川口知哉
日本のプロ野球選手、指導者 (1979-) ウィキペディアから
川口 知哉(かわぐち ともや、1979年〈昭和54年〉8月25日 - )は、京都府城陽市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ・監督。
龍谷大学付属平安高等学校硬式野球部 監督 | |
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サウス・ディオーネ時代 (2014年4月3日、わかさスタジアム京都にて) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府城陽市 |
生年月日 | 1979年8月25日(45歳) |
身長 体重 |
184 cm 86 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1997年 ドラフト1位 |
初出場 | 1999年10月11日 |
最終出場 | 2003年10月3日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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来歴
要約
視点
プロ入り前
平安高3年生時の1997年、第69回選抜大会と第79回全国選手権にエース兼4番打者として出場。春はベスト8に進出、夏は決勝で強打者の中谷仁らを擁する智弁和歌山に3-6で敗れたが、平安を準優勝へと導いた。なお、この夏の大会で投げた全投球数「820球」は1大会としては第88回全国選手権にて早実の斎藤佑樹(948球)と、第100回全国選手権にて金農の吉田輝星(881球)に次ぐ記録。
最高球速140 km/h台の直球と落差の大きいカーブを武器に当時「西のドクターK」と呼ばれ、甲子園未出場ながら「東のドクターK」として著名な選手であった水商の井川慶、鳥取城北の能見篤史と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。全国大会での実績、実力とビッグマウスぶりから注目度はNo.1であった。
同年のドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブ、近鉄バファローズ、ヤクルトスワローズ、横浜ベイスターズの4球団から1位指名を受け、抽選の結果、希望通りオリックスへの入団が決まった。
プロ入り後
プロ入り後は故障や制球難に苦しみ、制球難克服の為に毎年のようにフォーム改造に挑んだが成果は上がらなかった。1年目の1998年は一軍登板はなく、二軍(ウエスタン・リーグ)での登板のみにとどまった。1999年10月に一軍初登板を果たしたが、以降は二軍生活が続いた。
2001年8月4日に開催されたウ・リーグの対広島東洋カープ戦で1試合6暴投のリーグ新記録、8月29日の同リーグの対阪神タイガース戦では1試合15与四球、7連続与四球のリーグ記録を作った。この試合でも3暴投を記録し、リーグ新記録のシーズン14暴投となった。
2002年と2003年は一軍での登板機会が与えられたが活躍できず、2004年10月7日に戦力外通告を受けた[1]。同年の12球団合同トライアウトを受験するも不合格となり、現役を引退。
なお本人は、プロ入り後に低迷した原因は、1年目の春に当時の投手コーチ[2]に強制されたフォーム改造であるとインタビューに答えている。軸足の独特な使い方を問題視され、本人は改造を一度は断ったものの認めてもらえず、「プロの人が言うのだから」と渋々フォーム改造を受け入れたが、結局身体に合わずフォームがバラバラになってしまったという[3]。
引退後
京都府内で住宅の外装関係の職種に就業、その傍ら少年野球などアマチュア野球の指導にも参加している。引退の前年に歯科技工士の女性と結婚、引退直後に生まれた子供が1人いる。
2010年から2012年まで日本女子プロ野球機構の京都アストドリームスのコーチを、2013年から2014年までサウス・ディオーネ(兵庫スイングスマイリーズから改称)の監督、2015年は日本女子プロ野球リーグの4チーム統括ヘッドコーチを務めた[4]。
2018年、京都フローラの監督に就任し、リーグ優勝を果たした[6]。
2021年5月に学生野球資格を回復。
2022年4月1日付で母校の龍谷大平安高校に職員として勤務を行いながら、野球部のコーチに就任[7]。恩師でもある監督の原田英彦が退職した2025年3月には監督代行を務めた[8][9]。その後同年4月1日付で同校の監督に就任[10]。
ビッグマウス
インタビューでのビッグマウスぶりは有名であった[11]。特に1997年夏の甲子園大会2回戦で後の阪神のリリーフエース藤川球児がいた高知商戦で完封勝利後、次の試合で「完全試合を達成します!」のインタビューは、高校野球ファンに強烈な印象を残した(結果は完投勝利。被安打6、失点2)[12]。ただし、この発言は前の試合で「2桁奪三振と完封」を目標にしたいと記者からのインタビューに答えており、実際に達成した上で同じ質問をされたので「同じことを言うのもなあ」という思いで答えたところ、その発言が一人歩きし、以後はビッグマウスのレッテルを貼られるようになったという[13]。 オリックス入団直後の春キャンプでも「新人王をとります」「20勝はしたい」「(背番号に関して)16ではなく、ホンマは11が欲しかった(当時11を着けていたのは、チームの重鎮である佐藤義則)」などの発言でスポーツニュースを賑わせていた。ルーキーで二軍スタートとなった際に当時の仰木彬監督に「儂はいつになったら一軍で投げさせてくれるんねん」という口調で直訴をしたこともある。成績の不振でマスコミでの露出が減っていくと、次第にビッグマウスは影を潜めていった。
詳細情報
年度別投手成績
記録
- 初登板:1999年10月11日 対千葉ロッテマリーンズ26回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回表に3番手で救援登板、1/3回を1失点
- 初奪三振:2002年9月24日、対西武ライオンズ25回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表に大島裕行から
- 初先発:2002年9月27日 対千葉ロッテマリーンズ24回戦(千葉マリンスタジアム)、4回3失点で敗戦投手
背番号
- 16(1998年 - 2003年)
- 68(2004年)
- 71(2010年 - 2013年)
- 50(2014年、2018年 - 2020年)
- 51(2016年 - 2017年)
脚注
関連項目
外部リンク
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