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1911-1989, 映画監督、演出家。 ウィキペディアから
森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年6月29日)は、日本の映画監督、演出家[1]。通り名で「もり いっせい」とも呼ばれる。
愛媛県松山市に生まれる[2][3]、その後は九州の八幡へと移り住んだ[1][4]。京都帝国大学文学部を卒業[3]。1933年、日活太秦撮影所に入所するも、脚本部へ配属された[3]。後に永田雅一により、第一映画社が創設され、主に伊藤大輔監督の助監督となる[1]。
1934年に第一映画社、1936年に新興キネマへ移籍した[2]。伊藤大輔、犬塚稔らの助監督を経て、1936年、『仇討膝栗毛』で監督デビューする[1][4]。その後、新興キネマを吸収した大映に移籍し、『大阪商人』などを監督。特に『大村益二郎』は高く評価されたが[3]、程なく応召され中国へと派遣された[3]。
復員後は大映京都撮影所入りし[3]、多くのプログラムピクチャーを監督。黒澤明とは、ほぼ同世代の映画人ということで戦前からの友人であり[5]、黒澤脚本の『決闘鍵屋の辻』を撮り[4]、のちに黒澤脚本の『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』も監督している[4]。大映では『座頭市シリーズ』、『忍びの者シリーズ』に代表される時代劇を主に監督した。
『不知火検校』においては勝新太郎の新しい魅力を引き出し[1][4]、『座頭市』製作へのお膳立てをした[4]。他には『薄桜記』や『ある殺し屋の鍵』などが時代劇の代表作品である[3]。現代劇では『兵隊やくざ』シリーズなどを監督した[1]。
1971年の大映倒産後は、テレビドラマの演出を手がけ[1]、『木枯し紋次郎』、『座頭市物語』、『横溝正史シリーズ』など多くの作品を手がけた。1987年、京都市文化功労者。1989年6月29日死去。78歳没。墓所は天龍寺三秀院。
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