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脚本家、劇作家 (1925 - 2021) ウィキペディアから
橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月10日 - 2021年〈令和3年〉4月4日[1])は、日本の脚本家、劇作家、タレントである。本名:岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)[3](旧姓:橋田)。位階は従三位。静岡県熱海市名誉市民。
橋田 壽賀子 | |
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プロフィール | |
本名 | 岩崎 壽賀子 |
誕生日 | 1925年5月10日 |
出身地 | 日本統治下朝鮮・京城府 |
死没日 | 2021年4月4日(95歳没)[1] |
死没地 | 日本・静岡県熱海市[1] |
血液型 | B型 |
活動期間 | 1949年 - 2021年 |
主な作品 | |
テレビドラマ |
『おんな太閤記』 『おしん[2]』 『いのち』 『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』 『春日局』 『橋田壽賀子ドラマ 渡る世間は鬼ばかり』 『おんなは度胸』 『春よ、来い』 『なるようになるさ。』シリーズ 『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』など |
受賞 | |
NHK放送文化賞:1979年(昭和54年) 菊池寛賞:1984年(昭和59年) モンブラン国際文化賞:2000年(平成12年)など | |
その他 | |
「橋田賞」創設者 紫綬褒章:1988年(昭和63年)、 勲三等瑞宝章:2004年(平成16年)、 文化功労者:2015年(平成27年)、 文化勲章:2020年(令和2年)、 従三位:2021年(令和3年)、 熱海市名誉市民:2021年(令和3年) |
1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー[4][5][6]。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出した。
代表作は『おんな太閤記』、『おしん』、『いのち』、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』、『春日局』、『渡る世間は鬼ばかり』、『橋田壽賀子スペシャル 源氏物語 上の巻・下の巻(光源氏第1部・第2部)』、『おんなは度胸』、『春よ、来い』、『なるようになるさ。』シリーズ、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』など。
日本統治時代の朝鮮・京城で1925年(大正14年)に生誕。勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごした。父親は、チタンを産出する鉱山と土産店を営んでおり、母も店に出て忙しく、「オモニ」と呼ばれていた近所の主婦が世話をした[7]。
大阪府立堺高等女學校卒業後、日本女子大学文学部国文学科入学。日本女子大3年生時、空襲で大学が閉鎖。大阪へ戻り海軍経理部へ勤めていた時に終戦を迎える[8]。その後「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」をテーマに卒業論文を執筆し、日本女子大学を卒業。 この後、東京大学を受験するも失敗。学者になる事を諦め同時に受験をしていた早稲田大学第二文学部国文科に入学、その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退。
女学校時代は文章が苦手だった。その当時、日本軍兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともあったが、それは母が壽賀子の名前を使って書いたものであった[9]。早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎の脚本塾に通って演劇の執筆を始めた[9]。
1949年(昭和24年)、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となった。最初の脚本の仕事は、1950年(昭和25年)公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄)における新藤兼人の手伝いであった[9]。初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年(昭和27年)公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫、主演:岸恵子)[10]である。
1959年(昭和34年)、秘書への異動を拒否して松竹を退職し、独立作家となる。ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどした[10][注 1]。1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めた。
東京放送・創立記念日でもある1966年(昭和41年)5月10日(橋田の41歳誕生日)にTBS編成局企画部・課長岩崎嘉一(誕生日の関係で5歳あるいは4歳下[3])と結婚。結婚式の仲人は石井ふく子が務めた[3]。「岩崎は肺腺がんに罹患している」と1988年9月24日に宣告され「自分が癌に罹患している」と夫が知ったら自殺するのではないかと思い「夫には本当のことを言わないでください。お願いします」と懇願する橋田に医師は「では肋膜炎ということに」と渋々答えた[3]。
翌年元日にNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていたが岩崎の看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信がなく、橋田が石井に相談すると「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振った[3]。1989年(平成元年)9月、死別。晩年の岩崎とは、別荘地として知られる「熱海自然郷」で暮らした。橋田は当時を「私は若くして両親を亡くしている。一人っ子なのできょうだいもいない。そしてたった一人の家族だった夫を、こうして失った。」[3]と回顧している。静岡県熱海市で柴犬の「さくら」と暮らし、東京〜熱海間を往復する生活を送った。自宅は急峻な玄岳の頂上付近にあり、自動車を自ら運転して往復していた。
1992年(平成4年)、亡夫の岩崎の遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立。理事長に就任し、橋田賞を創設した。
2014年(平成26年)5月、『女性自身』で、同年4月開始の『なるようになるさ。』第2シリーズの視聴率低迷が主たる理由で脚本家業の引退を示唆していると報じられた。橋田本人は同誌の取材に対し、「引退したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね」と語った[11]。
2015年(平成27年)8月20日、フジテレビ『ノンストップ!』のインタビューで「今の俳優さん達、名前も分からない。これじゃ(脚本)書けないから仕事が来ない」「ミステリーとか不倫ものとかばかり。普通のホームドラマが生きられない時代になった」と語り、改めて脚本家引退を示唆したが[12]、その後引退報道に関する週刊女性の取材に対して「お仕事はまったく来ないです。いま、ホームドラマなんかやるところはないですから。私の時代じゃないと思いますよ。でも、引退はしません。また私が書きたいものを書かせてくれるところが出てきたら書かせていただきます。ただ、今はお休みして、充電中です」と引退を否定した[13]。同年10月30日、日本政府より脚本家として初(監督作品も存在する脚本家を除く)となる文化功労者に選出されたことが発表された[14]。 そして2020年10月27日、同じく脚本家として初の文化勲章受賞者に選出されたことが日本政府より発表された。
2021年(令和3年)2月下旬から、急性リンパ腫の治療のため東京都内の病院に入院。3月からは自宅のある静岡県熱海市内の病院に移り、治療を続けた。4月3日に自宅に戻り、翌4日9時13分、死去した[15][16]。95歳だった。臨終は同じ熱海に居を構える泉ピン子が看取っている。橋田本人の遺志により葬儀は執り行わず同月5日に火葬され[17]、同月9日に両親の墓所がある愛媛県今治市内の寺院と夫・岩崎が眠る静岡県の冨士霊園に納骨された[18]。死没日付をもって従三位に叙された[19][20]。また、長年執筆の拠点を構えた熱海市は、2021年(令和3年)4月10日の熱海市表彰式典で、名誉市民の称号を追贈した[21]。
2022年6月15日、生前親交の深かった女優の泉ピン子が、火葬場で特別に分けてもらったという橋田の遺骨を、クルーズ船「飛鳥II」から海洋散骨したと報告した[22]。
「大衆に受け入れられてこそ価値のある作品」という信念のもと、数多くの作品でヒットを飛ばした。代表作は『おしん』(1983年 - 1984年、NHK総合)や『渡る世間は鬼ばかり』(1990年 - 2019年、TBS)が有名。他にも、『おんな太閤記』(1981年、NHK総合)、『いのち』(1986年、NHK総合)、『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』(1987年 - 1989年、TBS)、『女たちの百万石』(1988年、日本テレビ)、『春日局』(1989年、NHK総合)、『おんなは度胸』(1992年、NHK総合)、『春よ、来い』(1994年 - 1995年、NHK総合)、『テレビ、翔んだ!』(1999年、日本テレビ)、『ハルとナツ 届かなかった手紙』(2005年、NHK総合)、『99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』(2010年、TBS)など、数多くの傑作を輩出し、いずれも後世に残る作品を輩出した。
NHKやTBSの制作作品で脚本を担当することが多く、テレビ東京での仕事はまったくない(これは同局がドラマをほとんど放映しないことも起因している)。
橋田の脚本は、一つの台詞が長いこと、そして演出家や俳優による台詞の変更やアドリブを許さないことで有名だった。橋田作品の常連で主役級の役どころも多かった女優の泉ピン子は、一つの台詞が台本1ページ分に及ぶこともありたいへん難儀したことを述懐している。
助詞の「てにをは」一字の言い間違いすらも許さず、アドリブも一切禁止だった。これは松竹時代に脚本を担当した映画の撮影過程で、監督から映画は絵で見せるものだから台詞をもっと短くしろと言われたり、俳優たちが台詞を勝手に削ったりしていたことに対する反発が一種の怨念となり、それが「映像なんて信じていない」という信念につながったことから来るものだという[23]。
「作る」を「こしらえる」、「味噌汁」を「おみおつけ」など、今日ではあまり耳にしなくなった古風で上品な表現を台詞に多く用いるのも特徴。「〜して頂く」や「〜させて頂く」などの謙譲語の多用も目立った。これは「長幼の序をはっきりさせ、きれいな日本語をテレビだけでも使いたい」という思いによるものであるという[23]。
長台詞については、「主婦が家事をしながらでも、テレビ画面を見ることなく台詞のみで話の筋が分かるように配慮している」ともインタビューなどで述べている[23]。
泉ピン子などに代表される、「橋田ファミリー」に属する役者が頻繁に起用される。
ただし、ファミリーのみでのドラマ制作は無論限界があり、かつ、主人公を演じられる俳優は限られるため、赤木春恵、山岡久乃、八千草薫、河内桃子、渡辺美佐子、草笛光子、池内淳子、若尾文子、佐久間良子、宇津井健、角野卓造、橋田の盟友・石井ふく子と共に高く評価していた三田佳子や大原麗子、石井親子と二代に渡り交流のあった杉村春子、山村聡や山田五十鈴や森光子や淡島千景などが主役・準主役・あるいは特別出演扱いで出演している(森繁久彌とは接点がなかった)。赤木や山岡と同じくお母さん女優だった加藤治子も出演する機会がなかった。
丹波哲郎や小林桂樹も重要な役どころで出演しており、またコメディアンとして活躍していたいかりや長介や伊東四朗が役者として活躍するきっかけともなった。
橋田が俳優として努力する様子に感じ入ったというガッツ石松も、良い役を与えられ、幾度となく出演している。
また、イケメン・美女・美少女を登場させる場合には、ジャニーズ事務所、石原プロモーション、オスカープロモーションからの出演が目立つ。
多くの橋田作品のプロデューサーを務める石井ふく子とは公私ともに親しく、「石井さんには(石井プロデュースではない作品でも)何でも相談する」と公言している。
自らの作品を題材にした『おしん音頭』『渡鬼音頭』で作詞を手がけるが、両曲とも作品の雰囲気から大きく逸脱しているとして物議を醸した。
来宮神社の氏子としても知られ、当地熱海市上多賀・同西山町の賛同する付近の民芸品店などには、橋田ドラマの掲示が数多く掲げられている。また、毎年節分に来宮神社で開催される豆まきには、20年以上参加している。自宅は相模湾沿いから比較的近く、地元から手伝いに訪問する同年代のファンも多い。
日本で離婚が増加してきたことについて、「結婚に男女平等はあり得ない」「若い人たちが相手に何かを求めすぎている」と苦言を呈した。また、夫・岩崎からは「どんなことがあっても、俺の前で脚本を執筆するな」と言われ、主婦業に手を抜かず、岩崎が寝ている時や不在の時に執筆活動した。これを岩崎が死去するまで徹底的に守り通したという[24]。
夫・岩崎の遺言である「不倫と人殺しの話は絶対書くな」という言葉を守っている[注 2]。共にテレビ朝日のドラマである『相棒』や『科捜研の女』を視聴する一方、両作いずれも「初期の方が面白かった」と評している[25]。
2013年10月12日放送分の『サワコの朝』(毎日放送・TBS)では昨今の若者について「わからないし嫌い」「努力しないで成功を求める」と批判した。また、『渡る世間は鬼ばかり』に出てくる若者は(インタビュー当時から見た)現代の若者のような人物ではないと話していた。一方で「一流の脚本家は、山田太一、倉本聰、向田邦子。だから私は二流」と謙遜していた。 橋田賞を設立した後、その賞の受賞者や脚本家の卵達を集めて、各業界の先駆者を講師として橋田寿賀子セミナーを毎年行った。講師には脚本家や演出家、現役プロジューサーである、内館牧子、清弘誠、杉田成道 脚本家として精進する為の講座は未来の脚本家に希望を与えた。
1990年代後半、その独特の風貌(加藤浩次からは「ミニラ」と呼ばれた)やキャラクター、物言いが女子高校生などに受け、改編期に橋田の旅番組が制作されたり、フジテレビ『笑っていいとも!』(1998年 - 2001年)にレギュラー出演したりするなど、一時期はレギュラー番組を多数抱えた(「スガコブーム」)。しかし、相手のトークを遮って突然喋り始めることもあり、基本的にバラエティ番組に不向きな性格だったことが次第に明らかになって、「スガコブーム」は終わりを告げた[独自研究?]。
ただし、橋田本人は「話好き」「目立ちたがり屋」と公言しており、声がかかればテレビ番組にも積極的に出演していることから、以降も他の著名脚本家と比べればメディアへの露出度は群を抜いて高かった。特にTBSの番組には、自身の番組宣伝も兼ねて出演することが多く、期首期末特番『オールスター感謝祭』(TBS)などにも頻繁に登場した。公私共に親しい泉ピン子と一緒に出演することも多かった。
また、笑っていいとも!での共演して以降中居正広や香取慎吾がMCを務める番組への出演は度々あったが、2017年11月15日放送の「おじゃMAP!!」(フジテレビ)では、SMAP解散後、元SMAPメンバーとの初共演となった。
『徹子の部屋』(テレビ朝日)には6度出演している。死去の2日後の2021年4月6日の分は過去の出演時の映像を編集した追悼特集として放送された[26]。
以下は「橋田壽賀子スペシャル」の冠が付く作品。
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