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治水(ちすい)とは、洪水・高潮などの水害や地すべり・土石流・急傾斜地崩壊などの土砂災害から人間の生命・財産・生活を防御するために行う事業を指し、具体的には、堤防・護岸・ダム・放水路・遊水池などの整備や、河川流路の付け替え、河道浚渫による流量確保、氾濫原における人間活動の制限、などが含まれる。
水は人間生活にとって不可欠な資源であると同時に、水害や土砂災害などの危険ももたらす。水の持つ危険性を制御しようとする試みが治水であるが、一方で水を資源として使用するための制御、すなわち利水も必要となってくる。水の制御に取り組むという点において、治水は利水との共通性を持ち、両者に不可分の関係が生じるのである。そのため、広義の治水には、利水をも含むことがある。
治水に当たる英語はflood controlであるが、これは単に洪水調節のみを意味する。日本語における治水は、洪水調節のほか、土砂災害を防ぐ砂防や山地の森林を保安する治山をも含む、意味範囲の広い用語である。
いかなる治水対策を講じたとしても、全ての水災害を防ぐことは不可能である。どの水準の水災害までを防御するか、換言すれば、どの水準の水災害までを許容するかが、治水対策を行う上での立脚点となる。
治水の始まりは、文明の始まりと強い関連性がある。世界四大文明に代表される多くの文明社会ではその草創期に氾濫農耕が行われ、農耕の発展により生産物余剰が蓄積されて都市が発生し、都市住民の維持を目的として安定した農耕体制を確立する必要に迫られた。安定した農耕を確立するためには、治水と灌漑の導入が不可欠であった。治水・灌漑の導入には労働力の集約を要したが、この労働力の集約を通じて初期国家が形成されたと考えられている。また、文明が発祥した地域の多くでは洪水が毎年定期的に発生したので洪水時期を推測するための暦法や天文学が発生し、治水構造物を作るための土木技術や度量衡なども発達した。
歴史上における治水技術は主に台風・モンスーン地帯にあたる東アジアで発達していったが、近代的な治水技術はヨーロッパの中でも低地に国土を拡げてきたオランダで著しい進展を見せた。19世紀 - 20世紀以降は、高度に発達した土木技術を背景に成立した近代的治水技術によって水害による被害が著しく軽減されたものの、20世紀末期頃からヨーロッパを中心にそれまでの治水技術が自然環境に大きな負荷を与えていたことへの反省がなされ、自然回帰的な治水を指向する動きが強まっている。一方、多くの発展途上国ではいまだ十分な治水対策がなされず、繰り返される水災害に悩まされている地域も少なくない。
最古の治水の歴史を有する地域の一つがメソポタミア(シュメル)である。メソポタミアでは、紀元前5000年までに2本の大河 - ティグリス川・ユーフラテス川の氾濫原で農耕(氾濫農耕)が始まったとされている。同地域での治水・灌漑の開始時期は後期ウバイド文化期の紀元前4300年 - 紀元前3500年頃と考えられている。この時期の治水は洪水時に河川から溢流した水を人工のため池に貯水するものであり、人工池の水はその後用水路を通って農耕地へと供給された。すなわち治水は灌漑と表裏一体の関係にあった。
紀元前18世紀頃にメソポタミアを統一したバビロン第1王朝のハンムラピ王の時に、ティグリス・ユーフラテス両河の治水体系が整備された。両河川の流域では毎年5月に上流の雪解け水に由来する洪水が発生していたが、洪水時の溢水を収容するため両河川を結ぶ数本の大運河と大運河を連結する無数の小運河の大運河網が作られた。これにより洪水の被害が軽減されるとともに、運河に溜められた水は灌漑に利用された。
ハンムラピ王期に建設された治水体系はその後、アケメネス朝(紀元前6世紀 - 紀元前4世紀)・サーサーン朝(3世紀 - 7世紀)に継承され、アッバース朝前期(8世紀 - 9世紀)には運河網が再整備されるなど、非常に長い間命脈を保った。しかし、10世紀以降は政治体制の混乱に伴ってメソポタミア地域の治水は次第に衰退していき、イルハン朝(13世紀中期 - 14世紀中期)およびオスマン帝国(14世紀 - 20世紀前期)において治水体系の再建が試みられたこともあったが、バビロン王朝盛時の高度な治水体系が再び復活することはなかった。
古代エジプトもメソポタミアと同じく、ナイル川という大河川の氾濫原に農耕が発生した。ナイル川上流域(エチオピア・ウガンダ周辺)では毎年6月に雨季が訪れ、多量の降水がナイル川に注がれる。多量の雨水はナイル川の長い流路を下っていき、9月 - 11月に下流域のエジプトへ洪水となって押し寄せる。この定期的な洪水は氾濫原に肥沃な土壌を残すとともに土中の塩分を洗い流したため、ナイル川下流域における高い収穫率をもたらした。このため、エジプトでは古代以来洪水を防御するための治水はほとんど行われず、もっぱら灌漑技術が発達していった。
近代に入り1902年にアスワン・ダムが完成し、さらに1970年にアスワン・ハイ・ダムが完成するとナイル川の洪水はほぼ制御できるようになった。しかし、ナイル川デルタなど下流域では洪水が発生しなくなった代わりに土壌の貧弱化・塩化が進み始めたため、以前は必要としなかった肥料に頼る農業へと転換していった。
インダス川河畔でインダス文明が興ったのは紀元前2600年頃のことと考えられている。インダス川流域では、毎年6月 - 7月の時期にモンスーンの到来によって雨季が訪れる。雨季の降水はインダス川の氾濫を起こしたが、氾濫原には肥沃な土壌と農耕用水の水源となる湿地が残された。インダス文明期には洪水期前になると川に沿って低い土手が作られた。この土手は洪水を防ぐものではなく、洪水によってもたらされた肥沃な土壌を耕地に貯め込むためのものだった。そのためメソポタミアやエジプトのように灌漑が発達することはなく、氾濫農耕に依存していたと考えられている。インダス文明の農耕は洪水を前提としていたので、水害を防ぐ治水はほとんど行われていなかった。
その後インド亜大陸ではガンジス川流域を中心として灌漑水利の発達が見られたものの、水害を防ぐという意味での治水はほぼ存在してこなかった。インドにおける治水の始まりは、1947年のインド独立以降のことである。1948年に開始したダモーダル河谷総合開発事業がインドの治水の嚆矢であり、その後、1954年のインド大洪水を受けて「全国治水計画」が策定されるに至った。全国治水計画のもとで1万kmを超える堤防が建設されたほか、各州ごとに州治水政策に基づいた治水対策が行われているが、まだ十分な水準に達していないとされている。
ヨーロッパは安定した地質の構造平野が広がり、河川は構造平野を掘り下げるように流れるため洪水時の氾濫原となる沖積平野はあまり広く形成されていない。台風やモンスーンによる多量の降水もないので、水害が発生する頻度は例えば東アジア地域と比較すると高くはない。
ヨーロッパで治水が特に発達したのはオランダである。オランダはライン川、マース川、スヘルデ川の河口デルタに立地し、かつ海面を干拓して土地を拡げたため国土の大部分が海面と同等かそれより低い。オランダでは水害を防ぐため河床を浚渫して河川流量を確保し、河川・海岸沿いには堤防をはりめぐらせ、さらに高潮対策として河口に堰を築くという近代的な治水技術が早くから成立した。
オランダ以外のヨーロッパでは治水の歴史に特筆すべきものはない。ヨーロッパ各地で本格的な治水対策が始まったのは20世紀以降のこととされている。ヨーロッパでは洪水による冠水は頻繁に発生しないため、河川付近の氾濫原を農地などに整備し、堤防を築いて河道を直流させ、上流にはダムを設置するという、水害を人工力で抑制しようとする治水対策が20世紀に入ってから主流となった。しかし、こうした治水対策は自然環境に大きな負荷を与えるばかりでなく、人工力を超える水害が発生した際はかえって被害が大きくなることが次第に判明していった。
1970年代頃から人工的に整備された河川を自然の姿に近づける試みがスイス・西ドイツ・オーストリアを中心に始まり、1980年代になると近自然的治水工法が本格的に採用されていった。例えば、かつて氾濫原だった箇所を再び遊水池に復旧させる事業や、直流していた河川を蛇行させて自然の姿に近づけ河川を取り巻く生態系を再構築する事業などが精力的に実施されている。21世紀におけるヨーロッパの治水は、必ずしも洪水防止のみを主眼に置くのでなく、自然環境の観点から河川を良好な状態に保ち良質な水源として維持する河川環境復元へとシフトしつつある。水害が比較的少ないヨーロッパでは、治水対策より河川の水質保全が重視される傾向にある。
なお、ヨーロッパの治水管理の現況に触れておく。ドイツでは各州が河川管理を行い水系一貫型の治水ではない。100年に一度規模以上の水害を想定して治水事業が進められ、21世紀初頭までにほぼ達成されている。フランスでは洪水防御の義務を負うのは中央政府ではなく河岸所有者であり、中央政府・自治体だけでなく住民も治水に対して相応の責任を有している。オーストリアでは都市域は100年に一度規模以上、都市以外の地域は30年に一度規模の水害に耐えうる治水が行われているが、大河ドナウ川については非常に高度な治水対策が施され1万年に一度規模の水害を防御しうる治水対策が達成されている。全般的にヨーロッパ各国では、氾濫原を復元し氾濫域内の土地利用を制限する政策が採用されている。
アメリカ合衆国における治水は19世紀末まで堤防に頼る地先防御が主流だったが、1917年の洪水防御法の制定によって本格的な治水対策が始まり、陸軍工兵隊と開拓局が中心となってダムの建設や河川改修などが行われた。この時期はテネシー川流域開発事業に代表される大規模な流域総合開発が展開した。この流域総合開発は、大規模ダムの建設などによって治水だけでなく水資源開発や発電開発などを実現しようとするもので、世界各地の治水対策に大きな影響を与えた。
1960年代から堤防などハード(構造物)中心の治水対策の限界が見え始め、氾濫原管理やソフト対策を重視した治水へと移行していった。この時期に始まったソフト面での治水対策として特筆すべきは、連邦政府が運営する全米洪水保険制度(NFIP:National Flood Insurance Program)である。この制度は洪水に伴うリスクを個人が負うのではなく地域コミュニティが負担することを原則としており、ソフト面治水対策の大きな柱である。
1970年代頃からは河川の自然環境の保全・復元が注目されていき、環境保全とバランスの取れた治水対策が求められていくこととなる。同時期にヨーロッパで始まった河川環境の復元事業はアメリカにも導入され盛んに実施されている。1980年代からは州政府や自治体による治水が中心となった。1990年代以降ミシシッピ川大洪水(1993年)やハリケーン・カトリーナ水害(2006年)などの大規模な水害が発生しているが、ソフト面に重点を置いた治水による総合的な対応が精力的に実施されている。
中国の治水は3つの大河、すなわち華北の黄河・華中の淮河・華南の長江を中心に行われた。特に多量の黄土を含み急速に河床が上昇する黄河は容易に氾濫を繰り返しており、この黄河の治水が最も古い歴史を有している。史記には、帝堯のときに黄河の洪水が止まらなかったので鯀に治水を行わせたが9年経っても成果が上がらず罷免され、その子の禹が事業を引き継ぎ河水の分水によって治水を成功させ、その功績を元に夏王朝の始祖となったことが記されている。もとより禹の治水は伝説であるが、黄河の治水が王朝にとって最重要課題であったことを物語っている。
中国の治水史は最初の段階では河川付近での居住・農耕を避けることから始まった。当時「河川から25里以上離れた場所に居住すること」という伝承があったように、殷・周の時代は河水による小規模な灌漑事業が始まってはいたものの、河川から離れて生活することがほぼ唯一の治水策であった。春秋時代(紀元前8世紀 - 紀元前5世紀)になると河川の氾濫域に農地が進出し、河川堤防の建設が見られるようになる。黄河の大堤が建設が始まったのは春秋時代である。戦国時代(紀元前4世紀 - 紀元前3世紀後期)には李冰(りひょう)・西門豹(せいもんひょう)・鄭国(ていこく)などの治水技術者が現れ、多くの治水事業を成し遂げたことが『史記』河渠書に記されている。この時代に本格的な治水事業が行われ始めた。当時の治水は分水路や運河を設けて河水を分散させ、堤防は高くせず、河床を浚渫したり河流障害物を除去したりする方策が採られていたと考えられている。
秦・漢期(紀元前3世紀中期 - 2世紀末)は統一王朝のもとで運河・灌漑水路の建設が盛んに行われ、流通や農業生産の向上に大きく貢献した。新朝期には黄河が堤防決壊により流路を大きく変え、その後も堤防決壊が相次いだ。後漢期の70年前後に黄河治水にあたった王景は、数十万人を動員し黄河に長大な堤防を築くとともに黄河を分流させることで黄河の流路安定に成功した。三国時代以降、長江流域から淮河流域にかけて稲作が普及し灌漑水路が増築されたが、そのためかえって洪水が増えた。
1128年、北方から勢力を伸ばしてきた金の南下を防御するため、南宋は故意に黄河の南側堤防を破壊した。これにより黄河は南東方面に流路を変更し淮河に合流するようになった。宋代の頃から長江流域の経済が活発化し農地の開発などが進むと、長江の治水対策が重要な政策事項として浮上してきた。また、漢代以降治水官吏は冷遇され低い地位とされてきたが、元代に入ると治水・灌漑・水運を三位一体して河川・水路の運用を図ろうとする水学(すいがく)が形成されるようになり、治水官吏に高い地位が与えられるとともに治水官僚体制も整備され、特に地方における治水の発展が見られた。
中華人民共和国の成立以後は近代的な治水が本格的に導入されてダム・堤防・排水路建設による治水が一定以上の効果を挙げ、前代と比べると水害の危険性は大幅に軽減された。その一方で、1970年代から黄河下流での断流(河道に水が流れない現象)が発生し黄河の水量不足が次第に深刻化していった。この背景には黄河流域での水資源の多量使用がある。そのため中国の治水のテーマは「南水北調」、すなわち中国南部の豊富な水資源を水資源の不足する中国北部へいかに配分するかという点にシフトしている。20世紀後期から建設が続いている長江の三峡ダムは洪水調節や発電などの機能を持つだけでなく、黄河方面へ水資源を分配する機能も期待されている。
日本の治水は、次に挙げる理由により多大な困難性を有している。まず、日本列島が3-5枚の大陸プレートが複雑に衝突し合うその上に立地していること。ゆえに急峻な地形が多く、安定した地質帯が存在せず、国土は脆く不安定な地質に占められている。さらに台風・モンスーン地帯に当たるため、河川や崩壊による侵食が著しい。また、河況係数(=多水期の河川流量/渇水期の河川流量)が非常に大きく(ヨーロッパ河川の概ね10倍以上)、出水期に洪水が発生しやすい。日本では人間活動・生活の大部分が沖積平野上で営まれているが、元来沖積平野は河川洪水の氾濫原であり、洪水被害を受けて当然の地域なので治水が非常に難しい。また比較的安定している洪積台地も農地や住宅地などの拡大・開発が進んだため、土砂災害が発生する確率が増大している。そのため、日本では水害や土砂災害による被害を非常に受けやすい地理的条件が生まれており、ここに日本における治水の特殊性・困難性がある。
以下、日本の治水史を概観する。
日本の治水の歴史は弥生時代に遡るといわれている。この時代は、洪水を避けるため扇状地や河川から離れた地域で水田が営まれる例が多かった。また、氾濫から集落・耕地を防御するための排水路や土手の遺構が発見されている。
本格的な治水事業は古墳時代(3世紀中期 - 6世紀中期)に始まった。畿内に成立したヤマト王権は、4世紀後期から5世紀にかけて統一政権としての政治力を背景として主に河内平野の開発に着手した。当時、河内平野東部には河内湖(草香江)が広がっており、淀川や大和川の氾濫流が流入してしばしば洪水が発生していた。この洪水を防ぐため河内湖から河内湾へ排水する難波の堀江が開削され、淀川流路を固定する茨田堤が築造された。これらの治水事業は仁徳天皇の事績に仮託されている。この時代に多数営まれた前方後円墳を築造するための土木技術と河内平野を中心に行われた治水との関連も指摘されている。当時の代表的な治水遺跡として岡山市の津寺遺跡がある。足守川の旧流路に沿って約90mにわたり6000本以上の杭が打ち込まれており、堤防・護岸の跡だと推定されている。これが最古の治水遺跡の一つであるが、成立は古墳時代末期から奈良時代にかけてと見られている。
8世紀初頭に始まる律令国家のもとでは治水は非常に重要視された。律令上、治水は国司および郡司の主要任務である勧農の柱の一つに据えられ(『職員令』大国守条、『考課令』国郡司条)、水害が発生した際の応急処置の手続きまで詳細に定められていた(『営繕令』近大水条)。また、河川などの水を公共物として農業用水などの利用や洪水対策などの方針については国家が定めるとした「公水主義」が掲げられていた。畿内近国では、淀川などの大河川で水害が発生した際に国司・郡司では対応が困難なため、中央から特に「修理堤使」や「検水害堤使」「築堤使」などが派遣されて国家直営の治水対策が実施されることもあった。また、平安京に近い賀茂川や遠江国の荒玉河などでも大規模な工事が行われている。このように律令国家による治水は一定以上の機能を発揮していたが、9世紀後期から10世紀の間に律令国家体制が形骸化するのに合わせて公水主義が放棄されて地元の豪族などに用水の管理などを一任されるようになり、律令国家の治水も衰退していった。この時期の治水は小規模な用水路や溜池造営に留まるようになる。空海が築いたとされる満濃池はその代表的なものである。
律令国家に代わって治水を担ったのは当時経済力をつけつつあった地方の富豪(田堵負名)たちである。11世紀には富豪層が経営する開発請負業者が出現するまでになっていた。ただし、彼らは決して領域的な治水対策を行った訳ではない。12世紀頃に始まる中世社会においても事情は変わらず、荘園・公領の支配者・権利者たち、すなわち荘園領主・在地領主・受領・在庁官人らは職の体系の制約の中で自らの権利が及ぶ範囲内で治水対策を施したのである。
12世紀以降に新たに治水の担い手として登場したのは、東大寺および西大寺などの勧進僧たちである。重源や忍性に代表される勧進僧らは、勧進活動の一環として治水にも取り組んだ。勧進僧らの治水事業は、例えば備中国成羽川の開削事業などが知られている。14世紀に入り独自の自治権を獲得した村落、すなわち惣村・郷村が登場すると、これら惣村・郷村の構成員である百姓のほか国人らも自ら治水対策を講じるようになった。
領域的・体系的な治水が本格的に復活するのは戦国時代・安土桃山時代(15世紀後期 - 16世紀末)のことである。戦国時代とは、戦国大名や国人領主らの地域権力が確立し、自支配地域を領域化していく一方で他の政治勢力からの独立性を確保していき各地域に独自性の高い領国 = 地域国家が並立した時代だと理解されているが、各戦国大名は地域国家の経営者として、支配下の郷村を洪水被害から守り、自領国の安定した経営を図るため積極的に治水対策(川除普請)に取り組んだ。
また、戦国期は全国的に水害をはじめ旱魃などの災害や飢饉、疫病が頻発していた時代で、戦国期の合戦はこうした時代背景のもと発生していたと考えられている[1]。また、合戦と関係して築城された城郭の普請は川除普請と共通する土木技術を要し、城郭と治水は相互に技術を応用して発達していたと考えられている[2]。
この時期の代表的な治水には武田信玄が甲斐国釜無川流域に築いた信玄堤、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤および伏見巨椋池の太閤堤などがある。また、濃尾平野などに見られる輪中堤も戦国時代もしくは室町時代後期に成立したとされている。
戦国期の治水は大名権力の影響力と相関し、大名権力にとって高度な技術と大規模な人足動員を必要とする本格的な治水が可能であったかとする点には議論が存在する[3]。
江戸時代(17世紀初頭 - 19世紀後期)に入ると治水はより大規模化し、また広く普及していった。江戸時代に隆盛した大規模な治水技術は、治水の手法などによって甲州流・美濃流・上方流・関東流(伊奈流)・紀州流などと呼ばれた。江戸時代に顕著に見られる大規模治水は河川の付け替え(瀬替え)である。古くは1605年(慶長10年)の矢作川の瀬替えに始まり、17世紀前期 - 中期にかけては利根川・渡良瀬川の流路を江戸湾方向から東の鬼怒川→銚子方向へと瀬替えする利根川東遷事業という大事業が行われた。1704年(宝永1)には河内平野住民の永年の悲願であった大和川南遷事業が完成した。木曽川など木曽三川の水害に悩まされていた濃尾平野では、18世紀中期幕府の命令により薩摩藩が三川の流路を固定化する築堤治水事業に取り組み、様々な困難の末に完成させた(宝暦治水)。これらの瀬替え・治水事業はいずれも洪水が多発する河川の流路を安定化して水害の危険を軽減するとともに、流域における耕地開発を促進するものであった。
現存する農書、地方書からは、江戸時代における治水の変遷を見ることができる。江戸前期にはまだ連続堤は稀であり、堤防を雁行形に配置する霞堤や、低い堤防を二重に築く二重堤が主流であった。無理に堤外に洪水流を留めると破堤の危険がましかえって被害が増大するが、霞堤や二重堤はある程度の溢流を許す構造になっており、溢水が浅く緩やかに流れ被害を最小限にとどめる工夫がなされている。江戸中期から連続堤が多く見られるようになるが、所々には洪水時に越水できる箇所が設けられ(越水堤)、霞堤や二重堤と同じくゆるやかな溢水が生じるように造られ、溢水しやすい土地では年貢が減免されるなどの措置が採られていた。江戸時代前半に主流だった治水が、関東流と呼ばれた治水法で、ある程度の溢水を認めることを基本とし、堤防は高く造らず、河川幅を広くとり緩やかに蛇行させ、溢水する箇所には遊水池を設ける方策を旨としていた。
江戸時代後半になると、河川を直線化し強固な堤防によって流路を固定し、遊水池は設けず代わりに氾濫原を新田として開発する紀州流の治水が主流となっていった。これにより洪水の発生を抑制することはできたが、河道に土砂が堆積し天井川となりやすくなったため定期的に河道浚渫を行う必要が生じ、その地域の大きな負担となった。
明治時代になると、新政府はヨーロッパの治水先進国だったオランダからコルネリス・ファン・ドールンやヨハニス・デ・レーケらに代表される治水技術者を招聘し、近代的な治水技術の摂取に努めた。デ・レーケが常願寺川を見て言ったとされる「これは川ではない。滝だ。」という言葉は、日本の河川の特殊性・治水の困難性を表すものとして知られている。オランダ人技術者がもたらした治水は、河道に水制を設けて流路の安定を図り河床を掘削して流量を確保することを基本とする低水治水であった。併せて、組み合わせた樹枝に基礎捨石を配してその上に土で固めた堤防を建設するオランダ築堤も採用された。彼らの指導のもとで木曽三川の治水事業(木曽三川分流工事)などが行われ、オランダ治水技術は長らく日本の近代治水の模範とされた。
1872年1月23日(明治4年12月14日)、治水修路は府県管下で民間により行なうことが許可された(太政官布告)。これにより渡し船、賃銭橋がさかんになった。
オランダから移入された低水治水のみでは洪水被害を抑えるのが困難であることが次第に判明したため、1896年(明治29年)に制定された河川法は洪水時の河水を河道内に押しとどめ一刻も早く海へ流下させることを原則とし、水系一貫方式の治水を採用した。以後、河道を直線化し高い堤防をめぐらし(高水治水)放水路で河水を海へ流下しやすくする河川事業が主流となり、大河津分水の開削、新淀川放水路の建設、石狩川短絡事業といった大規模な河川治水事業が19世紀末 - 20世紀前期に相次いで実施された。昭和期に入ると、アメリカのテネシー川流域開発事業の影響を受けて河川総合開発事業に基づく多目的ダム・治水ダムの建設が始まった。
第二次世界大戦直後の10数年間はカスリーン台風などの大水害が立て続けに発生し国民経済に少なからぬ影響を与えたが、並行して行われてきた治水事業の効果によって1970年代以降大規模な水災害は著しく減少した。一方、大都市圏への過度な集中に伴う都市水害の増加が新たな治水の課題として浮上した。
1980年代頃から洪水防止に傾倒しすぎた河川づくりや自然環境に一定の負荷を与えるダム建設に対する批判的な意見が出され始め、1990年代からは近自然的な治水工法(多自然型川づくり)が導入されるとともに、ハード(構造物)だけに頼らない、避難方法などのソフト面での治水対策も重視されるようになり、こうした動きは2000年代の脱ダム宣言や八ッ場ダム建設中止でピークを迎えた。だが2010年代以降の日本では豪雨水害が多発し、日本の治水は新たな局面を迎えようとしている。
水災被害額を表す関数式
水害・土砂災害(総称して水災害と呼ぶ)による被害(水災被害)は、次の3つの要素から構成される。
水災害による被害は、被害ポテンシャルまたは外力規模が大きくなると増加し、治水容量が大きくなると低減される。外力規模は、降雨量など自然のはたらきに左右されるものであり、人間の力によって増減させることがほとんど不可能であるため、所与条件と考えることができる。
前節に見たとおり、外力規模を所与条件として扱うとすると、水災害の被害を軽減させるためには、(1) 被害ポテンシャルを調整・減少させること、(2) 治水容量を増大させること、(3) (1)と(2)の両者を融合した総合的な治水対策、の3つの対応が導出される。以下、3つの対応方針を概観する。
治水の目的は、人間の生命・財産・生活を水害から守ることであり、この治水目的を達成するために立案されるのが治水計画である。治水計画は次のような段階を踏んで策定されていく。
まず、対応すべき水害の外力規模を決定する。水害の規模に際限はなく、すべての水害を防御することは不可能なので、どの規模の水害に対応するかが最初の重要なポイントとなる。外力規模の決定にあたっては、防御すべき地域の重要性、その地域での水害発生頻度、河川の重要度などが考慮される。
歴史的には、最初既往最大水位(過去最も高かった水位)が治水計画の基準とされていたが、次いで既往最大流量(過去最も多かったと推定される流量)が採用されると、こんにち治水計画上重要とされている計画高水流量の概念が生まれた。
その後、より理論的な基準として年超過確率が採用され始めた。これは、観測された水位・流量・降水量の最大値を統計的に処理し、ある値(洪水となるか否かの分岐点となると考えられる値)を超える確率を算出するものであり、例えば年超過確率が1/10であれば、ある水位・流量・降水量を超える確率が10年に1回と想定されていることを表している。年超過確率をさらに発展させたのが年超過降雨確率の考え方であり、洪水を引き起こす規模の降雨の発生確率を統計的に求めたもので、年超過確率よりも普遍性が高いとされている。この年超過降雨確率に基づいて、基本高水流量が導入されるようになった。そして、これらを元にした洪水確率の概念が、現代の治水計画の基礎となっている。
治水計画はおおまかに次のような手順で策定されていく。
治水計画の策定はまず、計画基準点を選定することから始まる。選定に当たっては、防御の対象となるべき地域や主要な水理観測地点などが考慮される。
日本における治水計画の規模の長期目標
次いで、治水計画の規模を決定する。すなわち、年超過確率を元にして洪水確率=N年に1度洪水が発生するか、を算出した上で、その河川の重要度、防御すべき地域の重要度、過去の水害状況、他河川との均衡などを勘案して、どの規模の治水計画を策定するか決定する。#治水対策の3方針で前述したとおり、世界の大河川では500年から数千年・1万年に1度規模の治水計画が策定されており、その多くが計画目標を達成している。一方、洪水の発生しやすい日本では、治水計画の規模は数十年に1度レベルであることが多く、計画目標の達成率は60%前後にとどまっている。
次に計画降雨を決定する。これは、計画策定の元となる計画降雨量と計画ハイエトグラフ群を設定するものである。方法としては、実際の降雨量などを統計的に処理し、どの規模の降雨がどの頻度で発生するかをモデル化する。その上で、例えば1/50(50年に1度)規模の降雨に耐えうる治水計画を立てようと考えた場合を仮定すると、降雨モデルから1/50規模の降雨量とハイエトグラフ(単位時間当たりの降雨量をグラフ化したもの)を算定し、それによって導出されるのが計画降雨量と計画ハイエトグラフ群である。計画降雨はこのように求められる。
その次に、計画高水を決定する。これは、計画降雨があったと仮定した場合の計画高水を算出し、決定するものである。計画高水は、計画ハイドログラフと計画ピーク流量により表される。ハイドログラフとはある基準点における洪水流量を時間軸でグラフ化したもので、複数の基準点のハイドログラフを用いると、時間経過ごとの洪水流量の推移を見ることができる。また、ハイドログラフ上で示される最大流量がピーク流量である。計画ハイドログラフと計画ピーク流量は、モデル化された計画降雨を元に行われる洪水流出解析によって導出される。こうして計画高水が決定される。
計画高水が決定すれば、その流量について、どのような方法でどれだけの量を洪水調整するかが検討される。具体的な洪水調整の方法としては、ダム・遊水池・調整地の建設や氾濫原の復元などがあるが、各施設の位置・容量を設定し、洪水流出解析モデルに組み込ませた上で洪水調整量が算定される。
計画高水流量を算出する合理式
計画高水から洪水調整量を除いた流量が、治水計画上、河道に配分された洪水流量となる。既存の河道で洪水流量を十分流下させうる場合は問題ないが、十分な流量処理ができない場合は放水路を建設する必要が生じる。計画高水流量は次の式で決定される。
この式のほか、合理式と呼ばれる式もある。合理式は、流域面積が小さく、洪水調整施設(ダム等)もない河川の計画高水流量を決定する際に適用されることが多い。
計画高水流量に基づいて計画高水水位が決定される。これは、治水計画上の河川の洪水時水位である。一般に河川堤防の高さは計画高水水位よりも高く(約2.5m - 3m)設定されている。
治水計画は、以上の各過程が段階的に積み重ねられ、必要に応じて前段階に戻って再検討が加えられるなどのフィードバックも経ながら策定される。また、上流から下流まで水系を一貫した治水計画であることも重要である。日本のように洪水流に多量の土砂が含まれる地域では、上流域における砂防対策をも治水計画の視野に入れる必要がある。
1980年代・1990年代頃から、治水計画策定を支援することを目的として、流域内の水理・水文を視覚的に表すモデルが研究され、発展を遂げてきた。中でも、デンマーク水理研究所(DHI)が開発したMIKEシリーズというモデル群は、そのインターフェイスの簡明性と易操作性から世界各地で広く採用され、世界標準となりつつある。
#治水対策の3方針で上述したように、治水対策は構造物の建設(治水容量の増大)のみならず、被害ポテンシャルの軽減も不可欠である。以下、治水対策として実施される主な構造物・事業を概観するが、以下に示すものだけが治水対策の全てでないことに注意しておく必要がある。
治水対策の中でも特に構造物対策は、河川環境に与える影響が大きい。20世紀に進められてきた治水対策は河川構造物の建設を主体としており、河川形状の画一化、河床の平坦化・無生物的な護岸の盛行などによって、河川における生態系の喪失・劣化が生じた。1960年代後期の西ドイツ・スイスなどで、生態系の維持に配慮した河川づくりの運動が興り、1970年代には、実際に西ドイツ・スイス・オーストリアでいわゆる近自然的な河川づくりが実施され始めた。ヨーロッパの自然条件の下では近自然的河川づくりと治水対策とを整合的に実施することが可能であり、かつての氾濫原で後に農地や住宅地として開発された地域を再び氾濫原に戻す事業が多く行われた。
こうした河川思想はアメリカやアジア各国へも波及し、例えば日本では、近自然的河川づくりを日本的に咀嚼した多自然型川づくりが河川事業の中心に置かれるようになり、その他、中国では長江流域単位で河川の自然再生事業が行われたり、韓国では都市高速道路と河川の蓋を撤去して河川生態系の再生を図るソウルの清渓川事業などの取り組みが行われている。
治水と河川環境の再生・維持を両立させる上で重要な視点は次のとおりである。
総合的な水害対策は日本において昭和30年代の高度経済成長期に始まる急速な都市化に伴う宅地開発で、行政指導により、水害抑制として防災調整池の設置や都市計画法による区域区分と治水事業との調整に始まっている。この間に家屋の連坦に伴って河川改修が困難な状況に加えて、当時の急激な開発により保水機能や遊水機能の低下が著しくなり、事業計画上での河川改修のみでは治水安全度がいつまでも向上しないという深刻な状況に陥っていた。
そこで、1976年に、旧建設省が総合的な治水対策の推進方策について河川審議会に諮問し、それを受けて審議会から1977年に「総合的な治水対策の推進方策はいかにあるべきか」という中間答申が行われた。これにより、1980年に「総合治水対策の推進について」という建設事務次官通達が出され、総合治水対策特定河川事業として総合治水対策特定河川が合計17河川指定され、この各河川で流域総合治水対策協議会の設置や流域整備計画が策定された。
しかしその後、今度は既存の調整池やため池が埋め立てられるといった状況が発生、都市部の浸水被害が頻発するようになった。また、人口増加が鎮静化を迎え開発圧力が減少する一方で、被害ポテンシャルの増大や土地利用の高度化は依然として進み、都市部の河川流域における新たなスキームによる一体的な浸水被害対策が必要となった。
こうした実態を受け、2004年5月に特定都市河川浸水被害対策法が施行される。これまでに鶴見川・新川・寝屋川・巴川・境川 (愛知県)・境川 (東京都・神奈川県)の6河川とその支流の一部が対策法での特定都市河川に指定されている。
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