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佐々木の 将人(ささきの まさんど、佐々木将人、1929年〈昭和4年〉2月1日 - 2013年〈平成25年〉2月15日[1])は、日本の合気道家、神道家。
山蔭神道上福岡斎宮(埼玉県ふじみ野市)宮司、合気道神明塾塾頭[2]。 合気道(合気会)八段。中央大学経済学部卒、同大学院法学部専攻科修了。雅号「乾舟」(けんしゅう)。
1929年(昭和4年)山形県長井市成田に生まれる。太平洋戦争(大東亜戦争)下の小学生の頃特攻隊への入隊を目指し陸軍幼年学校を受験するが失敗、14歳で徴用により動員され、名古屋の三菱重工で飛行機の部品(ネジ)製造業務に就き、そこで終戦を迎える。
戦後大工となったが、19歳の時飛んできた釘が当たって左目を失明する。その後は古本屋・黒板塗り・闇米売りなど、あらゆる仕事で食いつなぐ。
1950年(昭和25年)、警察予備隊に入隊。二年後退職し、その時の退職金で中央大学経済学部に入学、弁護士・後には政治家を目指し同大学院法学部に進む。
大学院修了後、防衛庁に入庁、事務官となり、1954年(昭和29年)、防衛庁で行われた合気道演武を見学した際、演武を行った師範に指名を受け投げられたのをきっかけに合気会本部道場に行き、そこで植芝盛平に出会い「顔に惚れ」て入門。
間もなく防衛庁を退職し、日本最初のスパイ養成学校を企図し「産業防衛学院」を設立するが、その時起こった浅沼稲次郎暗殺事件の影響でマスコミに批判的に取り上げられ、更にCIAにも危険視されるなど種々の圧力のため廃校に追い込まれる。学院設立時の借金もあり山中へ逃亡、潜伏生活を送り、その間滝行などを行ったという。
この頃中村天風に出会い以後師事する。中村に勧められたことをきっかけに、合気道修行に本格的に取り組み、植芝盛平の付き人として約6年仕える。神社を訪れる際には、なぜか必ず佐々木が付き添ったという。[3]
これと前後して自民党の当時幹事長であった大平正芳の依頼で、マブチモーターの労働争議に着物姿で単身乗り込み、労組側と直談判し解決したこともあった。(その時の報酬百万円でスパイ学校の借金を完済した。)
その後は合気道師範として活動。中華民国(台湾)支援活動で山蔭神道管長山蔭基央と出会い交誼を結び、神道教授としてパリに数度派遣される。1983年(昭和58年)、東京ディズニーランド開設にあたり、剣祓いの神官として修祓を行う。
合気道開祖植芝盛平直伝の合気道師範の一人として、各地で指導に当たる。また「佐々木説法」と呼ばれる独自の日本文化論・人生論についての講演活動で全国を行脚する。
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