亀岡市
京都府の市 ウィキペディアから
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亀岡市(かめおかし)は、京都府の中西部に位置する市。1955年(昭和30年)、市制施行。
旧名は亀山。亀岡市は丹波国の最南端に位置し、山城国・摂津国に接する。 人口は京都市と宇治市に次いで府内第3位で、丹波国の中心都市であった。
戦国時代末期に明智光秀が丹波亀山城と城下町を築いたことが近代亀岡の礎となる。
しかし、現在では京都・大阪の衛星都市の側面を持つようになった。なお、南丹市と船井郡京丹波町と併せて南丹や口丹波、口丹と称することもある。
直線距離で京都市の中心部まで約15km、大阪市の中心部までは約38kmあり、電車では前者までは約20分、後者までは約55分かかる。交通の便の良さから双方のベッドタウンとして機能している。 京都市への通勤通学率は21%である[1]。京都都市圏に含まれている[2]。
亀岡市は、亀岡盆地及び周辺山地を中心に位置している。 亀岡盆地のほぼ中央を大堰川・保津川(桂川)が流れる。
周辺山地には丹波高地等が亀岡市域に迫り出している。山間部には東別院町・本梅町・畑野町等の地区があるが桂川水系ではない。
桂川を大堰川と呼ぶ名称は、渡来人である秦氏がつくった農業用の「堰」に由来する。 徒然草(第五十一段)では「大井川」となっており、大井町にある大井神社に由来する。また、保津町請田から京都市嵐山までは保津川と呼び慣わしている。 その他、流域によって大川、千歳川などの名称で呼ばれている[3]。
馬路・千歳・河原林・旭の各町がある大堰川(保津川)左岸は総称して川東と呼ばれ、愛宕山系の扇状地であり、同山系を水源とする七谷川や三俣川は高低差が激しく、よく氾濫したという。
亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主神が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ保津川・保津峡と名付けたという伝説も残っており、出雲大神宮(千歳町)の祭神となっている[4]。 湖だったことを示す地層も明らかになっている[5][6]。
気候は内陸性気候。気象台区分としては、亀岡市域を京都市・山城地域の京都府南部に含んでいる。しかし、晩秋から早春にかけて亀岡盆地名物の深い霧(「霧の都 亀岡」とも言われる所以)が発生しており、この季節に京都市内から保津峡や老ノ坂峠を経て市内へ入ると景色が一変する。霧の規模は全国的に有名で、最大、正午過ぎまで晴れないことも多い。衛星写真では亀岡市全体が霧の影響で白く写ることもある。
亀岡市街地は保津川(大堰川)より低地であるうえに、保津峡でせき止められることにより逆流を原因とする水害が多発していた。この洪水は日吉ダムの開設により一応は解決しているものの、遊水池となっていたJR嵯峨野線と保津川(大堰川)の間にはほとんど建築物がない。しかし、嵯峨野線複線化と併せて新たな都市開発の構想がある。
大都市に隣接しながらも、水田生態系が豊富に残されており、アユモドキ(国の天然記念物)やオオサンショウウオ(特別天然記念物)、ホトケドジョウが観察されている。なお、アユモドキは環境省レッドデータブックで絶滅危惧IA類、京都府レッドデータブックで絶滅寸前種に指定されており、保全活動が盛んである。
亀岡駅北口付近にサンガスタジアム by KYOCERAが2020年に開業した。それに伴い京都サンガF.C.が同年シーズンよりホームスタジアムとして使用している。
国道9号沿いの京都市寄り付近には、山陰本線などにより京都市へアクセスすることを想定された伊藤忠都市開発による亀岡イトーピア(つつじヶ丘)と呼ばれる区域等が開発されている。
また亀岡市郊外には建築基準無指定地域が広がっていたことから、1980年代以降大阪府との府境付近に、民間業者によるニュータウン開発が行われた。これらは、大阪方面へ通勤・通学する人のニーズに応えることを目的として、できるだけ大阪府に近い、安価かつ造成可能な場所に開発されたものである。しかし、こうして開発されたニュータウンは、市中心部から遠く離れた山間部に位置しており、周辺の道路整備が十分になされていない等の課題もある。
亀岡市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 亀岡市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 亀岡市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
亀岡市(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
古代には大堰川(保津川)左岸の千歳町千歳に後期古墳で丹波最大の千歳車塚古墳が築かれており、その被葬者は『日本書紀』にみられる倭彦王とする説もある。後の時代には千歳町国分地区に国分寺が置かれている。 日本書紀には、6世紀の初め、皇位継承者の途絶えた朝廷が、天皇の血筋にあった倭彦王を迎えようとしたと記されている。 丹波の桑田郡、つまり現在の亀岡にいた倭彦王は、迎えの兵に驚いて逃げ行方不明となったため、その後、朝廷は、越前から継体天皇を迎えたとされている。 継体天皇元年に初めて神殿が建立された愛宕神社や出雲大神宮や養仙寺もあるなど歴史的に古い地域である。 諸説あるが、大堰川右岸の千代川町に丹波国府が置かれたとも言われている[8]。 京都との国境の大枝には酒呑童子の鬼がいたと言われ、源頼光によって討伐されたという伝説がある[9]。
薭田野町・曽我部町に薭田野神社、穴太寺、神蔵寺など由緒ある重要な寺社も多い。
7 - 8世紀ころには山陰道各国府を結ぶ山陰道が設けられ、また現在の京都市右京区の京北地域にあたる弓削郷・山国郷などの木材が桂川に乗って京都へ運ばれるようになると、亀岡周辺は保津峡直前の船待ち場として発展した。京都・山城から山陰へは当市域が入り口に当たるため、山城との境に当たる老の坂峠・王子宿には多くの宿場が立ち並んだ。また土地の私有が可能になると、小川荘や桑田荘・矢田荘および加舎荘などの荘園が開発された。
平安末期の武将で摂津源氏の源頼政の墓がつつじヶ丘地区にある。
篠町には足利尊氏の挙兵の地となった篠村八幡宮があるなど当市域は鎌倉・南北朝時代を通じて源氏の一拠点となった。
石門心学の石田梅岩、画家・円山応挙、医者・山脇東洋も亀岡市域の出身者である。 また、摂津国福原の一ノ谷に向かう途中に通過した源義経や那須与一などのほかに安倍晴明、文覚、一遍、蓮如、明智光秀、小早川秀秋、角倉了以を始めとして亀岡にゆかりのある著名人は多い。
安土桃山時代に入って明智光秀が丹波統治のため古世地区に丹波亀山城を築き城下町を形成したことによって、亀岡は近代的な発展を遂げる。 明智滅亡後も豊臣・徳川政権下において丹波亀山城には羽柴秀勝(於次、信長四男)、豊臣秀勝(小吉、秀吉の甥)、小早川秀秋、前田玄以・岡部長盛ら信任ある人間が配置されるなど京都の西北の入り口として重要視され続けた。 亀山藩主は代々老中や寺社奉行、京都所司代、大坂城代等の要職を務めたために出費は大きなものであったようだ[要出典]。このため、たびたび重税が課せられ、亀山藩支配下の村々はみな疲弊したという。
角倉了以の保津川開削以後、桂川の輸送力が強化されると、丹波と京都の中継地点として亀岡市域内の宇津根・馬路・保津・山本が栄えた。桂川水運は大正時代まで連綿と続いた。また、京街道・山陰街道および摂丹街道の分岐点が城下の追分に設けられて発展した。
旧西別院村には、ほぼ中心にそびえる鴻応山(こうのやま)を取り巻く形で、8地区が存在した。特に、牧、寺田、神地地区は背後に鴻応山を控え、これら3地区とその他地区との境界は、概ね大阪府と京都府の分水嶺をなしていた。江戸時代においては、牧地区は幕府領、その他は高槻藩の管轄下にあった。
牧・寺田両地区は亀岡市の中心から約15km以上も離れている一方、大阪府豊能郡東能勢村役場からは約3km程度と近距離であり、電信の管轄も、牧・寺田両地区のみ東能勢局だった。さらに、小中高等学校も東能勢村からの方が近く、地区内の場所によっては授業中の唱歌や体操の声さえ聞こえる状況だった。
南桑田郡内18町村合併構想を受け、村内地区ごとに意向を打診したところ、ほとんどの地区は亀岡市への合併参加を希望したが、牧、寺田、神地地区は大阪府への分村を希望した。郡内他町村の合併に向けた動きが活発化する中で、西別院村としての早急な態度統一が求められたため、これら3地区では合併後に分離協議することを条件に、まず一旦亀岡市への合併参加を了解した。
こうして1955年(昭和30年)、西別院村全域は亀岡市西別院町となった。しかし、条件に設けた分離協議に進展が見られなかったことから、3地区住民からの亀岡市長や自治庁への要望活動が活発化し、さらに政治結社の結成まで行われた。一方、西別院町の他地区住民は、農協の弱体化や町内学校の存廃に及ぶとして、3地区の分離運動には批判的だった。
こうした中、神地地区では住民の分離運動が萎縮化し、最終的に分離断念を決定。一方、牧・寺田両地区住民の気運は衰えず、国が設置する新市町村建設促進中央審議会による町村合併調整委員の調停に持ち込まれた。数度の委員会開催を経て、東能勢村への編入調停が成立した。大阪府、東能勢村の両自治体も受け入れを了承し、1958年(昭和33年)に府境を越えた越境合併がなされることとなった[17]。
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※2019年5月12日現在。
亀岡市内には亀岡市立病院を含めて総合病院が4つあり、他に亀岡市が南丹市八木町にある京都中部総合医療センターを運営する一部事務組合に参加している。 しかし、1970年代から90年代にかけての人口急増に十分に対応できたものではなく、歯科医を除く医師は市民908人に1人(2002年)、病院病床数は市民153人に1床(2003年)であり、京都市などの医療機関の診療を受ける市民も多い。
全域が上3桁「621」で、亀岡郵便局の管轄である。2007年に、亀岡郵便局 (621-00・01・08) と本梅郵便局 (621-02) に分割された。
亀岡市は、京都にも大阪にもほど近い利便性に優れた場所に位置し、総面積の約12.3%にあたる2,770haの耕地を有する。このうち田耕地(田んぼ)が2,660haで、耕地面積の約96.0%を占める。広大な農地を有することから、京都市をはじめとする近郊都市の穀倉地として、高い農業生産力を誇っている。
農業従事者は、水耕栽培を中心とした兼業農家が約73%を占めている。平成28年にはキヌヒカリで亀岡を含む丹波地区が特Aを獲得した。各集落には営農組織が組織され、地域の特性を生かした産地づくり対策が進められている。 近年では高齢化が進み農業人口が減っていることが問題である。
弥生時代、亀岡を流れる桂川はたびたび氾濫を繰り返し、4世紀ごろまで亀岡盆地のほとんどが湖もしくは湿地帯であったとされている。そのため、人々は扇状地などの高い場所で暮らしていたと推測される。3世紀頃から水稲栽培が始まり、当時使われていたと考えられる水路や河川などで水を止めるために使用する堰が北金岐遺跡で見つかっている。
7世紀頃、亀岡では渡来人の秦氏によって伝えられたとされる養蚕が盛んになり、蚕の餌となる桑の栽培が広まった。亀岡の旧国名である丹波国桑田郡はこのことに由来する。秦氏は現在の嵐山付近に堰を造設したことや、亀岡盆地の湿地帯を開拓し、農業技術や農具を伝承したことで知られる。亀岡地域では桂川 (淀川水系)は大堰川(おおいがわ)と呼ばれるが、これは嵐山付近に造られたこの堰に由来する。
奈良時代に始まった公地公民制により亀岡も条里制が行われ、平地の多くが碁盤目状に区画され開墾が進んだ。
平安時代、新たに開墾された私有地である荘園が各地に作られたが、亀岡では条里制によりすでに多くの土地が開墾されていたため、その水田面積に大きな変化はなかった。亀岡につくられた荘園の所有者は藤原氏や皇室であった。
江戸時代、亀岡は明智光秀の城下町である亀山を除いて、ほぼ全域にわたり農村であった。米を中心とした五穀の栽培が大半を占めていたが、煙草、綿、小豆、ごぼうの栽培も小規模ながら行われていた。また、それらの特産品の多くが上品(じょうぼん)であった。水稲栽培が盛んであったことから酒造業も行われた。
1949年、隣接する篠村に農業用貯水池(ため池)である平和池を建設するものの、1951年7月11日の集中豪雨で決壊(平和池水害)。死者、行方不明者75人を被害を出した[26]。
京都農業協同組合(JA京都)は亀岡市に本店がある。丹波地方の市町村、京丹後市を含む京都府中・北部を一括する。農業協同組合であり、現在京野菜のほとんどがJA京都の産物である。
保津川下り、トロッコ列車などの他に、出雲大神宮、丹波亀山城(大本本部)等といった歴史的な観光資源を有する。また、宿泊施設として湯の花温泉がある。
市内の一部ではテレビ大阪を直接受信可能な地域もある。
大半は「0771」だが、篠町老ノ坂は「075」である。
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中心となる駅:亀岡駅
丹波松茸、丹波黒豆、馬路大納言小豆、丹波栗、みず菜、千枚漬に重宝される篠大根(かぶら)や、丹波山の芋等の京野菜や、亀岡牛、丹波地鶏、鮎、猪などが知られる。また、日本で唯一、ハバネロ(トウガラシの一種)の商業水準の生産も行われてる。
亀岡牛は、肉質がとても柔らかく世界最高と言われる黒毛和種の肉牛である。屠畜から遡って14ヶ月以上亀岡市内において肥育され、亀岡市食肉センターで屠畜し、亀岡牛枝肉振興協議会が適当と認めたものが亀岡牛と認定される。 他のブランド肉牛と違う点は、飼育期間が2ヶ月~半年ほど長く、牛が成熟するのを待つことである。これにより、肉の風味や油の艶を引き出し、からっとしたしつこくない味に仕上がるとされる。亀岡市で飼育されている和牛の頭数は、京都府内における和牛の頭数の3割以上を占めている。平成28年11月3日に神戸中央卸売市場西部市場で開催された第63回近畿東海北陸連合肉牛共進会において、亀岡牛は名だたる銘柄牛をおさえ、最優秀賞、優秀賞を受賞した。
馬路大納言小豆は、馬路町で生産された丹波大納言のことである。隣接する河原林、千歳などの各町で種を蒔いても普通の丹波大納言小豆になる。高級品の丹波大納言小豆のなかでも最高級品であり、亀岡の深い霧と馬路町の石灰質の土壌が品質をよくする。馬路大納言小豆は大粒で色艶がよく、独特の風味と香り、亀岡の馬路でしか生産できないという特徴から「日本で一番の小豆」とも言われている。地域では、小学校の授業や、食の応援隊交流事業を通したイベントの開催、お菓子や薬膳料理などとのコラボを通じて、馬路大納言を活用したブランド力向上の取り組みが行なわれている。
篠大根は亀岡篠町の肥沃な堆積土で育った青首大根で、強い芳香が特徴である。鳴滝の大根炊きとして知られる、了徳寺の大根炊きで使用される。最近ではより市場価値の高い聖護院カブに押されて、生産量が大きく減少している。
京都市、大阪府に隣接していることもあり、亀岡市在住の(もしくは在住していた)著名な学者や文化人、俳優などは少なくない。
亀岡市を舞台とした作品
京都市に隣接している立地条件から時代劇を中心としたロケーション撮影[28] が市内各地で行われている。また、かつては日本電波映画の日本電波映画第二撮影所があった。このように、映画との関わりが深い街であるが、市内には映画館がない。
東本梅町の大内の大日堂前では水戸黄門などの東海道、馬路町の月読橋や河原林町の宇津根橋、保津町の保津橋は、大井川や利根川の渡しのシーンに利用される。他にも保津峡や桂林寺(本梅町)、出雲大神宮などの社寺でも撮影が行われる。篠町の篠村八幡宮では『座頭市』シリーズの撮影がたびたび行われ、千歳町の丹波国分寺跡では山田洋次監督の『隠し剣 鬼の爪』の撮影でオープン・セットが組まれ、同映画の日本アカデミー賞美術賞授賞に貢献した。
映画俳優の中村玉緒は、子どもたちに古里を作るために、同じく映画俳優の夫・勝新太郎と「亀岡にお墓を建てて、ふたりで戻ってこよう」と話をしていたという[29]。丹波哲郎も何度もロケで亀岡を訪れ、先祖である丹波康頼の墓所がある金輪寺を訪ねたことがある[30]。
2004年、亀岡を舞台に盲導犬と人との交流を描いた映画『クイール』が製作された。数々のロケーション撮影が行なわれたが、『太平記』や本能寺の変などを除くと亀岡が舞台となるのは異例のことであった。
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