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柴田錬三郎の剣豪小説シリーズ ウィキペディアから
眠狂四郎(ねむり きょうしろう)は、柴田錬三郎の剣豪小説シリーズ、その主人公の剣客。1956年から『週刊新潮』に『眠狂四郎無頼控』として連載開始し、五味康祐『柳生武芸帳』と並んで剣豪ブームを巻き起こし、たびたび映画化、テレビドラマ化、舞台化された。
『大菩薩峠』(中里介山著)の主人公机竜之助に端を発するニヒル剣士の系譜と、柴田の作風を貫くダンディズムが融合した複雑な造形がなされている。転びバテレンと日本人の混血という生い立ちによる虚無感と、平然と人を斬り捨てる残虐性を持ち、豊臣秀頼佩刀と伝わる愛刀「無想正宗」を帯び「円月殺法」という剣術を用いる。映画評論家の佐藤忠男が指摘するように歌舞伎の伝統では恋愛するのは二枚目で、立役は恋愛しないことになっているのが西洋の騎士道と違うところで、このシリーズは明らかにその伝統を破っている。
昭和30年代の週刊誌ブームの先駆けとして、1956年に『週刊新潮』が創刊され、創刊号からは谷崎潤一郎「鴨東綺譚」、大佛次郎「おかしな奴」、五味康祐「柳生武芸帳」の3本が連載された。しかし「鴨東綺譚」はモデルの女性から抗議されたことで連載中止となり、代わりにこの年の芥川賞を受賞していた石原慎太郎「月蝕」を掲載した。続いて編集長の斎藤十一は柴田錬三郎を訪れ、柴田が過去に大衆小説評で「こんなものが大衆小説なら、いつでも束にして書いてみせる」と述べていたことに触れて時代小説の連載を依頼し、さらに1回ずつの読切で20話、主人公は腕の立つ剣客という注文をつけた。柴田は1951年に直木賞を受賞したのちは、1954年に初の長編時代小説「江戸群盗伝」連載、1956年に塚原卜伝の修行時代を題材にした「一の太刀」などを執筆しており、『週刊新潮』1956年5月8日号に『眠狂四郎無頼控』の第一話「雛の首」を掲載した。この眠狂四郎は中里介山『大菩薩峠』の主人公机竜之助を念頭に考案した、混血の出生やニヒリストの自虐を持つ人物像だったが、読者からの手紙が殺到し、編集部から20回でなく当面書き続けて欲しいと要望され、1958年5月まで100話を連載、1959年1月から7月に続30話が連載された[1]。
柴田は執筆に際して、それまでの時代小説の主人公が「求道精神主義者か、しからずんば正義派であった」ことの逆を取ろうとし、陰惨な生誕をもつニヒリストで、「眠狂四郎が、剣を修行したのも、剣を抜くのも、従来の求道精神的図式の埒外」「近代人の所有する自虐精神から生まれたもの」としている[2]。「眠狂四郎」の人気の理由について遠藤周作は、従来の大衆小説の要素に加えて、スピード感と、ドンデン返しのある刺激的な構成、サディズムとマゾヒズムの加味されたエロティシズムを挙げ、「虚無も孤独も悉く運命感と宿命感とを背負わされている」ことの魅力だと述べている[3]。狂四郎の性格や状況には現代にも通じるところがあり、それは『主水血笑録』などでも踏襲されているが、当時の権力闘争の枠の中で伝奇小説的な空想力の発揮には限界があり、その点では『赤い影法師』にいたって「各種各様の剣豪小説を一篇に集大成したようなおもしろさをみせている」とも評されている[4]。また柴田は1976年のエッセイ『地べたから物申す』では、眠狂四郎を「徹底的な悪党にするほぞをきめて、書きはじめた」が、「眠狂四郎が、女を犯さなくなり、分別くさい傾向を示していることに、嫌悪をおぼえているのである」とも述べている[5]。
狂四郎の人物像は、1953年に書いた短編「カステラ東安」の混血で虚無的、冷酷非情な主人公がモデルであり、また『江戸群盗伝』の主人公梅津長門も陰鬱な容貌、黒羽二重の着流し、絶妙な剣の使い手という共通点がある[6]。
江戸時代の将軍徳川家斉の頃、狂四郎は祖父の大目付松平主水正の長女千津が、オランダ医師で転びバテレンのジュアン・ヘルナンドに犯されて生まれた。15歳で母千津と死別し、剣法修行に励み、20歳の時に出自の究明のため長崎へ行く。その帰途に船が嵐にあって孤島に泳ぎ着き、そこで出会った老剣客に1年あまり学んで円月殺法を編み出し、島を去る時に老剣客より極意秘伝書がわりに無想正宗を与えられた。『独歩行』の中で、円月殺法は「剣は、敵の闘魂を奪う働きを示す」「敵をして、空白の眠りに陥らしめる殺法」という催眠剣法として説明されている[8]。
老中水野忠邦の側頭役武部仙十郎に雇われ、忠邦による幕政改革(天保の改革)を妨げる水野忠成をはじめとする勢力との暗闘の渦中にあって、次々と敵方の隠密らを斃してゆく。『独歩行』では、徳川家康直属の忍者集団であった風魔一族の末裔が幕府転覆を図る陰謀を、武部の依頼で狂四郎が阻止する。『殺法帖』では佐渡金山に関わる不正を調べに赴き、加賀の豪商銭屋五兵衛による密貿易の秘密を暴きだす。『無情控』は、大阪落城の際に運び出された太閤の御用金を探しに来日した安南の日本人町の人々に加担することになり、様々な勢力との暗闘に飛び込んでいく。『異端状』では、飢餓に苦しむ秋田藩による密貿易に関わって南支那海に現れる。
小説が連載開始した1956年に鶴田浩二主演で3本が制作されたが、ニヒルさに欠け、殺陣がうまくなく、円月殺法も小手先で刀を回すだけで評判は良くなかったが、3作目で戸上城太郎が敵役となって殺陣は体裁が整った。1957年に江見渉がテレビ局に企画を持ち込んでドラマ化された。円月殺法では音無しの構えをモデルにして、原作では刀を右に振るのだが、それでは絵にならないと左から振る形で演じた。
1963年から市川雷蔵による映画シリーズが制作される。当初は興行成績も良くなかったが、第4作『眠狂四郎女妖剣』がヒットし、本格的にシリーズ化した。「凛とした気品と清洌さ、そして何よりも内面からにじみ出る知性で、現代的感覚を持った狂四郎を演じきった」と評される[9]。1967年に平幹二朗主演でドラマ化、「長身痩躯のスゴみのある狂四郎を見せた」[9]とされ、殺陣師の湯浅謙太郎が、円月殺法は下段ではキマらないので、長身を生かして上段で刀を振らせた。1972年に田村正和主演でテレビドラマ化、舞台でも演じた。円月殺法はストロボ撮影を使い、片膝をついて刀を右にはね上げる型で演じており、柴田錬三郎はこの田村を気に入っていた。1982年に片岡孝夫でテレビドラマ化、円月殺法はビデオ撮影と合成で、「深紅の大空に無数の蝶が舞う幻想催眠の中で相手を切る」として描かれた[9]。
市川雷蔵主演のシリーズ(1963年 - 1969年):大映京都製作。全12作。映画化作品としては他のシリーズ作品よりも圧倒的に多く、雷蔵の代名詞となる当たり役だった。
松方弘樹主演の作品(1969年):大映京都製作。全2作。雷蔵の死後に製作された後継シリーズで、東映から松方をレンタル移籍させ、シリーズ継続を図ったがヒットには至らなかった。
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