0 | 阪神 |
1999 | 三浦大輔 | ● | 5-10 | ヤクルト |
2000 | 川村丈夫 | ○ | 7-6 | 阪神 |
2001 | 小宮山悟 | ● | 4-6 | ヤクルト |
2002 | 三浦大輔 | ● | 1-2 | 広島 |
2003 | 吉見祐治 | ○ | 4-2 | 阪神 |
2004 | 三浦大輔 | ● | 1-3 | ヤクルト |
2005 | 三浦大輔 | ● | 0-4 | 中日 |
2006 | 三浦大輔 | ● | 2-12 | 巨人 |
2007 | 三浦大輔 | ● | 2-3 | 巨人 |
2008 | 寺原隼人 | ● | 2-4 | 阪神 |
2009 | 三浦大輔 | ● | 1-4 | 中日 |
2010 | ランドルフ | ● | 3-7 | 阪神 |
2011 | 山本省吾 | ○ | 5-4 | 中日 |
2012 | 高崎健太郎 | △ | 5-5 | 阪神 |
2013 | 藤井秀悟 | ○ | 4-3 | 中日 |
2014 | 三嶋一輝 | ● | 1-9 | ヤクルト |
2015 | 久保康友 | ● | 2-3 | 巨人 |
2016 | 井納翔一 | ○ | 2-1 | 広島 |
2017 | 石田健大 | ● | 2-9 | ヤクルト |
2018 | 石田健大 | ● | 3-7 | ヤクルト |
2019 | 今永昇太 | ○ | 8-1 | 中日 |
2020 | 今永昇太 | ● | 1-5 | 広島 |
2021 | 濱口遥大 | ● | 7-8 | 巨人 |
2022 | 東克樹 | ● | 3-11 | 広島 |
2023 | 石田健大 | ● | 3-6 | 阪神 |
2024 | 東克樹 | ○ | 4-3 | 広島 |
1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。
このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団した。一方、ヘッドコーチの秋山登はオークランド・アスレチックスを参考としたユニフォームを作りたいという思いがあった。そこで静岡をコンセプトに「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。先述の経緯から具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている[218]。
セ・リーグでは2000年以前まで勝率順で順位を決定していたが[注釈 74]、2001年は勝利数順で順位を決定する方法が採用された[注釈 75]。
2001年、横浜は69勝67敗4分け、広島は68勝65敗7分けでそれぞれシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511であり、前年までの順位決定方式なら広島が上位になっていたところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で順位を決めていたため、勝利数で広島を上回った横浜が3位となり、5年連続のAクラス入りを果たした。
しかし、この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすく、実態が分かりづらいという理由から、わずか1年で順位決定方式が「勝利数順」から「勝率順」に戻された[注釈 76]。
2005年にも勝率順位と勝利数順位が異なる事態が起こったが、今度は勝率順で順位を決定する規定になっていたため、ヤクルトよりも勝利数の少ない横浜が(横浜69勝70敗7分け、ヤクルト71勝73敗2分け)、勝率でヤクルトを上回り(横浜の勝率は.496、ヤクルトの勝率は.493)、最終順位は横浜が3位、ヤクルトが4位となった。
なお、セ・リーグでは2002年以降、現在に至るまで勝率順で順位を決定している。
大洋時代は初代本拠地の下関のほか、春季キャンプを行っていた草薙球場を始め、北海道、東北地方などで、1980年代後半からは神奈川県内の平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)や相模原球場(サーティーフォー相模原球場)や北関東の宇都宮清原球場、ひたちなか市民球場でも開催したことがある。
2016年以降は地方開催を新潟県立鳥屋野潟公園野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)での1試合のみに縮小し、沖縄や平塚・相模原など保護地域の神奈川県内での地方開催も中断している。2020年は新潟の他に前述の通り、東京オリンピック/パラリンピックで横浜スタジアムが使用できない都合による兼ね合いで、東京ドーム、ZOZOマリンスタジアムでも開催が予定されていた[219]。2021年シーズンは実際、東京ドームと神宮球場で主権試合が開催された。
横浜時代の2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦[注釈 77]としては史上初のナイター(19時開始)となった。それ以降も同球場では2011年(対広島)、2012年(対ヤクルト)、2014年(対巨人)、2015年(対中日)に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。
2013年は阪神タイガースが同球場で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年は巨人を帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していた。しかし、7月8日の試合については平成26年台風第8号が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した[220]。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だったユリエスキ・グリエルは、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている[221]。
なお、ベイスターズ主催試合から撤退した2016年以降の沖縄での公式戦はパ・リーグの球団が持ち回りで主催試合を行っているが、2022年は別途4月12・13日に巨人の主催試合も「沖縄復帰50周年記念・那覇市市制100周年記念試合」として行われ、2014年とは逆にDeNAがビジターとして帯同した。
HARD OFF ECOスタジアム新潟では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。DeNAへ親会社が代わった後は南場オーナーが新潟出身という事もあり、一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行ったり、2016年には日本ハムを帯同して、同球場初となるセ・パ交流戦を1試合行うなど、新潟への配慮は大きい。
2013年は巨人主催のDeNA戦が1試合行われているが、これは同球場で唯一DeNAがビジター開催となった事例である。同年には別にDeNA主催の巨人戦も2試合行われた。
先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、上記沖縄、並びに神奈川県内の平塚、相模原などでの一軍公式戦開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。ただし、2020年は上述の理由で、新潟では土日を含む3連戦を予定していたが[219]、いずれも横浜スタジアムでの開催に変更となった[204]。また2021年は土・日曜に2試合予定されていたが、1試合が雨天中止となった。
他にも新潟に関連するイベントを開催しており、関係を継続している。
初代本拠地である下関市にある下関球場(現・オーヴィジョンスタジアム)においては2007年を最後として公式戦開催が途絶えており、将来的な公式戦の復活開催実現へ向けて同市が中心となって「下関プロ野球招致実行委員会」[225]を設立し、その手始めとして2019年、当球団創設70周年を迎えるにあたっての記念試合として、広島東洋カープとのオープン戦を誘致、球団最初の試合日に合わせて同年3月10日にデーゲームで開催することを決めた。
しかし、試合開始直前の降雨によりこのオープン戦の開催は中止となり、下関での記念試合は幻に終わった。この試合では1950年3月10日に行われた国鉄スワローズ戦で着用した初代ユニフォームを復刻して選手が着用する予定でもあった(この復刻版ユニフォームは3月21日に横浜スタジアムで行われた北海道日本ハムファイターズ戦で改めて着用された)。将来的には公式戦開催を目指して取り組んでいる[226]が、2020年は公式戦開幕が東京オリンピックの関係により通常より早まるため、オープン戦は2019年12月の発表段階[227]では予定されず、以後もオープン戦の開催はなされていない[注釈 78]。
2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。この企画の初日にあたる5月1日にチームが敗戦した際は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝利した試合でも半数以上の人間が返金を求め[228]、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となってしまった。この結果に当時の監督・中畑清はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」とし、同じような企画を二度と実施しないように求めた[229]。
なお、2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日・広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)を追加で負担すれば、2016年度までにDeNAがレギュラーシーズンで2位以上の成績を収め、クライマックスシリーズ(CS)の主管権を確保した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、またはCSが廃止となって権利失効となった場合には、追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるという企画であった[230]。実際には2016年の3位が期間内のレギュラーシーズンでの最高順位であり、DeNAはCSを主催することはできなかったため、観戦権は成立せず、全額が神奈川県の野球振興の寄附金となった[231]。2019年にレギュラーシーズンで2位の成績を収め、CSの主管権を確保したことを受けて、球団は権利を特別に復活させた上でチケット購入者50組100人を同年10月5日のCSファーストステージ初戦に招待することとなった[232]。
1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。
1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた[233][234]。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。特に巨人ファンが「貯金をするなら横浜大洋銀行」へという合言葉とともに当球団を煽るなどしていたが[235]、そのほかにも巨人以外の球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた[注釈 79][234]。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある[注釈 80]。一方で、その阪神とひっくるめて、セ・リーグで特に弱い球団として、「大洋神戸銀行」と揶揄することもあったという[234]。巨人戦で負けが続くと「**銀行」と揶揄する事例も見られる(例として2014年に当時の監督の名前から「中畑銀行」と呼んだ見出し[236])。
1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いものの[237]、実際には球団と銀行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった[238]。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。
横浜大洋ホエールズ時代の1991年に中山裕章が少女への強制わいせつ事件を起こし、球団を解雇されて以降、彼が着用していた背番号19は欠番とされていたが、大洋は1992年オフに球団名を「横浜ベイスターズ」に変更。同年のドラフト会議で1位指名を受けた小桧山雅仁が「19」に関連する縁起の良いエピソードを複数有していたことや、小桧山自身も「事件のことは気にしない」と表明したことから、19番は小桧山(1993年 - 1998年)に与えられた[239]。しかし彼以降、戸叶尚(1999年 - 2000年)、杉本友(2001年 - 2003年)、染田賢作(2005年 - 2008年)と、背番号19を着用した投手たちが次々と期待外れに終わったことから、2007年12月には『スポーツニッポン』が「背番号19の呪い」と報じた[239]。しかし、藤江均(2009年 - 2014年)、山﨑康晃 (2015年 - )がそのジンクスを払拭し、現在は死語となっている。
元々は在日のウクライナ人YouTuberグループサワヤンが運営するYouTubeチャンネルの冒頭の挨拶に由来している。
2022年より、ベイスターズの選手の間でサワヤンのチャンネルが流行したことをきっかけとして、主将の佐野恵太をはじめ、牧秀悟・桑原将志ら主力選手が本塁打を打ったあとのパフォーマンスとして「デスターシャ」を採用したことで広く知られるようになり、本塁打後のパフォーマンスとして定着した[240][241]。2022年9月16日にはサワヤンが始球式に招かれている[242][243]。
関連項目が多すぎます。 |
野球中継番組については後述。
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