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大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象 ウィキペディアから
大正ロマン(たいしょうロマン)とは、大正時代の趣を伝える思潮や文化事象を指す言葉である。「大正浪漫」とも表記される。
大正期にみられる個人の解放や新しい時代への理想に満ちた風潮、和洋折衷の様式や新旧が融合した当時の大衆文化が、大正ロマンに当てはまる[1]。これを源流にして創出された後世のポップカルチャーに対しても「大正ロマン」の語が適用されることがある[2]。
大正ロマンという言葉は1960年代末から1970年代前半に広まったと考えられている[3][4]。学術領域では恋愛や熱情といったロマン主義(明治浪漫主義)の流れを汲む、大正期の芸術を紹介するために使われた[4]。
一方で後世から見てファッションや建築などが独自の文化であったため、レトロかつノスタルジックでロマンチックな大正のイメージを抽出した言葉としても受容されていった[5]。似た言葉に「大正モダン」「大正レトロ」があるが、同義語としても使われる。
大正時代は、昭和の前の元号である、「大正」の1912年7月30日から1926年12月25日までを指す[6]。
大正時代は15年と短いながらも国内外で様々なことが起こっていた。大正文化という独自の文化が花開いた時期である。さらに日本は日清戦争、日露戦争での連勝を経て、帝国主義の国として[7]欧米列強と肩を並べ「五大国」の一国ともなった時代でもある[8]。また、日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦にも参戦し、戦勝国となり国が軍事的に大きく発展した時代である。
西洋先進国の産業革命の影響を受けて、明治の45年間をかけて国内での工業化が進み、経済は着実な発展を遂げ、流通や商業が飛躍的に進歩した。鉄道網の形成[9]や汽船による水運が発達、これと並行して徐々に町や都市の基盤が形成され、さらに大正に入ってからは近郊鉄道の建設、道路網の拡大や自動車・乗合バスなどの都市内交通手段の発展により都市化が促進された。
録音[10]や活動写真(キネマ)の出現[11]、電報・電話技術の発達、そして新しい印刷技法による大衆向け新聞・書籍・雑誌の普及など、新しいメディアが台頭した。これにより、文化・情報の伝播も飛躍的に拡大し、少女雑誌や婦人雑誌には流行風俗を反映した特集や叙情画が多数掲載された。
戦勝によって債務国から債権国へ転換した[12]ことで、経済は爆発的に発展し、明治以降、経済の自由化とともに商人の立場が向上した。また、欧米から学んだ会社制度が発達していった。 そして、通貨「日本円」の国際化と旺盛な日本市場を狙って、ウェスティングハウス・エレクトリック[13]やユニバーサル・ピクチャーズ、フォード・モーターなど欧米企業の進出が相次いだ。第一次世界大戦で南洋諸島などが手に入り、それらの地の開拓も進められた。加えて、主要な戦地であった欧州に代わり造船受注が拡大し、この時期に長崎や神戸などで現代にまで続く重工業企業の基盤が形成された。大戦景気や投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ[14]、立身出世の野望が実業の方面に向かっても開かれた。
中流層には「大正デモクラシー(民本主義)」が台頭し、一般民衆と女性の地位向上に目が向けられた[15]。西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布し、思想的にも自由と開放・躍動の気分が溢れ出した。特に都市を中心として、輸入物愛好、大衆文化や消費文化が花開いた。さらに一般人の洋装化を促す服装改善運動が提唱され、洋装の学生服を女学生が通学で着るなどの変化も始まった[16]。百貨店も新しい文化の発信地となり、和装がほとんどであった女性層に元禄模様(市松、波、槌車など)・琳派などの江戸趣味をブームとして仕掛け[17]、銘仙を販売した。
しかし、後半に入ると大戦後の世界恐慌や関東大震災もあり、経済の激しい浮き沈みや国際交流の活発化の急激な変化に対応できないストレスが顕在化した。都市化と工業化は膨大な労働者階級を生み出し、国外の社会変革を求める政治運動に呼応した社会主義運動が大きなうねりとなって支配層を脅かした。加えて、スペイン風邪の流行や肺結核による著名人の死も時代に暗い影を落とした。知識人においては個人主義・理想主義が強く意識されるようになり、新時代への飛躍に心躍らせながら、同時に社会不安に通底するアンビバレントな葛藤や心理的摩擦もあった。大正時代の後期から昭和の時代にかけては、自由恋愛の流行による心中・自殺、そして作家、芸術家の間に薬物や自傷による自殺が流行した。大衆紙の流布とともにそれらの情報が増幅して伝えられ、時代の不安の上にある種の退廃的かつ虚無的な気分も醸し出された。
むしろこれらの事々のほうが「大正浪漫」に叙情性や負の彩りを添えて、人々をさらに魅惑させる側面もある。この背景には19世紀後半にヨーロッパで興った耽美主義やダダイスム、デカダンス等の影響もうかがえる。芸術活動には大正期新興美術運動が起こり、アール・ヌーヴォーやアール・デコ、表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多い。あるいは政治思想である共産主義、アナキズムなどの「危険思想」が取り締まられ社会主義思想にも圧迫が加えられた。一方で、多くの地方の村落はまだまだ近代化から取り残されており、大正に至っても明治初期と変わらない封建的な生活が残っていた。
「大正ロマン」は、新しい時代の兆しを示す意味合いから、モダニズム(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表裏対立の概念である。在位の短い大正天皇の崩御により、震災復興などによる経済の閉塞感とともにこの時代は終わる。世界大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大正モダンの流れは止まることなく昭和モダンの時代へと引き継がれた。
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国家主導で近代化政策が行われた明治期から進歩して、大衆が日常の生活文化に西欧文化を採り入れるようになったのが大正期である[19]。旧来の習慣の上から「ハイカラ」「モダン」「新しい文化」関東大震災後に「新時代」と形容される事象が混在していったことで、大正ロマンの表象となる和洋折衷・新旧融合の特徴的な文化が生まれた[19][20]。
(Category:大正時代の事件に主要事件へのリンクあり)
出典とは別の関連性を検証するために、以下の文献の年表・年譜を参照して「[c 1][c 2]…」とした。
新しい文化に携わり活躍した文化人自身もスター的な存在として、あるいは世間から逸脱した存在として注目の対象になった。また近代化の流れで、個人の束縛になっていた国家制度や社会慣習への反発と改善運動が起こり、それら自由主義はロマン主義に似た傾向をみせた。表現の分野においてはこの傾向の前に、醸成された特殊な美学とメディアの発達がある。
明治の文化人のロマン主義(明治浪漫主義)は、『オフィーリア』に代表されるラファエル前派絵画や、世紀末芸術、象徴主義の影響を受けていた[323][324]。西洋の印刷メディアにおいて流行したアルフォンス・ミュシャとアール・ヌーヴォーは、日本の印刷メディアでも言文一致時代の新表現として模倣・吸収されていった[325]。文芸誌『明星』の周辺においても「星菫派」の由来となる星や花、「みだれ髪の系譜」と論じられる女性の髪と水流といった絵画的モチーフが多用され、西洋の絵画表現を実践する白馬会に接近していった。白馬会は明治社会の規範やパトロンからの自立を説いて、パリを放浪する異国の装いをしたボヘミアンに倣った啓発を行った新進芸術家たちによる団体であった[326]。個人主義の勝利を目指すロマン主義と、反社会傾向を帯びた西欧世紀末芸術思想の結びつきが、大正の前段階の状況である[323]。
雑誌『白樺』ではトルストイといった西洋文学のほか、ビアズリーやブレイク、印象派などの絵画が紹介され、複製版画による西洋美術の鑑賞体験を大正の人々にもたらした[327]。ビアズリーが絵を手掛けたオスカー・ワイルドの『サロメ』は大正初期には文学と美術の交流を表現した書物として理解され、萩原朔太郎は版画家の田中恭吉・恩地孝四郎とともに「芸術的共同事業」を掲げて詩集『月に吠える(1917年(大正6年))』を作っている[328]。メディアの発達によって異なる分野が総合された作品が生まれ、大衆と同調する文化人が垣根を越えた活動をした時代でもあった。
年代が短いこともあり、大正時代に限ってのみ活躍した人物というものを挙げるのは難しい。文学史においては1910年(明治43年)の『白樺』創刊から、1927年(昭和2年)の芥川龍之介の死までを大正期とする見方がある[329]。美術家たちが手掛けた書籍や印刷物が蒐集されて、1904年(明治37年)の日露戦争下から、1930年(昭和5年)の帝都復興まで大正的なイメージとして紹介されている[330]。自由を求める大正デモクラシーの終焉は1932年(昭和7年)の五・一五事件と、翌年の吉野作造の死に象徴される[331]。明治から昭和への過渡の時代に生きた人物が、この時代を彩る数々の芸術作品や新思潮を生み出した。
ポスターや雑誌の挿絵など大衆のための美術表現が成熟を迎え、大正ロマンの主要な側面として後世の展覧会等で紹介されている[332]。叙情画は画家の感情を表現するとともに、婦人雑誌・少女雑誌に描き下ろされて、読者の共感を誘う憂愁の雰囲気と、流行を反映した華やかな衣服・題材が描かれた。
竹久夢二の場合、実質的に活躍した年代が大正期と重なる。その思索や行動、そして作品において時代の浮き沈みと一体化しており、この時代とともに生きた人物である。アカデミズムとは隔絶した場で叙情画、装幀、生活雑貨、詩作を幅広く手掛け、芸術でも恋でも束縛を嫌った大正ロマンを代表する名として掲げられる[333]。彼の絵を表紙に使ったセノオ楽譜は一世を風靡したといわれる[334]。
高畠華宵は耽美で清楚な異国感ある画風で支持を集め、1928年(昭和3年)の流行歌「銀座行進曲」に名が歌われるまでの人気となった。ほとんどの雑誌で仕事をしていた講談社から1924年(大正13年)に原稿料の騒動で仕事を引き上げ、実業之日本社へ活動を移したことは「華宵事件」とも称されて影響力が伝わる[335]。
明治のアール・ヌーヴォーを、伝統美の新版画と折衷した橋口五葉、ウィーン分離派とアール・デコに更新した杉浦非水が、装幀やポスターの装飾領域で活躍した。西欧では中産階級の生活を美しく飾るためのエステティック運動(耽美主義)があったが、同様に三越呉服店は西洋式建築が浸透していない一般住宅に調和する「折衷的室内装飾」を提唱して、橋口のような画家たちに美人画のビジュアルを募り、杉浦を嘱託デザイナーにして雑誌やパッケージを制作している[336]。
川端画学校は1909年(明治42年)に東京小石川に設立された私立の画塾ではあるが、1913年(大正2年)に創設者の川端玉章が逝去したのちも芸術や都会の文化に憧れる若者を各地から集めて、太平洋戦争(大東亜戦争)さなかの廃校に至るまで、画家のみならず多くの才能を輩出した。
作者の経験や生活の感情を過剰に追求していった自然主義文学に対して反自然主義文学が登場する。何より美を重視する耽美派や、人道・理想・個人主義を掲げた白樺派は、結果的にロマン主義的な傾向を見せた[337]。1923年(大正12年)に白樺派の人気作家・有島武郎が愛人の波多野秋子と軽井沢の別荘で情死した事件は、当時世間を大いに賑わせ、大正期に流行した自由恋愛や情死・心中事件を代表する出来事となった。
芥川龍之介は挫折から見た優情の世界(『老年』)、極限状況におけるエゴイズム(『羅生門』)、美のために何者をも犠牲にする芸術至上主義(『地獄変』)、キリシタンものや中国趣味に基づく作品(『奉教人の死』『南京の基督』『支那游記』)を書いた[338][339]。時代の流行と連動しながら、大正の終わりとともに自死した象徴的な作家である。
新聞・雑誌の興隆によって時代小説である「大衆文学」と、現代を舞台にした家庭小説などの「通俗小説」が多く書かれた[340]。中里介山においては、1913年(大正2年)より大長編小説『大菩薩峠』の新聞への連載を始められた。昭和に至るまで脈々と書き続けられ、未完のままに終わってしまう。大衆娯楽小説の出発点ともされており、大佛次郎の『鞍馬天狗(1923年(大正12年))』や林不忘の『丹下左膳(1927年(昭和2年))』などの作品連載発表に先んじて、大衆文化の創生に大きく影響を及ぼした。
岡本綺堂の『半七捕物帳(1917年(大正6年))』が推理小説と時代小説を融合させた捕物帳のジャンルを開拓する一方で、科学文明の発達と都市化によって探偵小説を生み出す分析的精神が高まっていった。江戸川乱歩の『D坂の殺人事件』『屋根裏の散歩者』(1925年(大正14年))などは流入者と高等遊民を擁する都市の、人間関係の希薄化とプライバシーへの興味を背景に成立している[341]。
少女雑誌は読者投稿を受け付け、読者欄はコミュニティになった。尾島菊子、尾崎翠、吉屋信子は投稿者から小説家になった作家であり、山田邦子などによる少女小説に影響を受けた吉屋の『花物語』は、女学生間にみられた友愛文化「エス」を表象した小説として少女文化の形成を促進させた[342]。
1913年(大正2年)、劇団「藝術座」を旗揚げした島村抱月と松井須磨子は、帝国劇場でトルストイの『復活』を上演。劇中歌の『カチューシャの唄』が社会現象となる人気になった。病死から数年後の後追い自殺(1918年(大正7年) - 1919年(大正8年))に至る関係においては、劇団や演目への好評が大きいだけに政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激した。須磨子の歌った「いのち短し 恋せよ乙女 (ゴンドラの唄)」に乗せて、後の芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む元となった。
三浦環は親の意向で結婚させられながらも声楽に関する活動を続けて、夫である医師の三浦政太郎に同行しベルリンへ留学。第一次世界大戦から逃れてロンドンで『蝶々夫人』のプリマドンナを演じて以降、各国で公演を重ねる国際的な高評価を得た。
活動弁士を伴う映画娯楽が旧来の演芸に代わる人気で、活動写真の取締規約が改定される1917年(大正6年)まで子供が重要な観客であった[343]。映画『ジゴマ』などは1912年(大正元年)の1年間のブームで数多くの和製便乗映画を生み、ノベライズされ、子供のごっこ遊びのみならず犯罪の誘発が指摘されたため、大正時代を通して上映禁止されたが影響を及ぼし続けた[32]。日本映画では尾上松之助が大正時代のスター俳優で、また歌舞伎と同様の形態だった女形に代わって女優が登場する。大正活映には谷崎潤一郎が脚本家としてかかわった。
日比谷焼打事件以降のデモクラシー思想を吉野作造や石橋湛山が主導したほか、阿部次郎による『三太郎の日記(1914年(大正3年))』の流行は明治の修養に代わる教養主義を促した。宗教的自由主義を含んでいたトルストイの流行、道徳主義に代わる新教育で育った学生が大正の思想を支えていく。
明治に浪漫派歌人として脚光を浴びた与謝野晶子は男女共学の文化学院の創設に参画し、また平塚らいてうとの母性保護論争を起こすなど評論家として活動を広げていく[344]。
社会主義運動は幸徳事件(大逆事件)の弾圧で冬の時代となったが、ロシア革命の成功や米騒動などに後押しされてアナキズムとボリシェビズムの隆盛を迎える(アナ・ボル論争)。1916年(大正5年)の日蔭茶屋事件から同12年の甘粕事件に至る間の、思想家・大杉栄と女性解放活動家・伊藤野枝を取り巻く動きについては逐一新聞などで報道され、有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった。
資本家や明治大正を通して財を成した実業家たちは趣味、社会貢献、あるいは海外流出の懸念から美術品の収集をするほか、文化活動の支援をしている。松方幸次郎は1916年(大正5年)からの10年間で1万点に及ぶ収集をして松方コレクションを作り上げた。大倉喜八郎は1917年(大正6年)に国内最初の私立美術館・大倉集古館を設立した。
小林一三は電鉄業維持のために住宅販売や動物園開設など都市化を進める多角的な経営を行い、1913年(大正2年)宝塚の温泉娯楽施設で宝塚唱歌隊(宝塚少女歌劇団)を始めた。長崎の永見徳太郎は南蛮美術を収集する傍ら芥川龍之介、竹久夢二とも交流したことで、明治末の帝室博物館展示に端を発する南蛮ブームを継ぎ、大正の文芸にもみられるキリシタン的題材の深化と南蛮趣味の拡散に関わった。
山本唯三郎は教育機関に寄付をした一方で、紙幣を燃やして暗い玄関を照らした言動が風刺画となり(成金栄華時代)、後世の歴史教科書に採用されて成金のエピソードとして伝わっている。
桑原武夫や南博などによって1960年代から大正時代と文化の再評価が始まり、文芸・美術の紹介を通して1970年代には大正のロマン主義、「大正ロマン」という言葉が現れるようになった[3][4][注 1]。レトロブームともかかわりながら、ファッション・漫画・ゲーム・アニメなどのサブカルチャーの題材として扱われ、文明開化から戦間期を背景にしたそのイメージを定着・拡大してきた。
『月刊漫画ガロ』の連載作家だった林静一は、歌謡曲に対する興味からさかのぼって「赤い鳥運動」で作られた童謡に着目し、童謡をモチーフにした画集『紅犯花』を1970年に発表した[345]。『ガロ』はアングラな傾向の雑誌で知られ、竹久夢二を自由への憧れと庶民への郷愁の面から再評価していた秋山清も、1970年の同誌に夢二論の連載を始めている。林が少女を描いた『ガロ』の表紙を発注イメージにして、1974年からロッテのキャンディ『小梅』のアートディレクションは始まった。甘い飴に対してすっぱい飴を提案することに重ねて、高度経済成長を経た社会に対して和装の少女画を採用するインパクトを追求した若手チームによる企画であった[346]。吉永小百合、山口百恵がそれぞれ主演した歴代の『伊豆の踊子』の映画から影響を受けて[347]、消えゆく日本美と少女の恋を通俗性を保ちながら表現した。
1975年に海外で広告賞を受賞したアニメCM『小梅』は、当時の読売新聞では「大正ロマンのムードをそのまま絵にしたCM」と評価された[348]。同じ年には『はいからさんが通る』の漫画連載が始まり、奔放なヒロインのメロドラマとして人気を博した。作者が親しんだ落語「お婆さん三代姿」や俗曲からストーリーを着想し、波乱の時代を明るく乗り越えていく女学生が設計され、実際の連載としては王道の本筋に破壊的なヒロインの花村紅緒とギャグを織り交ぜる挑戦的なものとなった[349]。時代遅れのCMと見ていた日本の広告業界[347]、歴史物はウケないとされていた当時の少女漫画の常識[349][350]を覆す好評であった[注 2]。型破りな意図で大正時代と少女のロマンスを描いた両作品は、文学史的・美術史的な意味のロマンティシズムとは異なる「大正ロマン」ブームの火付け役になった[2][注 3]。
映画監督の鈴木清順は『紅犯花』を評価した縁で、林と『ガロ』に関わりを持っていた[353]。前衛的で不可解ともされてきた鈴木の作風が、夢想的な映像美に昇華された監督作『ツィゴイネルワイゼン』は、1980年に国内外で高い評価を得て「(大正)浪漫三部作」に展開していく[354]。また1980年代の雑誌では「大正デカダンス」という退廃性をクローズアップする言葉も登場した[注 4]。
『はいからさんが通る』はさらに南野陽子が主演した実写映画のヒットで、女子大学生が卒業式に袴を履く現象を生み出すに至っている[358][359]。映画公開の1987年は「昭和30年代」を筆頭とする懐古ブームの最中にあり、大正浪漫と文豪の佇まいに憧れる現代の男を描いた『大正野郎』も発表される[360]。同時期に映画化もされた『帝都物語』は[360]、史実を横断しながら呪術や陰陽道が入り乱れる伝奇的な世界観と、後の創作作品に影響を残すビジュアルの怪人・加藤保憲を描いた。
1996年の『サクラ大戦』は架空の元号「太正」でスチームパンクを展開、大正ロマンを素材にして大正風の世界を構築した代表作となった[361]。女学生がロボットに乗り戦う企画案を聞かされ、脚本家がたとえて挙げたタイトルは『帝都物語』と『はいからさんが通る』であった[362]。2002年にはアンティーク着物を扱ったファッション雑誌が登場し、少女感と乙女感を重視した着物ブームが起きる[363]。
言葉の浸透とともに、史料に基づかないものにまで拡大解釈されて、現代的な和服や大正時代と関係のない創作で「大正ロマン」と掲げられるケースもみられるようになる[364]。一方、2020年代にはファンタジーから発展して、大正文化への注目や企画の制作につながっている。『鬼滅の刃』は人気を高めるうちに、劇場版アニメで日本歴代興行収入第1位を記録する社会現象となり、リバイバルを牽引する存在となった[365]。明治大正の社会イメージを世界観に取り込んだ『わたしの幸せな結婚』は、近代日本を舞台にした和風ファンタジー小説のブームを起こしている[366]。
計画都市・まちづくり
文学や美術と同じく1970年代には建築も紹介されている[376][377]。文化住宅、アール・ヌーヴォー、ユーゲント・シュティール、セセッション様式、スパニッシュ様式、大正期までの和洋折衷建築や歴史主義建築、本格的な洋館が特筆される建築スタイルであるが[378]、洋風に限らず近代和風建築も含まれる。大正期や戦前に建てられ現存する近代建築が「大正ロマン」を掲げて公開されたり、現代の日常とは異なる空間を演出するレトロな施設・店舗として再利用・再現されたりするケースがみられる。
装飾ではステンドグラスの需要が増えて、大正を挟む日露戦争後から世界恐慌まで成熟期を迎えている[379]。イギリスのヴィクトリアンタイルを発展させた和製マジョリカタイルも開発され、大正期に生産された[380]。
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