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日本の武道家、合気道の創始者 ウィキペディアから
植芝 盛平(うえしば もりへい、1883年〈明治16年〉12月14日 - 1969年〈昭和44年〉4月26日)は、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。
和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現在の田辺市)の富裕な農家に生まれた。大東流を初めとする柔術・剣術など各武術の修行成果を、大本教や神道などの研究から得た独自の精神哲学で纏めなおし、『和合』、『万有愛護』等を理念とする合気道を創始した。 開祖の他の敬称として「翁」(おう)。特に古い高弟は「翁先生」・「大(おお)先生」と呼ぶ。
身長156cmながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝が有り、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。太平洋戦争(大東亜戦争)中は軍部に有用性を認められ、陸軍憲兵学校・海軍大学校などで武術指導を行う。
終戦後息子で後継者の植芝吉祥丸と共に合気道の社会普及に務めた。合気道は日本国内だけでなく世界的に大きく広まり、柔道・空手道などに次ぐ国際的武道に育った[3][4]。盛平の功績は社会的に高く評価され、紫綬褒章、勲三等瑞宝章などを受賞[5]した。
※ 特に注記のない記述は、『植芝盛平伝』(「年譜」299-315頁)に基づく。
1883年(明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(後の田辺市)の富裕な農家・植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれた。 父・与六は村会議員を務める村の有力者で、巨躯・怪力の持ち主、母ゆきは甲斐武田氏の末裔という糸川家の出で文を良くしたという。盛平は、与六にとって40歳にして初めて恵まれた待望の男児であり、終生与六の寵愛を受けて育つ。 幼少時の盛平は病弱で内向的な読書好きの少年であった。寺の学問所で四書五経を習う一方、数学や物理の実験に熱中するが、これを危ぶんだ与六は、近所の漁師の子供と相撲を取らせるなどして、盛平の体力と覇気を養うよう努めた。生来負けず嫌いの気性もあり、やがて盛平自身盛んに海に潜ってはモリ突きを楽しむなど活発で外向的な少年に育っていった。しかし14~5歳までは華奢な痩身であったという。
1896年(明治29年)13歳。田辺中学校に進むが一年を経ず中退、珠算学校を経て田辺税務署に勤務する。
1901年(明治34年)18歳。「磯事件」(漁業法改正に反対する漁民の権利運動)に加担し、それが元で税務署を退職。
1902年(明治35年)19歳。春上京し父与六の援助により文房具卸売業「植芝商会」を設立。その傍ら天神真楊流柔術(戸澤徳三郎)[8]・神陰流剣術[9]を学ぶ。商売は成功するが、夏頃不摂生が祟って脚気を患い、店を従業員に譲って無一文で帰郷する。 田辺で静養し健康を回復する。脚気克服のため始めた裸足で山野を駆け巡る鍛錬により頑健な体となる。 同年10月、2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚。
1903年(明治36年)20歳。この頃盛平の身長5尺1寸5分(約156cm)体重20貫(75kg)、日夜の鍛錬の結果、短躯ながら筋骨逞しい重厚な体格となっていたが、徴兵検査の身長合格基準5尺2寸に足りず不合格となる。これに発奮した盛平は、更に鍛錬に励み、また嘆願を繰り返し熱意が買われたこと・日露間の緊張の高まりなど時勢の変化もあり同年12月の再検査で合格、陸軍大阪第4師団歩兵第37連隊に入隊。 同時期に堺の柳生心眼流柔術・中井正勝に入門。行軍演習や銃剣術の訓練において目覚しい活躍を見せ、仲間から「兵隊の神様」と持て囃された。銃剣術は上官の代理で教官を務めたという。
1905年(明治38年)22歳。伍長に昇進。軍は盛平を銃剣術の教官として内地に留め置きたい意向だったが、盛平自身は戦地への転出を度々直訴する。8月、ようやく第2軍大阪第4師団和歌山歩兵第61連隊に配属され戦地に出征するが、戦争の趨勢は既に決しており、本格的な戦闘に参加することは無かった。9月5日終戦。
1906年(明治39年)23歳。帰国。軍曹に昇進。上官から陸軍戸山学校への入学を勧められ職業軍人への道を歩みかけるが、父の反対により断念、同年除隊し田辺に帰郷する。
田辺ではしばらくの間進路も定まらず悶々とする日々を送った。夜中に突然飛び起きて井戸水を頭から被る・一日中暗い室内に閉じ篭り祈祷にふける・家人に当り散らす・山中で断食するなど奇行を繰り返した。これを心配した父与六は自宅納屋を改造して柔道場を作り、田辺来遊中の柔道家・高木喜代市(のち講道館9段)を高額を以って招き指導を依頼した。盛平はたちまち柔道に夢中となり躁鬱の気も軽減、道場には近郷の青年も集まり青年会の趣を呈す。 軍隊時代・柔道修行を通じ盛平の体力は強健さを増し、その剛力を買われて近郷の家々に餅つきに呼ばれるたびに杵を突き折ってしまい、仕舞には茶菓子だけ出されて餅つきは体よく断られるようになったという。
1908年(明治41年)25歳。坪井政之輔より柳生心眼流免許を受ける。
1909年(明治42年)26歳。この頃起きた南方熊楠の神社合祀策反対運動に共鳴、地元青年・住民を率いて熊楠に協力し熱心に活動する。
1910年(明治43年)27歳。長女松子出生。
1912年(明治45年/大正元年)29歳。政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」長として紋別郡上湧別村白滝原野(のち遠軽村→遠軽町→白滝村→遠軽町)に移住する。原生林の伐木などの重労働、夏季の暴風雨、冬季の酷寒・豪雪、3年連続の凶作などのため難儀を極める。盛平は率先して伐木に取り組む傍ら、役所への陳情嘆願に奔走、またハッカ栽培・製材事業・馬産酪農を奨励、入植3年目以降は開拓民の生活も好転、小学校建設、商店街・住宅の整備を図り、村は活況を呈するようになる。
伐木作業への従事により盛平の豪力ぶりはますます強靭さを増した。食料買出しの帰り3人の強盗に遭い雪中に叩き込んだ、坂道を転落した馬車を馬ごと上まで押し上げたなどの逸話が残る。また“監獄部屋”と呼ばれる劣悪な建設現場から逃げ出した工夫を義侠心から匿い、現場を仕切るヤクザと話を付けて助けてやったことが噂となり、盛平を頼って逃げてくる工夫が続出、それらの全てを助けたという。これが地元新聞に取りあげられ、盛平は「白滝王」と称され周囲の尊敬を集めた。
1915年(大正4年)[10]31歳。2月に所用で訪れた遠軽の旅館で武術家・大東流の武田惣角に出会い、その技に衝撃を受け入門、宿泊を一月延長し指導を受ける。豪力で鳴らした盛平だったが、当時54歳・身長150cmに満たない小柄な惣角の多彩な極め技に抗う術も無く捻じ伏せられたという。
1916年(大正5年)33歳。白滝に道場を設けて惣角を招き、村の有志十数人と共に熱心に学び「秘伝奥儀」の免許を授かる。盛平は惣角に献身的に仕え、惣角の巡回指導にも随行、警察署長や裁判所判事など地位の高い人物が多かった惣角の門人を代理指導することもあり、「判事を教える有能な人物」として評判になったという[11]。
1917年(大正6年)34歳。5月白滝に山火事を発端とする大火災が発生、開拓地はほぼ全焼という大被害を受ける。盛平は住民を励まし不眠不休で復興に東奔西走した。7月長男武盛出生。
1919年(大正8年)36歳。父与六危篤の報に帰郷を決意、白滝の土地家屋など全財産を武田惣角に譲渡し妻子を連れ北海道を離れる。帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる[12]。 この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、一家を率い綾部に移住、大本に入信する。王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努めるが、同年8月長男武盛(3歳)9月次男国治(1歳)を病により相次いで亡くす。秋頃王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。
1921年(大正10年)38歳。2月に第一次大本教弾圧事件が起こるが、植芝塾は波及を免れる。6月、三男吉祥丸誕生。
1922年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍の軍人も多く出入りしており、彼らも盛平の門人となっていた。同年春、綾部に惣角が妻子と共に訪れ、盛平は海軍中将浅野正恭ら門下の軍人たちと共に指導を受ける。9月、目録「合気柔術秘伝奥儀之事」及び「大東流合気柔術教授代理」の資格を授けられる[13]。 この時から王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武術」と称し、また武道としての精神的な裏付けを求め「言霊」の研究に没頭する。 同年、大本の食糧自給体制の責任者「農園世話係」に就任、開墾農作に従事しつつ武道修行に励む生活方式「武農一如」を実践する。7月母ゆき死去(享年71)。
1924年(大正13年)41歳。2月、満蒙の地に宗教国家の建設を目指す王仁三郎に随伴し出国、満州へ渡る。関東軍特務機関斡旋の元、満州の支配者・張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒される。この時の銃撃戦で、敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をする。6月吉林省白音太拉(パインタラ)付近にて、張の意を受けた支那中央政府官兵・奉天軍によって捕らえられ通遼に連行、盧及びその部下はことごとく銃殺。王仁三郎・盛平ら日本人一行6人も銃殺場に引き出され死を覚悟する。しかしたまたま王仁三郎らの遭難に気付いた日本人旅行者が日本領事館に通報、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は直前で中止され、九死に一生を得る(「パインタラ事件」または「パインタラの法難」)。王仁三郎らは日本領事館に引き渡され、7月本国に送還された。
第一次大本事件によって大本の活動が制限される中、王仁三郎は大長編叙事詩『霊界物語』の口述に力を注いでいた。特別篇「入蒙記」は満蒙探検-パインタラ事件の体験記であり、植芝は「守高」の名前で登場する[14]。現地人の前で柔術の実習と実技を行って人気を集めたが、強すぎて悪人と誤解されることもあったという[15]。
1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。この時も相手の木剣が振り下ろされるより早く「白い光」が飛んで来るのを感知して相手の攻撃を素手でことごとくかわし、将校は疲労困憊し戦闘不能に陥ったという。その直後盛平は井戸端での行水中に、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験に遭遇、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という理念的確信と「気の妙用」という武術極意に達する。(「黄金体体験」)
1925年(大正14年)42歳。この頃から胃腸・肝臓の持病に度々悩まされる[16]。秋、「すごい武道家がいる」という浅野正恭の紹介により盛平を知った海軍大将竹下勇に招かれて上京、伯爵山本権兵衛等各界要人の前で演武を披露、感銘を受けた山本の依頼により青山御所で侍従・武官に指導を行う[17]。梅田潔邸、森村市左衛門邸に仮道場を設ける[18]。 これを機に再三上京を促されるようになり、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)44歳、東京へ移住。武田惣角・大東流からも徐々に距離を置き始める。島津公爵邸に道場を設け、翌1928年には内海勝二男爵邸内に移転[18]。 この頃新陰流19世柳生厳周[19]の高弟で達人と謳われた元海軍中佐・下條(げじょう)小三郎から同流剣術を学ぶ[20]。
1930年(昭和5年)47歳。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が高弟二人を伴い来訪、盛平の演武を見て「これこそ真の柔道だ」と賞賛する。嘉納は講道館から望月稔を派遣し盛平に弟子入りさせた。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
1932年(昭和7年)49歳。東京に数箇所、また大阪曽根崎警察署、大阪朝日新聞本社などに盛平の道場ができ、指導に奔走する。8月13日、王仁三郎の依頼で「大日本武道宣揚会」を組織し会長に就任、機関紙『武道』を発刊。
1933年(昭和8年)50歳。兵庫県竹田町に「武農一如」方式の「大日本武道宣揚会竹田道場」を開設、大本信者に限らず一般の修行者にも開放、東京の皇武館と並ぶ西日本の拠点となり、「西の地獄道場」と呼ばれる。
1933年(昭和8年)50歳。技術書『武道練習』(ガリ版刷り私家版)を著す[21]。
1935年(昭和10年)52歳。記録映画『武道』(大阪朝日新聞社制作 久琢磨監督)が収録される。第二次大本教弾圧事件で警察の取調べを受ける。門人であった大阪府警察部長・富田健治らの尽力により不問となるが、一時田辺に謹慎。
1936年(昭和11年)53歳。6月、師・武田惣角が盛平の道場のあった大阪朝日新聞本社に突如来訪する。この報に盛平は「そうか」とだけ言い惣角に会うことなく弟子と共に東京に去り、以後大阪朝日新聞道場の指導は惣角が行った[22]。盛平はこの頃から「合気武道」を名乗り、大東流との差別化と独自性を強めて行く。
1937年(昭和12年)54歳。同時期、植芝は週に一度海軍大学校をおとずれ、若手将校に合気武術の講習をおこなっていた[23]。7月7日に盧溝橋事件が発生し、やがて支那事変(日中戦争)に拡大する[23]。第二連合航空隊参謀に任命された源田実少佐は[24]、植芝に出陣前の最後の稽古をつけてもらう。この際、植芝は「今度の事件は、全世界的な大動乱に発展する」と断言[23]。のちに源田は「その時からすでに二十余年の歳月が流れているが、私が大学校の甲種学生の時代に、植芝先生のような武道の達人に僅かの期間でも教えを受けることが出來たのは、非常な幸いであった。この人の教えを通じて、寺本先生の統帥と同様に、私達の通常の学問では切り開くべき欲望さえも起こらないような、未開発のしかもきわめて尊い境地のあることを知っただけでも幸福である。」と回想した[23]。 12月5日、嘉納治五郎の紹介で、弟子の赤沢善三郎と共に署名血判のうえ鹿島新当流宗家・吉川浩一郎に入門、剣技を学ぶ[25]。満州国武道顧問・建国大学武道顧問等に就任。合気武道が建国大学の正課に採用される。
1938年(昭和13年)55歳。技術書『武道』(私家版)を著す。7月に陸軍中野学校が開校すると合気道の教官を務めた[26]。
1939年(昭和14年)56歳。満州国武道会常務理事・天竜三郎の招きで公開演武会に出場、腕試しで天竜を投げる(→エピソード)。
1940年(昭和15年)57歳。「財団法人皇武会」として厚生省より認可を受けた。初代会長・竹下勇、副会長・陸軍中将林桂、理事に公爵・近衛文麿、陸軍中将前田利為、東京帝国大学医学部教授二木謙三ら。
1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する。昭和10年頃から同地に土地を少しずつ買い足しており、引退後の住処にする計画であった。
1941年(昭和16年)58歳。12月8日、日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて中国大陸に渡り、支那派遣軍総司令官・畑俊六と連携し、蔣介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。
1942年(昭和17年)59歳。戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・大日本武徳会の「合気道部」に統合され、便宜上「合気道」を名乗る。盛平は武徳会には門人の平井稔を代理人として派遣、これを機に自らは一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設にも着手、李垠より金壱百円を下賜される。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。
1943年(昭和18年)60歳。5月3日、武田惣角が青森にて死去。享年84歳。この頃盛平は岩間で大病を患い一時重篤な状態となって二木謙三の往診を受けており、惣角の葬儀には参列しなかった[27]。
1945年(昭和20年)62歳。東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、避難民を収容し活動困難となる。終戦となり戦地より復員した弟子達は岩間の盛平を頼って集まり、やがて吉祥丸の手により本部道場も復興、東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まる。
1948年(昭和23年)65歳。2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受けた。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。これにより盛平は初代合気道「道主」となる。
1950年(昭和25年)67歳。4月、合気会機関紙・月刊『合気会報』(後の『合気道新聞』)発行開始。この頃より全国各地の道場を盛平が訪れ指導を行うようになった。
1954年(昭和29年)71歳。日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の高弟・塩田剛三が優勝し、財界人の援助を得て「養神館合気道道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。合気会もこれに大きな刺激を受け、大学・官庁・企業などに相次いでクラブを設立、合気会本部を岩間から東京道場に移し、本格的な合気道の普及に乗り出す。
1956年(昭和31年)73歳。9月、5日間に渡り百貨店・髙島屋東京店(日本橋店)屋上で、吉祥丸企画による合気道初の一般公開演武会開催。
1960年(昭和35年)77歳。1月、盛平のドキュメンタリー映画『合気道の王座』がNTV(後・日本テレビ)により製作される。5月14日東京代々木山野ホールにて合気会主催「第1回合気道演武大会」が開かれ1600人の観衆を集める[28]。11月3日、紫綬褒章受章。
1961年(昭和36年)78歳。ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行う。11月1日、皇居園遊会に招待され出席。ドキュメンタリー映画『合気道』が製作される。
1962年(昭和37年)79歳。盛平監修・吉祥丸著による初の一般向け技術書『合気道』が出版される。
1964年(昭和39年)81歳。「合気道創始の功績」により勲四等旭日小綬章に叙せられる。
1966年(昭和41年)83歳。ブラジルのアポストリカ・オルトドシア教会総大司教より最高名誉称号「伯爵」位を贈られる。
1967年(昭和42年)84歳。7月、吉祥丸が合気会二代目理事長に就任。12月15日、近代的な鉄骨三階建ての合気会本部道場が新築完成。
1969年(昭和44年)86歳。4月26日午前5時、肝臓癌のため東京本部道場同敷地の自宅で死去。同日、生前の「合気道の創始・ならびに普及の功績」により政府から正五位勲三等瑞宝章を追贈される。生地田辺市の高山寺が墓所となった。戒名「合気院盛武円融大道士」。和歌山県田辺市名誉市民、茨城県岩間町名誉町民の称号を贈られる。6月14日、吉祥丸が二代目道主を継承。6月26日、妻はつも病のため後を追うように死去(87歳)。
1975年(昭和50年)田辺市にて顕彰式典開催、高山寺墓地に「開祖植芝盛平碑」が建てられた。
そうしたら先生は、「あんた天竜さんじゃないですか、あんたもおそらく、このじじいが、こんなにうまく投げられるとは思わないだろう。しかし武道というものは、そんなものじゃない」といい、自分は左手のほうが弱いからと左手を出し、「あんたは力も強いだろう。力も何も入れてないから何をしてもいい。やってご覧なさい」といわれたのです。
私は、「このじじい何をいってる」と思い、手をつかんだのですが、途端ハッと思いましたね。まるで鉄棒をつかんだような感じだったのです。
もちろん私どもは相撲界にいて、いろいろなことを知っていますから、これはいかんと思いました。もうそれで負けですよ。でもそのまま下がるわけにはいかず、とにかくねじ上げてみようと、グーッとやったが、ビクともしない。それで両手を使って力一杯やろうとしたのですが、それをうまくドーンと使われてひっくり返されていた。(中略)こういう武道があるかとほんとうに驚きました。その晩先生の宿舎を訪ねて、「どうか弟子にしてください」とお願いしましたら、牛込若松町の道場(皇武館道場)へ来なさいということになりました。 — 『植芝盛平と合気道 1』天竜三郎インタビュー、228-229頁
ある日の夕方、ふらりと練兵場を歩いていると、何か身の回りがおかしい。ははア、こりゃ何かあるなと…思っていると、不意にそこここの草むらや窪地からわッと三十名ばかり躍り出てきた。ぐるッとわしを取り囲み、手に手に木刀や木銃をふりかざし打って掛かってきた。ところがこっちは不意打ちはもう昔から慣れっこなんで、屁とも思わない。四方八方から襲ってくるのをヒラリヒラリ体(たい)をかわし、チョイチョイと突ついてやると、面白いように転がる。木刀とか木銃はけっこう重いから、むやみに振り回せばその分だけエネルギーが消耗されてしまうのは理の当然である。(中略)ものの五、六分でみんな息切れして戦意を喪失してしまった。 — 『植芝盛平伝』240-241頁。
もっと自信持ったのはね、うちの女房の従兄弟が憲兵隊長をしてたんだ。(中略)彼は部下に植芝先生を闇討ちさせたらしいんだ。ところが部下はことごとくやられたらしいんだ。『お前、合気道やってんだってな。いやあ、あの爺さんは強いぞ、本物だぞ』、そういう風に言ってたよ。 — 荒川博インタビュー 『季刊合気ニュース NO.142』32頁
僕は先生が飛んじゃうんじゃないかと心配しながら、木刀でバーンとバッティングの要領でひっぱたいたら、僕のほうが植芝翁の右前方へ前のめりになった。「こらいけねえ」と思って思い切ってもう一度バーンとひっぱたいたら、今度は僕が吹っ飛んじゃったよ。僕がバットを振ったとたんに、なんか木刀がくっついたかなと思っているうちにどーんと向こうに持って行かれちゃった。もう信じられないよ(笑)。ちょうど鉄棒をひっぱたいてんのと一緒だろうな。だから振った分、僕の力の分だけ飛んでっちゃったわけだよね。(中略)それが先生が76~77歳の時だよな。そういう話がいくらでもあるわけよ。たとえば、「荒川君、おいで」っていうから行ったら、頭をひゅっと触られてぐじゃって潰れちゃったこともある。 — 荒川博インタビュー 『季刊合気ニュース NO.142』32頁
わたしがはじめて植芝先生のお稽古を拝見したときに感じたことは、あれあれ、これは見事な八百長だなあ、と。そのため、当時は三日に一度以上も参上していて、先生に学ぼうなんて気持ちは一片もなく、勝手な熱をあげて一杯ご馳走になり、それでひきあげてきたものでした。
ある日、昔なら加賀百万石の殿様、当時陸軍少将だった前田利為さんが稽古にこられ、書生が「前田閣下がお見えになりました」とわたしと対談中だった老先生に知らせてきました。しかし、話に花が咲いたのか、老先生は立ち上がられない。そのうちまた書生が「前田閣下がお帰りになります」と報告にきたが、それでもまだ立ち上がられない。わたしがびっくりして「前田閣下をお送り申しあげなくてもよろしいのですか」といったところ、老先生は言下に「あなたはお客さん、前田さんは弟子だ。お客をほっといてなんで師匠が弟子を玄関に送らねばならんか」と申された。さすがの強情者のわたしもこの一言には返答できず、ただ頭を下げたことでした。(中略)
かくして二年くらいのあいだ、植芝道場に出かけてはわがままいっぱいご迷惑をおかけして、昭和9年春、朝鮮の京城に剣道師範として赴任しましたが、出発前のある日、老先生の稽古を拝見して驚いたの驚かないの、びっくりぎょうてん、ああこれはほんもの、この二年間おれはなにを見てきたのだろうか。おれの目はあいているのになにも見えていない、なんと情けないことか。まったく慚愧に堪えない。涙を流して過ぎ去った日々を惜しんだものでした。その後上京するたびに老先生を訪れて道をうかがい、こんにちに至ったのです。 — 堂本昭彦編著『羽賀準一 剣道遺稿集』、島津書房 124-126頁
若いころ、私は合気道を習ったことがあった。古今まれにみる柔術の名人であった植芝守高(盛平)師についたが、師はどのような強力無双の相手でも、自在に手玉にとり、見る者に八百長と思わせるほどだった。私も最初はそう思った。しかし、自分が実際に手を取ってもらい、はじめてその実力に圧倒された。師は入り身転換の術に妙を得ておられ、四方八方から打ち突かせ、前後左右の体さばきで相手の力を利用し、簡単に投げ飛ばしておられた。これを見たとき、私は剣道も前後の進退だけでなく、左右の動きを考えなければいけないと思った。そして少しずつ研究しては稽古に取り入れていった。後年、この発見と修業がたいへん役立っている、と思われる。極意に一歩でも近づく修業は、あらゆることからはじめなければと痛感している。 — 堂本昭彦『鬼伝 中倉清烈剣譜』、スキージャーナル 96頁
私は阿部について調べるうち、不思議なところに辿り着いた。イギリスの合気道である。阿部は昭和三十一年(一九五六)、イギリスに渡っている。
在英合気道家ヘンリー・エリスが教えてくれた。
「イギリスでは、阿部先生は非常に優れた柔道家として、また、初めて合気道を持ち込んだ武道家として有名なんです」
しかし、阿部が合気道をやっていたという日本の史料はない。
「阿部先生は京都の武専を出た柔道の専門家です。いったいどこで合気道を習ったのですか?」
疑問をぶつけてみると、エリスは数十年前そのいきさつを阿部に直接聞いたことがあると言う。阿部は拙い英語でエリスに説明してくれた。
阿部が二十歳前後で、武専の学生だった頃の話だ。
柔道の試合のために夜汽車に乗っていた阿部の向かいの席に、髭を伸ばした老人が座っていた。
目が合うと、老人が言った。
「私は君を知っているよ」
「私は柔道のチャンピオンですからご存じなんでしょう」
阿部はあくまで慇懃に答え、礼儀として老人に名前を尋ねた。
「あなたの名前も教えていただけませんか」
「植芝盛平だ」
阿部は植芝の名を知らなかったので、興味を覚えず、「疲れているので眠らせていただきます」と言った。すると、植芝が阿部の顔に小指を突き出した。
「この小指を折ってみなさい」
阿部はその非礼にいらついて、植芝を黙らせるために思い切り小指を握った。その瞬間、阿部は車両の床に組み伏せられた。阿部はその場で植芝に弟子入りし、十年間合気道を習うことになる。(中略)
エリスは「阿部先生はたいへん控えめな方です。自分からこういう話をしたりはしなかったので、疑問に思った私が聞いてみたんです」と言うから、脚色なしの真実だろう。阿部は柔道家としての修業を続けながら、植芝に合気道も習っていたのである。
阿部の柔道には合気道の血が流れていたのだ。
その血が、木村をして「まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。かける技かける技すべて同じ調子で受けられてしまう」と言わしめたのだろう。 — 増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(「ゴング格闘技」、2008年6月号)
塩田剛三の合気道人生という本によると、古典的な達人の教え方で、一度型を見せたら、同じ型をしない、弟子が見せても「結構や結構や」といい現代武道のような細かく手取り足取り教えたり、細かな技術体系があるような教え方ではなかったようだ。メモをしても怒るため「なぜ教えてくれないのか」と弟子が問うと「教えてしまうと、型にはまってしまいそれ以上伸びず、お前の為にならない」とけむに巻いていた。この為一握りの人間はかなり強くなれるが、才能のない人間は全く伸びず辞めていった。塩田はこれではダメだと思い、誰でも上達しやすいように、難解な言葉を避け、わかりやすく上達しやすい技術体系を心掛け、教えた。初期のころ合気会が塩田の養神館に人気面で後塵を拝していたのはこのためである。
カッコ内は入門した年
戦前 (1921年 – 1945年) |
戦後 (1946年 – 1960年) |
晩年 (1961年 – 1969年) |
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