虫送り
日本の農村における呪術的行事 ウィキペディアから
虫送り(むしおくり)は、日本の伝統行事のひとつ。農村において、農作物につく害虫を駆除・駆逐し、その年の豊作を祈願する呪術的行事である[1]。虫追い(むしおい)など、西日本では実盛送り(さねもりおくり)または実盛祭(さねもりまつり)など数多くの別名がある。

概要
虫による害は、不幸な死をとげてしまった人の怨霊と考える御霊信仰[2]に関係した[1]、「害のあるものを外に追い出す」呪いの一つである。神社で行われる紙の形代に穢れを移す[3]風習との共通性が見られる。
春から夏にかけての頃(おもに初夏)、夜間たいまつを焚いて行う。また、藁人形を作って悪霊にかたどり、害虫をくくりつけて、鉦や太鼓を叩きながら行列して村境に行き、川などに流すことが行われる地域もある。地域によっては七夕行事と関連をもって行われる。
かつては全国各地に数多く見られたが、農薬が普及するに連れて害虫の脅威が低減したことに加え、過疎化、少子高齢化、米価の下落などによる農業の衰退と、その結果としての担い手不足も大きく影響し、次第に行わない地域が多くなっていった[4]。火事の危険などを理由に取り止めた地域もある。現在行われているものも、原形を留めるものは少ないといわれている[4]。農業と地域社会に深く関わる伝統行事であるため、その保存には農業および地域社会の活性化と維持が不可欠で、大きな課題となっている[4]。
実盛について
『平家物語』でも知られる平安時代末期の平氏武将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)は、篠原の戦いのさなか、乗っていた馬が田の稲株につまずいて倒れたところを源氏方の敵兵に付け込まれ、討ち取られてしまったため、その恨みゆえに稲虫(稲につく害虫)と化して稲を食い荒らすようになったという言い伝えが古くから存在した[5][4]。そのため、稲虫(特にウンカ)は「実盛虫(さねもりむし)」(cf. wikt) とも呼ばれ、主として西日本では、実盛の霊を鎮めて稲虫を退散させるという由来を伝え[4]、この種の「虫送り」を指して、実盛送り(さねもりおくり)または実盛祭(さねもりまつり)と呼んでいる[6][7]。また、砕けた表現として実盛さん(さねもりさん)[8]とも呼ばれる。
この実盛という語は、田植えの行事「サノボリ」(早のぼり)が転訛という説もある[9]。
季語
日本語「虫送/虫送り(むしおくり)[10]」は、夏の季語(晩夏の季語)である[11]。分類は行事[12][* 1]。
虫送/虫送りの子季語[* 2]としては、虫流し(むしながし。虫送の別名)[13]、実盛送り(さねもりおくり。虫送の行事。虫送の近畿・中国・四国・九州での呼称)[14]、田虫送り(たむしおくり。田における虫送)、稲虫送/稲虫送り(いなむしおくり。虫送の別名)[15]、虫追/虫追い(むしおい。虫送の別名)[* 3]、虫供養(むしくよう。耕作するなかで殺した虫の霊を慰める供養)[16]、実盛祭(さねもりまつり。実盛送りの別名)[17]がある[11]。
また、秋の虫送りは、秋の季語(仲秋の季語)である[18]。分類は行事[19]。
関連季語として、田畑虫送(たはたむしおくり。秋の季語。分類は行事。田畑における虫送)[20]、稲虫(いなむし。秋の季語。分類は動物。稲を食害する虫)、実盛虫(さねもりむし。秋の季語。分類は動物。斎藤実盛の怨霊が害虫と化したものと信じられた、稲を食害する虫。現代科学的解釈ではウンカに属する淡黄色または黄白色の昆虫を指す)[21]がある。
歴史
年表
先史時代
古代
- 大宝元年8月(701年9月頃[* 4]、飛鳥時代末期) - 三河国(現在の愛知県東部地域)を始めとする17か国に蝗害あり/『続日本紀』巻2 大宝元年8月辛酉条に基づく。以後、数年おきに蝗害の記録あり。
- 天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年(749年、奈良時代中期) - 下総国(現在の千葉県北部・茨城県西部地域等)に蝗害あり/『続日本紀』に基づく。
- 弘仁3年(812年、平安時代初期) - 薩摩国(現在の鹿児島県西部地域)に蝗害あり/ウンカによる。『日本後紀』巻22 弘仁3年条に基づく。
- 寿永2年6月1日(西暦換算:1183年6月22日、平安時代末期) - 篠原の戦いで平氏武将・斎藤実盛(斎藤別当実盛)が戦死/その最期を伝える逸話が、後世、主として西日本で稲虫を追い払う呪術的神事と強く結びつくこととなる。
中世
近世
- 江戸時代全般 - 広く日本各地の農村で虫送りが行われていた[24]。
- 寛文元年(1661年、江戸時代初頭) - 小豆島の伝法川流域で虫送りが始まる/香川県小豆郡土庄町肥土山の自治会の史料による。
- 寛文10年(1670年) - 筑前国(現在の福岡県北西部地域)にて、鯨油を使った稲虫の注油駆除法が考案される[24]。
- 享保17年夏(1732年夏、江戸時代前期) - 享保の大飢饉が発生/梅雨入りから2か月も続く長雨による深刻な冷夏と稲虫(ウンカ)の大発生で西日本全域が大凶作に見舞われる。とりわけ瀬戸内の被害は甚大であった。稲虫の大発生については前年の暖冬も影響している。稲虫の大きく関わる飢饉としては日本史上最大のものとなった。
- 慶応4年5月26日(1868年7月15日、幕末) - 鹿子原の虫送り踊(島根県邑智郡邑南町矢上鹿子原の虫送り)の虫送り当日の献上物の記載あり。
明治・大正時代
昭和時代
- 第二次世界大戦終戦後間もなく - 有機合成殺虫剤であるDDTやBHCが登場し[24]、稲虫の注油駆除法は約280年もの長きに亘る役割を終えた[24]。
- 昭和30年代(1955~64年) - 滋賀県下でプロパンガスが普及し、従来の自家燃料としての菜種殻の需要が無くなる。菜種栽培の急速な衰退は虫送りに欠かせない松明の材としての菜種殻の調達が困難になったことを意味し、これを機に儀式そのものが一気に廃れていった。
- 1964年(昭和39年) - 横江の虫送り(石川県白山市横江町の虫送り)が、白山市指定無形民俗文化財となる。最も早期の例。
- 1967年(昭和42年)5月30日 - 鹿子原の虫送り踊(島根県邑智郡邑南町矢上鹿子原の虫送り)が、島根県指定無形民俗文化財となる。早期の一例。
- 1973年(昭和48年) - 青森県五所川原町(現・五所川原市内)にて「奥津軽虫と火まつり」の誕生/地元の青年会議所が地域の虫送りに火祭りの要素を取り入れたことで成立した。
平成時代
指定文化財等
- ※丸括弧内の数字は、指定または選択された年。指定の早いものを先に記載する。数字の無いものは指定された年を確認できないもので、最後に記載する。
- 国の重要無形民俗文化財 - 該当なし。
- 国の選択無形民俗文化財 - 祖父江の虫送り (1991)。
- 都道府県指定重要無形民俗文化財 - (福島県三島町の)虫送り。
- 都道府県選択無形民俗文化財 - 該当なし、もしくは未確認。
- 都道府県指定無形民俗文化財 - 鹿子原の虫送り踊 (1967)。尾張の虫送り行事(矢田) (1984)。尾張の虫送り行事(祖父江) (1984)。北浦地方のサバー送り (2009)。相内の虫送り (2011)。
- 市町村指定重要無形民俗文化財 - 高橋の虫送り。
- 市町村選択無形民俗文化財 - 犬石の虫送り行事 (1983)。先達の虫送り (2010)。東横田の虫送り行事 (2016)。
- 市町村指定無形民俗文化財 - 横江の虫送り (1964)。肥土山の虫送り (1970)。中山虫送り (1970)。木境大物忌神社の虫除け祭り (1992)。野田の虫送り (1998)。南山田の虫送り (2005)。(福井県鯖江市の)虫おくり (2006)。善願の虫送り (2015)。(岐阜県美濃市の)虫送り。山田町虫送り。奥津軽虫と火まつり。日吉の御鍬祭り。(愛媛県西予市城川町の)実盛送り。
各地の虫送り
要約
視点
関連する神社側の名称としては、神事を分類するに当たっての「虫送祭(むしおくりさい)」がある[25]が、神事としての固有名称は神社ごとにあり、「虫送祭」「蝗除祭(こうじょさい)」「除蝗祭(じょこうさい)」「除蝗祈願祭(じょこうきがんさい)」「除虫祭(じょちゅうさい)」などがこれに当たる。一方で、「虫送り」「虫追い」「いもち送り」などは、神社の正式な神事名とは別に担い手たる農村の人々に親しまれてきた俗称である。また、行政府や保存会の定めた名称もあり、こういったものは、管理・告知・宣伝等の必要に応じて地域名を冠したり(例:相内の虫送り、中山虫送り、尾張の虫送り行事(矢田))、独自の命名がなされたりすることがある(例:奥津軽虫と火まつり)。
- ここでは、存続している(あるいは廃絶した)虫送りを、地方別・都道府県別(※基準は全国地方公共団体コード)で列記する。なお、学術調査が全国規模で行われた記録は無く、保存状態の全容は掴めない[26]。
- 近代や近世以前にまで時代を遡れるものは、当時の慣習地名(○国〈形骸化した令制国〉△郡□村など)や行政地名(○州△藩知行□村、○県△郡□村など)をなるべく併記する。
東北地方
- 参考資料 - (外部リンク)文化庁 文化財部 伝統文化課 (2014年3月31日). “青森県南部地方の虫送り ─調査報告書─” (PDF). 公式ウェブサイト. 文化庁. 2018年5月29日閲覧。
- 青森県の虫送り
- 虫送り
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- 青森県五所川原市(旧・北津軽郡五所川原村界隈。江戸時代における陸奥国津軽郡の喰川村・平井村・柏原村界隈、幕藩体制下の弘前藩知行喰川村・平井村・柏原村界隈)に伝わる。五所川原市指定無形民俗文化財。1964年(昭和39年)、常陸宮正仁親王と旧弘前藩津軽家出身の津軽華子(華子妃)が、結婚の報告のために五所川原を訪れた際、各集落ごとに実施されていた虫送りを中心市街地に集めて盛大に執り行ったことをきっかけに、虫送りは市の祭りとして実施されるようになった[34]。さらに1973年(昭和48年)、五所川原青年会議所が地域の虫送りに火祭りの要素を取り入れたことで現在の「奥津軽虫と火まつり」が誕生した[34]。
- 秋田県の虫送り
- 山形県の虫送り
- 蝗除祭(こうじょさい、俗称:虫送り)
- 福島県の虫送り
- 虫送り
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- 高橋の虫送り
関東地方
- 埼玉県の虫送り
- 千葉県の虫送り
- 神奈川県の虫送り
- 川和の虫送り(かわわのむしおくり)
- 南山田の虫送り
- 神奈川県横浜市都筑区南山田(旧・都筑郡中川村山田。江戸時代における武蔵国都筑郡山田村、幕藩体制下の御料もしくは旗本領武州山田村)に、江戸時代より伝わる[48]。横浜市指定無形民俗文化財[49](2005年〈平成17年〉指定[48])。戦後(第二次世界大戦後)は途絶えていたが、1976年(昭和51年)に復活した[49]。新暦時代の現在は7月の土用入り後の最初の土曜日に行われている[49]。視点は氏神である山田神社[49]。獅子頭、独自の囃子「虫送りの曲」、空き缶に火を灯した松明、囃子連によるひょっとこ踊と獅子舞など、多くの独自性が見られる[49]。地域は宅地化されて往時の農村風景を失っているが、保存会(虫送り行事保存会)と町内会を主催とし[48]、地域の夏の恒例行事として伝承されている[49]。松明の数を、200本であった2015年(平成27年)に対して翌2016年(平成28年)は250本に増やすなどしている[48]。
中部地方・東海地方・北陸地方
- 新潟県の虫送り
- 善願の虫送り(ぜんがのむしおくり)[50]
- 下田の虫送り(しただのむしおくり)
- 富山県の虫送り
- 床鍋の虫送り(とこなべのむしおくり、別名:虫送り 大松明火祭り)
- 富山県氷見市床鍋[* 13](1896年〈明治29年〉以前の氷見郡速川村床鍋、1889年〈明治22年〉以前の射水郡床鍋村。江戸時代における越中国射水郡床鍋村、幕藩体制下の加賀藩知行越中床鍋村)に伝わる[52]。約130年前(2017年時点)に始まり、一時途絶えたが、1990年(平成2年)に復活した[52]。現在は新暦6月中旬に行われる[53]。幣帛を立てて[53]竹と藁を主材に作られた直径約1メートル・長さ約8メートルの円筒形の大松明に村外れで火を点けた後[52][53]、山道や畦道を曳き廻し[52]、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら「泥虫どろむしほーい、泥虫ほい」の囃子文句と共に練り歩き[52]、最後に大松明を(現在は1992年〈平成4年〉に廃校した旧床鍋小学校跡のグラウンドに[53])立て、一気に燃え上がる炎で稲虫を追い払う[52]。2004年(平成16年)に富山県教育委員会主催で選定された「とやまの祭り百選」の選定物件の一つ(選定名称:床鍋の虫送り)[54]。
- 除蝗祭(じょこうさい)
- 石川県の虫送り
- 横江の虫送り
- 石川県白山市横江町[* 15](旧・石川郡横江村。江戸時代における加賀国石川郡横江村、幕藩体制下の加賀藩知行加州横江村)に、江戸時代より伝わる[56]。白山市指定無形民俗文化財(1964年〈昭和39年〉11月1日指定)[56]。起源については、加州郡代(郡奉行)に願い出たという江戸時代の史料等が残っている程度で、いつごろ始められたかなどは不明[56]。新暦時代において以前は毎年7月21日の夜に行われてきたが、現在7月の海の日の前日に行われている[56]。起点であるなど、関連社として宇佐八幡神社(横江町1に所在)が大きな役割を果たす[56]。横江の虫送りは、伝承の古さと規模の大きさも特徴といえる[56]。
- なお、日本各地と同様、現・白山市域でも山麓部から平野部まで農村で古くから広く行われていたが、農薬が普及するに連れてほとんどの集落で廃れ、今では極わずかな集落でしか見ることができない[56]。
- 福井県の虫送り
- 長野県の虫送り
- 東横田の虫送り行事(ひがしよこたのむしおくりぎょうじ)
- 先達の虫送り(せんだつのむしおくり)
- cf. 日吉の御鍬祭り(ひよしのおくわまつり)
- 岐阜県の虫送り
- 虫送り
- 愛知県の虫送り

- 矢田の虫送り行事(やたのむしおくりぎょうじ)
- 祖父江の虫送り(そぶえのむしおくり)[67]
- 虫送り
- 蝗除祭(こうじょさい)
- 三重県の虫送り
近畿地方
- 滋賀県の虫送り
- いもち送り
- 虫送り
- 滋賀県蒲生郡竜王町の6集落(岡屋[* 30]、小口おぐち、薬師、山之上、田中、綾戸。※全て大字)で存続、11集落(鏡、山面やまづら、西川、須恵すえ、橋本、弓削ゆげ、信濃、庄、川上、林、駕輿丁かよちょう。※全て大字)で廃絶[26][* 31]。地域性から「竜王町の虫送り」と呼んで差し支えないと思えるが、固有の公式名称は無い。滋賀県下ではどこも同じで、プロパンガスが普及することで従来の自家燃料としての菜種殻の需要が無くなったがゆえに菜種栽培が急速に衰退した昭和30年代(1955~64年)に、虫送りに欠かせない松明の材としての菜種殻の調達が困難になったことを機に、儀式そのものが急激に衰退したという[26]。[74][75]
- 蝗除祭(こうじょさい、俗称:いもち送り)[76]
- 京都府の虫送り
- 虫送り
- 奈良県の虫送り
中国地方
- 島根県の虫送り
- 鹿子原の虫送り踊(かねこばらのむしおくりおどり)[84]
- 島根県邑智郡邑南町矢上やかみ鹿子原[* 37](江戸時代における石見国邑智郡矢上村鹿子原、幕藩体制下の石見浜田藩知行矢上村鹿子原)に伝わる。島根県指定無形民俗文化財(1967年〈昭和42年〉5月30日指定[84])[85]。太平洋戦争中も中止することなく続けられた[4]。古形を残す虫送り行事として全国でも数少ないものの一つ[86][4][87]で、斎藤実盛由来の虫送りである実盛送りに、安芸国芸北地方(現・広島県芸北地方)より習い伝えられた太鼓踊が附随するという全国でもほとんど例が無い希少性でも高く評価されている[4]。1937年(昭和12年)に編纂された『邑智郡誌』(森脇太一編)によれば、慶応4年5月26日(新暦換算:1868年7月15日)に行われた虫送り当日の献上物の記載があり、少なくともこの頃には行われていたことが分かっている[4]。保存会は1963年(昭和38年)に結成された[4]。虫送り踊が奉納される諏訪神社は、平安時代中期にあたる承和2年(835年)、荒地を開拓するために信濃国の諏訪大社から農業神を分霊した社で、健御名方神(タケミナカタノカミ)と八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)という夫婦神を祭神とする[4]。
- 広島県の虫送り
- 虫送り
- 風祈祷(かぜきとう)
- 蝗除祭(こうじょさい)
- 蟲送り神事(むしおくりしんじ)
- 虫送り
- 山口県の虫送り
- 山口県長門市の深川湾に面した地域(かつての大津郡深川村および日置村。江戸時代における長門国大津郡深川村および日置3か村、幕藩体制下の長州藩知行深川村および日置3か村)を核として今に伝えられる。古来、地元では「サバー送り」と通称されるが、山口県指定無形民俗文化財(2009年〈平成21年〉4月14日指定[96])としての指定名称は「北浦地方のサバー送り」である[93]。北浦地区(長北地区)の名を冠してはいるが、行われているのはその一角。現在は新暦7月1日に行われる[94]。当地域では、藁を主材として作られた2躯の実盛人形を長門市東深川藤中ふんじゅうから下関市豊北町粟野まで送り継ぐことで稲虫の災禍を追い払う[93][94]。2躯の実盛人形は共に長さ約2メートル・高さ約1メートルの騎馬武者姿で[94]、それぞれに「サバーサマ」「サネモリサマ」と呼ばれるが[94]、前者はウンカである稲虫の化身であり、後者は斎藤実盛の霊を指すという[94][95]。実盛人形の基となる藁人形は、東深川藤中にある飯山八幡宮社務所[* 43]で、8名の氏子によって送り継ぎの始まるおよそ1週間前に作成される[93][94]。その藁人形は八幡宮宮司に引き継がれ[93]、送り継ぎ開始前々日までに、和紙に書いた顔、和紙で作成された兜、羽織の代わりとされる和紙、木の刀が着けられ、騎馬武者姿に仕立てられる[93]。兜と羽織には毛利家の印である「一○」が記される[93]。この後、送り継ぎ開始当日までの2日間、八幡宮で虫除けの神事が行われる[93]。送り継ぎは先の藤中から中山・江良・上郷の順に二十数か所の集落で行われる[94]。その後は年によって違うが、人形は送り継いだ地域の住民によって抱えられ、西深川境川を経由した後、日置上長崎へきかみ ながさこ[* 44](旧・大津郡日置上村長崎)まで運ばれる[94](※2010年代現在は経路の多くで軽トラックが使われる[95])。その後は、各自治会や子供会などの手で数週間かけて各地域を送り継ぎ、下関市豊北町粟野[* 45](かつての豊浦郡粟野村。江戸時代における長門国豊浦郡粟野2か村、幕藩体制下の長門府中藩知行粟野2か村)まで運ばれる[93][94]。粟野以降の順路は決まっていないものの、最後は、多くの場合は海(油谷湾)に流され[93][94]、時には燃やされる[94]。
- サバー送り
四国地方
- 徳島県の虫送り
- 実盛さんの虫送り(さねもりさんのむしおくり)
- 香川県の虫送り
- 虫送り
- 中山虫送り(別名:中山の虫送り、稲虫送り)[99]
- 香川県小豆郡小豆島町中山[* 51](江戸時代における讃岐国小豆郡中山村、幕藩体制下の讃州津山藩知行中山村)に、350年以上前から伝わる(※2010年代時点)[107][* 50]。小豆島町指定無形民俗文化財(1970年〈昭和45年〉指定)[105]。少子高齢化による後継者不足のために2005年(平成17年)以降行われていなかったが、松竹映画『八日目の蝉』の撮影で2010年(平成22年)に再現され、翌2011年(平成23年)にはそれを受けて再開された[108][109]。元来は半夏生(夏至から11日目)の日に、現在では新暦7月の第1土曜日に行われる行事で、火手(ほて)と呼ばれる竹製の松明を携え、中山千枚田と呼ばれる棚田の畦道を歩き、害虫駆除と豊作を願う[109]。
- 愛媛県の虫送り

- 実盛送り
- 愛媛県西予市城川町の田穂たお・魚成うおなし地区[* 52](旧・東宇和郡の田穂村・魚成村界隈。江戸時代における伊予国宇和郡田穂村・魚成村界隈、幕藩体制下の予州宇和島藩知行田穂村・魚成村界隈)に伝わる。300年以上の歴史があるという(2010年代時点)。西予市指定無形民俗文化財[110]。田穂地区は農林水産省の「日本の棚田百選」にも選定されている「堂の坂の棚田」を擁し、実盛送りでもここを練り歩く[111]。当地域の実盛送りは、田穂で木と紙を主材に作られる実盛人形を魚成へ送り継いでゆき[112][110]、最後に道と交わる黒瀬川[* 53]の川辺に着くと河原に人形を置いて、これが大水で流された年は豊作になるという[112]。
九州地方
- 福岡県の虫送り
- 虫追い祭り
- 大分県の虫送り
- 小松明火祭り(こだいひまつり、別名:おがた小松明火祭り)
- 宮崎県の虫送り
- 虫追い
- 除蝗祈願祭(じょこうきがんさい)
地名
地名としての「虫送(むしおくり)」は、少なくとも現存するものとしては極めて珍しい。
住居表示上の地名としては、長野県須坂市日滝原の小字「虫送」[* 58][118]が唯一かも知れない例であり、交差点名の「虫送北」と「虫送南」、長電バス北相之島線の停留所名「虫送入口(むしおくりいりぐち)」[119]としても現存する。この地の「虫送」は、江戸時代において信濃国高井郡北部(のちの上高井郡)の須坂村や日滝村に近い、周辺一帯の農民が共用する出作りの村の名であった[118]。
脚注
関連項目
外部リンク
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