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斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日[1]-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。本名は齊藤與里治[2]。
埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現・加須市)生まれ[2]。1905年京都に出て聖護院洋画研究所に入り[3]、浅井忠や鹿子木孟郎に洋画を学ぶ[2]。翌年の1906年には鹿子木とともにフランスへ渡った[2]。1908年8月に帰国した後は「白樺」誌上で、ポスト印象派やフォーヴィスムの作品を紹介した[2]。1912年、岸田劉生らとフュウザン会を結成[2](翌年解散[3])。1915年第9回文展に初出品した「朝」が初入選[2]、1916年第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選[2]、1927年第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となる[2]。1924年に槐樹社(1924-1931年)を設立し[2]、機関誌『美術新論』の主幹として美術評論も行った[2][4]。解散後、1932年に東光会(1932年-)を創設した。
この間、大阪美術学校(大阪芸術大学の前身・大阪美術学校とは別で、1944年廃校。跡地は枚方市立御殿山生涯学習美術センター)の創立に協力し、1926年に教授となった。
1937年(昭和12年)、この年から始まった新文展の審査員に就任[5]。
生家跡は斉藤与里記念公園(建物はなく、門のみ)になっている。
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