福知山市
京都府の市 ウィキペディアから
京都府の市 ウィキペディアから
福知山市(ふくちやまし)は、京都府の北部に位置する市。中丹地方に含まれる。
ふくちやまし 福知山市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 近畿地方 | ||||
都道府県 | 京都府 | ||||
市町村コード | 26201-3 | ||||
法人番号 | 4000020262013 | ||||
面積 |
552.54km2 | ||||
総人口 |
74,814人 [編集] (推計人口、2024年9月1日) | ||||
人口密度 | 135人/km2 | ||||
隣接自治体 |
舞鶴市、綾部市、宮津市、船井郡京丹波町、与謝郡与謝野町 兵庫県:丹波市、豊岡市、朝来市、丹波篠山市 | ||||
市の木 |
ケヤキ、カシ、ヒノキ、ウメ (1991年4月制定) | ||||
市の花 |
キキョウ、サツキ、ハギ、 レンゲツツジ、フジ (1991年4月制定) | ||||
市の鳥 |
ウグイス、キジ (1991年4月制定) | ||||
福知山市役所 | |||||
市長 | 大橋一夫 | ||||
所在地 |
〒620-8501 京都府福知山市字内記13番地の1 (内記3丁目) 北緯35度17分48秒 東経135度07分36秒 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
戦国時代、明智光秀によって福知山城の縄張りが築かれた。江戸時代になると福知山藩の居城となる。 1937年(昭和12年)には京都市と伏見市(現・京都市伏見区)に続いて、京都府で3番目に市制を施行した。廃藩置県以前の丹波国と丹後国にまたがる。一級河川である由良川が流れている。
さまざまな出土品から、少なくとも縄文時代の初め頃から人が住んでいたと考えられており、古くから交通の要衝として栄えた場所でもある。
特に16世紀には、織田信長の家臣である明智光秀がこの地方を一族で支配していた有力豪族の塩見信房(横山信房ともいう。本城を横山城とし、猪崎城、和久城、牧城等を支城として一族を配置。)を倒し、その居城であった横山城を大修築し福智山城(後の福知山城)としてからは、城下町として栄え、現在でも「鋳物師町」、「呉服町」など地名にその名残を残している。 また、光秀はたびたび大氾濫を起こしていた由良川の治水に成功し、地子銭を免除するなどの善政を敷いたことから御霊神社に祀られ、現在でも市の花が明智氏の家紋であるキキョウとするなど光秀への信望も厚い。(実際には光秀は亀岡城主であり、福知山城主は一族の明智秀満であったとされる。)
近世になると、関ヶ原の戦いの論功行賞により有馬豊氏が八万石の禄高で福知山城に入城し福知山藩を開き、その藩祖となった。(豊氏は戦功を重ね、最終的には筑後久留米藩に移封され、同藩の初代藩主となった。)
その後の藩主は徳川家譜代の大名が転変するものの、朽木氏が藩主となって定着し明治維新を迎えた。
特産品の藍染などのさまざまな農産品を生産し、それらを扱う商業都市として栄えてきたが後継者不足などの問題により、それらの伝統産業は衰退し現在ではほぼ消滅している。現状としては、内陸型工業団地として比較的大規模な長田野工業団地が、1974年(昭和49年)に整備着手がなされたことによる商工業が主な福知山の産業になっているがかつての伝統と歴史を復活させようとする動きが見られ、総合的な学習の時間で学ばせる教育機関などが結成されている。
福知山という地名は、明智光秀が丹波平定後、この地に城と城下町を開いた際に命名したものと考えられ、資料上で確認できるもっとも古いものは津田宗及「宗及茶湯日記」の天正9年4月の記事である。「福知山」の由来には、いくつかの考察があるが、いずれも根拠のないものである。
和泉式部の歌「丹波なる 吹風(ふくち)の山の もみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞおもう」から取ったとの説もあるが、この歌そのものが後世の創作である可能性が高い。あるいは富士山由来の名(別名)によるとの説も存在するが、まったく根拠のないものである。
また別に、福智山の「智」は享保13年(1728年)に朽木氏によって「知」の字に改められたとする説もあるが、近世初頭から幕末にかけて「福知山」「福智山」の両方使われており、これも誤りである。
市域は旧丹波国天田郡を中心とし何鹿郡(佐賀村の一部)と丹後国与謝郡(雲原村)と加佐郡(大江町)に広がり、市域面積の76%は林野が占め耕地面積は7%程度で[1]、綾部市から続く福知山盆地を中心とした平地、それをとり囲む市域面積の大部分を占める山地で構成される。
大阪市からは約70km、京都市、神戸市からは約60km、豊岡市、舞鶴市から約30kmの場所に位置する[2]。市内最高海抜は三岳山の839.17mにまで及び、最低海抜は7.11mである。市街地は旧城下町を中心とし、由良川沿いに長田野工業団地周辺の住宅地まで伸びる。
基本的に日本海側気候であり旧三和町を除いて豪雪地帯である。旧丹後地域(雲原・大江)を除く盆地においては“やまかげ”となり、丹後地方に比較して量は少なめである。また、盆地地形により秋と冬には霧が発生する。特に冬期の早朝の山間部では霧が濃く路面の凍結も見られる。晴天時の午前中の霧、冬季の雪雲によって日照時間が少なくなる。
平地(福知山地域気象観測所)の平均気温は14度程度、年間降水量は1500ミリ程度で年間日照時間は1400時間程度である[3]。降水量の季節分布としては旧丹後地域では降雪を中心に冬季雨量が多いが、以南では梅雨・台風により夏季雨量のほうが多くなる傾向がある[4]。
福知山(旧福知山市)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 17.6 (63.7) |
22.1 (71.8) |
26.1 (79) |
31.1 (88) |
33.9 (93) |
37.1 (98.8) |
38.8 (101.8) |
39.6 (103.3) |
38.3 (100.9) |
32.5 (90.5) |
27.5 (81.5) |
23.4 (74.1) |
39.6 (103.3) |
平均最高気温 °C (°F) | 7.9 (46.2) |
8.9 (48) |
13.1 (55.6) |
19.4 (66.9) |
24.4 (75.9) |
27.3 (81.1) |
31.1 (88) |
32.8 (91) |
28.0 (82.4) |
22.2 (72) |
16.3 (61.3) |
10.5 (50.9) |
20.2 (68.4) |
日平均気温 °C (°F) | 3.2 (37.8) |
3.8 (38.8) |
7.2 (45) |
12.7 (54.9) |
17.9 (64.2) |
21.8 (71.2) |
25.9 (78.6) |
27.0 (80.6) |
22.7 (72.9) |
16.5 (61.7) |
10.7 (51.3) |
5.5 (41.9) |
14.6 (58.3) |
平均最低気温 °C (°F) | −0.2 (31.6) |
−0.1 (31.8) |
2.1 (35.8) |
6.7 (44.1) |
12.2 (54) |
17.5 (63.5) |
22.1 (71.8) |
22.9 (73.2) |
18.8 (65.8) |
12.4 (54.3) |
6.5 (43.7) |
1.8 (35.2) |
10.2 (50.4) |
最低気温記録 °C (°F) | −9.8 (14.4) |
−10.0 (14) |
−6.4 (20.5) |
−3.0 (26.6) |
1.9 (35.4) |
7.5 (45.5) |
12.8 (55) |
15.2 (59.4) |
7.2 (45) |
2.1 (35.8) |
−3.0 (26.6) |
−7.3 (18.9) |
−10.0 (14) |
降水量 mm (inch) | 103.9 (4.091) |
96.5 (3.799) |
115.4 (4.543) |
114.1 (4.492) |
137.5 (5.413) |
163.9 (6.453) |
197.5 (7.776) |
166.7 (6.563) |
214.1 (8.429) |
149.6 (5.89) |
82.9 (3.264) |
89.5 (3.524) |
1,623.8 (63.929) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 14.8 | 13.8 | 13.6 | 10.5 | 10.6 | 11.5 | 12.4 | 9.1 | 11.1 | 9.9 | 10.0 | 13.1 | 140.1 |
平均月間日照時間 | 91.1 | 92.3 | 129.6 | 164.2 | 175.5 | 127.3 | 140.7 | 176.7 | 119.0 | 121.2 | 105.0 | 96.7 | 1,547.4 |
出典:気象庁 |
三和(旧三和町)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
降水量 mm (inch) | 91.8 (3.614) |
94.4 (3.717) |
119.4 (4.701) |
113.2 (4.457) |
129.8 (5.11) |
168.4 (6.63) |
190.1 (7.484) |
152.3 (5.996) |
217.7 (8.571) |
153.6 (6.047) |
88.9 (3.5) |
85.8 (3.378) |
1,616 (63.622) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 14.0 | 13.5 | 13.4 | 10.8 | 10.4 | 11.9 | 11.9 | 9.0 | 11.9 | 10.7 | 9.7 | 11.9 | 139.3 |
出典:気象庁 |
旧福知山市内には地名(字・小字)、自治会名、通称など複数の街区名が存在し、なおかつ自治会名は必ずしも別名称の街区の範囲と一致しないため非常に複雑である。 (例:自治会名「岩井新町」の街区は字「岩井」と「荒河」にまたがる。通称「かしの木台」で呼ばれる地域には「岩井新町」「荒河」が含まれ、その組合わせ名で住所が表記されることがあり、更に自治会名「かしの木台○丁目」も存在する。など多数。)
これは、昭和期に入り旧城下町周辺に急激に新市街地が広がったのに対し、それらの字名を整理しないまま街区名や自治会名をつけていった結果である (例:「字天田小字木村」には、通称「末広町1丁目」の街区があり、自治会名「南本町」で呼ばれる住所がある)。
このため7桁郵便番号は自治会名の街区で分類されふられているが、自治会名を用いない住所で検索すると該当するものを探すことができないという不便が生じている。
かつての福知山は川を利用した水運による流通が盛んで、由良川沿いには港を意味する「津」が付く「天津、高津江、常津」などの地名が数多く存在する。同じく「和久市」は川沿いにあり、水運によりこの付近に市場が出来たことの名残である[5][6]。
中世の室町時代には福知山城の地には小守護代の守護所が置かれ、郡を統治する要の城が築かれていた。
旧市街地でもある福知山の城下町は、織田信長の家臣である明智光秀が地子銭と呼ばれる土地税を免除したことなどから、早くから商工業が栄えた。
近世の江戸時代になると有馬豊氏によって城下町としての町割りが大規模に整備され、現在でも呉服町、鋳物師町、鍛冶町、紺屋町などはそのままの地名として残されており、旧市街地は江戸時代の町割りがほとんどそのまま残っている。ただ、寺町には文字通り多数の寺が所在するが、現在ではその地名に呉服屋や染物屋を構える店はなくなっている(新市街地の問屋町や厚中問屋町は1975年(昭和50年)に行われた区画整理で新しくできた地名であるが、こちらは文字通り多数の卸売業者が軒を連ねている)。
周辺部には、郊外型ショッピングセンターのイオン、プラントなどを擁した開発地や、旧町の集落が見られるが、大部分は多数の田畑が広がる。地形的には山地が多く、クマ[7] だけでなく、シカやイノシシなどの多数の野生動物が生息している。福知山の特産品である丹波栗などを含む農作物が狙われ、年度によって深刻な被害を農家へもたらすこともあり、檻の共同オーナーを募集するNPO法人も存在する[8]。
盆地内を中心に少量で限られた地域ではあるが、淡水に住む貝の貝殻の化石が出土している。貝殻の種類に加えその分布などから、2〜30万年前の氷河期には福知山盆地内全てが湖あるいは沼の底であったと考えられている。この湖(沼)は福知山湖と呼ばれる[9]。また、各河川流域の調査から、かつて由良川は土師川(竹田川)を介して加古川につながり南下していたと考えられる。これらから、地形の沈降により南下の流れが止まったことで盆地一帯は湖沼を形成、さらなる変化により日本海側への流路ができると湖沼の水位は下がりやがて消滅、現在の市内を流れる由良川、土師川、牧川などに変化していった、という経緯が考えられている。盆地内の河川勾配が非常に緩く、出口付近がボトルネックとなって大雨時に停滞し度々洪水を引き起こす(参照)というのは、こういう形成履歴を持つためであろうと考えられる。また、これらの名残としては、由良川上流域に当たる船井郡京丹波町安栖里(あせり)周辺の4段にもなる大規模な河岸段丘の存在、市内の長田野(おさだの)の高位段丘面を持つ洪積台地の存在などがある[4]。
また、羽合の丘陵地や長田野台地には、福知山層とよばれる砂と泥と礫(れき)で構成される地層を見ることができる。その名のとおり福知山を特徴付ける地層であり、近畿地方の山間盆地埋積層を特徴づける学術上価値を持つ。しかし宅地開発が進む中、この地層の存在は危うくなっており京都府レッドデータブックに登録されている[10]。
一方、福知山盆地外にあたる夜久野町額田(ぬかた)からは約2億2千万年前の新種のアンモナイトの化石が出土している[10]。出土した地名にちなんで「ヤクノセラス・ヌカタエンゼ」と名付けられた[11]。アンモナイトは本来海底に生息する生物であることから、かつての海底が隆起したものと考えられるが、詳しい地形形成履歴は分かっていない。 また、市内夜久野町小倉に所在する田倉山は夜久野高原を形成した京都府下唯一の火山であるが、そのふもとには柱状節理の玄武岩を見ることができる[10]。
この地ではかつてさまざまな鉱物が産出されており、特に大江山は金属鉱脈が多く河守鉱山では銅鉱・黄銅鉱・硫化鉱・クロム鉄鉱・銀鉱が、また仏性寺鉱山ではモリブデン(水鉛)が採掘された。また、上川口地区の富国鉱山は国内有数のビスマス鉱山であった(なお、大江山ニッケル鉱山は、与謝野町域にあたる)。このほか現在廃坑となっているいずれの鉱山も、京都府レッドデータブックに登録[10] されており、坑道の整備、保存の必要性が叫ばれている。
かつての由良川の流れは現在の福知山駅周辺にまで流れており[12]、また大雨が降るたび氾濫を起こし周辺の人々や建物に加え農作物などに深刻な被害をもたらす暴れ川であった。
明智光秀が福知山を統治するようになると、光秀は後に城下町ともなる城に連なる居住地造営と治水のため、長さ1kmにも及ぶ築堤により川筋を大幅に変更した[13] ことにより川の流れは大幅に改善されたが、それでも洪水は収まらず、その後の為政者も治水に尽力を惜しまなかった。堤防保護のための藪を今もなお見ることができ、現在、国土交通省により行われている堤防築造や水位の監視などは光秀に始まるものである。
例えば1896年(明治29年)と1907年(明治40年)に起きた大雨による氾濫は、両者とも同じ堤防が決壊したことにより市街地は2階まで床上浸水し、水が引くまでは屋根の上で生活し移動も船でという状況だった。後者は前者と比べて教訓が生かされたこともあって被害が少なかった[12] ものの、どちらも市街地はほぼ壊滅状態にまで追いやられた。同時に由良川に架かる橋であった音無瀬橋も2度流され、その費用補填のために大人4厘、子供2厘、牛馬は5厘という通行料を徴収したほどでもあった[14]。加えて1953年(昭和28年)9月25日の台風13号による由良川の氾濫は、最高水位が7.8mにもなる大量の水が福知山市街地全域を水浸しにし、市内で死者は約40名、負傷者は約900名、家屋全壊、半壊ともに1100戸以上、床上浸水においては5300戸以上もの被害をもたらした[13][注釈 1]。この台風のときの被害は地元では「28水」(28災とも)として知られ、このときの水位は福知山と水害を伝える資料として市内御霊公園に標識が設置されている。
その恐ろしさや先人の築いた堤防のありがたさを後世に伝えるため、御霊神社境内には全国唯一の堤防そのものを御神体とする堤防神社が建立されており、1931年(昭和6年)以降の毎年8月15日には、神輿が市内を巡回する「堤防祭り」が行われている[13]。現在の「ドッコイセ花火大会」は、もともとはその祭りの行事の一つとして始まったものである。また、旧市街地の町屋には、浸水時に家財を2階や小屋裏に引き上げる滑車を備えた「タカ」と呼ばれるこの地独特の吹抜けが残されている。他にも三河橋(別名 有路下橋)などに代表される沈下橋の存在や、福知山市治水記念館などでも、当時をかたるさまざまな資料が残されており、水害と共に生きてきた市民の歴史を知ることができる。「タカ」も体験ができる。
一方、由良川は国土交通大臣により一級水系に指定されており、市内に供給される水道や農業用水の原水をもたらし、市民の手による鮎や鮭の稚魚の放流[15][16] といったイベントが開かれるなど、市民の生活には欠くことのできない川でもある。
福知山市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 福知山市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 福知山市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
福知山市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.82%減の79,668人であり、増減率は府下26市町村中12位、36行政区域中21位。
綾部市や舞鶴市など周辺の地域を含め、この地では考古学上貴重な資料ともなる大小さまざまな多数の古墳や副葬品などが出土している[17]。
福知山市内からは古くは縄文時代初期のころのものが出土していることから、既にそれ以前にはこの地に人が住んでいたことや、多くの有力豪族がこの地一帯を統治していたことが分かっている。福知山市の広峯古墳群のうち広峯十五号墳からは「景初四年」の銘が鋳出された盤龍鏡が出土している。これらは「京都府広峯十五号墳出土品」として国の重要文化財に指定されている。
しかしこういった遺跡や住居跡などは平安時代初期にかけてまでしか見つかっておらず、こういった勢力は飛鳥時代の終わりごろに滅亡していったと考えられている。
平安時代になると摂関家領の荘園として利用されるようになり、後期には天田郡(あまだごおり)のほとんどが荘園として利用されるようになった。鎌倉時代に入ると多数の守護や地頭が送り込まれたために、その荘園もやがて彼らの物に変わっていった。
室町時代後期になると、信濃小笠原氏の小笠原長清の末裔とされる小笠原頼勝は、福知山盆地の中央部に位置する「横山」と呼ばれた丘陵地に簡素な空堀と土塁だけで出来た横山城を築きあげた。 のちに小笠原頼勝は塩見頼勝と名を改め、その子塩見頼氏が横山城等を拠点としてこの地を統治するようになる。
戦国時代に入ると、塩見頼氏は子の塩見信房に横山城を譲り、彼が福知山を統治するようになる。
織田信長に丹波平定を命ぜられた明智光秀は横山城を攻め落とし、城主の塩見信房は自害し果て、塩見氏の福知山統治は終焉することになる。光秀は褒賞として丹波の国を与えられ、同時にこの城を城代に命じて大改修を行った。光秀はこの改修後の城を「福智山城」と改め、ここに福知山の地名が誕生する。更に光秀はそれまでたびたび氾濫を起こしていた由良川の流れを改善し、度重なる洪水によって疲弊していた農民に対し地子銭を免除するなど善政を敷き、城下町としての基礎を築いたのであった。
その後、秀吉家臣の小野木公郷(小野木重次、小野木重勝ともいう)が、秀吉の命により福智山城主となり福知山領を統治するようになる。 公郷は秀吉の没後、徳川家康と石田三成とが対立すると三成に味方し、慶長5年(1600年)には家康方の細川幽斎が守る田辺城を攻め落城させたが(田辺城の戦い)、関ヶ原の戦いにおいて三成が敗れたことにより逃亡、細川忠興に追い討ちをかけられ自害した。
関ヶ原の戦いにおいて大活躍し徳川家康からその功績を認められた有馬豊氏は、横須賀藩(遠江)から石高を大幅に増やしたうえで外様の大大名がひしめく山陰道を、押さえる福智山の地へと転封を命ぜられた。
福知山は山陰の玄関口にあたり、丹波篠山城と並んで軍事的に重要な地であり、豊氏に対する幕府の信頼を窺わせる人事であった。中世の小城であった城を現代の規模に拡大改修したのも豊氏である。
豊氏は検地を行い、今在でもその名残を残す近代的な町割りを行い、福知山の城下町を築き上げた。こうして福知山市の前身である石高八万石の福智山藩が有馬豊氏によって立藩された。
その後、豊氏は大坂の陣でも功績を認められ、久留米藩へとさらに加増移封され、小堀政一や伏見奉行などによって統治される。以降、領主は国替えや改易によってたびたび交代がなされるようになった。その間、慶安2年(1649年)に福知山藩に入った松平忠房が行った検地は、地租改正が行われるまで福知山の土地制度の基準となったためこれを松平検地と呼ばれる。
1669年(寛文9年)に朽木稙昌が移封されて藩主となると、以後は13代にわたって朽木家が藩政を務めるようになり、朽木家の福智山藩として定着した。朽木家は近江源氏の流れを汲む武門の名家である。藩主が五代目朽木玄綱になると地名を「福智山」から「福知山」に改め、「明智光秀の治水によって水害から救われ、城下町として栄えたのは彼のおかげである」という住民の連署によって御霊神社に光秀の合祀を許したのであった。
一方でその後の福知山藩の財政状態は苦しいものであった。建て直しをはかってたびたび財政改革を行おうとするものの、たびたび百姓による強訴が起きるなどにより失敗に終わる。特に享保の大飢饉を発端とするものと、万延元年(1860年)に起きた強訴は大規模であった。
但馬牛(丹波牛)の集散地としてや、以前から行われていた由良川河畔での桑の栽培が盛んに行われるようになり軍需産業としても養蚕業が栄え繊維関係での中核地として栄えるようになる。
このとき日本は日露戦争を控え、京阪神と日本有数の軍港である舞鶴港をつなぐ交通網の普及が急がれたことから、福知山はその中継地点として国鉄福知山線と山陰本線の敷設が行われた。同時に旧陸軍歩兵第20連隊は、このときから現在の福知山駐屯地に駐屯するようになる。
昭和に入ってまもなく福知山の養蚕業は全盛期を迎える。更に福知山町は庵我村・雀部村・下豊富村を編入し、人口が約3万2千人の福知山市が誕生。翌年には福知山市章も制定される。
第二次世界大戦末期には日本国海軍の「石原飛行場」と呼ばれる航空基地もあった。その滑走路は長さ1700メートルにもおよび、現在の中丹広域農道沿いに市内前田から石原をまたぎ戸田にまで延びていた[19]。 主に練習用として使われていたものの米軍の機銃掃射の攻撃対象にもなっていた。そのため周辺には敵機を撃墜させるための高射砲や物資格納倉庫などが備えられており[19]、終戦が遅ければ福知山市も空襲の対象になっていたのではないかともいわれるほどの軍事拠点でもあった。その滑走路は地元の農民が破壊し農地に復興させたため今では見ることができなくなっている。
第二次世界大戦が終わり日本が高度経済成長を迎えると、上記の養蚕業や藍染めなどの文化はほぼ完全に衰退していった。
それまで福知山市街地を走る鉄道は、南北を分断するように走っており市街地の自動車交通を阻害するものであるとし、国の進めるバブル後の景気対策公共事業として、この市街地規模(人口集中地区4万人)としては国内最大級の約315億円もの総事業費をかけてJR福知山駅の高架化が行われた。また平成の大合併と呼ばれる市町村合併ブームに乗って、周辺自治体であった三和町・大江町・夜久野町と市町村合併を行った。2005年国勢調査による合併当時の人口は8万3千人であり、初めて8万人台となるとともに、一時期は抜かれていた八幡市を再び抜いた。2009年の住民基本台帳人口は7万人台に減少している。
現在の市域はかつての丹波国及び丹後国にまたがる。編入前の自治体の変遷については編入前の町村の記事を参照のこと。
令 制 国 |
所 属 郡 |
明治22年以前 | 明治22年 4月1日 町村制施行 |
明治22年 - 明治45年 | 大正元年 - 昭和30年 | 昭和31年 - 昭和63年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
丹 波 国 |
天 田 郡 |
加用村 | 川合村 | 川合村 | 川合村 | 昭和30年3月1日 三和村 |
昭和31年4月1日 町制 三和町 |
平成18年1月1日 福知山市に編入 |
福知山市 | |||
岼村 | ||||||||||||
大原村 | ||||||||||||
台頭村 | ||||||||||||
上川合村 | ||||||||||||
下川合村 | 一部[注釈 3]を除く | |||||||||||
一部[注釈 3] | 大正7年10月1日 細見村に編入 |
細見村 | ||||||||||
細見辻村 | 細見村 | 細見村 | ||||||||||
細見中出村 | ||||||||||||
細見奥村 | ||||||||||||
草山村 | ||||||||||||
寺尾村 | ||||||||||||
千束村 | ||||||||||||
芦淵村 | ||||||||||||
菟原中村 | 菟原村 | 菟原村 | 菟原村 | |||||||||
菟原下村 | ||||||||||||
高杉村 | ||||||||||||
友淵村 | ||||||||||||
大身村 | ||||||||||||
直見村 | 上夜久野村 | 上夜久野村 | 上夜久野村 | 上夜久野村 | 昭和34年1月1日 夜久野町 | |||||||
板生村 | ||||||||||||
平野村 | ||||||||||||
大油子村 | 中夜久野村 | 中夜久野村 | 中夜久野村 | 昭和31年9月30日 夜久野町 |
昭和33年11月1日 上夜久野村に編入 | |||||||
小倉村 | ||||||||||||
日置村 | 夜久野町 | |||||||||||
末村 | ||||||||||||
高内村 | ||||||||||||
井田村 | 下夜久野村 | 下夜久野村 | 下夜久野村 | |||||||||
今西中村 | ||||||||||||
千原村 | ||||||||||||
畑村 | ||||||||||||
額田村 | ||||||||||||
何 鹿 郡 |
私市村の一部 | 佐賀村 の一部 |
佐賀村の一部 | 佐賀村の一部 | 昭和31年9月30日 福知山市に編入 |
福知山市 | 福知山市 | |||||
報恩寺村 | ||||||||||||
印内村 | ||||||||||||
山野口村 | ||||||||||||
天 田 郡 |
福知山町[注釈 2] | 福知山町 | 福知山町 | 福知山町 | 昭和12年4月1日 市制 福知山市 |
福知山市 | ||||||
堀村 | 曽我井村 | 大正7年4月1日 福知山町に編入 | ||||||||||
南岡村 | 明治14年 天田村 | |||||||||||
木村 | ||||||||||||
和久市村 | ||||||||||||
笹尾村 | ||||||||||||
土師村 | 雀部村 | 雀部村 | 昭和11年10月1日 福知山町に編入 | |||||||||
前田村 | ||||||||||||
川北村 | ||||||||||||
猪崎村 | 庵我村 | 庵我村 | ||||||||||
中村 | ||||||||||||
池部村 | ||||||||||||
安井村 | ||||||||||||
筈巻村 | ||||||||||||
室村 | 下豊富村 | 下豊富村 | ||||||||||
市寺村 | ||||||||||||
正明寺村 | ||||||||||||
厚村 | ||||||||||||
岩井村 | ||||||||||||
荒河村 | ||||||||||||
奥野部村 | ||||||||||||
新庄村 | ||||||||||||
今安村 | ||||||||||||
半田村 | ||||||||||||
和久寺村 | ||||||||||||
大門村 | ||||||||||||
拝師村 | ||||||||||||
談村 | 上豊富村 | 上豊富村 | 上豊富村 | 昭和24年4月1日 福知山市に編入 | ||||||||
小牧村 | ||||||||||||
北山村 | ||||||||||||
樽水村 | ||||||||||||
畑中村 | ||||||||||||
石場村 | ||||||||||||
榎原村 | ||||||||||||
土村 | 西中筋村 | 西中筋村 | 西中筋村 | |||||||||
石原村 | ||||||||||||
興村 | ||||||||||||
観音寺村 | ||||||||||||
戸田村 | ||||||||||||
漆端村 | 下川口村 | 下川口村 | 下川口村 | |||||||||
一尾村 | ||||||||||||
上天津村 | ||||||||||||
下天津村 | ||||||||||||
牧村 | ||||||||||||
瘤木村 | ||||||||||||
野花村 | 上川口村 | 上川口村 | 上川口村 | 昭和30年4月1日 福知山市に編入 | ||||||||
立原村 | ||||||||||||
十二村 | ||||||||||||
夷村 | ||||||||||||
上大内村 | ||||||||||||
下大内村 | ||||||||||||
下小田村 | ||||||||||||
上小田村 | ||||||||||||
大呂村 | ||||||||||||
萩原村 | 上六人部村 | 上六人部村 | 上六人部村 | |||||||||
生野村 | ||||||||||||
堀越村 | ||||||||||||
上野村 | ||||||||||||
正後寺村 | ||||||||||||
坂室村 | ||||||||||||
三俣村 | ||||||||||||
池田村 | ||||||||||||
岩崎村 | ||||||||||||
宮村 | 中六人部村 | 中六人部村 | 中六人部村 | |||||||||
大内村 | ||||||||||||
田野村 | ||||||||||||
長田村 | 下六人部村 | 下六人部村 | 下六人部村 | |||||||||
多保市村 | ||||||||||||
岩間村 | ||||||||||||
上佐々木村 | 三岳村 | 三岳村 | 三岳村 | |||||||||
中佐々木村 | ||||||||||||
下佐々木村 | ||||||||||||
日尾村 | ||||||||||||
喜多村 | ||||||||||||
常願寺村 | ||||||||||||
一ノ宮村 | ||||||||||||
猪野々村 | 金谷村 | 金谷村 | 金谷村 | |||||||||
梅谷村 | ||||||||||||
田和村 | ||||||||||||
宮垣村 | ||||||||||||
下野条村 | 金山村 | 金山村 | 金山村 | |||||||||
上野条村 | ||||||||||||
行積村 | ||||||||||||
長尾村 | ||||||||||||
天座村 | ||||||||||||
丹 後 国 |
与 謝 郡 |
雲原村 | 雲原村 | 明治35年4月1日 所属変更 天田郡雲原村 |
雲原村 | |||||||
加 佐 郡 |
河守村 | 河守下村 | 明治23年12月10日 町制改称 河守町 |
河守町 | 昭和26年4月1日 改称 大江町 |
大江町 | 平成18年1月1日 福知山市に編入 | |||||
金屋村 | ||||||||||||
関村 | ||||||||||||
上野村 | ||||||||||||
波美村 | ||||||||||||
仏性寺村 | 河守上村 | 河守上村 | 河守上村 | 昭和26年4月1日 河守町に編入 | ||||||||
北原村 | ||||||||||||
毛原村 | ||||||||||||
内宮村 | ||||||||||||
二俣村 | ||||||||||||
天田内村 | ||||||||||||
橋谷村 | ||||||||||||
蓼原村 | 河西村 | 河西村 | 河西村 | |||||||||
小原田村 | ||||||||||||
日藤村 | ||||||||||||
公庄村 | ||||||||||||
南山村 | 河東村 | 河東村 | 河東村 | |||||||||
夏間村 | ||||||||||||
在田村 | ||||||||||||
常津村 | ||||||||||||
尾藤村 | ||||||||||||
千原村 | ||||||||||||
北有路村 | 有路上村 | 有路上村 | 有路上村 | |||||||||
南有路村 | ||||||||||||
三河村 | 有路下村 | 有路下村 | 有路下村 | |||||||||
高津江村 | ||||||||||||
二箇村 | ||||||||||||
市原谷村 |
現在の福知山市章は、1938年(昭和13年)12月に公募により二千点近くの中から選ばれ制定されたもので、「ふくちやま」の頭文字である「ふ」をカタカナにし、それを九つ並べて図案化されたものであり[2]、その図案は「フ九」つまり「福」をこの市章は表している。
1991年(平成3年)4月1日に市民憲章が制定され、福知山の四季や由良川などが謳われている。
本庁および平成の市町村合併以前の各町単位に3つの支所を設けている。夜久野支所以外は旧庁舎におかれている。
役所名 | 所在地 | 電話番号 |
---|---|---|
福知山市役所 | 福知山市字内記13番地の1(内記3丁目) | 0773-22-6111 |
三和支所 | 福知山市三和町千束515番地(千束) | 0773-58-3001 |
大江支所 | 福知山市大江町河守285番地(中央) | 0773-56-1101 |
夜久野支所 | 福知山市夜久野町額田48番地の1(夜久野町下町) | 0773-37-1101 |
福知山市立図書館は市民交流プラザふくちやまにある中央館を中心とし、分館も含めて4つの施設がある。
市内に所在する日本有数の内陸型工業団地の長田野工業団地や、アネックス京都三和(愛称:エコートピア京都三和)工業団地には東京証券取引所などに株式上場している多数の企業またはその子会社が拠点を置いており、それが与える地元の雇用の影響は大きい。
明治時代になると日本海の軍港舞鶴港へつなぐ鉄道の整備が進み、大阪から福知山を経由し舞鶴への整備を目指した阪鶴鉄道によって現在の福知山線が、国鉄によって現在の山陰本線の綾部までの区間が整備された。更に戦後には鉄道管理局がおかれ「鉄道のまち」としても栄えるようになる。現在、福知山市にはJR西日本の福知山支社や車両基地(福知山電車区)が置かれている。鉄道の拠点としては、福知山色と呼ばれる車両塗装の名前に見られるように浸透しており、市も鉄道関連の観光施設や各種イベントを特色にしている。福知山鉄道館ポッポランドや北丹鉄道の福知山西駅跡のSL公園には、当時使用されていたSLやそのレプリカが保存展示されており、福知山駅南口にも転車台が展示されている。
市の中心となる駅:福知山駅
福知山市は盆地という地形上、市内のほとんどを占める山間部では非常に入り組んだ地形をしているだけでなく、広い土地に多数の小規模の集落がいたるところに点在しているため、バスや鉄道がそれぞれの地域を周ることは難しい。そのため市内の移動には自家用車が欠かせず、市民の自家用車保有率は高い。当時の運輸省が調査した平成8年度の一世帯あたりの京都府全体の自家用車保有率が75.3%だったのに対して当時の福知山市[注釈 1] の保有率は94.2%であった[25]。このことから、一家に1台というのはほぼ当たり前に近い状況であることが分かる。夫婦で1台ずつという家庭も多く見られ、その傾向は福知山市街地郊外に出れば出るほど強くなる。特に農村部では夫婦1台ずつに加えて農作業用のトラック1台つという家庭も多くみられる。
そのため時代が進むにつれバスやタクシーの利用者も減少の一途をたどり、各バスやタクシー会社では赤字経営に悩まされる所もある。特にバスにおいては廃線や経営移譲を余儀なくされるほどの経営状況である。これ打開しようと2007年(平成19年)3月1日より西日本JRバスが、デマンドバスサービスを取り入れる[26] などの工夫を凝らすものの依然として現状は厳しいものである。
全但バスは兵庫県北部を運行するバスであるが、福知山市内に乗入れるバス停がある。また逆に福知山市営バスの旧三和町の路線は綾部市や京丹波町、兵庫県丹波篠山市に乗入れる路線がある[27]。
盆地という山々に囲まれた閉鎖的な地形をしているにもかかわらず、福知山周辺地域では少なくとも縄文時代から人が住んでいたことなどから古くから道路が整備され、山陰地方と畿内(京阪神)方面をつなぐ交通の要衝として栄えたまちである。百人一首の中の小式部内侍が歌った「おほえ山 いくの(生野)の道の遠ければ まだふみも見ず 天橋立」の歌枕として登場する生野は福知山市内の地名である[注釈 4]。徳川家康は関ヶ原の戦いの後、信頼のおける有馬豊氏を山陰道が走る福知山藩8万石の城主に抜擢した。
1987年(昭和62年)頃、京阪神から日本海側へつながる高速道路として舞鶴若狭自動車道が整備された。
国道9号では福知山道路として市内の一部区間の4車線化工事が進められている。 また、冬期の早朝の山間部では霧が濃く路面の凍結もまた見られる。国道9号(山陰道)の一部などではスプリンクラーによる散水を行い、解雪や凍結を防いでいる地域も見られるがそれはほんの一部であり、基本的に冬季の車での移動はスタッドレスタイヤを装着しないと非常に危険な状態となるから注意が必要。
福知山市への観光客は、日帰り客が85%を占めている[25]。
明智光秀が福知山城の初代城主であったことから、明智氏や光秀に関連したものやイベントが多数所在する。
市の花は明智氏の家紋であるききょう、福知山音頭にも光秀がうたわれ、福知山観光協会のイメージキャラクターも光秀がモデルとなっている。また市内に所在する御霊神社では光秀が神様として祭られ、光秀の家来四王天政孝が使用していたすねあてや、当時の福知山城の様子が描かれた絵や光秀直筆の書をはじめとする多数の資料が残されている[注釈 5]。
福知山には元伊勢とされる神社や、祭神が武内宿禰や明智光秀であるなどの特徴ある寺社が多数所在する。
福知山市を含む周辺の地域では様々な古墳、石室、土器等が多数発見[17] されていることから、丹波国が形成される以前より多くの人々が住んでいたと考えられている。
各種京野菜を特産とする他、丹波ブランドの農産品がある。
福知山の古くからの住民は、丹波の氷上(丹波市)を中心に、但馬や丹後から移り住んで来た歴史があり、現在もなお通勤・通学する人は多く、市民の多くはその地出身であると言う人も少なくない。従ってその方言はこれらの地方の特徴が若干混在するものとなっているが、主体となるのはやはり「福知山弁」であり、氷上や舞鶴とも共通する「ちゃった弁」である。これらを総称する丹波方言は一般的な関西弁とは若干異なる方言である。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.